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5

 ヴラドはフェリエスにされた事を、そっくりそのままやり返したに過ぎない。軍を率いてワラキア州を占領し、王国中央部への進出を伺っている大公。その背後はがら空きに見えた。


 ラネー公領にドラグルを残し、ベアトリスと共に南東へと軍を発したヴラドの人選は、王都を焼き尽くしたことをいつまでたっても責める幕僚を遠ざけようとした結果である。叩き殺すには惜しいと彼でさえ思うドラグルという男は、確かに軍を任せれば有能な人材だった。その点に関して、ベアトリスも及ばぬといのが、ヴラドの評価である。


 彼は一万の大軍でベルーズド地方へと迫る。途中、東部諸侯の領地を荒らし、略奪と殺戮を行いながら進むヴラド軍の前に、予想より早く大公軍が現れた。


「報告! 敵、およそ一〇〇〇でございます。指揮官はエミリ・ベロア・ベルーズド公爵妃。南方約二〇〇〇フィルの高台に布陣」


 ヴラドは控える諸侯を眺めた。


 彼らはエミリという名に怯えの色を表していて、お互いに様子を伺うように視線を忙しく交差させている。


「情けない。大公の宣伝にお前達まで毒されおったか。考えてもみよ。あの男は臣民の娘を妃にする為に、これまでそれらしく装うのに必死であった。妃となって突然、それがなくなるものおかしな話ゆえ、先のロゼニア内戦では妃の手柄としたのだ! 女如きがそうそう軍を指揮できるものではない! 暴虐の限りを俺の下で尽くす貴様らが、女一人に何を恐れるか!」


 諸侯の一人、シュトーク伯アルビオがヴラドに賛同する。


「宰相閣下の申される通りだ。何も恐れる事などない。そもそも敵は寡兵。捻りつぶしてくれようぞ!」


 偉丈夫が満足そうに頷くも、諸侯が口々に声をあげる。


「ですが……敵の到着が早すぎます。これは慎重に行動したほうが良いのではないでしょうか」

「確かに宰相閣下のおっしゃる事は分かりますが……あれだけの大事を全て作り上げる事など出来ますまい。クリスティン・ベロア・ロゼニアの例もありますれば……」


 ヴラドが一喝と共に立ち上がる。床几が揺れ、激しく音を発して地面を転がった。


「貴様ら! 今、ここで俺に殺されたいか、戦場で死ぬか選ばせてやる!」


 指揮官の怒りに、身を震わせた諸侯。彼らは確かに悪逆非道の限りを王都とラネー公領で尽くしたが、何も度胸があるのではない。単に調子が良いだけである。目先の利に釣られた彼らは、ヴラドと共に悪名を馳せ、既に後戻りはできない。


 ヴラド軍が動いた。


 本隊を中心に、水平に展開していたヴラド軍は、両端からゆっくりと前進を始め、それに中央部が続く。


「エミリという女、できれば生かして捕らえよ! 大公の前で犯し殺してやる!」


 ヴラドが馬を進めながら、右隣後方につき従うベアトリスに言葉を発した。


 偉丈夫の幕僚は、微かに眉を動かし前を睨む。


 ヴラド軍と大公軍が向かいあうエウゼビオ丘陵地帯は、ルノー川中流にあたり、川が地形を複雑化していた。支流によって分断された丘陵地帯は、高低差が激しく見通しが効かない。


「閣下、この場所を迎撃に選ぶあたり、全く戦を知らぬというわけではありますまい。ご油断なきよう」

「知っておるわ」


 ヴラドは地面に唾を吐く。


「ああでも言わねば、臆病者共が逃げ出したであろうよ。腹立たしいが、女だてらに戦をする術は心得ているようだ」


 偉丈夫は、ベルーズド公爵旗を眺めた。それはまだ、遠く小さく風にゆらいでいた。天高くあがった太陽の下で、誇らしげに掲げられた公爵旗。ヴラドは舌打ちする。


「斥候がまだ帰りませぬな」


 ベアトリスが、ヴラドの隣に並ぶ。


 軍の前方へと放っていた斥候からの知らせが届かない。


「よい。敵の位置は明らかであるし、軍容もあの並べられた旗の様子から窺えるわ」


 全軍が完全に丘陵地帯に入り、諸侯の軍がもたつきながらも前へと進む。川の支流や砂丘、茂みが入り乱れた一帯は、まさに軍を動かすには不向きな場所である。


「思えば、モランのおいぼれのと――」


 激しい雨の降り始めのように、ヴラドの耳にごうっというざわついた音が叩きつけられた。馬上にあった彼は一瞬の判断で地面へと身体を投げ出し、馬の下に隠れる。


 矢であった。


 大量の矢が、ヴラド軍に降りかかる。それは奇襲と呼ぶに相応しい一撃であった。大きな支流のひとつを、援軍が渡河しやれやれといった呼吸での一斉射撃。


「くそ! 旗は偽装だ! 敵がいるぞ!」


 ヴラドは馬に身を隠し、周囲の士官に向かって声を張り上げる。彼の馬は、主の代わりに矢を身体に浴び、嘶くと倒れた。兵士達が盾を連ねてヴラドを守る。


 馬を矢避けに使い徒歩となった指揮官の指示に、伝令が動き回る。ベアトリスは肩に矢を刺したまま、剣を抜き放ち、声を涸らして指示を出していた。


 風を切る音が止まない。矢が次々と放物線を宙に描き、陽光を煌めかせる鏃を地上へと向け飛来する。


 それは、絶えまない北風のようにヴラド軍を襲う。鏃と殺意の雨の中でも、なんとか踏みとどまったのはヴラドの手腕であったかもしれない。彼は立ち上がり、降りかかる矢を剣で薙ぎ払うと、声を張りあげた。


「盾を掲げ! 前に進め! 敵は近くにいるぞ!」


 指揮官の決意に、兵達が応える。勇気というよりも、踏みとどまる事で指揮官に殺されるほうが恐ろしいのだ。


 ヴラド軍は前進した。




-Féliwce & Emiri-




「後退! 敵は立ち直った。距離を取る!」


 声を張り上げるエミリの隣で、角笛が高らかに吹かれる


 大地が蠢く。丘陵地帯を巧みに利用し、姿を消していた大公軍が、地中から湧き出るかのように見える。


 あえて旗ばかりを目につく場所に並べたエミリ。彼女がそうすると言った時、ピエールだけでなく士官達も首を傾げた。


「人は見た物を信じるんだよ」


エミリの言葉。


 騎兵をどう動かす、歩兵をどう用いる、陣形はこうだ等々、そういう次元で工夫を凝らす用兵家は五万といるが、エミリはそれをはるかに飛び越えているとピエールは舌を巻いた。


 大公軍はベルーズドに残っていた四〇〇〇人の兵力を、全て投入していた。つまり、大公領は今、空なのだ。これには多くの反対が出た。


「ベルーズド地方にまだ敵は到着しておらんぞ。いくら何でも早計ではあるまいか」


これはオーギュストの言。彼の意見に多くが賛同した。


「ブランシェル州は、フェリエスを早くから支持してくださっているビクトル卿のご領地。これを荒らすはベルーズドが荒らされたと同じです。フェリエスもきっと、同じ事を言います」


エミリは、こう言って反対を一蹴した。


 彼女のこの発言は、オーギュストによって広められ、それはワラキア州のブランシェル伯ビクトルの耳にも届く。ブランシェル伯は涙を流して感激し、モリペレント公爵軍との戦いにおいて、獅子奮迅の働きであるらしい。


 そしてもう一つ。


 これまで、大公と他勢力を天秤にかけていた貴族達が、エミリの発言によってフェリエスへと傾いたのだ。


「わざとエミリ様の発言を引き出したのですね?」


 ピエールが政務卿に聞くと、オレンジ色の頭を撫でながらオーギュストは笑うのみであった。


 大公軍が弓を収め、弩を揃え後退を始める。無駄のない滑らかな動きで、丘陵地帯を縫うように移動する彼らは、時おり、制止しては弩での斉射をヴラド軍に浴びせた。


 朱色の甲冑を陽光に煌めかせたエミリは、ピエールの隣で空を仰いだ。その先には、お返しとばかりにヴラド軍から吐き出された矢が大量の煌めきを見せていた。


「盾! 掲げぇ!」


 ピエールが腹の底から声を発し、自ら持った盾でエミリを守る。彼は、彼女が傷一つない状態で敬愛する主君の元に帰るべく身を挺したのだ。


 ドドドっと鈍い音を発し、地面と盾に突き刺さる大量の矢。それらは大公軍を貫き、その後退を止めた。いくつかの矢が盾を貫き兵士を傷つけるも、大公軍の戦闘力を奪うものでは無かった。それよりも、後退速度を落とし、敵に追いつかれたほうが痛い。


 ヴラド軍前衛、つまりヴラド派諸侯の軍が、白刃を煌めかせて大公軍にぶつかる。甲高い刃音と怒声が、中天に移動した太陽の下で入り乱れた。


「ひるむな! 迎え撃て!」


 果敢に剣を抜き放ち、徒歩で将兵を叱咤する妃の姿に、兵達が咆哮をあげる。雪崩となって襲いくるヴラド軍と、鉄壁となって迎え撃つ大公軍が、支流の上でぶつかった。底が浅く、流れも緩やかなその支流は、たちまち人血で赤く染まる。


「弩! 装填が済んだ者から射よ!」


 三重の防御陣形でヴラド軍の前衛を跳ね飛ばした大公軍は、盾と剣を鳴らして、後退ではなく前進をした。ヴラド派諸侯の軍が、その凄まじい圧力に陣形を乱す。


「後退!」


 押しては退き、退いては押す。


 エミリの指示は的確で、ピエールは指揮を完全に任せると、自ら前線に出た。


「どうだ? 強いか?」


 士官の一人が、彼の問いに薄く笑う。


 エミリの下、戦場を生き抜いてきた歴戦の兵士達は、弱い者達のみを刃の餌食としていたヴラド傘下の諸侯軍兵を圧倒した。


 ピエールが仮面の下で目を細めた。


 彼は大きく息を吸うと、左手の盾を敵兵に叩きこみ、右手の剣で部下に襲いかかろうとしていた男の首を跳ね飛ばした。口を開いた生首が宙を飛ぶ。それが地面を転がる前に、仮面の男は大公軍の剣先となって、ヴラド軍に突進した。


 剣を斬り上げ、振り下ろす。薙ぎ払い、突く。盾で敵兵を押し返し、殴り飛ばす。彼はその最中にあっても、前線の士官達に細かく指示を出す。


「矢! 盾!」

「後退! 陣形を整える!」

「後列と交代。前衛はしばし休め!」


 エミリの指示に、細かい修正を加えながら、ピエールは死神の様にヴラド軍兵士をあの世に送り続けた。仮面を返り血で汚した男は、既に剣を三本も取り替えていて、四本目を今まさに敵軍兵士に突き立てたところだった。倒れる敵兵から剣を奪い、咆哮と共に突進してくる相手に盾を殴りつけ、のけぞったその首を水平に斬り裂く。


 ピエールは剣を振り、血を払うと、視線を前方に向けた。


 彼は、敵の動きが止まったと見た。そして、その理由を瞬時に悟ると同時に叫ぶ。


「ヴラドが来るぞ! 後退し陣形を整えぃ! 伝令!」


 血のヴラドと異名を取る男とその軍が、ついに出てくるのだ。




-Féliwce & Emiri-




 フェリエスは動けなかった。


 いや、彼は動かなかった。素早く計算した大公は、エミリの為に撤退するという考えを出していたが、それと同時に脳内に描いた妻に叱られたのだ。


『ワラキア州の人達を見捨てたら駄目』


 踏みとどまり、モリペレント公爵軍と戦う決断をしたフェリエス。そして、彼は確信した。


「モリペレント公め、よくもヴラドと結んだな! 四公と称された男も、欲が絡めばこうも落ちるか!」


 彼の怒りは、軍に伝播し、特にブランシェル伯軍の強さは圧巻だった。無理もない。彼は自分の領地を汚されているのだ。


「皆、ここで死ね! 骨は持ち帰って埋めてやる! その為にエミリ様が我らの土地を守って下さっておるのだ!」

「命を惜しむな! ベルーズドの戦乙女に笑われるぞ!」


 ブランシェル伯の叱咤は凄まじく、彼の軍は死兵となってモリペレント公爵軍を突き崩した。戦闘は終始、大公軍が圧倒しているが、モリペレント公爵軍は後退を重ねながらも、大公軍が前進を止めれば喰らいついてくるのだ。


 膠着状態となった両軍。


 フェリエスは一同を自分の幕舎に集めた。誰もが甲冑を脱いでいるのは、冬であっても熱が籠り、さらに重いそれを、装着し続けるのは体力の消耗を強いられるからだ。当然、兵士達にも、交代で休憩を取らせている。


「埒が明かぬ。やつら、時間稼ぎをしておりまする!」

「一気に叩き潰してくれましょうぞ」


 諸侯の苛立ちにフェリエスも苛立つ。彼とて、早くエミリを助けに帰りたいのだ。


「なりませぬ。猪突猛進など相手の思うつぼ」


 クリスティンが一同を諌める。


 片目を細めたハザルが、荒々しく立ち上がった。


「しかし、このままではヴラドに本領を蹂躙されるぞ!」

「エミリ様を信用なさい軍務卿閣下。殿下、あなたのお妃様は、それはもう強うございます。大丈夫です」


 そう言うクリスティンであったが、激しい動悸が止まらない。


「こう言ってはなんだが、クリスティン殿にとってエミリ様は恋敵だ。自分にとって都合の良い絵を描いておるのではあるまいか?」


 エミリを敬愛すること、ベロア家中の誰にも負けないと自負するミラ伯アルフレッドの痛烈な言葉に、金色の瞳を揺らしたクリスティン、唇を硬く結び声を出さない。


「ミラ伯、それは言い過ぎであろう」


 心情的にはミラ伯に近いブランシェル伯ビクトルであったが、年長者らしく若者を諌める。


「どのような事を申されても、私の意見を曲げるつもりはございませぬ。仮に、今ここで我らが撤退をすれば、大儀、正義は失われ、それはワラキア州を失う以上の意味がございます。国内において、大公殿下を味方する声が増えてきているその基は、我らは領民を見捨てぬというものでありますれば、ここは勝負所でございましょう」


 毅然と言い放ったクリスティン。しかし、彼女の背中は激しく汗で濡れていた。彼女のやや後方にいるフェリエスのみがそれを知る事が出来た。


「皆、甲冑をつけよ。クリスティンの言う通りだ」


 一同がフェリエスを見る。


「クリスティン、よく言ってくれた。確かに、俺がこの内乱の後、この国を背負って立つにあたり、ここは絶対に引いてはならぬところだ。視野を広げれば、このワラキア州もアルメニアの土地だ。この土地に住む領民達は皆、大事な臣民である」


 彼の発言に、諸侯が深く頭を下げる。


「ミラ伯爵」

「は……」


 フェリエスに呼ばれ、顔をあげた若者。そこには、後悔が滲み出ていた。


「妃を想っての発言、礼を言う。嬉しかったぞ」

「は……はは。しかし、クリスティン様には大変な失礼を」

「良い! 許す。許すゆえ、エミリと同じように、側室の事も大事に思ってくれ」


 ミラ伯アルフレッドが地に頭をつけた時、伝令の馬蹄が彼らの意識を奪う。


「モリペレント公爵本隊が動きました!」

「ヴラドの動きと連動しおって……わかりやすい奴だ! 遠慮はいらん。奴の首を刎ね飛ばし俺の前に持ってこい!」


 フェリエスが右手を水平に払った。




-Féliwce & Emiri-




 ヴラド・ヴィシュル・ワラキア伯爵。人は彼を『血のヴラド』と呼ぶ。それはその残忍な性格や、勇猛果敢な戦いぶりをいうだけではない。戦場で彼の進むところ、敵兵の血で大地が赤く染まるのが常だからである。それほどまでに彼は強かった。


 そのヴラドの率いる直属軍と、エミリの大公軍が正面からぶつかった。攻めるヴラドと凌ぐエミリ。屍山血河の力攻めに、さすがの大公妃も背中を冷や汗で濡らす。


「第一陣、突破されました!」

「後方に収容! 二陣、三陣は前に出て攻勢を止めて! 弩は装填しだい放て!」


 ヴラドの直属の兵力はこの時、五千。ラネー地方に三千の兵を残してきたとはいえ、彼の下で数多の戦いをくぐり抜いてきたヴラド軍兵は、指揮官が乗り移ったかの如く、勇敢で強かった。彼らにしてみれば、ヴラドにつき従う事で、富を得、快楽に耽り、殺戮に酔えるのである。ヴラドこそ、彼らの望みを叶えてくれるのだ。


「敵騎兵! 動きます!」

「対騎兵槍用意! 弩で援護!」

「前線のピエール卿より! 支えきれぬとの事!」

「弩と長弓で後退を援護して! 敵の足を止めて!」


 エミリはこの時、指示を出しながら飛来する矢を叩き斬った。彼女の剣が、魔法の光を残光として宙に残し、それがまるで、彼女の周囲を覆うホタルの光のごとく浮かび上がる。


「戦乙女エミリ様、共にあらん事を」


 兵士達の口から祈りの声が漏れ、矢を放つ気合いの声が連なった。


 数百の矢が、長弓から放たれ宙を切り裂く。弩と違い、放物線を描くそれは、味方を飛び越え敵を襲う事ができるのだ。


 矢の援護によって大公軍前衛は後退を開始する。ピエールはまさに鉄壁とも言える防御陣形を取り、盾と長槍を揃えた。少しでも早く逃げ出したいという弱い心こそ、後退戦では命取りになる。整然と退く事が、結果的に生存率を高めるのだ。それをピエールも、訓練と戦闘を重ねた兵士達もよく理解していた。


 そしてそれを理解しているヴラドは、新しい馬の上で口端を歪め感嘆する。


「撤退戦こそ、その軍の強さがわかるというものだ。大公め、よくこれだけの兵を揃えた!」


 彼は背後に控える重装騎兵百と、騎兵三百に向かって声を張り上げる。


「敬意を持って皆殺しにしろ!」


 馬までも甲冑で固めた百の騎兵。トラスベリアの重騎兵を参考にヴラドが編成したその集団は、馬上槍と呼ぶには長すぎる槍の刃先を前方に向け、密集陣形で加速した。その後方を、ヴラドを先頭に騎兵が追走する。


 フェリエスやエミリが騎兵の運用方法を考えているのと同じように、ヴラドにも独自の考えがある。


 肉を切らせて骨を断つ。


 彼の発想を具現化した悪魔達が、大公軍にぶつかった。


 最初の一撃で、大公軍は防御陣形を粉砕された。数十人の死者を一瞬にして生み出した重騎兵は、なおも前進し大公軍第二陣へと突入する。速度と重量が殺戮を生み、大公軍は堅陣を乱された。


「弩!」


 エミリの叫びは凶器となってヴラド軍重装騎兵を貫いた。甲冑を貫通した矢は、内部の人間を食い破り、背中から外へと飛び出す。絶命した重装騎兵が次々と落馬する後方で、ヴラド率いる騎兵が、防御陣形を乱した大公軍に襲いかかっていた。


「はははは! 死にたい奴は前に出ろ!」


 騎兵の先頭にあって、大公軍兵士の悲鳴に酔う偉丈夫。彼が剣を振るえば、たちまち阿鼻叫喚となる。


 ピエールはその凄まじさに喉を鳴らし、傷つき崩れそうになる前衛部隊を立て直そうと必死であった。


「固まれ!」

「馬を狙え!」


 自ら馬上の敵兵を斬って捨てた仮面の男は、迫るヴラドを見る。


「戦乙女! エミリ様! 我と共に!」


 兵士達がするように、彼も叫ぶ。指揮官を中心に大公軍歩兵が固まり、後方から合流する味方と共に陣形を再構築する。矢が彼らの頭上を飛び越え、ヴラド軍へと降り注ぐも、その速度を落とすことは叶わなかった。


「後方に伝令! エミリ様の本隊だけでも撤退させろ!」


 そうピエールが怒鳴った時、ヴラド軍騎兵が雄叫びをあげた。


 交差した瞬間、打ち砕かれた大公軍前衛。


 馬に蹴り飛ばされ、槍で突かれ、剣でなぎ倒される。


 血と肉が飛散し、絶叫の中で彼らはそれでも立ち上がる。折れた剣で戦おうとする兵士が、騎兵の槍に貫かれ、ある兵士は剣で頸動脈を斬られ、駒のように回転して倒れた。


 ヴラド軍は騎兵の突撃に歩兵達が追走する事で、さらに打撃力を高めている。この時も、騎兵によって蹂躙される大公軍前衛部隊に、ヴラド軍本隊が飲み込まんばかりの勢いでなだれ込んできた。


「強さの次元が違う!」


 戦慄と共に口から出た言葉に、ピエールは呻いた。


 騎兵そのものが強い。大公軍の騎兵も強いが、ヴラドの騎兵は突撃からの乱戦に馴れている。重装騎兵で敵を乱し、続く騎兵で斬り裂く戦法は荒々しいが合理的であった。


 ピエールはエミリの為に時間を作る事に専念した。


「皆! 命をくれ!」


 彼の叫びに、兵士達が気合いの声をあげる。弩の装填すら許されぬ乱戦の中で、やはり騎兵は強い。駆け抜けながら大公軍の命を喰らうヴラドの騎兵は、馬すら返り血で染まっていた。


「後方より本隊が前進!」


 信じられない報告にピエールが怒鳴る。


「馬鹿もの! 撤退せよと伝えろ!」


 彼の祈りにも似た叫び。それは、殺戮に酔うヴラド軍にぶつかった大公軍本隊には届かなかった。



 

-Féliwce & Emiri-


 


「モランお爺ちゃんの仇!」


 本隊ごとヴラド軍にぶつかったエミリの怒声に、兵士達が雄叫びをあげた。怒りが剣と矢を鋭く研ぎ澄まし、大公軍前衛を喰らいつくそうとする敵に襲いかかる。


 重なる金属同士の衝突音に、連なる悲鳴が戦場を支配した。朱色の甲冑を着込んだ大公妃は、後方に温存していた騎兵の先頭となって歩兵達を追い越し、殺意と剣を煌めかせて突進する。


「味方を収容しつつ後退! 騎兵で時間を作る!」


 本隊がヴラド軍に矢と罵声を浴びせ、仲間を救おうと前進する。その放たれた矢すら追い越す勢いで、丘を駆け降りた大公軍騎兵三百は、ほぼ無傷のヴラド軍騎兵とぶつかった。


 エミリの剣が、敵騎兵の剣ごと肉を斬り裂き、淡い残像を夕闇の中に描く。アレクシの遺品である魔法の剣は、持ち主の感情を反映させるがごとく強く輝き、交差する度に敵を地に斬り伏せた。


「ヴラドー!」


 エミリの叫びは、血に酔った偉丈夫の耳に届く。


「貴様がエミリか!」


 エミリの白馬が、ヴラドの赤馬に風のように迫った。


「ここで倒す! ヴラド!」


 エミリの斬撃は鋭く、ヴラドはそれを剣で受け流したものの態勢を乱す。彼の剣は半ばで折れ、それを戦乙女と呼ばれる女に投げつけたヴラドは、味方から剣を奪い取り笑みを浮かべた。


「ふふ……俺を殺す? その覚悟が貴様にあるのか!?」


 一喝し馬の腹を蹴ったヴラドは、禍々しい笑みを浮かべ剣を振り上げる。大公妃はそれを身体の動きで躱し、白刃を水平に払った。脇腹を狙った払いを、ヴラドは人馬一体となった動きで避けると、怒声を発して突進する。


 二人の馬が激しくぶつかり、エミリもヴラドも投げ出された。馬同士でさえ、激しくぶつかり合い、競うようにして戦場を走る。


 地面に着地したと同時に、エミリの剣がヴラドに迫る。偉丈夫はそれを剣で受けるも、またしても悲鳴をあげて折れる。


 大公妃の追撃を躱し、死者から奪い取るように新たな武器を手にしたヴラド。その手には、戦斧が握られていた。彼がそれを一閃し、迫った大公妃を牽制する。エミリは、気合の声と同時に踏み込み、右手の剣を斜めに斬りあげた。ヴラドの髪が数本、宙を舞う。思わず喉を鳴らしたヴラドは、一呼吸する間もなくエミリの斬撃に襲われた。彼は戦斧と体術で攻撃を凌ぎ、反撃を窺うも直線と曲線を織り交ぜて剣を繰り出すエミリの前に、防戦一方となる。


 エミリは腰の短剣を左手に持つと、右手の剣を囮に使い、短剣を偉丈夫の脇へと突きだす。一瞬の判断でそれを躱したヴラドは、さらに追撃を企む大公妃に向かって唾を吐きかけた。


 思わず、それを躱したエミリ。女性であるがゆえの行動であったかもしれないが、好敵手相手にこの動きは致命的であった。


 ヴラドは魔法を発動させた。


 突きだした左手が氷の槍を宙に浮かび上がらせる。それは偉丈夫の掛け声と共に彼女へと迫った。


 エミリはそれを剣で弾く。魔法を帯びた剣であるからこその芸当である。彼女の剣が怪しく光り、闇夜にはっきりとその顔を浮かび上がらせた時だった。


 「小娘が!」


 怒鳴ったヴラドはその巨躯からは想像するのが難しい素早さでエミリへと迫った。魔法はただの牽制に過ぎなかったのだ。


 偉丈夫が戦斧を斬り上げ、振り下ろし、回転しながら水平に払う。躱しきれず、それを受けたエミリは、衝撃に後方へと弾かれた。


 攻守が逆転した。


「ふはははは!」


 浅い川の上を転がり逃げるエミリに、戦斧が追撃する。水を跳ね上げ大公妃を追う偉丈夫は、邪魔をしようとした大公軍兵士を一撃で仕留めた。しかし、その隙にエミリが立ち上がる。


「させるか!」


 兵士を血煙の下に斬り捨てた瞬間、ヴラドは右脚で細い彼女の腹を蹴りあげた。確かな手ごたえに、あばらをへし折ったと確信したヴラド。浅瀬を転がり、呻きながら剣を構える生意気な女に、彼は戦斧を振るった。


「覚悟が違うのだ! 覚悟が!」


 ヴラドの膂力を得た戦斧が、エミリの剣を弾き飛ばす。彼女はそれをなんとか離さず、痛む脇腹を押さえて後方へと距離を取る。そこへヴラド軍騎兵が突撃し、槍で彼女を貫こうとするも、馬の脚をエミリに斬られ、騎兵は落馬し岩にぶつかり動かなくなった。


「俺は一人で立っている! 仲間ごっこをしているお前らに負けるはずがなかろうが!」


 ヴラドが小娘に突進する。


「寂しい男!」


 エミリは叫びながらヴラドの蹴りを躱し、戦斧を剣で受け流したと同時に肘を偉丈夫の顎に入れる。目眩に襲われながらも、ヴラドは勘で川へと身体を投げ出していた。半瞬後、彼のいた場所にエミリの剣が走っていた。


 折れた奥歯をペッと吐き出したヴラドは、最後の力を振り絞った女を見下ろした。


「生かしてやる! 貴様のような気の強い女が慈悲を乞うようになるまで、どれほどの凌辱と時を要するかな?」


 残忍な笑みを浮かべた男が、激しく肩を上下させ、右脇腹を押さえうずくまる大公妃へと近づこうとした。が、彼は耳が捉えた雑音の意味を瞬時に悟り、後方へと飛ぶ。


 剣が右方向から彼に投げつけられていたのだ。


 左方向の岩に当たった剣が、甲高い音を発して水面に落ちたのを見て、ヴラドはそれを放った男を睨んだ。


「大公はよほど趣味が良いらしいな。女の次は仮面かよ……」

「アルメニアにヴラドありとも言われるその腕前、ぜひ披露して頂きたい」


 エミリは、その声がクロエの兄のものであると知り、苦しげに顔をあげた。そこには、ピエールと数人の歩兵が矢と剣を構えて立っていた。


「一対一では勝てぬとみて、多勢でくるか……。よかろう」

「いや、相手は俺一人。これらはお前の首を運ぶ為に連れて来た。中身が空のくせに重そうだからな」


 暴言にヴラドは突進していた。


 ピエールは剣を構えると同時に、兵達に頷いてみせる。彼らはクロエの兄とヴラドから離れ、エミリへと駆け寄り彼女を助け起こした。


「さ、引き上げでございます」


 兵士の声にエミリが呻く。それは、ピエールを残して行けるかという意味のものだったが、兵士達はそれを無視した。


「戦況はお互いに被害が甚大となり、自然と収まりましてござる。あとは、エミリ様だけでございますれば」


 暴れたエミリだったが、脇腹の痛みに悲鳴をあげ力を抜いた。気絶したのだ。


 彼女が兵士達に運ばれる後方で、ピエールの仮面が月光を受け白く浮かび上がった。その下で笑みを浮かべた男は、ヴラドへと攻撃をゆるめない。それらを戦斧で弾き返し続ける偉丈夫。二人は剣と戦斧をぶつけ合い、気合の声を叫び合う。


 ピエールは剣を斬り上げ払うと、身体の勢いを利用した裏拳をヴラドに見舞う。それを腕で受け止めた偉丈夫が、片手で戦斧を振り距離を取ろうと企む。


 剣を収めた両軍が、粛々とそれぞれの陣地へと後退する中で、二人の戦いはさらに激しさを増していく。


「エミリ様を負傷させた償い、命でしてもらう!」

「言うわ! 青二才!」


 二人の武器がぶつかり合う音は、静まった戦場にあって不気味なほどに遠くまで響いた。




-Féliwce & Emiri-




 大公軍四〇〇〇の兵力は、戦闘終了時には三五〇〇まで減っていた。


 両軍の凄まじい戦いに感化されたのか、天候までも怪しくなり、どす黒い雲が闇夜をさらに暗くした。気温が急激に下がり、雪が降るのではないかと空を睨んだエミリ。だが、その目が苦しげに細まり、視線が右脇腹を触診する軍医の手へと注がれる。


「痛みますが、こらえてくだされ」


 軍医の言葉に頷いた大公妃。右脇腹の具合を医者に診られながら、士官達の報告を聞き、指示を与えていた。そして彼女の表情が悲痛に歪む。それは、触診の痛みもあったが、何よりクロエの兄の行方が掴めないからである。


 コルトバ男爵オーランドが、幕の外から声を発した。上半身を露わとしている彼女を隠す為、彼女と医者の周囲を幕で覆っているのだ。


「敵損害もほぼ同じでござる。しかしながら、もともと奴らのほうが多勢でございますゆえ、痛み分けというのは言い過ぎでございましょうな」

「分かってる! 兵達に食事と休息を交代で取らせて! 夜にもうひと押しする!」


 幕の外でオーランドが飛び跳ねた。


「こちらから攻めるので!? しかもこんな短い間隔で!?」


 エミリは軍医に薬を患部に塗られながら、その匂いに鼻を鳴らすも、オーランドには答えない。


「焦る気持ちは分かりまするが、お身体も大事でございますよ!」


 オーランドの言葉に、エミリは立ち上がっていた。


「ピエールさんがいない! 私は復讐で周りが見えず、彼を死地へと追いやった! 彼だけじゃない! 兵士達の遺体すら収容できていない!」


 珍しく激昂した大公妃の怒声は、幕を飛び越え陣地を駆け巡った。


「仲間の遺体を捨ておけるか! 国と民の為に戦って死んだ彼らを野ざらしにできるはずがない! ヴラド軍を蹴散らし、皆で帰還する! 絶対にそうする!」


 彼女の発言によって、大公軍の陣地は慌ただしくなる。それは敵に察知されぬよう細心の注意を払われた。


 同時刻。


 ヴラド軍の陣地において、血まみれの男を前にベアトリスが立っていた。


「閣下相手に生きているのは誇っても良いぞ」


 切れ長の目を細めた彼に、細い声が届く。


「……エミリ様……クロエ……」


 ベアトリスは眉を寄せると、倒れた男の顔を覗きこむ。仮面を剥ぎとり、現れたその顔を見て笑う。


「こうまでなって、見上げた忠心だな」


 男は無言であった。


 ベアトリスはヴラドから彼を預かっている。


「なかなか手間取った。生きておる限りは人質に出来るかもしれぬからな。逃げられぬようにしておけ」


ベアトリスは苦笑を浮かべた。


 目の前の男は既に瀕死で、特に戦斧によって切断された右脚と左腕からの出血がひどい。処置せねばもたない事は明白である。


「延命はしてやろう。おい」


 ベアトリスの声に、軍医が進み出る。


「処置しろ」

「は……しかし血を多く失っておりますれば、すぐにでも設備の整った場所にう――」


 軍医の言葉は、ベアトリスの嘲笑でかき消された。


「誰も助けろとは言っておらぬ。処置せよと言ったのだ。この男を全面に立てて軍を進ませれば、女ごときはそれだけで戦意喪失するであろうと閣下は仰せだ。わかったか? もたせるだけでよいわ」

「は……はは。ではまず止血を致しまする」

「すぐやれ! 死んでしまうぞ」


 彼は軍医に背を向けて、その場を離れた。主君の天幕へと向かう途中、諸侯達とすれ違う。礼をしてやり過ごすも、その口は侮蔑でねじ曲がっていた。


「どの面下げて勝利だのとほざいておるのか」


 彼は舌打ちと共に歩きだす。


 天幕の外から声を発すると、中へ入れというヴラドの声が聞こえた。


「閣下、して次はどう致しますか?」


 裸身の偉丈夫は、近くの村々から奪って来た娘達に身体を洗わせている。彼の足元の桶には、赤く濁った水があった。


 どれほどの人血を浴びれば、そこまでなるのかとベアトリスは唾を飲み込む。


「敵は指揮官が負傷し、全体の一割に及ぶ損害を出している。普通は退くであろう……が、あの小娘は普通ではない」


 沈黙するベアトリス。


「俺であれば……この地形を利用し夜襲をかけるであろうな」


 ヴラドの逞しい腕が動き、身体を拭かせている娘の首に巻きつく。娘は、喉を鳴らすと手を止める。


「では、備えまする」

「うむ。明け方であろう……」


 一礼したベアトリスの耳に、女の悲鳴が飛び込む。


 彼が無言で天幕から出た時、雪が空から降り始めていた。




-Féliwce & Emiri-




 夜襲はやはりあった。


 予想していたとおりであったが、ベアトリスは思わず叫んだ。


「なぜだ! どうしてこんなに早い!?」


 彼は、脱いだばかりの甲冑を再び身につける時間すらなく鎖帷子のみで天幕から飛び出し、右手の剣で迫る敵兵に斬撃を浴びせる。しかしそれを剣で受け止めた相手は、あろう事かベアトリスを無視して、さらに陣地の奥へと走り去る。


 それを追おうとしたベアトリスであったが、逃げまどう味方と、次々と侵入してくる大公軍兵士によって阻止される。


(あれだけの死闘を終えたのだ! 休みもロクに取らずに夜襲をかけてくる馬鹿がいるか!?)


 ベアトリスの指示で、ヴラド軍野営地は警戒を怠っていなかったが、しかしそれでも、人員を明け方に集中させていて、まだ夜半である現在は手薄であったともいえる。


 彼は舌打ちと共に逃げる兵士達を呼びとめ、立て直すべく声をあげるも、ヴラド軍陣地の数カ所から火の手があがると、踏みとどまろうとする勇気が萎えた。


 急ぎ主君の幕舎へと走った彼は、自ら大公軍兵士達を相手にするヴラドの巨漢を見つける。


 ヴラドは、火球の魔法を発動し、複数の敵兵を同時に吹き飛ばすと、懐に潜り込んだ兵士に右手の剣を見舞う。左右に血潮が飛散する中で、偉丈夫は暴力の中心で笑っていた。


「ベアトリス! 警戒せよと言ったであろうが!」


 幕僚は反論できない。


 大公軍歩兵を背後から斬り殺した臣下を一瞥したヴラドは、炎を噴き上げる陣地を睨んだ。


「よくもまあ、こんな短時間で攻め寄せて来たものよ。凌げば勝てるが、この先、ベルーズドまで遠い。退く」


 これが決戦であればヴラドも勝負に出るが、大公軍はその本隊をワラキアに留めており、妃が率いているのはただの別働隊に過ぎない。ここで無理をして勝っても、次に大公と戦う事など出来なくなると踏んだヴラド。目の前で燃え盛る陣地と混乱する自軍の有り様が、彼にそう判断させた。


(それにしても、兵数を揃える為に諸侯の軍を引きつれてきたが、こうまで足手まといになるとは……)


「ベアトリス! 我が軍勢のみを引き連れ先に退け! 俺に考えがある」




-Féliwce & Emiri-




 エミリは馬上で剣をかざした。


「進め! 後はないぞ!」


 大公妃は、縄で身体を鞍に縛り付け前線に出ていた。声を出すたびに、痛み止めすら無視して疼く右脇腹に呼吸が止まる。それでも彼女は、前に進む事を止めなかった。


 兵士達の体力を考えれば、無謀な夜襲であった。


 しかし、それは激戦を終えたばかりの敵に生じた隙を完全に突く事に成功した。


 攻撃する側であったヴラド軍が、突然、守勢に回ったという点も、この夜襲の成功に大きく作用していたに違いない。それほどまでに、虚を突かれたヴラド軍は脆かった。


 馬上で飛びかけた意識を繋ぎとめたエミリが、歯を食いしばり伝令の報告に頷く。


「休むな! あと一押し!」


 大公軍兵士は、彼女の指示によく応えた。誰もが、疲労の極みであったが、負傷した指揮官自らが陣頭で声を張り上げるのを見て、わずかに残っていた力を振り絞り前進する。


「魔導士!」


 エミリの指示に、後方の魔導士部隊が応える。


 混乱したヴラド軍には、魔法を発動する余裕はないとみての彼女の判断は、半分が正解だった。


 ヴラド軍は、いや、ヴラド直属の軍はこの時、ベアトリスによって大きく後退しており、残っていたのは諸侯を中心とする軍だった。彼らはヴラドにより、捨て駒にされた。


「ただ死ぬなら、役に立って死ね!」


 味方する諸侯ですら斬り殺したヴラドによって、恐怖に駆られた諸侯の士官達は大公軍を防ぐ防波堤となるべく軍をまとめる。だが、大公妃が引きつれた騎兵連隊の突撃を受け、作り上げた壁はあっけなく崩れた。


 魔法と剣の攻撃を受けたヴラド派諸侯の軍は、東の空が黄金に輝く頃には壊滅していたのだった。


 戦場にへたり込む大公軍兵士達の中にあって、騎兵達が慌ただしい。彼らは燃え盛る陣地の消化を進めながら、エミリの為にある作業にあたっていた。


「エミリ様! おられました!」


 伝令の報告に、エミリは縄を剣で斬り離すとオーランドの助けを借りて馬から降りる。地に足をつけたと同時に、膝から崩れ落ちた彼女を、周囲の兵達が我先にと手を伸ばし支えた。


「連れて行って……」


 痛みで擦れた声を発したエミリを、オーランドが背負う。それを数人の兵士が補助した。微かな揺れでも、エミリが痛みに喘ぐからだ。もともと、無茶が出来ない状態であった彼女が、馬に乗り戦場を駆け巡った事で、怪我は悪化しているものと彼らは理解した。すぐにでも軍医のもとへと運びたいが、彼女はそれを拒むだろう。だから、オーランドだけではなく、士官や兵士達も彼女を見守る。


 半焼した天幕の中に入ったエミリは、自分を助ける為にヴラドに挑んだ男を見つけた。凄まじい戦いをしたのだと、その姿を見れば分かる。腕と脚を一本ずつ犠牲にした事で、大公の大事な人を守った男は、胸をゆっくりと上下させていた。


「ジェローム……ジェロームさん」


 男の本名を呼んだエミリに、倒れた男が微かに頭を動かす。安堵の表情を浮かべた彼女に向かって、その唇が動いた。


「ご無事で何より……殿下に、申し訳ございませんとお伝えください。姫君が健やかに育ちますよう見守っております。あと、妹をよろしく……」


 彼の明瞭な発音に、エミリは辛気臭い彼の言葉を笑い飛ばそうとした。だが、瞼を閉じたクロエの兄から、力が抜けたと感じた大公妃は、右脇腹の痛みも忘れて叫んでいた。


「ジェローム!」


 オーランドが軍医を呼ぶべく走り去る。数人の兵士達が、水やら包帯を取り出し、ピエールいや、ジェローム・ブローの周囲に群がった。だが、この時すでに、彼は顔を隠し偽名を使うことを必要としていなかった。


 幕僚を抱きしめ、肩を激しく振るわせるエミリ。


 士官達が離れ、焼け落ちかけた天幕の中に残された彼女は、ジェローム・ブローの髪を撫でながら、微笑んだような彼の死に顔を見つめた。


「……この優しい顔で私を励ましてくれたよねぇ」


 エミリの脳裏に、公爵邸の塔が描かれる。そこに立つ二人の姿。ロゼニアで発生した非戦闘員の虐殺は自分のせいだと塞ぎこんでいた彼女を、その胸で気のすむまで泣かせてくれたクロエの兄。エミリが無事に帰って来て嬉しいと言ってくれた優しい彼。


 その男は、最後まで優しく強かった。


 エミリは、ジェロームの頬に唇を寄せた。そして、もう届かないと分かっていても、彼女は気持ちを言葉に乗せる。


「ありがとう……。ありがとうございます」


 あの時と同じように、雲が激しく雪を吐き出している。


 冷たい空気の中でも、彼女の目から溢れた感情の滴は温かく、体温を失っていくジェロームを労るように、その頬を濡らし続けた。


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