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る……留守番!
アデちゃんの近くにいられるから許す……。
しゃあない! 切り替えが大事だかんね!
とにかく、彼が留守の時こそ私がしっかりとせねば!
しかしその決意も、執務室に次々と運ばれてきた決裁を求める書類の山に消沈する。
フェリエスが朝食からステーキを食べていたのも理解できます。朝早くから仕事してると、朝食時には腹ペコなんす。
水門から、水路。工廠に金融機関の整備など、やる事がてんこ盛りだ。
忙しくする中でも、アデリーヌには会いに行きます。お腹の大きくなってきたメリルさんが、シンシアさんにいろいろと教わりながら、娘の世話をしてくれていた。そのお礼に、出産がとても痛くて苦しかったって先輩に教えた私。
怯えた先輩の顔、最高だなぁ……うしし。
そうやってメリルさんをからかっているところに、サラちゃんが来客を伝えてきた。
「レニン・シェスター卿がご到着されました」
いつも赤いローブで顔を隠した変な人が、この大陸で最も偉大な魔導士と呼ばれている存在であるのを知った時、私はこういう変人だからこそ、研究に没頭できるんだとも思ったのです。でも、話してみるとかなりマトモ。顔を隠しているせいか、その綺麗な声がとても耳に残る。
応接室に入った私に、立ち上がったレニンさん。
「いいですよぉ。座ってください」
サラちゃんが紅茶を運んでくるのを待って、私は彼の研究テーマであるという旧世界文明、彼が古代文明と呼んでいる時代の話を聞く。というのも、これを聞きかじった時、ピーンと来たのです。
そう、私は異世界に飛ばされたのではなく、とんでもなく未来に飛ばされたという事実に……。
なぜなら、レニンさんの口から「古代……西暦二六〇〇年後半から、大陸歴元年より五百年前までの記録が全くない」というのを聞いてしまったからなのです。
大陸歴というのは、この世界共通の暦で、アルメニア歴三四九年は大陸歴でいう一五三三年です。国家間での条約締結時に、共通の暦をというので、大陸歴が導入されたらしいのですが、そうなら、もっと昔から今の世界があるわけで、西暦二六〇〇年というのは、とてつもない過去という事になるのではないかと思います。
そうです。私は彼らの言う古代人の可能性大。
レニンさんは、フェリエスから譲り受けた書物を開いて、私にもわかるように翻訳してくれる。
「古代文明時代、国家間の争いはこの世界そのものの形状を歪めるほどの力を有していたそうで、現にアルメニア平野を囲うアルメニア山脈の特殊さは、自然の力というには無理があるのです」
彼は紅茶を一口飲むと、ローブの中からスキットルを取り出し、琥珀色の液体をどぼどぼと紅茶に注ぐ。
ここにも酒飲みが一人いたか……。
「ブランデー?」
「ご名答です」
「ブランデーなら少し頂戴」
ローブの奥で彼が笑ったようだった。
私はスキットルを受け取り、紅茶に少し垂らす。香りが立つんですよ。
「しかしエミリ様のような方が古代文明にご興味がおありとは……意外という他ありません」
ローブの奥から透き通るような声を発した魔導士に、私は紅茶のカップを持ちあげながら瞬きした。
この人の知識は必ず私の役に立つ。私がどうしてこの世界に来たのか、そしてこれからどうなるのか、この人なら教えてくれるのではないかと思う。それほどまでに、彼が私に聞かせてくれた政治、経済、魔法、歴史の話は斬新なものばかりだった。
「これは一部の人しか知らない秘密なのですが、レニン卿には知って頂きたいと思います。お力を貸してください。ただし、私の話を聞けば、あなたは二度と祖国には帰れないし、また帰しません」
濃い赤色のローブを揺すった魔導士が、スキットルに口をつけた。その口元がローブから覗き、女性のような艶のある唇が見える。
「よろしいでしょう。私はとんと研究以外に興味のない人間です。それに私は確かにゴーダ人ですが、そもそもゴーダ人やアルメニア人など、権力者達が都合の良いよう国境を定め線引きした結果に過ぎませぬ。私は人間であるという以上でも未満でもありません……そんな私に、したいことをしてもいいと言ってくれたのは、大公殿下だけです。私は大公殿下と、彼の妻たる貴女を蔑ろにするような真似はいたしませんよ」
私は、彼のローブの奥に隠れた顔を見つめるように視線を送る。
レニンさんが、いきなりローブを剥ぎとった。
そこには、女の顔がある。
「おわかりでしょうか? 私は身体は女ですが、中身は男なのです」
性別不合という言葉が頭の中に浮かぶ。
「そのようなことまでさせてしまって、申し訳ありません」
頭を下げた私に、彼? は首を左右に振った。
「かまいません。しかし私の存在自体が、人とは何かを私に問うのです。人とは? 特殊な力を持つ魔導士とは? それを解き明かすには、万物の源と世界の歴史、そして精神。これらの根底にある意思を感じ取る必要があり、その為には古代文明の力を復活させなければならないと私は考えているのです」
彼の声は深く沈んだ。その赤い瞳は、ルビーのように輝きながらも、私ではない誰かを見ているように思う。
「わかりました。レニン卿、では私も隠すことなくお伝えします。私はその古代文明からこの時代へと転送されてきた人間である。と言えば、わかりやすいですか?」
彼の白い肌に血が巡るのを見てとった私は、これまでの経緯を彼に話す。それはとても長い話になったけど、彼は瞬きすらせずじっと聞き入った。
何度か、扉の外から私を呼ぶ声がするも、私はそれを待たせる。私がこの世界に来るまでの十六年間と、この世界に来てからの三年間を語り終えた時、大陸最高の魔導士は深く長い溜め息をついた。
「一つ、この愚かな私にもわかることがあるとすれば、エミリ様。あなたは何者かに召喚されたのだと思います」
彼は召喚魔法を私に説明してくれた。
召喚魔法とは、複雑な方程式と魔力と呼ばれる力をブレンドすることで、異空間に存在する神のごとく力を持った異物を現世に呼び寄せる魔法だとこれまで考えられてきた。しかし彼は、これは違うのではないかと考察していると教えてくれた。
「異空間ではなく、過去から呼び出しているのではないかと考えています」
彼は一枚の紙を私に広げて見せる。それは正方形の紙で、私がいつもメモ代わりに使っているものだ。それを彼は対角を重ねるように折った。
「つまりこういう事です」
「現在に、過去をくっつけているという事?」
「ご名答。いや、過去か未来か外宇宙かはまだ判明していませんが、未来を現在につなげることはできますまい。おそらく過去の一点を、引っ張ってきている。それが召喚魔法です。ここで重要なのは、その過去がいつかということです。おそらくですが、旧世界文明において、強大な力を持つ存在を発明というか生成というか……それが完成しておったのでしょう。それを行使する際に、自分の場所に彼らを呼ぶ手段が召喚魔法であり、それは本来、時間を飛び越えるものでは無かったはずなのです」
彼は長い脚を組んだ。
「ところが、私が方程式を書き換える事で、この紙のようにその存在を呼ぶ方法を見つけてしまった。いや、これまでも少なからずあったのですが、それは偶然の産物によるものが多く、系統立てて論理的に説明できるものではありませんでした」
「レニン卿、それではどうして私が? 私はなんの変哲もないただの学生だったのです」
「それはこれから調べねば分かりません。もしかしたら、召喚魔法ではないかもしれませんし……それこそ、神の悪戯かもしれません」
悪戯が過ぎますよ、神様……。
「とにかく、良い研究対象と出会えました。お礼をしたいのですが」
私を研究対象と言った彼は、子供のように笑った。綺麗な花、可愛い動物を見て喜ぶ女の子のようだ。
「私がこの世界に来た理由はどうでも良いのです。私が心配なのは、この世界から再び、元の世界に飛ばされる事なの」
魔導士が、目を細める。
「あ……あなたは本来の世界に戻りたくないとおっしゃるか……」
頷いた私。
いや、戻りたくないっていうのは嘘になるもん。今でもやっぱり両親の事を思い出すし、あのダメ兄貴が脳裏に現れ「俺の代わりに働いてよぉ」て言ってくる……。
でも、フェリエスやアデリーヌを失ってもそうしたいと願うものではない。私はこの世界の人間として、生を全うしたいのだ。
可愛いアデリーヌの成長を見守りたい!
レニン卿はしばらく黙っていたが、何かを思い出したように服の下に手を突っ込んだ。首飾りを千切った彼は、青い宝石が輝くそれを私に差し出す。
「差し上げます。これは私がお守りとして作ったもので、いかなる魔法も跳ね返す仕様にしました。あなたに何らかの魔法が作用しようとした時、一度だけですがそれを無効化できます」
「いいのですか?」
「かまいません。それに私にはもう必要がありません」
彼は壁時計に視線をやる。随分と時間が経ったことに驚いたようだ。冷めた紅茶を飲み干したレニンさんは、フードを被ると立ち上がった。
「私はあなたに興味を持ちました。研究にご協力くださいませんか? 代わりといっては何ですが、政務だろうと軍務だろうと言いつけてくださって結構ですから」
私は笑顔で立ち上がる。願ってもない申し出だ。
「じゃあ! さっそく手伝って! 外で待ってる仕事を手伝ってください」
レニンさんが大袈裟に肩を落としてみせたのだった。
-Féliwce & Emiri-
政務の合間にもたらされる報告は、フェリエスの快勝ばかりだった。
彼はワラキア伯爵に味方する諸侯を片っ端から叩き潰し、ワラキア伯領を占領した。ワラキア州に入る直前の戦闘こそ激しかったみたいだけど、その後はほぼ無抵抗であったらしく、逆に食糧不足で領民の多くが飢餓に苦しんでいた状態であったそうだ。オーギュストさんが、大量の物資を前線に送る準備を、信じられない速度でこなす。頭の中に大容量のCPUがあるのではないかと疑うほど、彼の事務処理能力は凄まじい。
一方で、よくない知らせも届く。
神聖スーザ帝国が、ゴーダ騎士団領国軍を圧倒しはじめたのだ。
ヒーロ・ギューン元帥は、元老院の査問会に強制召喚され前線を離れた。これが騎士団の士気を著しく落とし、帝国の攻勢に後退を重ねていると聞いた時には、アルメニア東部国境付近まで帝国軍が迫っていた。彼らはロゼニアとベルーズド公爵の同盟関係を絶つべく、騎士団と戦いながら私達へと迫っていたのであります。
神聖スーザ帝国西部方面軍は、ロゼニア王国とベルーズド地方の接点である平原まで進出し、それは経済活動にも影響が出た。各商会から公爵府に、帝国軍に商隊の荷を接収されたとの報告までもあがっている。
手持ちの兵力でどうするべきか……。
私は、フェリエスに手紙を送りながらも、私と共に残ったピエールさんに国境付近まで進出するよう指示を出した。
牽制と偵察を兼ねてのことであったが、何より兵を出すことでこちらの意志を明確にする必要があったのだ。
これらの方針や、運び込まれてくる政務をこなしながらも、私は娘が可愛くて仕方ない。少しの時間さえあれば、アデリーヌを抱っこしている。剣や武術で鍛えたおかげで、抱き続けても疲れないのは嬉しい誤算だった。まさか、こんなところに効果があるとは……。
「アデちゃん、おねむでしゅねぇ」
私が娘を揺すりながら、執務室の中をうろうろと歩くのを眺めるレニンさん。彼は大量の書類をオーギュストさん並の速度でこなし、さらに訂正までいれて、さらにさらに的確な指示を官僚さん達に与えている。三日に一度のペースで私を訪ねてくれる彼は、こうして仕事を手伝ってくれる。
それで明らかになった彼の天才ぶりは凄まじい。一人で上水道の図面の誤りを見つけ、訂正までしてしまった時は驚きと嬉しさで手が痛くなるまで拍手したものだった。
ふふふ……楽だ!
その彼が、書類に要約の付箋をつけてくれながらも、最近になって動きを激しくする帝国の動向について私に話を振ってきた。
「エミリ様。帝国軍の動向は気になりますね。どうなさいます?」
私は、ぐずるアデリーヌを宥めながら、椅子に座る。シンシアさんが、私から娘を受け取り、一礼して退室した。
仕事をしろってことですね? 分かります。
「残存兵力はかき集めても三〇〇〇ほど。帝国軍は万単位。頭が痛い」
扉が叩かれ、オレンジ頭が慌てふためき入ってくる。彼らしくもない様子に、しばし呆然とした私。オーギュストさんは、私とレニンさんを交互に見て、喉を鳴らして口を開いた。
「ロ……ロゼニアで内乱! 複数の諸侯が王家に反旗をひるがえした。救援要請が届いた!」
「ピエールさんにはそのまま、国境を越えてロゼニアに向かうように伝えて! 兵を集める! レニンさん」
魔導士が私に身体を向けた。
「お願いがあります」
「お任せください。大公領は私がお守りします。ですから、必ず無事に帰ってらしてください。私の研究はまだ途中なのです」
おそらく、ローブに隠された顔は笑っていたに違いない。
「もちろん。オーギュストさん、すぐにロゼニアに承諾したと伝えて。それから、フェリエスにも鳩を飛ばして」
慌ただしくなってきたよ……。
-Féliwce & Emiri-
ロゼニア王国の反王家勢力はつまるところ、神聖スーザ帝国に靡いた者達だ。この情勢下でそれは証拠などなくともわかるというもの。和平を結びながらも、着々と裏で侵略をしていた帝国の狡猾さにさすがの私も舌を巻いた。というのも、ゴーダ騎士団を相手に、そんな余裕がよくあったなと思うのです。ただ、カール・シュタインベルグ枢機卿が、ズラン・ゴラン・ベリグリス枢機卿にあっさりと指揮権を渡して帝都に帰ったという事実から、軍事力という力で戦うベアトリス枢機卿と、謀略戦という頭脳戦を担当するシュタインベルグ枢機卿というように、役割分担をしたのではないかと推測することができる。
私は大公領の残存兵力から一〇〇〇人を率いて、ロゼニア国境を越えた。先行する騎兵一個連隊と合流すれば、戦力は一三〇〇ほどになる。後方支援まで含めると二〇〇〇人。王都に向かった本隊と、私が率いる別働隊を合わせて消費される物資の量は半端ではない。これを手配し滞りなく届けてくれるオーギュストさんの存在は、間違いなく私達の生命線だ。言い方を変えれば、彼の存在なくして、大公軍は回らないのです。
和平成立からわずか一カ月。
神聖スーザ帝国という国は、本当に信用ならない。いや、彼らは無関係を装うだろうな。
ロゼニア王国のイザベラ女王はヘルムンド伯ジャシームに国軍を指揮させたが、まさかその彼まで裏切るとは予想だにしていなかったに違いない。
進退極まった女王は、少数の兵と共に王都に籠城した。
ロゼニア軍五〇〇人に対し、反乱軍一万人という情報が、ピエールさんからもたらされる。ヘルムンド伯ジャシームを中心とする反乱軍は、豊富な物資と資金力で、女王に味方した王国西部の諸侯軍を壊滅させ、現在に至る。ロゼニアが東西に割れたのだ。
それは帝国との戦争がその原因だ。
主戦場はロゼニア王国東部で、土地は荒れた。恨みは王家へと向けられる。それは女王がフェリエスに、クリスティン王女を送ろうとしたところから両国の戦争がはじまり、実際にクリスティン王女が嫁いだ為に長期化した。帝国としては飼い犬に手を噛まれただけでなく、嫌いな隣人に奪われたと見たのだ。躾けなければならない! と思ったのか、刃向かう者は容赦なしなのか、単に領土的野心に従ったのかは別として、帝国はロゼニアへの圧力を弛めなかった。
戦争が長引き、安定しない東部に反して西部は栄える。それはベルーズド地方との交流が盛んになったせいだけど、それを東部の人達は良しとしなかった。自分達が苦しんでるのに! と思うのは人の世の常だ。
この隙間に、帝国は入り込んだのだ。
「王家を倒せ! 支援はする。平和な世で共に繁栄しようではないか」
なんて言って誑かしたに違いない。当然、たっぷりと支払うものも支払ったのだろう。
この私の推測は、ピエールさんと合流して彼の報告を直に聞くことで確信に変わった。
「東部諸侯が悉く反旗をひるがえしております。豊富な資金力でペルシア傭兵まで大量に雇い入れておりますれば、危険な状態です。敵の戦力は時間を追うごとに増すでしょう」
ペルシア傭兵とは、勇猛果敢なペルシア人の傭兵団を指して使う。彼らはあちこちの戦争に雇われて参加する。敵味方で同国人同士が戦うことも珍しくない。神聖スーザ帝国よりさらに東に位置するペルシア王国という国に住む人達だ。アルメニア王国の国軍にある外人連隊にも、ペルシア人は多く雇われていると聞く。
私は食事を取る兵達の様子を観察しながら、ピエールさんと野営地の中を歩く。夏の風に草木の匂いが混じり、陽光は厳しくなってきている。本格的な夏が近づいてきたのだ。
「夏の籠城は不利です。王都に向かわないと」
「は……ただ、王都まで反乱軍がひしめいております。我らだけで突破するのは厳しいかと」
「そんなに陣容は厚い?」
ピエールが、仮面の下で呻いた。
「ヘルムンド伯は、我らの援軍を女王と合流させないといったことに注力しております。王都は籠城しているとはいえ、僅かな兵と物資でありまするゆえ、大公軍のみに気をつければ良いと判断したものと思われます。そしてそれは正しいでしょう」
「でも、無理をしてでも私達はお――」
王都の方面に放っていた斥候達の叫びが、私達の会話を中断させた。
「イザベラ陛下、開城! 陛下とご家族は処刑!」
唇を噛んだ私。
視界が、大きく揺らぐ。ぐらぐらと揺れるその先に、クリスティンさんの泣き顔が見えた気がした。
間に合わなかった……もっと早くに決断をしていれば、救援を待つまでもなく、帝国の動きが活発になった時点で、ロゼニア王家へ援軍を派兵していれば……そんなのは無理だとわかっていても、もしかしたらと悔しい。
ピエールさんの指が、私の口端を撫でていた。
気付けば、血が出るほどに噛んでいたのだ。痛む唇の右端を撫で、私は声を張りあげた。
「殿下のご到着まで、ここで反乱軍を牽制する! 防御陣地を築け!」
士官達が気合いの声を発して飛散した。
私は、腰の剣を握りしめたまま、思案を巡らせる。愛しい大公殿下ならどうするか……。
「帝国を引っ張りだす。反乱軍を倒しても、根を残したままでは意味がない。反乱を扇動した帝国を内乱に引きずり込み、反乱軍ともども倒す」
私の言に、ピエールさんが北の方向を眺める。ゆるやかな曲線を描く丘陵地帯は、鮮やかな緑で、その中に赤や黄色、白といった点を浮かび上がらせている。陽光が仮面の表面を煌びやかに輝かせた時、彼は腰の剣に手を置いた。
「帝国が……」
「うん……負けられない」
私は帝国の関与を疑った時点で、大公殿下に撤退を手紙で進言していた。
ピエールさんが頷く。
「悔しいですが仕方ありません。しかし、殿下のお考えが国内に知れ渡ったことで、新たなうねりも起こるというものです」
彼の言葉に、私は小さく頷き、甲冑を鳴らして馬に乗った。
「騎兵連隊! 威力偵察に出る! ついて参れ!」
馬上となった私は、強く吹いた風で涙を払った。
-Féliwce & Emiri-
フェリエスはワラキア州の州都プラハの城で妃からの手紙を開いた。鳩によって運ばれたそれを、読み終えるなり投げ捨てた彼は、隣で佇む側室を見る。
「ロゼニアで内戦だ。エミリによれば、その背後に帝国がいる」
内心はともかく、表面上には何の変化も出さないクリスティン。彼女の代わりに口を開いたのは、軍務卿のハザルであった。
「殿下、いかが致します?」
「決まっておる。軍を退く」
クリスティンがはっと顔をあげる。
大公につき従う諸侯達が、無言で金髪の青年に視線を送る。その目は明らかに「ここまで来て」と書いてあった。
「状況が変わったのだ。我らが西進できる前提が崩れた。ここは無理をするものではない。ロゼニアには我が妃が軍を率いて入るそうだ。おそらく俺の帰りを待つ戦略を取るであろう。と同時に、内乱の背後にある帝国を引きずり出す算段をしておるはずだ。ここは口惜しいが取って返し、帝国を完全に叩いたうえで、出直す」
諸侯の一人、ジストア伯シモーネが控えめに発言を求める。許可した大公に、一礼して進み出た彼は、銀色の髪を揺らして膝をついた。
「殿下。お許しいただければ我ら諸侯にて、ベルーズドからワラキアまでの兵站を守備させて頂きとうございます。というのも、ワラキア州と周辺の領民は、昨年の冷害で種籾まで食べてしまっており、今年の収穫すら見込めませぬ。殿下が大儀を掲げるにあたって、彼らを見捨てるのは得策ではございませぬ」
フェリエスは顎に指を当てると、彼に立つよう促す。
「シモーネ卿、俺にそのような臣下の礼は不要だ。皆あっての俺だ」
さらに頭を深く下げたジストア伯爵。
苦笑と共に彼を自ら立たせたフェリエスが、穏やかな笑みを浮かべる。
「よく進言してくれた。礼を言う。確かに、物資を運び続けねば領民達は飢える」
アリストロが素早く卓上に地図を広げる。
そこには、ストラブールからプラハに通じる複数の公道と、運搬経路が赤く記されていた。
「殿下、ぜひとも我らにもお命じくださいますよう……ジストア伯の軍のみに格好つけさせるのは癪でござる」
ブランシェル伯ビクトルの発言に、諸侯達から同意の声が連なる。
東部諸侯の中でも、最も早くからフェリエス支持を鮮明にし、さらに周囲の貴族達を説得した壮年のビクトル。年齢的にも実績においても、諸侯のまとめ役に相応しい彼の発言に、異論を挟む者はいなかった。
「殿下が再び、西に向かわれるまで、安全を確保してお待ち申し上げまする」
ミラ伯爵アルフレッドの若々しい声に、フェリエスは素直に頼もしいと感じる。思えば、これまで彼の味方は彼の周囲にしかいなかった。それが、フェリエスが力をつけたからという理由があるにしても、自分を信頼してくれる者が、身近な者達以外に現れるということに、大公は感激のあまり肩を震わす。大袈裟かもしれないが、この時の彼の喜びは、アデリーヌを授かった瞬間に劣るものではなかった。
彼は認められてこなかった過去と決別できたと実感したのだ。
バルボア伯爵アリスアが、軍務卿に視線を送り発言する。
「しかし殿下、我ら諸侯のまとめ役はぜひとも殿下の家中からお出しになってください。実績、名声、実力ともに、ハザル卿が相応しいと私は考えておりますが、いかがでしょうか?」
ハザルが照れくさそうに笑みを浮かべる。それを横目で確認したフェリエスが、口端を釣り上げて笑った。
バルボア伯爵の言には、序列を明確にせよとの意図が含まれていると同時に、爵位を持つ貴族でさえも、大公の軍務卿には及ばぬものとせよと含ませてあるのだ。これは、バルボア伯爵がフェリエスを盟主ではなく主君として認めるという意味が込められて、さらにバルボラ伯爵の発言に諸侯から反論があがらない事実をもってして、彼ひとりではなく東部諸侯の総意と取れる。
フェリエスは居並ぶ諸侯を眺め、最後にだらしなく笑みを浮かべるハザルを見やった。
「柄にもなく照れているでない。バルボア伯の推薦だ。ハザル、貴様に命じることにしよう。よいな?」
「は……はは」
慌てた軍務卿が、諸侯達の笑いを誘ったところで、クリスティンが目を伏せる。それを見逃さなかったフェリエス。彼は諸侯に解散を命じて、金色の瞳を微かに濡らした姫君の肩に手を置いた。
「何も言うな。必ず、お母上をお助けする」
彼が側室を安心させる為に言葉をかけたとほぼ同時に、慌ただしく扉を叩く音に、二人は身体を硬直させた。
「申し上げます! 急ぎの知らせが届きましてございまする!」
「許す」
扉を開き、大公の前で膝をついた兵士が、暗号文のまま報告書を差し出し、一礼した。
届いたばかりだと理解したフェリエスが受け取り、中を確認して顔を歪める。小さく喘ぎ、机に手を起き身体を支える大公に、さらに深く一礼した兵士が退室する。
「すまぬ。イザベラ女王陛下が……」
大公は言葉を続けることが出来なかったが、聡い側室にはそれで十分だった。
無言だったクリスティン。プラハの城の一室に、フェリエスと彼女だけが残った。
男勝りと言われる女性が、男の前で初めて泣き崩れた。しかし声をあげるのは必死に耐える。
フェリエスはこの時、自然と彼女を抱きしめていた。半瞬後、自分の行いに驚いた大公だったが、すがりついてくる彼女を優しく包み込み、声をかける。
「……お母上の為にも、泣いて差し上げよ」
クリスティンの涙と叫びに、フェリエスは瞼を閉じた。
-Alfred Shyster-
王家から借り受けた書物は、これまでの歴史が嘘であると僕に教えてくれた。
ロゼニア王国併合はフェリエスによって行われたとするのが、現在の歴史だ。だが、彼の国は大規模な内乱で荒れ、ヘルムンド伯ジャシームの裏切りもあり、当時の国王であるイザベラ女王は殺害され、また王家の人間達も悉く殺されたのだった。
そこで、フェリエス大公は軍を率い、先行していた妃であるエミリ・ベロアと共に内乱を収め、帝国を叩きだした。彼はロゼニアを安定させる為に、反乱の中心となった東部諸侯の領地を国土から切り離し、独立を認めた。そしてロゼニア西部を中心として、再出発させる為に、クリスティンと離縁しようとしたのだ。これは、彼女しか王家の生き残りがいなかった為に、彼女以外のなんびとも、ロゼニア王国の王位を継承できる人物が存在しなかったからだ。だが、クリスティンはこれに応じなかった。彼女は即位したものの、即座に王位をフェリエスに譲った。
フェリエスはロゼニア王位を継いだが、自らは王を名乗らなかった。彼がどうしてそうしたか、記されてないのでわからないが、推測するに遠慮したのだと思う。いや、単純な遠慮ではなく、計算された遠慮である。
フェリエスは、他国人が堂々と王を名乗ることで、周辺と国内の反発を招くことを恐れたのだ。内乱が鎮まったばかりのロゼニアを、また波立たせるつもりが無かったのだ。
この行為が、ロゼニア王国の国民に圧倒的に支持されたものであるというのは驚きだ。いや、大公領とロゼニアは経済的な結びつきを強くしていた。神聖スーザ帝国の属国であった時よりも、フェリエス大公と対等な関係であった数年間のほうが、はるかに豊かな暮らしができたという事実をもって、彼らをそうさせたのだろう。
王位預かりという格好を取ったフェリエスは、クリスティンとの間に子が授かれば、その子に王位を譲ると宣言している。つまり、併合と表現されたのは悪意があるように思えるのだ。これは、彼を貶めようとする意図があったと推測する。
それにしても、エミリ・ベロアという女性はどうしてこんなに勇敢なのだろう。
内乱を沈めるにあたって、軍を自ら率いて戦場を駆け巡っている。
当初、彼女は防戦に徹する。わずか一〇〇〇程の兵力で反乱軍と対等に渡り合いながら、騎兵を用いて敵の兵站をずたずたにした。この時、騎兵連隊を指揮していた人物は、仮面の男と記されている。誰だろう? 彼にも興味が湧いてきた。
反乱軍の足を止めたエミリ・ベロアは大公軍本隊が到着すると、果敢に攻勢に出た。それも決戦主義の当時にあって異常なまでに局地戦を繰り返している。本隊を囮に使い、反乱軍の後背を荒らし、拠点を潰し、兵站を切り裂いた彼女。いざ、反乱軍が大公軍と向かいあった時には、武器不足、糧食不足でその軍容程に実力は発揮できない状態であったと容易に推測する事ができる。
そして大公軍は反乱軍をわざと北へと追い詰めた。
神聖スーザ帝国がここで、ロゼニアに介入する。
ここでも、大公軍は執拗に帝国の兵站を襲い続ける。ついには、帝国西部の領地まで侵入し、街道や橋を破壊し都市を潰した。この時期、帝国西部方面軍と反乱軍には、流言が飛びまわっている。疑心暗鬼となった両軍は瓦解し、大公軍の圧勝となった。
ベランザ平原の戦いと呼ばれる決戦において、エミリ・ホリカワは数百の騎兵で敵陣を突破し、帝国軍本営を蹴散らし大混乱に陥れている。これが勝負の分かれ目であった。
ロゼニアの内乱勃発から終結までの三ヶ月。驚くべき短期間での決着は、この大公妃の活躍があった他に理由が見当たらない。
エミリ・ホリカワはずっと戦い続けていたのだ……フェリエスの為に!
興奮してしまった。
ただ、クリスティンとの間にできた子に、ロゼニア王位を譲るとあるが、ロゼニアという国はこの時をもって無くなっている……子供はできなかった? いや、亡国の王女が、その原因を作った男に身を任せるわけもないか……この王女は、とても気が強く男勝りであったというし、フェリエス大公がどれほど変わった趣味だとしても、命を賭けてクリスティンに手を出すということもないだろう。
エミリ・ベロアが謀略、政略の方面から夫に「クリスティンとの間に子を設けろ」と説得したとしても、クリスティン相手にそれができただろうか……。
僕は腕を組んだ。
エミリ・ベロアはクリスティンの偽名だとするにあたり、仮にクリスティンに子がいても、その存在を隠したはずだ。これだけではまだ足りない。国王陛下から借り受けた書物は大量にある。全てを遺漏なく調べなければ……
-Féliwce & Emiri-
私は嫌なものを見るかのような目で、フェリエスを眺めてやった。彼は動揺しながらも、無理に微笑もうとしている。
「俺は妻以外の女性と子供を作るぞ」
こう夫に言われたとしたら、女性の皆さまはどうします?
「頑張ってね!」
「応援してるよ!」
言います?
「はぁ!?」
てなりませんか?
さらにその発言が事態を収拾させる為の、その場凌ぎに吐き出されたものだとしたら?
「何を言ってるの?」
となりません? そして、ふつふつと怒りが湧いてきませんか?
私はなりました。嫉妬以上に、フェリエスの発言の無神経さに怒りは頂点です。彼は、自分の発言の意味を理解すらしてないのです。その場を収める為に、誤魔化す為に言ったという感覚なのです!
「とんでもない事を言いやがって! グーパンじゃすまないよ!」
怒鳴った私は、机の上に右足を乗せて、椅子に座るフェリエスを睨みつけて見下ろした! 腕まくりもして、いつでも殴れるようにします。いや、殴りかかった。
「待て! エミリ……やめろ」
「待てるか! 逃げんじゃねぇ! こっち来い!」
寝室の中で、鬼ごっこをする私達。鬼ごっこと呼ぶには、追う方も追われる方も必死過ぎる。
「話を聞け!」
「聞いてやるから、こっち来い!」
私は寝台の上に飛び乗り、勢いをつけて反対側に逃げていたフェリエスにダイブする。
捕まえた!
フルボッコだかんね!
暴れる私を抱きとめた格好の彼は、私を抱えて倒れた。
寝室の床を転がりながら喧嘩する大公夫婦。
絶対に人には見せられない!
両手を掴まれながらも、頭突きや噛みつきを繰り出そうとする私に、金色の髪を乱したフェリエスが懇願する。
「待ってくれ、エミリ。話を聞いて――痛! 落ち着け」
フェリエスは、私にグーパンされた右頬をゆがめながら、私を抱きしめる。無茶苦茶に暴れる私に、彼は強引なキスをしてきた。
「むぐぐぐ!」
……。
ああ……キス……嬉しいのですぅ。
気がつけば、自分からキスのおねだりすらしてしまう……。
「落ち着いたか?」
「百回、チューしてくれたら落ち着く」
「じゃあ、あと九十九回だな」
髪を撫でられ、背中を撫でられキスされる私だったが、少しずつ、だが確実に怒りが復活してきた。
こういうその場凌ぎ的発想が許せないんだよ! あんたの発言は、私を怒らせた以上に大変なことになるんだってわかってないだろ!?
飛び跳ねて彼から離れ睨みつけた時、大公殿下はボロボロという表現が相応しい格好で立ち上がった。
「エミリ……話そう。話せばわかる」
「誤魔化そうとしているのがわかるってか?」
腕を組み、仁王立ちした私。フェリエスが、猛獣の檻に近付くかの如く、慎重に私へと接近する。
「確かにああは言ったが……しかし、他にどのような方法があったと言うのだ?」
逆ギレってか?
ここはロゼニア王国の王城の来賓用の寝室。
遠征も終わり、内戦も終わり、ようやく一息というところで本当の戦争が大公夫婦の寝室で繰り広げられている。
立場と正論を武器に侵略しようとしているフェリエスに対し、私は感情と暴論で対抗した。
「許さん! 絶対に許さないー!」
「ではお前は、ロゼニアの人達がお前一人の感情で不幸になっても良いというのか!?」
「よくない! 許さん!」
呆気に取られたフェリエスは、寝台に腰をおろした。そこに私は追い打ちをかける。
「てか、あんたさ……あんなことを皆の前で言ってどうなるかわかってないでしょ!?」
フェリエスが顔をあげた。
ああ! その顔!
「てめぇ、いい度胸してんな!」
「な……何を怒る!? 落ち着け」
小刻みに首を左右に振ったフェリエス。その額から汗が吹き出し、お風呂に入っているかのように、髪まで濡れている。
扉が叩かれた。
「殿下、エミリ様。何やら騒がしゅうございますが、問題が起こりましたか?」
ピエールさんの声だ。
救いを求めるように声を発しようとしたフェリエスの先を取る私。
「何もない!」
扉の向こうには、怯えて立ち去るクロエちゃんのお兄さんがいただろう。
私は顎をつんと逸らした。腕を胸の前で組み、彼を見下ろすようにして口を開く。
「言って」
青い瞳を忙しく動かす大公殿下。
「な……何をだ?」
「クリスティンさんと子作りするの!?」
「しない! 神に誓う!」
「神様はいないね! いたら戦争も差別も貧困も天災、その他もろもろあるわけないね! 誓わなくてもいいから、子作りするのかしないのかはっきりしろ!」
暴論、ここに極まれりです。
「……」
フェリエスがなんと答えれば私を満足させるか必死に考えている顔をする。彼をずっと見てきた私には、悲しいことにわかるのです。
「フェリエス……私が敵を倒すのも、寝る間を惜しんで政務に励むのも、誰の為かわかってる?」
「重々、承知してるとも」
「クリスティンさんも同じだよ。それにおっぱいも大きいし優しい人だよ」
「エミリも、大きくなってきたぞ」
「そういう話をしてるんじゃないの!」
机をバンバンと叩く私。五十歩百歩だってわかってるんだから、傷をえぐってくれるな!
「なんであんなことを言ったのよ!」
私は感情の高ぶりで、涙を溢れさせていた。
……鼻水も。
フェリエスが慌てて立ち上がり、私に急接近してきた。
嫌がる私を抱きしめ、力を込めた大公殿下。その腕の中で大泣きしている自分に気づく。
私がこうまで怒っているのは、嫉妬だけじゃない。
フェリエスが嘘を皆の前で言ったからだ。そして、それに何の罪も感じていないことが許せないのだ! 浮気くらいなら、ボコボコにしてギッタギタにして、二度としてはならないと身体に覚えさせて許してあげる。
それよりも腹が立つのは、彼が人の心を弄んだことだ! 他でもない、クリスティンさんをだ! フェリエスのことが好きだからこそ、彼の発言が招く事態も分かるのですよ。
「私はね、何が許せないかって、その女心のわからなすぎる発言を、いかに政治の為とはいえ、ポンポンするあんたが許せないっての!」
フェリエスの顔に、大きなクエスチョンマークが描かれている。
「いい? 私はあなたのことが好きで好きで、たまらなく好きだけど、私と同じように……嫉妬すら隠してあんたの近くにいるクリスティンさんのことを考えてあげろって言ってんのよ!」
狼狽した大公殿下は、睨む私を抱いたまま寝台に座った。手を伸ばして、私の髪を撫でようとするも、その手は私の剣幕に阻止され宙で止まる。
「考えておるから……離縁しようとしたのだ。彼女はロゼニアの王となり、相応しい夫をもらって子を産むべきだと――」
「違う! クリスティンさんはそんなことを望んでなかった。だからそれを断って、王位をあなたに譲ったんでしょ? 素直に王様になればいいのに、世論や各国からの評判を気にして断るから……あげくの果てに、クリスティンさんとの子に王位を譲るつもりだという言い訳までして……言ったからには、皆は期待するよ! あんたと彼女の子供を!」
「そ……そうなのか?」
「なにより、一番それを期待してんのはクリスティンさんだよ! この馬鹿!! 彼女はあんたが好きなの。好きで好きでたまらないけど、私に遠慮し立場に遠慮し、軍務に励んでるフリして誤魔化して……家族を殺され……大変な時にあんなことを言われたら……それにすがるよ! 私だったら絶対にするもん!」
雷に打たれたように固まったフェリエス。その色を失った瞳が、彼の驚愕の大きさを物語っていた。
軍事や政治、経済に謀略。そういうものに精通するのもいいけれど、もっと大事な……人の気持ちってのを……女心を学んでよ!
「クリスティンさんだけじゃない。内戦が終わって、さあこれからだ。クリスティンさんとフェリエスの子供が、いつでも帰って来られるように頑張ろうって思ってくれてる人達……そういう人達も裏切るの? あれは政略上、収めねばならぬから言っただけだったって。そんなつもりはなかったって」
フェリエスが、ぱっと顔を輝かせる。
「養子という手がある」
「ざけんな! 誰が納得すんの? なにより、クリスティンさんの気持ちを弄んだりしたら、グーパンじゃすまないよ!」
フェリエスが場違いの笑みを浮かべる。
「エミリ……お前は優しいな。クリスティンの為に怒っていたのか」
彼は私を抱きかかえて寝台に座る。膝の上に置かれた私に、彼が抱きついてきた。
「すまん。お前にいらぬ面倒をかけたな。しかし、ああでも言わねば俺はロゼニアの王となり、反発するロゼニア東部諸侯達は水面下で再び、帝国と結びつこうと動いたであろう。確かにクリスティンの気持ちというものを無視しておったのは謝る。許してくれ」
涙と鼻水を拭いた私は、大きく息を吐いた。
やっとわかってくれたか……さて、次の問題を話し合おうじゃないか。
「フェリエス……でさ、クリスティンさんと子作りするの?」
今度は嫉妬の問題なのです。
どう返答しようかと視線を彷徨わせる大公殿下の首に腕を回した私は、柔らかい彼の髪を撫でた。
「フェリエスってば、最近は変態さんだもんねぇ……お風呂の最中もチョッカイを出してくるし……執拗に求めてくるし、嫌いじゃないんでしょ?」
大公殿下は、エロ画像をお母さんに見つかった時のクソ兄貴のような表情、なんともいえない気まずさと恥ずかしさを隠そうという表情で、私から顔を隠そうとする。
「いいのよ、いいの。健康な男性ってことだしフェリエスが普通の人になってくれてとっても嬉しいよ。女の人に見向きもしない男の人って、そういう趣味なのかと思われるしね。私だって、フェリエスにたっぷりと可愛がってもらうのは嬉しいの」
若干、恥ずかしさを私も感じております。
大公殿下が、私の腰に手を回した。
「そ……そうか。いや、エミリだからだぞ」
あ……あんた、腕をあげたね! いや、いかん。誤魔化されるわけにはいかんのだ。
私は本題に移った。
「でさ、健康な男性になったあなたは、いつもじゃないにしても、たまには……ちょこっとは……美人でおっぱい大きいクリスティンさんの裸とか想像したりしてるんじゃないの? 思いっきり抱きしめてみたいって、思ってるんじゃない? 正直に言ってみなよ。怒らないから」
はい、嘘です。
フェリエスは、何やら考え込む顔をしていた。この時、私は見てしまったのだ。彼の視線がちらちらと私の胸に注がれているのを!
「てめえ! 今、脳内で私とクリスティンさんのおっぱいを比較したな!?」
フェリエスの首を絞めようとする私に、必死に抵抗する彼。
「ちがう! ちがうぞ! 断じて違うぞ!」
ゆるさーん!
ギッタギタにしてやる!
-Féliwce & Emiri-
ロゼニア王国は東西に分かれ、西に当たる国土を指してロゼニア王国と呼ぶようになった。といっても、実質的は王様はおらず、私の大公殿下が支配しております。フェリエスは、ベルーズド公爵とともにロゼニア公爵にもなっています。
ロゼニア総督として、アリストロさんが赴任しました。
「俺は嫌だ。それに、ワラキア州での仕事もある」
こう言ったハザルさん。
「暑い気候は好かん」
こう言ったオーギュストさん。
聞き分けの良い真面目なアリストロさんが、困り果てたフェリエスと私の頼みを聞いてくれたのです。てか、フェリエスも丸くなったもんだ。
「確かにアリストロなら、軍務も政務も任せられる。お前らであれば片手落ちであったな」
このような嫌味を二人に言うに止めたのですから。
しかしアリストロさんのロゼニア赴任によって、有能な幕僚を手元から失ったフェリエスは、私の忙しさを気遣いながら、機嫌を取ってくれながら、仕事を増やしてくれました。
表面上は仲直りをした私と、大公殿下のギクシャクとした夫婦生活は一カ月ほど経過している。すっかりと冬の色に染まりつつあるベルーズド地方の山々を見て、多忙のあまり日々があっという間に過ぎ去っている事に驚愕しながら、書類と格闘し、領内の街や村や山、森、川を移動しまくる。
そんな私が、ストラブールの城で両手両足を伸ばせる場所に落ち着いた時、扉がコンコンと叩かれた。
「失礼しまぁす」
大公妃執務室に、間の悪い侍女が姿を見せる。
応接用の長椅子で、手足を投げ出し、ヘソを出して引っくり返っていた私は、すぐさま飛び起き、服の乱れを直した。
「クリスティン様がお見えですぅ」
彼女の背後に、申し訳なさそうに佇む美女がいた。
「ど……どうぞ!」
今まで寝転がっていた長椅子を、手でパシパシとはたく私。クリスティンさんが、手作りのタルトをテーブルの上に置く。
「作ってみたのじゃ。一緒に食べぬか?」
梨を贅沢に使ったタルト……女らしいこともできるんだね。
サラちゃんが紅茶とコーヒーを運んで、退室したのを待って彼女が私を訪ねて来た理由を話す。
「エミリ……、その……」
「何すか?」
美人が顔を朱色に染めて、それはもう可愛らしくもじもじ……。
何を言いに来たかわかるよ。でも、それをあんたの口から言わせる私も、意地の悪い女になったもんだ。
いいもんね! 私は自分勝手で冷血な女なんだ!
「その……いろいろと思うところはあると思うのじゃが……殿下との間に……その……そういうことをじゃな……」
「……」
白い頬を朱に染めて、耳まで真っ赤にして、クリスティンさんが言った。
「殿下と子供を作ることを許してほしいのじゃ」
「許さん!」
完璧美女が泣きだした……。
「ちょ……泣きたいのは私だ!」
「すまぬ。でも私もつらいのじゃ。ロゼニアの有力者達から、励んでいるかとそれはもうせっつかれておるのじゃ」
ぐ……。
「殿下はお優しい方ゆえ、エミリの嫌がることはなされぬ方じゃ。だからお願いにきたのじゃ……子を授かれるまでなんとか目を瞑ってもらえぬだろうか」
ひ……卑怯だ。
そんなことは隠れてやってくれい! どこに夫の不倫を公認する妻がいんだよぉ……うぅ……この世界では当たり前で、私が異常だったか……。
時間だけが過ぎていく。
部屋の外では、私の決裁を待つ官僚の列が出来ているだろう。
私は言いたい事をぐっと堪えて、それはもう食いしばった歯がキリキリと音を立てるほどに耐え、微かに首を縦に振った。
「でも……私がいる時は絶対に嫌だ。気配や二人の様子で分かるから……。仕事でいない時に……それだけは守って」
言ってしまった……。
-Féliwce & Emiri-
冬だ。
そして私の心にもびゅうびゅうと冷たい風が吹いておりんす。
相変わらず、領内の至るところに出没する私。現場を見ないと分からない事もあるからです。例えば、水路なんて一本でいいと思っていても、使う人達の利便性などを考えたら二本いるねという事だってあります。それも図面だけでは分からず、現場で確認しなくちゃいけないのです。こういう事をこれまでしてくれていたアリストロさんがいない……。
予想以上のダメージ!
という事で、出張続きのサラリーマンのようにぐったりとして大公妃執務室に帰って来た私は、長椅子に引っくり返って手足を伸ばして瞼を閉じた。つかの間の休息です。三日ぶりの我が家!
「失礼しまぁす」
サラちゃん……ノックすら忘れてる!
ヘソ丸出しで飛び起きた私は、サラちゃんと夫の不倫相手が並んでいるのを見た。
乱れた髪を慌てて直す私に、申し訳なさそうに部屋に入って来たクリスティンさん。手にはチョコレートタルトが盛られた皿がある。
「つ……作ったのじゃ」
前にもあったな! とっても嫌な記憶が蘇ります。
紅茶を淹れて退室したサラちゃん。薄くて味のしない、色がついているだけの紅茶を飲む大公妃と側室。もしかしたら、サラちゃんはとてもすごい子なのかもしれない!
私でもこんなん出せんわ!
「エミリ、相談があるのじゃ……」
私は、自分でコーヒーを淹れなおし、彼女にも紅茶を出してあげた。自分でやったほうが早いし美味しい……。
どうせ、私にとってよくない相談に決まっている。
タルトを頬張り、コーヒーを啜る私。音を立てずに飲めとモランお爺ちゃんにも、アレクシお爺ちゃんにも言われてました。でも、改まってません。それにこの時ばかりは、作法すら守る余裕はないのです。
……悔しいけど、このタルトは美味い! はぐはぐはぐはぐ……。
クリスティンさんは、タルトにフォークを入れるも口に運ばない。彼女の皿の上で、タルトが切り刻まれていく。
「もし間違いなら……そう言ってほしいのじゃが……」
クリスティンさんはタルトで頬を大きく膨らませている私を見た。私の口はハムスターのように動いている。
金色の瞳が不安げに揺れ、彼女は言葉を発した。
「殿下は……」
? ハムハムモグモグ……
「ふ……不能ではあるまいか!」
ブバ!
「ひゃあああ!」
私の口から飛び出したチョコレートタルトだったそれが、クリスティンさんにぶっかかる。彼女は顔でそれを受け止め、悲鳴とともに立ち上がった。
「エミリ! ひどい!」
「ごめん! ごめーん! だって、あんな――」
大急ぎでサラちゃんを呼ぶ。顔を拭いて着替えを済ませたクリスティンさんは、皿に盛られた茶色い物体を見つめ、目をまん丸にした。
サラちゃん……これはさすがにないと思うんす。
照れ笑いを浮かべ、残骸が盛られた皿をテーブルの下に隠した私は、新しいコーヒーを飲んで姿勢を正す。
「で、クリスティンさん。心の準備は出来ました。どうぞ」
「そ……そうか。エミリしか、相談できる相手がおらぬのじゃ」
彼女が綺麗な顔を真っ赤にするのを見て、私はフェリエスとした約束を思い出す。
クリスティンさんとの間に生まれた子に、ロゼニア王位を継がせると宣言してしまったフェリエス。事前に相談されれば違う手を考えてあげたのに、言ってしまった後となってはどうすることもできません。クリスティンさんもロゼニアの有力者や支援者からプレッシャーをかけられ進退極まってしまった。
そこで私は彼と約束をしました。
「クリスティンさんと子作りしろ。ただし、私がいない時にこっそりとしろ! いる時にしたらアデちゃん連れて出て行く。もちろん、クリスティンさん以外の人とそれをしたら、相手もあんたも殺す。あんたの得意な言い方をすれば、神に誓って殺す」
せめて、わからないようにしてくれ! わきまえているクリスティンさんだけだったら、全力で我慢するよ! 殴るけどね! という思いを伝えていたのだ。
クリスティンさんが、消え入りそうな声で話し始めた。
彼女によると……フェリエスは、私の言いつけを守り、クリスティンさんの寝室に行きました。前回のような誤解ではなく、今回は本当にヤる目的で行きました。彼に惚れているクリスティンさんは、当然ですが拒みません。私に遠慮しつつも、フェリエスを迎えた。
そしていよいよ……と期待と興奮で一杯のクリスティンさんに向かって、大公殿下はこう言ったそうだ。
「すまぬ。できぬ……」
……ええと。下品な私が表現し直す。
「つまり、ふにゃふにゃだった……という事?」
クリスティンさんが、恥ずかしそうに顔を手で隠す。
つーか、私ってよっぽど下品な女だと思われてないかな。
「あー……気にする事ないと思うよ。男の人ってそういうことがよくあるらしいよ」
私の言葉に、彼女は驚いたように顔をあげた。
「エ……エミリは、そんなのをどこで習ったのじゃ?」
……私、とっても自分が嫌になりました。
美人でスタイルも抜群でおっぱいも大きくて家柄もあり、性格も文句なしのうえに、生粋の清純派アイドルのようなクリスティンさんと、犬ころのように現れ、脚は出すわ、暴力は振るうわ、下ネタ知識も豊富で、それを平気な顔して口に出す私。
フェリエスはよく、こんな私を好きになってくれました!
大事にしよう。もう絶対に殴ったりしない!
決意も新たにコーヒーを口にした私に、クリスティンさんは目を伏せて声を出す。
「私は……魅力的ではないのかもしれぬ」
「そんなことはない……よ」
夫の不倫相手というか浮気相手を慰める私ってどうなんでしょうか? 惨めです。でも、彼女はとっても良い人だし、お互いに立場さえなければ、きっと親友になれる気がするんすよ。ただ、惚れた相手が一緒というのだけが、それを妨げているんです。
「フェリエス……耳にキスしてあげたら喜ぶよ」
「……恥ずかしいのじゃ」
ガチャリと音がして、財務諸表を小脇に抱えた金髪の美男子が現れるも、私達の姿を確認するなり、いきなり扉を閉めた。
「待てーい!」
飛び出た私は、廊下を何事もなかったかのように歩き去る大公殿下の襟首をつかみ、その綺麗な顔を引き寄せる。
青い瞳がすぅと私の目から逸れた。
ははぁん……この男、浮気をしたらこういう反応なのか、覚えておこう。
「フェリエスゥ……。ちょっといい?」
「う……うむ。いや、用事を思い出してな」
「じゃ、歩きながらでいいよ」
城の廊下を歩く大公夫妻。すれ違った侍女や文官達が、恐怖に顔を引きつらせて一礼し立ち去って行く。
「よく頑張ったね。でも、どうしてできなかったの?」
まずは褒めてあげよう。シンシアさんに、アデちゃんを育てるにあたり、レクチャーされた事を夫にも応用する私。
「いや……その……」
「怒ってないよ。嬉しいの。私がいない時にっていう約束を守ってくれたし、あんなことが起きなければ、私はきっと知らなかったと思うよ。ありがとう、フェリエス。愛してるよ」
大公殿下に生気が戻る。
「そ……そうか?」
廊下の角を曲がり、城の中庭へと通じる階段を二人で降りる。
「でも、クリスティンさんが可哀そうだよ。女としての魅力がないかとすごく落ち込んでるよ」
赤と黄、青や紫など、色鮮やかにアネモネが咲き誇る中庭の遊歩道を歩く私達は、池のほとりに置かれた岩に並んで座った。
大公殿下は、池に浮かぶピンクの花弁を手ですくうと、私の頬に貼り付ける。
「ひゃ……冷たいじゃない」
悪戯をされた私が、花弁をほっぺにくっつけたまま彼を睨むと、突然、すごい力で抱きしめられた!
「きゃ……ちょ……」
「エミリ……」
むぐぐぐ……。
キスされた。
彼は唇を離すと、私を抱き上げ城の方へと歩きだす。いや、走っている! 細身のくせに力はある。……逞しい彼って素敵。
「どぉしたの?」
「俺はお前じゃないと駄目だ!」
……?
「エミリ、他の女じゃダメだ!」
や……やられたぁ!
く……くそう! なんか納得いかんけど、いい!
いいのだ!




