7
モリエロ州総督からの使者が、バノッサに到着した。
使者は急ぎ国王への取次ぎを求めたが、伯父の側女と面会していた国王はそれを待たせるよう、従者に命じた。
「ふむ。なるほど、公が気に入るのも無理がない」
フィリプ三世の前に現れた美女は、金色の髪を結いあげ、白いうなじに妖艶な香りを漂わせている。
「名は何と申す」
「陛下、そろそろ……」
遠慮がちに声を発したフェリエスを無視した国王は、再び、同じ問いを美女に放った。
「ラティエと申します」
「ラティエか、良い名じゃ。のう、カミュルよ」
フィリプ三世の瞳が不気味に光り、後方に控える弟に同意を求めた。
カミュルは、その双眸に疑惑の色を煌めかしたが、頷いたのみで留める。彼は目の前の美女が、どうしてもフェリエスの側女とは思えないでいる。それは、ラティエと名乗った女性が、フェリエスのというより、国王の好みに合わせられているように思えるからだ。
扉の外で、従者が声を張り上げる。
「モリエロ州総督、ローラン・ブラン閣下より使者が到着しておりまする!」
国王は忌々しげに視線を扉へと向けた。
「待たせておけと申したであろう! しつこいぞ!」
「火急の報告がございますと申しておりますれば、お叱りは後にお受け致します!」
「ええい! カミュル。そちが聞いておけ」
王弟が、フェリエスに視線を向けた。
伯父はそれを一瞬だけ正面から受け止めたが、すぐに逸らす。
扉を開き、外に出たカミュルは、勇気をもって国王に告げた従者を眺める。
「で、使者はどこにいる?」
従者は汗で濡れた額を拭うと、カミュルを先導した。
幾人もの貴族が、王弟に道を譲りひれ伏す。それらをさも当然のごとくやり過ごしたカミュルは、汗臭さを撒き散らす兵士に、たっぷりと距離と取って立ち止まった。
「そのような有り様で俺の前に現れた不敬は後で罰するとして、火急の件とやらを聞こうか」
「はは……モリエロ州で大規模な反乱が起こりましてございまする。総督閣下は総督府にて籠城し、救援を求めておりまする」
「……分かった。そちの不敬は不問と処す。風呂に入り休みを取れ」
深く一礼した兵士に背中を向け、カミュルはすぐに従者に怒鳴った。
「モリエロ州の周辺諸侯に使いを出す。使者を用意せよ」
言い放った直後、伯父の顔が脳裏に浮かぶ。
(あの男もそうであったか……)
カミュルは国王の元へと急ぎ帰り、事の次第を報告した。
「――という次第でございます。陛下」
目を泳がせ、カミュルに助けを乞う視線を向ける兄に、皮肉めいた笑みすら浮かべた弟。その様子を、窺うように見つめる伯父。
「ここは、周辺諸侯に兵を出させ、鎮圧させますればご安心なさいませ」
安堵の表情を浮かべた国王に、フェリエスが一歩、進み出た。
「陛下、何とぞ私めを、陛下のお近くに留めてくださいますようお願い申し上げます」
カミュルが、何を言い出す気だと睨みつけたが、フェリエスは頭を垂れていて顔まで確認できない。
「うむ。公の領地はモリエロの隣であったな」
「左様でございます。本来であれば真っ先に反乱を鎮め陛下へ勝利の報告をすべき立場ではございますが、何しろ、陛下より領地を賜ってから三年が経つばかり。他領の反乱に回す余力はございませぬ」
国王は酒に濁った眼を伯父に向けると、歪めた口を薄く開いた。
「ほう、そうであるか」
カミュルは警戒の色を強めた瞳でフェリエスを睨んだが、顔を隠したままの伯父にはなんの効果も無かった。
「予としては公の頼みを聞いてやらんでもないが、それでは他の諸侯が不満を高めようぞ。王たる者が、特定の者を優遇するのかとな」
太った身体を震わせたフィリプ三世は、同意を求めるように弟を見た。
カミュルは怒りを懸命に抑えた。
(この馬鹿! いらぬ事は言わずに、さっさとこいつを追い払え)
王弟はこう怒鳴りたいのを必死に堪え、微かに頷く。カミュルとしては、形だけとはいえ国王である兄の存在は空気のようなものでしかなかったが、ここにきて自らの意志を主張し始めたそれが、邪魔で腹立たしい事この上無かった。そもそも、彼は自分に何の相談もなく、フェリエスに領地を与えた兄の神経を疑う。兄が国王でいられるのは、自分が貴族達を丸めこみ、奉りあげてやったからだと彼は知っている。
(だいたい、何一つ自分で解決できたことがないお前が、国王になったからといってできるようになるはずもないではないか。黙って玉座で踏ん反り返っておればそれで良い。よけいなことはするな)
カミュルの兄に対する不満は渦を巻き、さらに不気味な伯父への視線に繋がる。
王弟は、伯父が王へと仕掛けた罠に気付いた。
「陛下、恐れながらベルーズド公の智力、胆力ともに、ゴーダ人どもを殲滅するのに必要不可欠なものでございます。どうか、公の願いを聞き届け、ここは愚かな臣民の反乱ごときに公の手を煩わせる事のなきよう、弟からもお願い申し上げまする」
弟という言葉に力を込めたカミュルと、伯父の視線がぶつかり静かな火花を散らす。
カミュルは、兄がフェリエスの願いと真逆のことを伯父に命じることを知っており、伯父もそれを理解しているがゆえに、フェリエスはあえて命じられたくないことを願ったのだとわかったのだ。
カミュルとフェリエス、二人の音を立てないせめぎ合いの中にあって、この国王は弟の予想はるか斜め上を飛んでいた。
「そうだのう。カミュルよ、ここはそちの言う事はもっともなれど、ほれ、ラティエを、反乱が起きておる場所に近い土地などに帰らすのは気の毒じゃ。かといって、公は自分の領地が心配じゃろう。予は王として、つらい決断をせねばならぬ」
(兄は何を言っているのだ?)
カミュルが唖然とした顔で、兄の横顔を眺めた時、フィリプ三世はフェリエスに言い放った。
「ラティエは予が預かろう。公は速やかに反乱を鎮め、再び予の元に参るがよい。それまで、安全な予の元で、ラティエを保護してつかわす」
フェリエスが苦しげに顔を歪め、深く一礼するのを、王弟は無言で睨みつけた。それはまるで、視線だけで相手の命を奪おうとでもいうような凶悪さに満ちており、王弟と伯父の対立の深さを端的に表している。
その凍てついた空気の中で、フェリプ三世が場違いな明るい声を出す。
「のう、ラティエ。ここへ来い。苦しゅうない」
ラティエは戸惑いを浮かべフェリエスに振りかえるも、大公が苦しげに頷いたのを確認し、国王の傍へと歩み寄った。
彼女の白く細い手を握ったフェリプ三世は、口端をだらしなく弛め、王弟へと振りかえる。
「のうカミュル。見事、反乱を沈めれば、大公にモリエロを任せてみるのも一興かと思うがどうだ?」
(馬鹿野郎! 腐った頭で何を考えてやがる!)
カミュルは目を剥き、どこまでも思慮の足りない国王がどうして、そのようなことを言い出すのかと頭を抱える。彼の兄は、すでに彼の理解の範疇を超えていた。
「だが、公よ。モリエロを治めるとあらば、忙しくて予の元にラティエを迎えに来れぬかもしれぬな。しかし、それも仕方ないことであるな」
国王の濁った瞳が、美女の胸元を覗きこんだ。
カミュルは、あらんかぎりの罵倒を兄に浴びせたいのを懸命に堪えながら、ひれ伏したままの伯父に一歩、進み出ると声を絞り出す。
「ベルーズド公。こうなっては速やかに鎮圧せよ。うまくいけば、モリエロの半分は公のものだ」
兄の浅慮を大きく訂正した弟が、ひれ伏したまま、ほくそ笑んでいるであろう伯父の頭部を睨みつけた時、国王に身体を触れられたエミリの身代わりが、悩ましい声をあげたのだった。
フェリエスは深く一礼すると、国王の前を辞し、バノッサ城の外へと急ぐ。ここ数日の間に、したくもない諸侯との面談に精を出し、それとなく国王の耳へとフェリエスが望まぬことを吹き込んでいた。
ここでの彼が望まぬ事とは、実際には望む事であるのだが、そうと伝えればあの国王は、必ず彼の邪魔をする。エミリの案に修正を加えたアリストロの策を、完璧に実行したフェリエスは、会心の笑みでバノッサ城から出たのであった。
-Féliwce & Emiri-
愛馬の背で、私は振り返った。
フェリエスが用意した私の身代りは、ストラブール市街地の北東部分にあたる色街で、そういう仕事をしていた女性だった。彼女の家族に大金を払い、さらに彼女にも大金を支払ったフェリエスは、王様の側室になれるかもしれないという嘘を彼女に吹き込んだ。いや、これらを取り仕切ったのはアレクシお爺ちゃんだから、フェリエスじゃないのだけれど、そういう指示を出したのは彼なのです。
「国王の側室になれば、色街で仕事をするより何倍も良い生活が出来る。何もこちらの都合だけではないのだ」
フェリエスの言い訳です。
私としては、複雑でありんすよ。とってもね。
バノッサがゆっくりと遠ざかる。
ベルーズド公爵旗を掲げた私達は、進路を南南西に取り、モリエロ州へと向かっています。クロエちゃんとジェロームさんの故郷です。住民による反乱が起きたそうで、それを沈めるよう、王様から命令されたのです。
どうやら、私の言ったことが役に立ったみたい。
詳しい事は教えてくれませんでしたが、王様の弟に冷や汗をかかされたものの、どうにか上手くいったと言っておりました。
どうして、親戚なのに仲が悪いのでしょうか。
妾腹の子って、王様の弟が言ってたけど、それと関係あるのかな。そういえば、フェリエスはお母さんに問題があって、周囲から嫌われていたと言ってたけど、詳しく聞くのが怖いので、私は聞かないようにしているのです。
それに、いつか話してくれるだろうと思って……。
ついにバノッサが見えなくなりました。
なんかバノッサというところに来たのって、無駄な事をしただけのような気がするなぁ。到着したかと思えば、こうしてまた移動してるんだもん。なんの為に来たのか分かんないや。
そんな事をハザルさんに愚痴ると、独眼竜は口を大きく開いて笑った。
「確かに無駄だったが、国王の命令に従ったという事実が重要なんだ。俺達は呼ばれたから出向いた。と思ったら、違う場所に行けと言われたから、こうして移動している。俺達が自発的に行動しているわけではなく、動かされていると思われるのが重要なんだ」
「よく分かりませーん。王様に従順ですよって皆に思って欲しいってこと?」
「そうだ」
背後からフェリエスの声が聞こえてきて、私は驚いて振り向く。アリストロさんと何やら相談していたから遠慮していたんだけど、もう終わった?
「それに収穫もあった。国王と王弟の間がしっくりといっていない。それが掴めただけでも十分だ」
ああ、あの嫌な奴、兄貴と仲が悪いのですか……。
ん? 虎の威を借る狐じゃないってこと?
「ねえフェリエス。王様の弟さんて、王様のおかげで威張ってるってわけじゃないの?」
「逆だ。だが、どうやらそれも変わりつつある」
フェリエスは私に、わかりやすく教えてくれた。
先代の王様が死んだ時、アルメニア王国はお兄さんと弟さんの二派に分かれ、同じ国の人同士、争いが起こりそうな雰囲気になったそうです。この時、お兄さんの派閥のボス、リシュルー公爵という人と弟さんが話しあった結果、争いは起こらず、お兄さんは王様になり、弟さんはお兄さんを補佐する立場として今の地位にいるそうです。
「リシュルー公爵を始めとする大貴族達と、王弟であるカミュルが国政を取り仕切り、国王は傀儡に過ぎない状態であったのだが、あの道楽息子は、それで満足するほど、出来た兄では無かったのだ」
お兄さんは初めこそ、遊び呆けていたそうですが、いつからか「俺が国王だぞ」と主張を始めたのでした。そして現在に至る。
「で、王様のお父さんが亡くなった時、フェリエスはどっちの派閥に味方したの?」
「無視した」
はいぃ! 私、分かっちゃいました!
フェリエスが王様の弟さんから目の敵にされる理由。
「フェリエスさぁ、そういう時は嘘でもいいから、どっちかに味方しなきゃ。お前らの争い、馬鹿らしくて付き合ってらんねって言ってるようなもんだよ」
「言葉使いに問題あるが、だいたい合っている」
あっけらかんと言い放ったフェリエスに、周囲の兵隊さんまで我慢できずに笑い始める。ハザルさんが慌てた。
「やめんか! お前ら最近、エミリに毒されているぞ!」
……。
私が悪いってか?
ざけんじゃねぇ!
私は、ハザルさんの脚を思いっきり蹴飛ばしてやった。
「やめろ! 二人とも」
馬に乗って争い始めた私とハザルさんは、大公殿下のお叱りを受けました。
「今にして思えば、エミリの言う通りだ。だが、あの頃の俺はまだ十四歳で青かったからな」
ははは、私とそんな変わらないっすね。人生経験が豊富で羨ましい。二十歳のくせにやけに大人っぽいのは、そういうのも関係してるんですかね。
夜の帳が空を支配し、闇に抗うように星が瞬いている中、私達は速度をゆるめる事なく進み、バノッサから十分に離れた地点で野営地の設置を始めた。
私は皆さんの邪魔にならないよう、少し離れたところでワンコの世話をします。軍用犬として訓練されたゴーダ犬達を集め、餌をやり遊ばせます。いつの間にか、犬の世話は私の仕事となりました。喜んでやってるからいいですけどね。
犬達が私の周囲をぐるぐると回り、先の白い尻尾を振りまわします。私が立ち止ると、一斉にその場でお座りをする彼ら。
かーいぃのう!
皆、ひっ捕まえて頬ずりしてぇー!
犬達と戯れる私は、ハザルさんに呼ばれて、声のする方向へと歩く。その後をぞろぞろとついて来るゴーダ犬達。
「おいおい、随分となつかれたな」
独眼竜が呆れたように声を出した。笑顔の私に妙に難しい顔をしたハザルさん。
「お前さ、こいつらは軍用犬だぞ。何かあった時に、悲しい想いをするのはお前だぞ」
うう……。
そういうこと言う。
私はちらりと振りかえり、目をキラキラとさせる犬達の視線を浴びる。
「いいんだ。前進しないと後悔も出来ないからね」
「? 何を言ってんだ? まあいい。天幕が出来たぞ。湯を沸かして運べ」
そうでした。
お風呂の準備をしなきゃ。
ちなみに、日本育ちの私には信じられませんが、こちらの世界の風呂というのは、お湯をかけて身体を洗うだけの行為です。ついでに剃毛します……。
川で水浴びをして済ませる事もありますが、今日はアルメニア王国で広く信仰されている宗教で、お風呂に入る事が決められた日なのです。毎月、一と五のつく日だけは、何があってもお風呂に入る。
私、わかるなぁ。
こっちの人って、お風呂に入る習慣があまりないもの。貴族とかしかるべき立場の人達じゃないと、毎日のようにお風呂に入らないそうなのです。だから、神様が「お前ら、ばっちぃから風呂に入れ! この日だけは!」と決めたのだと思います。
私は女性用の天幕に桶で湯を運びます。
軍隊って、意外かもしれませんが、女性も結構いるんですよ。食事を作る人や、怪我をした兵隊さんを治療する人とか、破れた軍服を直す人とか、多くはないけど、私以外にもいるよ!
天幕の中央に置かれた大きな桶に、湯を溜めていく私。侍女仕事をしていたおかげで、こういうのは慣れているんですよぉ。
私は、今夜も無事に過ごせるようにと祈りながら、目の前の仕事をこなしていくのでした。
-Féliwce & Emiri-
私はフェリエスの天幕の隅で、毛布を被って丸くなっている。剣を抱え、小さな欠伸をした。
えへん! 護衛の仕事してるよ。
私、夜は必ずこうして、フェリエスの安眠を守っているのです。ストラブールの屋敷にいる時もです。ええ、実は一緒に寝たいという欲求をぐっと堪え、こうして健気に護衛を務めているのです。
実は、彼の護衛となって、既に一度、忍び込んで来た不届き者をやっつけてます。生け捕りにしたその人を、独眼竜がどこかに連れて行った以降は、その侵入者がどうなったのか知りませんが、きっと私に知られないようにいろいろとやってると思います。ええと、今から一か月前くらいだったかなぁ。
だから、今日は大丈夫だろうという気持ちは禁物なのです。
いつ寝るのかって?
それは、昼間の空いた時間にこそこそと寝てます。
あー、コンビニの深夜シフトの人達も、私のように不規則な生活をしてるんでしょうか。お疲れ様です。私もこうなって分かるようになりましたよ。夜に寝ることができないというつらさが。
ん? 天幕の外で何かが揺れたな……。
私は、息を潜め、音を立てないように毛布を地面に置きます。
一か月前の襲撃のときは、なにしろ私も初めてのことで緊張も何も感じる間も無かったのです。ところが今は、心臓が口から飛び出すかというほど脈打ち、剣の柄を握る手の平は、じっとりと汗ばんでいる。
天幕に月明かりに照らされた影が映る。それは、ゆっくりと動き、音も無く天幕の中へと入り込んできた。
私は、影の右手に移動し、いつでもフェリエスを庇え、なおかつ、侵入者に察知されない距離を保った。
影が人の形へと変わり、男の姿を露わにした時、その手に握られた短剣が闇の中でうっすらと浮かび上がる。
私は、剣を水平に薙ぎ払うと同時に、大きく前方へ踏み出していた。
斬った!
しかし手を緩めず、右手を剣の柄に添え、素早く反転しながら振りおろす。男が声もあげず倒れたと同時に、私は男の短剣を蹴り上げ、宙に舞わした。くるくると回転したそれが、地面に突き刺さったのを見て、剣を鞘に収める。
倒れた男に近づくと、頭部が無かった。
視線を彷徨わせた私は、天幕の隅に転がる男の顔を見つける。
殺した……。
私は人を殺した。
生け捕りに出来るほど、甘い刺客ではなかった。短剣を抜き放った瞬間、刺客から放たれた殺気によって、私は考える間も与えられず動かされていた。
寝台で人の動く気配がして振りかえると、フェリエスが薄く目を開き私を見ている。
「エミリ……」
彼は頭を振って、無理やりに覚醒すると、寝台から跳ね起き、私を抱きしめた。
「誰か! 誰かここへ!」
声を張り上げながら、フェリエスが私の顔を毛布で拭う。
「怪我はしてないな? 大丈夫だな?」
「はい……」
フェリエスがどうして、私の顔を毛布で拭ったりするのか、その疑問はすぐに晴れた。侵入者の返り血で、私はひどく汚れているからだ。フェリエスの手にある毛布は赤く染まり、私が殺した男の死を突きつけるように濡れて重い。
「フェリエス……、私、殺した」
「エミリ」
彼は私を抱きしめ、何度も私の名前を呼ぶ。そんなにくっついたら、フェリエスまで汚れるよ。そう言いたかったが、口を動かすのが酷く億劫で、彼にされるがままになっていた。
「殿下!」
ハザルさんの声がする。
彼はすぐに倒れた男に駆け寄ると、兵隊さんを招き入れる。
「すぐに運び出せ。それと、殿下の寝所をすぐに手配しろ」
「は……はは。しかし、大きな天幕はこれしかございませぬ」
「馬鹿者! ここで殿下に寝ろと申すか!」
「は! はは、失礼いたしました。すぐに!」
慌てふためき動き回る周囲をすぐ傍に感じながら、私は心臓の音を聞いていた。
フェリエスの手が暖かい。
「エミリ、風呂に入れ」
「はい……」
「大丈夫か?」
「はい……」
大丈夫じゃない。
足が地につかない。
そうだ。どうして私はこんなにもお気楽だったのか。どんなに分かったつもりになっても、覚悟をしていない者には、あまりにも厳しい現実。
人を殺す仕事。
それが例え、受け身だとしても結果は変わらない。
私が天幕から出ると、かがり火と松明で野営地はひどく明るかった。騎兵の集団が、馬蹄を轟かせ飛び出していく。
兵隊さん達が、私に気付き、一様に労いの言葉をかけてくれるけど、何て言われているのか、全く頭に入ってこない。
寒い。
私は風呂用の天幕に入り、軍服を脱ごうとする。だけど……血で汚れたそれはひどくまとわりついてきて、私の身体から離れてくれない。
「なんで! なんでよぉ」
めちゃくちゃに服を脱ぐ。布が裂かれたような音が何度も私の耳に届く。ボタンがはずれ、袖や襟が破れた衣服を足元に脱ぎ捨て、私は大きな風呂桶に飛び込んだ。本当はしちゃしけないってわかってる。でも、頭からお湯に浸かっていたいのです。
血の匂いが取れない。
髪についていた刺客の血が、ぬるくなった湯に溶けて鮮やかに浮かび上がる。
私は、顔を何度も洗う。
取れない……、取れない取れない取れない!
血の匂いが取れない!
私はこの手で、人を殺したのだ。
私は、慟哭した。
-Féliwce & Emiri-
モリエロ州は開けた平野を抱える南部、そして森と湖が大地を彩る北部からなり、その中央を流れるライール川に面したベジエは、東西南北に続く街道の交差地点で、人口も一万人を超える。
そのペジエは今、怒りに燃えていた。
国王によって任命されたモリエロ州総督ローラン・ブランの、無理な課税と徴兵は、住民達の悲鳴をもってしても改められず、悲鳴が怒声に変わるまで、時間をそう必要としなかった。
ペジエの総督府を包囲する五千人の群衆は、投石や松明を憎悪と共にそびえる総督府に投げ込む。貴族により支配されていた時、それに不満を感じていたが、今に比べれば天国だったと誰もが口を揃える。
その群衆を扇動した者達の中に、モリエロ伯の爵位を失ったブロー家嫡男もいた。
ジェロームは、一カ月以上前からモリエロ州に潜入し、不満分子をまとめあげ、向かう方向を指し示した。そして今、彼はモリエロ州に集まる諸侯の軍を、ペジエに近づけないよう、傭兵のみで構成された公爵軍を率いて攻撃している。
傭兵達は公爵軍の軍旗を掲げておらず、雇い主はあくまでもジェロームと、彼が属する反乱軍であると思いこんでいる。
フェリエスがモリエロ州に到着した時、諸侯の軍が悉く州境を越えられていなかったのは、ひとえにジェロームの功績であった。
次々と情報を運んで来る斥候達。
彼らの口から発せられる、ジェロームの働きぶりに大公は焦燥の影を薄める。
「敵が少数のうちに各個に撃ち果たしたか。言うは容易いが、実行するのは至難の業だ」
「銀山は安うございましたな」
大公の言葉に、隻眼の将軍が同意する。
「アレクシが軍を率いて州境に到着したようだ。俺はアレクシと合流する。ハザルはこのまま、騎兵を率い動け」
「畏まりました。手はず通りに」
フェリエスの白馬が動くと、それに騎兵の一団が続いた。あくまでも大公の護衛を目的とする三十騎ほどの中に、黒髪を風に揺らした少女の姿を確認したハザルは、隣のアリストロの腕を掴んだ。
「殿下を頼んだぞ。エミリも……」
「わかっているさ。兄上も無茶はしないように」
大公に続こうと馬を駆けた弟の背中に、兄は頬を弛める。
「無茶が俺の専売特許だ」
ハザルは馬の腹を蹴り、大公の去った方向とは、別方向へと騎兵を率いて加速していく。
-Féliwce & Emiri-
フェリエスが、家老が率いる公爵軍本隊と合流したのは、バノッサを出て五日目の夜であった。
一二〇〇人ほどの軍勢が公爵旗を掲げ、州境付近で野営しているところへ、大公は騎兵の一団と共に合流する。
彼はすぐにアレクシを呼ぶと、隣に佇むエミリの背中をそっと押した。
「アレクシ、エミリをストラブールに送る。準備をせよ」
家老は微かに眉を動かすと、これまで見せたことのないエミリの表情を確認し、増えた皺をさらに深くした。
「殿下、国王に何かされたので?」
「違う。とにかく、エミリをストラブールに送りたい」
アレクシは氷のような少女を眺め、いったいこの少女に何があったのかと悩むもわかるはずもなく、視線を主君へと転じる。そしてエミリを護衛から解いた際、その代役をどうするかを尋ねようとした。
「しかし、殿下。護衛はいかがい――」
「いいから、言われた通りにするのだ!」
アレクシの言を遮って怒鳴ったフェリエスに、周囲は緊張を高めた。
エミリが、頬を涙で濡らして声を吐きだす。
「ごめんなさい……。私」
「よい、何も言うな。アレクシ!」
怒鳴ったフェリエスが、家老の反論を許さぬ形相で、少女を抱きしめる腕に力を込めた。
老人は深く一礼し、二人からそっと離れるとアリストロを手招き、歩み寄った相手に尋ねた。
「何があった?」
「エミリ……どのが、刺客を撃ち果たしました」
「ほう……。役に立ったな」
アリストロの表情が曇ったのは、彼自身、エミリと接する機会が多いことから、家老の言いようへの反感を覚えたからだ。
それを察知したアレクシが、片目だけを細めて注意する。
「アリストロ、エミリはあくまで役目を果たしているにすぎん。お前まで、若者に感化されたか?」
「ご家老、私も十分に若いつもりでございますれば」
苦笑したアリストロはまだ二十五歳、ハザルより十歳年下の弟だ。
「年は若いが、頭の中は老成しておると思っておったわ。で、エミリが撃ち果たした刺客はいずこの者であるか?」
「分かりませぬ。エミリどのが一刀両断しており、駆けつけた時には胴から首が離れておりました。あれでは口を割れますまい」
楽しげに笑った家老は、従者に馬車と護衛の用意を命じた。
「そうか、しかし見当はついておるのではないか?」
「は……王弟が放ったものと思います」
アリストロは、あくまでも推測ですと付け加えるのを忘れなかったが、ほぼ間違いないと考えていた。
理由は様々だが、あの夜の刺客に関しては、王弟の苛立ちと憎しみが表現されたものだとみていた。
カミュルにとって、フェリエスは目の上の瘤だ。
王家の人間にありながら、王家とは距離を置きつつも、その能力はアルメニア貴族であれば疑う者はいない。先代国王崩御の際に、若いながらも疑う余地のない能力を有するフェリエスの国政参画を望む声があったのは、まだこの国の貴族達の中に、良識ある人物が残っていた証拠であろうとアリストロは思っていた。だが、その事実はカミュルをして、フェリエスの命を狙わせることになった。
カミュルはあくまでも王弟の立場に甘んじているが、何も兄に遠慮した結果ではない。彼は長々と国内で跡目争いをするのを嫌っただけにすぎず、それは周辺国家と刃を交えているアルメニア王国にとって、正しい選択であった。兄を推す貴族達と、自分を推す貴族達の調整に走り、素早く国内とまとめあげたカミュルの手腕は、兄よりよほど王に相応しいものであった。だからこそ、潜在的な敵を内部に抱える恐ろしさを理解するカミュルは、常日頃からフェリエスの命を狙っている。
その彼にとって、バノッサでの出来事は、刺客を送るに十分な理由たりえたのだろう。
「王弟も兄に振り回され、殿下に八つ当たりするところなど、まだまだ若いのう」
アレクシが従者の報告に耳を傾けながら、アリストロに言う。
アリストロは沈黙を保ち、アレクシを眺めると、家老が大きく頷く。
馬車と護衛の準備が整ったようだ。
「で、刺客を倒したエミリは、どうしてああなのだ?」
アレクシが黙秘と嘘を許さぬ眼光をアリストロに向けた。
「は……はい。エミリどのは刺客を倒しましたが、なにせ人を斬ったのが初めてのようで……」
家老は厳しい視線を肩越しに放つ。
それは大公の腕に抱かれ、無表情な人形のように立つエミリに向けられている。
アリストロはアレクシから視線を逸らした。
「よほど、腑抜けた国で育ったようだの」
大公に口づけされるも一点を見つめて動かないエミリを、アレクシは眺めていた。
「いや、もしかしたら好都合かもしれぬ。このまま、人形のように座っておるだけのほうが、殿下の御為であるかもしれぬな」
「ご家老……」
アリストロが家老の顔を覗きこんだ時、老人は微笑を浮かべて黒髪の少女をその目に捉えていた。