ルイとアデリーヌ
Adeline
人は私を「美しい」と言ってくれる。でもそれは、私にとって何の意味もないものだ。なぜなら、美しいからといってなんら幸せになれたという実感がないからだ。
父は私を、金の為にフェルシェレン伯爵に嫁がせた。
病でバウル子爵として公務に励めなくなった父のせいで、私の家は大きく傾いた。これは表現ではなく本当に傾いたのだ。その傾いた家の一室で、母は生活費の為に身体を売った。父はそれを見て見ぬ振りをしていた。
「お前の娘も売れよ。買ってやるぞ」
下品な大人達の声に、母は笑い声で誤魔化す。それを薄い壁一つ隔てた寝室で、震えながら聞いていた私。
正直、この家から出られるとあって喜んだものだった。
私を正妻として迎えてくれたフェルシェレン伯爵は、一言でいうならひどい男だった。その異常性は王国貴族達の間でも有名で、彼に娘をやろうと思う親などいなかったのだ。私の父以外は……。
しかし、そんな異常な男でも、治める土地は豊かで私の家を立ち直せるだけの支度金を用意してくれた。
母が、あの男達に買われる事が無くなったと思えば、私のこれからの人生にも意味があるのかもしれないと思った。
私がフェルシェレン伯爵に嫁いだのは十三歳の時だった。それから今に至るまでの五年間、私は毎晩のように夫の性癖に付き合わされている。
「アデリーヌ、明日から陛下が滞在なされる。粗相のないようにな」
私を縄で縛りあげた夫、マクシミリアン・アロード・フェルシェレン伯爵の酒臭い息に、私は鼻を鳴らした。全裸で縛られた私は、痛みと屈辱に声も出ない。彼はさらに縄を絞り、私の悲鳴に興奮した笑い声をあげる。
彼の手に持たれた蝋燭が、揺らめく炎で私を威圧する。どれだけの仕打ちを受けようとも、両親の為に耐えて来た。これからもそうするのだ。
「返事はどうした? 返事が出来ぬなら、仕置きがいるな」
「わ……わかりました」
「いい子だ」
マクシミリアンの脂ぎった手が、私の乳房を乱暴に掴んだ。痛みに声が出そうになるも、それが夫を喜ばすのだと知っている。必死で歯を食いしばり耐えた。
「陛下が逗留先に我が領地を選んでくださったのはきっと天啓だ。これで気に入って頂ければ、我がアロード家はますます豊かになろうというものだ」
夫の唇が私の腹に振れ、滑った舌が下腹部へと向かう。恥辱と恐怖で震える身体と心を励まし、瞼を閉じて動くまいと堪える。
蝋燭の蝋が、私の胸へとかけられ、決意も飛散するほどの熱さに悲鳴があがる。慣れるというものではない。嬉しくなるというものではない。もし、そういう人間がいるのなら、どうか代わってほしい。
夫の手によって脚を広げられ、濡れてもないのに突きたてられる。痛みに涙が止らない。
「くそ! ほら、溢れさせぬか! 動きづらいであろうが!」
頬を叩かれる。
「きゃあ!」
「! おっと、陛下に見られたらまず……いな。顔は……まずい……な」
早く終わって!
早く!
私は声にならない叫びを発した。
アルメニア王国。大陸でも上位に位置する大国。その国を総べる男が、私の酌を受けて笑みを向けてくれた。
ルイ・ラング・アルメニア。
齢六十九歳と聞いていたが、その外見はもっと若く見える。酒と色で汚れた夫のほうが老けていると言っても過言ではない。
「アデリーヌ殿と申されたか……。わざわざのご配慮、痛み入る」
国王陛下直々のお言葉に、深く一礼した私。その背後で夫が下品な声をあげ、国王に追従する。
「陛下におかれましては、多忙なる日々と存じております。どうか、ごゆるりとして頂き、ご政務のお疲れを癒してくださいますよう、アロード家一同、努めさせて頂きまする」
王は薄く笑うと、隣の腹心に視線を送った。
「陛下に代わって礼を申す。そちの忠心、ありがたく受け取らせてもらおう」
アレクシ・デュプレなる参謀の言葉に、夫は眉をピクリと動かしたが、すぐに何事も無かったかのように頭を下げた。
私に声をかけてくれたが、夫には腹心を介して礼を言った王。これは今晩、さらにひどい仕打ちが待っているなと覚悟した。だが、私の推測をさらに超えた夫。
彼は腰を折って、アレクシ卿に歩み寄ると、何事か耳打ちする。眉を跳ね上げ、私を眺めた王の腹心。私はなにか不気味なものを感じながらも、逃げる事など出来ない。葡萄酒の満たされた壺を両手で抱え、王の前に立つのみだ。
アレクシ卿が王に耳打ちする。
「アレクシ、そのような愚かしい気遣いなど無用だ」
「は……ですが陛下。ここで断っては伯に恥をかかせる事になりまする」
「……であるか」
何事か考え込んだ王。その青く煌めいた瞳が、私を捉えた。
「わかった。礼を申しておけ」
一礼し、夫へと向かう王の腹心。私は彼が立ちあがる瞬間、憐れみを私に向けたのを見逃さなかった。これにより私は、悟ったのだ。
私は今夜、王の相手をするのだ。
脳裏に、身体を売って生活を支えた母の顔が浮かび上がる。それは禍々しく歪み、嘲るように私を見ていた。
宴はすすみ、私はどす黒い感情をおし隠し、今夜、相手をするであろう王の杯に葡萄酒を注ぎ続けた。それは屈辱以外の何物でもなかった。
一人、二人と姿を消し、いつの間にか私と王、そしてアロード家の者達のみとなった宴の席を王が立った。
「陛下をご寝所に案内せい」
夫に頷き、私は王を寝室へと案内した。すっと影が動いたかと思うと、いつの間にかアレクシ卿と数名の騎士が私達に付き従う。
うす暗い廊下を、緊張と恐怖に耐えながら王を寝室に通した私は、夫にするように、彼の服を受け取り、衣装棚にかける。これが終われば王を風呂に入れ、伽の相手をしなくてはならないと思うと、自然と手が震えた。
「ふふ、恐いのか?」
王が尋ねてきた。その声は、宴の席で耳にしていた彼の声とは明らかに異質で、まるで労わるような声色だった。
「妻を差し出し歓心を得ようなど、おぬしもロクな男に嫁いでおらぬな」
それを受け取ったお前はどうなのだ!
私は怒りで振り返る。
王は、穏やかな笑みを浮かべて、寝台に座っていた。
「今日は寝台で眠れ。予はそこの長椅子を借りよう」
この人は何を言っているのか……。
私は理解できず、彼の前に跪く。
「私のような貧しい貴族の娘など、抱くに値せぬと仰られますか」
「ほう、初めて声を聞かせてくれたな。綺麗な声だ」
王は微笑むと、私を立たせてくれた。
その手は温かく優しく、私のささくれ立った感情を沈めてくれる。
「そなたが貧しい貴族かどうかなど、予は知らぬ。ただ、とても美しい女性であるというのは知っている。であるから、そなたと共に寝台には入れん。予はまだ男だからな」
そう言って笑った王。
私はこの時、感じた事のない胸の疼きに困惑したのだった。
王は滞在中、私を常に隣に置いた。
それは、夫から私を引き離す為だった。彼は私が夫から受けている仕打ちに気付き、庇ってくれたのだ。
「予が滞在している期間だけでも、安眠するがよい。ただ、所詮は予の自己満足に過ぎぬ。許してくれ、アデリーヌ」
「いえ、陛下。ありがとうございます」
彼の身体に湯をかけながら、私は頬を染める。
これまで、夫を風呂にいれながら感じた事のない想いに動揺する。
彼と目が合うと、苦しくなる。
引き締まった身体には傷が多く、それは王が、安息の地で惰眠を貪っていた愚鈍な支配者ではないと証明していた。特に肩の傷が大きく、私はそっと指で触れた。
「ああ、それはトラスベリア人共につけられた。あの時はさすがに、死んだと思ったぞ」
からからと笑った王は、青い瞳を揺らして私を見た。その金色の髪はまだまだ豊かで、触れ続けていたいと思うほどに触り心地が良い質感だった。
「なんだ? 予の髪が好きなのか? 許す。触っておってよいぞ。アデリーヌだけ特別に許そう」
彼の身体を拭き、浴衣に腕を通させ寝台へと向かわせる。今日も彼は途中で方向を転じ、長椅子へと向かう。
私は彼の手を握った。王は不敬にも怒らなかった。
「陛下、お願いがございます」
「抱かぬ」
お見通しだったようだ。
「アデリーヌ。そなたは単に優しくしてくれる男に逃げておるだけだ。予も、今だけそなたに優しく接しておるに過ぎん。予はそなたを救ってやる事はできぬ」
私は王の胸に飛び込んだ。
「失礼をお許しください。であるなら、今しばらく、このままでいさせてくださいますよう……陛下」
王は受け止めてくれた。彼はそっと私を抱きしめると、長椅子に座る。私を膝の上に乗せてくれた。
「……生きるのは辛いな、アデリーヌ」
「はい、陛下」
「予もだ。息子は全く話にならん馬鹿者だ。そのくせ、早く引退して余生を楽しめなどと、見え透いた事を並べる愚か者よ。あのような男が王となっては、民が迷惑だ。まだまだ楽はできんなぁ」
溜め息を吐いた王。初めて見せる弱い彼の姿に、私はたまらなく切なくなる。私は無力だ。彼の助けをする事などできない。
「思えば戦い続きであったわ。戦争に政争……。心休まる時などなかった。医者にな、休暇を取れと言われたのだ」
私は彼の話をじっと聞く。ここ数日、私達がそうしているように。
「それで思い立って避暑地であるフェルシェレンを選んだのだが、まさかそなたとの出会いが待っていようとは……不思議なものだな」
「私は嬉しゅうございます」
素直な気持ちだった。いや、これでも控えめな表現だ。嬉しくて嬉しくて、大声であなたの名前を叫びたいくらいなのだ。
「ここを去る前に、せめてアデリーヌの為になる事をして去ろうか」
穏やかで吸い込まれそうになる青い瞳が、私の笑みを映し出していた。
神様……。
あなたはとても意地悪です。
彼と一緒にいられるはずもないのに、どうして私に彼と出会わせたのですか? これまでなら、ただ苦痛に耐える日々を送るだけでよかった。でもこれからは、この人を思い出してしまう。夫に弄ばれる度に、彼に救いを求めてしまう。忘れようとしても、忘れられるはずがない。
瞼を閉じた私は、髪をやさしく王に撫でられていた。
父ほど、いや、祖父といっても良いくらい年齢の離れた彼を、私は愛してしまった。そうか……私は誰かに守られたいと願っていたのか。
皮肉にも、初めて現れたその人が、この国の王だった。
例え、彼の一時の戯れであっても、私の想いは間違いなくあるのだ。胸の奥で必死に主張しているのだ。それは単に優しくしてくれる男性に靡く気持ちではないと言える。こんなにも苦しく、胸の奥が疼くこの気持ちを、それでは説明できないではないか。こんなにも、触れていたいと思うのはおかしいではないか。
辛い……。
そう、彼から離れるのが辛いのだ。不安ではなく切ないの……。
「陛下、辛うございます」
私は泣いていた。
「アデリーヌ、泣くな。そなたが泣いたら、予はどうしてよいか分からなくなるではないか」
王に涙をそっと拭きとられ、私は睫毛を揺らした。
「そなたが伯にひどい仕打ちを受けぬようにしてつかわす。安心しろ」
違うのです、陛下。
私は、あなたに会えなくなるのが辛いのです。
私は、あなたの瞳に映っていたいのです、陛下。
Louis
ルイ・ラング・アルメニア。
即位以来、周辺国を切り取り、内に対しては貴族同士を牽制し合わせ、その均衡の上に君臨したアルメニア王国の王。大帝とも呼ばれるその彼の治世も晩年にさしかかった頃、彼はフォルシア公国を併合した後、避暑地へ逗留に出かけた。
彼はそこで、一人の女性と出会う。孫ほどに歳の離れたその女性の名をアデリーヌという。彼女はその特殊な性癖で有名なフェルシェレン伯爵の妻であった。ルイの知る由もないが、彼女は両親によってフェルシェレン伯に売られていたのだ。妻というより、ただ夫の性癖のはけ口という有り様で、それは伯爵領に滞在した彼の知る所となる。
ルイは彼女をなぜか、放っておく事ができなかった。それは、彼女が自分に向ける気持ちに気付いてしまったからかもしれない。これまでの彼に近寄る女性達は、ルイというより、彼のもつ権力と富に恋した。だが、アデリーヌは違うと彼は思ったのだ。
なぜ?
分からない。ただの勘違いという事もある。しかしそれを確かめずとも、彼は自分の気持ちに従う事にした。彼女をせめて、夫の手から引き離してやる事が、自分に出来る精一杯の手助けだと分かっていた王。
ルイは、フェルシェレン伯に離縁をするよう伝えた。
「そ……それはあまりにも!」
伯爵の醜く太った身体が震える。まるで息子を見るようだとルイは感じ、享楽に耽った証であるその身体に冷たい瞳を向けた。
「向こう五年間の兵役を免除つかわすとの仰せであられる」
腹心の言葉に、納得がいかぬにしても従うしかない伯爵が頭を垂れた。
「アレクシ、どこぞ離宮にでも場所を用意してやれ」
王都へ向かう馬車の中で、ルイは腹心に言った。当然、「御意」という返答がくるものと思っていたルイの耳に、アレクシの意外な言葉が飛び込む。
「救ったのなら、最後まで責任を持つべきではありますまいか」
王は顎に手を当て、「ふむぅ」と唸る。
「しかし後宮はよくない。あのような浅ましい場所にアデリーヌを置きたくはないのだ」
アレクシが喉を鳴らして笑う。
「陛下、まるで大事な女を気遣う様でありまするな」
ルイはムキになった。
「貴様、勘違いも甚だしい。アデリーヌは自分に非のない苦しみに耐えておったのだ。王が一人の娘に情けをかけるはおかしいか?」
「いえ、失礼いたしました。しかし陛下、一人の娘を救ったのであれば、その娘の未来にも陛下は責任がございます。例えば、どこぞの貴族に嫁がせるというお考えを陛下が持っておりましても、それが娘の幸せにならぬのであれば、結局は陛下のなされた事は、自己満足に過ぎますまい。それであれば、フェルシェレン伯から召し上げた意味がございませぬ」
どこまでも耳の痛い事を平気で言う男だとルイは苦笑する。
「アレクシよ。そちは感謝すべきだな。予がそちの主君でなければ、その苦言を弄する口は永久に閉じられてしまうところであるぞ」
「感謝しておりますからこそ、あえて申し上げておるのでございます」
ルイは呆れたように腹心を眺める。しかし内心では、やはりこの男にしか本心は話せぬと再確認したのであった。
「モラン殿下が近々、都市国家連合討伐から帰還なされます。彼の意見も聞かれては?」
腹心の言葉に、ルイは手を打った。
「そうか! やはりそちは話せる男だ」
笑みを浮かべ一礼するアレクシ。彼は妻に先立たれた王の弟に、アデリーヌを預けてはどうかと提案したのだ。
それがよかろう。モランであれば、アデリーヌを大事にする。
ルイは、ようやく表情を和らげ、馬車の窓越しに初夏の丘陵地帯に視線を送ったのであった。
ところがである。
王城に参上したルイの弟は、兄からの申し出にこう答えた。
「ははは、兄上。お断り申す」
あっさりと断りおって!
ルイは弟を睨んだ。
国王の執務室には、部屋の主と弟、そしてアデリーヌがいた。彼女を一目見た時、王の弟はその美しさに息をのみ、兄はどこで見つけてきたのかと羨んだのだが、事情を聞きながら、娘の表情を窺っていた弟には、この娘を引きとる事など出来はしないと感じられたのだ。
モランは紅茶の香りに目を細め、アデリーヌへと視線を送った。
「アデリーヌ殿、そなたは俺と一緒にいたくはないであろう?」
押し黙る美女。ルイが苛立たしげに手を払う。もう良いという意味であったが、モランはやめない。
「兄上、彼女を近くに置くのが恐いのでしょう?」
ルイの表情が消えた。
それは、これまで共に内外の敵と戦ってきた弟でさえも初めて見る顔だった。ルイの内心の動揺が、まざまざと表れている。
「アデリーヌ殿、喜ばれよ。兄上はそちを情けで助けただけではない。どうやら、好いているよう――」
「モラン! たいがいにしろ!」
立ち上がり怒鳴ったルイは、激しく咳き込む。その背中にアデリーヌが手を置き、不安げに透き通った青い瞳を揺らした。
「兄上、良いではありませぬか。王妃はすでに亡くなられ、遠慮する相手などおりますまい」
「馬鹿者……そういうのでは……ない」
「年の差を気にしておられるのですか? らしくありませぬなぁ」
モランの言い方にアデリーヌがくすりと笑う。
ルイは目を見開いた。
彼女が笑う顔を初めて見たのだ。
「……二人でその様に見つめ合うのは、俺がこの部屋を出て行ってからにして頂きたいものでござる」
「う……うるさい」
ルイは喘ぎながら椅子に深く身を沈め、アデリーヌに目配せする。彼女は頷き水を取りに立ちあがった。
「息子がなんと申すであろうか……。いや、まだ決めたわけではないぞ」
「お互い、愚息には苦労が絶えませぬな。はやく隠居させて欲しいものです」
そう言って笑った弟。
ルイは「まったくだ」と呻き、アデリーヌから水の入った杯を受け取り、喉を湿らした。
「アデリーヌ殿、兄上と一緒にいたいのであろう?」
モランの問いかけに、アデリーヌは白い頬を朱色に染め、それを長い金色の髪で隠し、つまり俯くばかりであったが、それは彼女の気持ちを分かりやすく二人に伝えた。
「であるそうです、兄上。男であるなら、女性に恥はかかせられませぬなぁ」
楽しげに言い放ったモランを睨み、ルイは小さく息を吐き出した。
しかし俺は、アデリーヌを守れるのか?
今は良い。だが、あと数年もすれば老いには勝てぬだろう。人間、誰しも老い死ぬものだ。それは王であっても逃れられぬ定めだ。そうと知っておりながら、この晩年にまだ未来のある女性を傍に置くなど……。
思考の沼から王を引き上げたのは、アデリーヌであった。
「陛下……、不敬を承知でお尋ね致します。私の事はお嫌いですか?」
それに曖昧な返事をする事などルイには出来なかった。それほどまでに、不安と期待に満ちた彼女の瞳は、王の心の琴線を優しく震わせたのだった。
アレクシは、モランと向かい合っていた。
「殿下、相談がございます」
王弟の領地、シャンパーニュ地方にあるモランの城で、アレクシは深刻な顔で椅子に座る。それを向かえた王弟は、極上の葡萄酒を戦友の為に開けた。
「あのアレクシが深刻な顔をしているとは、よほどの難儀であるか?」
自ら杯に葡萄酒を注いだモランに、王の腹心が一礼した。
「アデリーヌが……身籠りました」
モランは喜色を顔に浮かべると、辛気臭いアレクシを笑い飛ばす。
「おお、それはめでたい。しかしよく分かったな」
モランの言葉に、アレクシが押し黙る。その意味に、王弟は茫然となり、二人の狭間で葡萄酒が床へと流れこぼれた。
兄がアデリーヌを傍に置くようになってまだ四カ月程。懐妊が判明するには、腹部のふくらみではなく月のものが止ったとかそういう理由であるだろうとモランは考えていて、それにしても早いな、兄が喜んで医者を呼んで確かめさせたのかなどと思っていたのだ。で、彼の口から先ほどの言が飛び出し、アレクシを黙らせたのである。その意味を、聞くまでもなく悟ったモランは、床にこぼれた葡萄酒をそのままに、椅子に座ると頬をぴしゃりと叩いた。
「否定せぬか、アレクシ!」
大きな声を出したモランに、王の腹心は呻いた。
「王都では、王太子殿下をはじめとする王族の皆様方は堕胎せよとの一点張り……しかし、母体を心配なさる陛下はそれを頑なに拒否なさっておりますれば……困り果てております」
モランは脳裏に王太子を描いた。四十過ぎの王太子は、早く王になりたい一心で兄に引退を勧めてばかりいる。誰のせいでそれが出来ないか分かっておらぬのかと怒鳴りつけてやりたい程に愚かなあの男が、アデリーヌの出産を喜ぶはずもなく、ましてや王の子かどうか怪しい子を待ち望むはずもない。
いや、兄の子ではなかろうと首を振ったモランは、溜め息と共に愚痴を吐く。
「逗留中の子かもしれぬが……兄は逗留中はどうであった? アデリーヌを抱いたのか?」
「ご寝所まで図々しく入る事はありませぬよ」
アレクシが苦笑する。
だが王の腹心は知っている。逗留中どころか、今もアデリーヌを抱いていない王。二人の間柄はまるで、少年少女のそれのように純情そのものであった。近くで見ていてこちらが恥ずかしくなるほどのやり取り。彼は手を叩き、従者を呼ぶと床にこぼれた葡萄酒を拭きとらせる。
「手が触れ合うだけで恥ずかしがっておられるお二人。子はきっと陛下の血を継いでおりませぬよ」
従者が退室した後、口を開いたアレクシにモランが呻く。彼は卓を拳で殴り、大きく息を吐きだした。
「むごいのう……むごい」
王弟は皺の増えた顔を歪めた。刻まれた皺の深さから彼の苦悩が読み取れる。だからアレクシは、口を閉じたまま言葉を発しなかった。
静寂を嫌うように、どこかで梟が鳴いた。
王族専用の庭園。歴代の王達の墓地がその中央にあり、周辺を緑玉の森と呼ばれる人口の森で覆った広大な敷地の中で、ルイは可愛らしい女性の手を取り歩いていた。
忙しい公務も、彼女との時間が待っていると思えば苦にならない。
こんな気持ちはいつ以来だろうか。政略結婚には愛情がなかった。男であるがゆえに後宮にも通ったが、そこに彼を癒してくれるものは無かった。ところが、ここにきて彼が待ち望んでいた女性が現れるとは、神というのはどこまで意地悪なのだと王は笑う。
腹部のふくらみが目立つようになったアデリーヌを気遣い、のんびりと歩くルイは心地よい秋風に目を細めた。木々の枝葉が、風に誘われ歌うようにざわつく。ゼラニウム達が朱色と白の色彩を足元に敷き詰めていて、それを踏まないように歩く恋人の優しさが、ルイの心を揉みほぐした。
「話があると申しておったが、ここなら誰にも聞かれまい」
ルイは大きな岩にもたれるように立つと、アデリーヌを抱き寄せる。それだけで今にも心臓が口から出そうになる彼。数多の戦場で死地をくぐり抜けてきた男のくせに情けないと自嘲気味に笑った。
「陛下……お暇を頂きとうございます」
アデリーヌの言葉に頭を殴られたように呻いた王。
二人はしばらく無言だった。
ざわつく木々と小川のせせらぎのみが、二人の鼓膜を揺らす。
「予から離れて、どこに行くというのだ?」
アデリーヌはそっと彼の胸に頬を寄せた。
「分かりませぬ。ですが、この子と二人で暮らせる場所に落ち着きます。勝手を申し上げているのは十分に承知しておりますが、どうか……」
「皆が申しておる事など無視しておればよい」
王はこの時、激しく後悔した。それは彼女の青い瞳を見たからだ。その瞳は雄弁であった。自分のためではなく、ルイの為に姿を消すと彼女は言っていたのだ。それは、アデリーヌを庇う事で、人心が離れつつある王を想っての彼女の決心。
ルイは恋人を抱きしめ、初めてその唇を奪った。
胸を満たす幸福感に瞼を閉じた王は、彼女の髪をやさしく撫でる。
「アデリーヌ、許さぬ。離さない」
アデリーヌの長い睫毛が激しく揺れ、青い瞳はたちまち濡れた。
「誰がなんと言おうと、この子は予の子だ。予とそなたの子である。母親のそなたが、それを疑っておっては生まれてくる子が不憫だぞ、反省せよ」
優しく諭すルイの言葉は、アデリーヌの嗚咽を激しくさせた。
「予はようやく……この歳になってようやく幸せとは何か知る事ができた。アデリーヌとこの子のおかげだ。ありがとう、アデリーヌ」
王は一筋の涙で頬を濡らした。
誰かに呼ばれている。
瞼を開くと、アレクシの顔が飛び込んで来た。
こいつはどんな時でもしかめっ面だと笑いたかったが、顔の筋肉は言う事をきかない。
「陛下……フェリエス殿下でございます」
アレクシの言葉に、視線を動かす。寝台にすがりつく小さな男の子が見えた。金色の髪と青い瞳は、まるでアデリーヌから盗んできたものかの如く煌めき、王は微笑もうとした。
「アレクシ、もっとフェリエスを近くに」と言いたかったが声が出ない。
情けない。大帝だの国王だの呼ばれても、老いごときに敗れるか。せめてこの子が大人になり、恋人を連れてくるまでは生きていたかった。アデリーヌには結局、辛い思いをさせてしまうのか。
フェリエス……。幸せになれ。予の様になるな。こんな腐った王宮で、上辺だけの追従をする者共に騙されるな。そこにお前の幸せはないのだ。
愛しいと思える人を見つけろ。そして、懸命に愛せよ。
父のように、母を悲しませては駄目だ。
言葉は溢れるも声は出ず、王は瞼を閉じる。
後を託せるのはアレクシしかいない……。モランにも頼りたいが、奴はいるでもフェリエスの近くにいるというわけではない。
「アレクシ」
声が出た。
「陛下、控えておりまする」
「フェリエスを頼んだぞ。王家の者としてではなく、一人の男として幸せになれるよう助けてやってくれ。予が望んでも手に入れられなかったものを、この子が手に入れられるように。手紙を必ず渡してくれ。それから、アデリーヌの事を頼む」
王はこう言いたかった。しかし、彼が思う以上に、死というものは近くにあった。
アレクシの耳には
「フェリエスを頼んだぞ」
としか聞こえなかった。
ルイ・ラング・アルメニアはその生涯に幕を下ろした。




