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アルメニア国内は混乱の渦中にあり、その中心となったのは王都とその周辺を占領したワラキア伯ヴラドである。彼は自らの領地から集めた軍と、従属する周辺諸侯の軍を従え、国王暗殺の犯人であるリシュルー公爵を捕縛したと発表した。当然、これは嘘であるし、誰も信用していない。犯人を捕らえるのに、わざわざ王国中心部を占領する必要がないし、事態を収拾させるどころか、さらに大きくさせているからだ。
だが、彼が王都を支配下に置き、二人の王子と母親を手中にしたというのは嘘ではない。
リシュルー公爵から王国宰相の座を譲られたとヴラドは発表し、それと同時に、アルメニア公爵を僭称した。これは占領下においたアルメニア地方の領主であると内外に知らしめるためであったが、もっと重要な意味がある。それは、ヴラドが取った次の行動によって知ることができる。
彼は、上の王子にバルツァイ公爵、下の王子にビラシグルナ公爵、王妃であるマリアンヌにモーラン公爵夫人を名乗らせた。国王が死に、空位となった公爵位をその家族が相続した格好であるが、まさしく王位簒奪の序章に過ぎない。なぜなら、アルメニア王国国王とは、アルメニア、バルツァイ、ビラシグルナ、モーラン、ゴーダの五つの公爵位の内、四つ以上を持つ者だけが名乗れるのだから。
彼らがそれらの爵位をヴラドに譲れば、彼は国王になるのである。いや、彼本人でなくとも、彼に子が生まれ、その子に四つの公爵位が集まれば、その子はアルメニア国王となる。
これで、ヴラドの狙いは王位であると諸侯は知った。また、本当のアルメニア公爵位を持つカミュル・ラング・アルメニアを殺すことが、彼の次の狙いであるとも悟った。わざわざアルメニア公爵を自ら名乗ったのは、王弟を挑発するのが狙いであったのだ。
そしてこれは成功した。
いや、そもそも王弟とすれば、王都に軍を向ける選択肢しかない。なぜなら、彼の領地は王都のあるアルメニア地方であるからだ。王弟として、領主として、彼は反乱者を倒さねばならなかったのである。
カミュルは不遜で残虐な反乱者を倒すべく、有力者達に参集を命じた。
一方で、ヴラドはこれまで虐げられてきた地方貴族達を理と利で、自陣営に引き込んだ。
アルメニア王国は二つに割れた、となればわかりやすい。ところが、彼らのどちらにも属さぬ勢力もあった。それは王国北東部一帯の諸侯と、モリペレント公爵を中心とする南部諸侯である。
王国北東部諸侯は、先のゴーダ騎士団侵略の失敗を受けて、とても内戦に参加する状態ではなかった。領内の治安維持に努めるのが精一杯だったのである。
モリペレント公爵はどうか。彼はもともと宰相から大公に備えてほしいと依頼されていて、軍の準備を進めていた。その彼は王弟とヴラド双方の使者を歓待しながらも返答は保留した。しかし、王弟との間で激しく使者を往来させているところを見ると、方針は反ヴラドであったと思われる。
フェリエス大公はこの内乱のなかにあって、意外な方針を取っていた。そもそも彼は反ラング家であり、そういう点ではヴラドに近い。だが大公は、ヴラドの味方をしなかった。それどころか、王弟の味方をするような発言すらしていて、それは内外に発表された。
「国王陛下がご存命の時には、確かにすれ違いによる衝突があったかもしれぬ。だが今は死者の冥福を祈り、伝統ある王家の一員として事態の収拾に努める所存である。よって、大罪人であるリシュルー公爵の身柄を王弟殿下に引き渡すよう、ワラキア伯には切に願うものである」
フェリエスのこの発言は三つの意味を持つ。
ワラキア伯ヴラドのアルメニア公爵就任をベロア家は認めぬということ、王家として王弟に味方するということ。そしてこれが最も重要なのだが、武力で解決を図らぬというものである。
これにはカミュルも、ヴラドも目を剥いた。
「自分だけが義理がたい清廉潔白な男であると言いたいのか!」
ヴラドはこう言って怒り狂った。カミュルはただ苦笑しただけであるそうだ。
こうして二人のアルメニア公爵は、お互いに付き従う諸侯や貴族、有力者達をまとめあげ、軍を動かした。
王位継承戦役は、この時をもって始まったものとされている。
-Féliwce & Emiri-
フェリエスはストラブール市内において、大規模な総合病院の開業式で笑みを浮かべていた。父となる彼は、母となるエミリの要望で、子供を対象とする大陸でも例のない小児科と、女性に特化した産婦人科をこの病院に備えた。また医療分野の研究施設も併設しており、周辺諸国から高名な医師や研究者をかき集めている。
ストラブール大学予定地に隣接する大きな建造物は、千人以上を同時に収容できる病床数を誇る巨大な入院施設で、完成すれば多くの人々を救う施設になるはずだった。
ストラブール病院の本館玄関口は広く、そこに即席の会場が設けられ、大勢の人々が笑い合い、話し合い、その時を待っている。その中にあって、深紅のローブで顔を隠した怪しげな男が、フェリエスの隣で分厚い書物の頁をめくった。
「レニン卿。あなたが医療にも興味をお持ちであったとは意外だ」
フェリエスの言葉に反応した深紅の魔導士が、ローブを揺すった。視線を大公へと向けたようだ。
レニン・シェスター。
大陸で最も偉大な魔導士と呼ばれ、その魔力は尽きることを知らぬ泉とも言われている。危険な禁呪と呼ばれる魔法をも研究、発動すると公言し、召喚魔法すら躊躇なく使用する彼は、その功績以上に危険な存在とも言われていた。
フェリエスは彼をストラブールに招くにあたり、アレクシに命じてゴーダ騎士団領国内でレジスタンスを支援した。彼らが大魚を釣ったのを知った大公は、すぐに動いたのである。
随分と回りくどい方法を取ったのも、ゴーダ騎士団領国内において治安を悪化させ、騎士団による支配を弱める狙いと、レニン・シェスターという魔導士を自陣営に引き込むという二兎を追った結果であった。
偉大な魔導士は、ローブの奥でまだ若い声を発する。
「殿下、医療と魔法はよく似ているのです。魔法は使う者によって善にも悪にもなります。医療も同じ……使い方を間違えば、人を殺すこともできます」
「至言だ。肝に銘じよう」
「しかし、まさか私のためにあのような大事をクレルモンフェランでしでかしていたなど、殿下も人が悪い。手紙を出してくだされば、いつでも参りましたのに」
「手紙を出したところで、果たして来て頂けたかな?」
フェリエスの目が笑った。ローブの奥で喉を鳴らした男は、書物を膝の上で閉じる。
「この本を頂けるとあれば、飛んで参りましたよ」
「俺にはさしたる価値もないが、レニン卿の役に立つならこれ以上のことはない。で、役には立ちそうか?」
レニンは笑ったようだった。
「役に立つどころか……これほどまでとは思いませんでした」
二人の談笑は、一人の女性によって中断された。お腹を大きくした大公の妃が、深紅のローブで顔も身体もすっぽりと隠した魔導士に笑みを向けると、うろたえたようにレニンが声を漏らす。
「お……と。これは失礼致しました。エミリ様で?」
「お初にお目にかかります」
優雅に一礼した美女は、レニンが席を譲ろうとしたのを微笑みで辞退する。彼女は、フェリエスによって引き寄せられると、大公の膝にそっと腰を下ろす。その二人を見て、レニンはローブの奥で頬を弛めた。聞けば、王族でありながら、貴族でもなんでもない女性を愛し、妻とすることをフェリエスは選んだ。このような男がアルメニアを総べれば、もしかしたら伝統の重みで身動き取れないアルメニア王家を一新できるのではないかと、深紅の魔導士は考えたが自分はゴーダ人であるとすぐに思いだし、その考えを飲み込んだ。彼が言うべき事柄ではないからだ。
政務卿が大公を呼ぶ。恋人に席を譲った男が壇上に上がると、場内を埋め尽くした関係者や出資者達から拍手が沸き起こった。
「皆のおかげでここまで来た。これからも共に進んで行こう」
大公が声をあげると、場内が静まる。
アルメニア人、ゴーダ人、トラスベリア人、ロゼニア人、スーザ人、さらに遠方から招かれた者もいる。それら、国籍も肌の色も考え方も違う人間達が、一つの目的の為にこの場に集まっている。
「俺は一人の領主であり、父になる男であるまえに、人間である。だからこそ、病や怪我が恐ろしい」
ふざけた言い方に、場が和む。
「いや、俺よりそこにいる妃に何かあったら、それはもう夜も眠れん。現にこのところ、寝不足続きだ」
黒髪の美女が微笑み、会場内に拍手があがった。
「だが俺は人より恵まれた立場によって、人より不幸を回避する確率が高い。俺が喚けば、政務卿が市中をかけずり回って、医者を俺のところに連れて来てくれるからな」
部下を苦笑させた大公は、笑い声に微笑を返しながら場が静まるのを待つ。レニンですら、自然とその美しい横顔に見惚れていた。
「だが、領民達はどうか。これを考えた時、俺は決意した。そこにいるエミリが良い案を出してくれたこともあって、また、ここにいる皆の助けもあってついに、ようやく始めることが出来る」
大公は手元の資料に視線を落とす。
「現在において、ベルーズド公領及び東部諸侯の人口の八割が、医療保険制度の加入に署名をしてくれた。これで、多くの者が医療の恩恵を公平に受けることができるのだ」
レニンは考える。おそらく、戸籍を整備していたベルーズド公領であるからこそ、出来たことであるのではないかと。それと共に、貨幣経済への転換が進んでいることも要因の一つだ。彼はここでこのふたつを推進するためにあらゆる方法を実行したに違いない政務卿を見て、大公領の政務卿は化け物だという噂を思い出して微笑む。
フェリエスは皆を眺めながら、柔らかな表情で話し続けている。
「まだ二割が残っているが、そう遠くないうちに加入してもらえるだろう。強制すべきものではないが、その素晴らしさを訴えれば、必ず領民全てが加入してくれるものと思っている。そして、いずれ我々のこの行いが世に広まり、誰もが助かる命を落とすことのない未来を祈り、俺はここに、医療保険制度開始と総合病院開業を宣言する」
レニンは立ち上がって拍手をした。半瞬後には、興奮にも似た歓声が連なり、異国人同士が抱き合い、険しい道を歩み出す決意を新たにする。
「あなたの案だったのですか?」
レニンの質問に、エミリが首を傾げる。とぼけている様だ。
「一度、ゆっくりお話をしたい。殿下のお許しを頂ければ、改めてお願いしてもよろしいですか? クレルモンフェランの様子やらもお話しできるかもしれませんよ」
フェリエスによって招かれた大陸一の魔導士に向かって、大公妃が目を輝かせる。どうやら、顔を隠した不気味な男すら彼女には興味の対象になるようだった。
(変わった女性だ。こうだから、殿下も惚れられたのだろうか)
壇上から妃の元へと歩み寄るフェリエスの笑みに、レニンは頬を弛めた。
-Féliwce & Emiri-
母親になるという自覚が、お腹の膨らみと共に大きくなる。
私とフェリエスが笑うと、この子も自然と笑える家庭を築きたい。それはとても難しい。でも、ささやかな幸せほど、この国では何よりも宝物なのだ。少しの不安と大きな期待に、お腹を撫でる私の手が止まる。
「お転婆姫も母親となるか……」
ハザルさんだ。このおっさんといる時だけは、昔のように言葉使いも荒くなってしまうのです。
「うっせ! あんたも早くメリルさんと結婚しちゃえ」
片目のおっさんが照れ笑いを浮かべる。彼は私の部屋に仕事を持って来ていた。
二人で部隊編成やら、増員計画やら、訓練予定、糧食備蓄量の確認、武器の開発などの話をするも、その会話はふざけ合っていると取られてもおかしくないほど私語が混じる。
「もうすぐだろ?」
「うん、もしかしたら私の誕生日に近いかも」
「似るのは誕生日だけにしておけよー」
私のお腹に向かって話しかけた片目のおっさん。気配を察知してひょいと身体を動かした彼は、私のパンチを見事に躱していた。
「あんた……暴れられない私に感謝しなよ」
睨んだ私に白い歯を見せたハザルさん。
「しかし何だな……お前の妊娠のおかげで周囲は慌ただしいってのに俺達はのんびりできる」
彼が視線を窓の外に向ける。寒々とした空がそこには広がり、私は暖かいはずの室内で震えて見せた。
「例年より気温が低いよね」
「ああ、雪も頻繁に降る。争っている連中はさぞ凍えているだろうよ」
王都周辺では軍隊が動いていて、気の毒にも彼らはこの寒い中、真面目に戦っているのだ。
「で、どんな具合なの?」
「王弟が動きを止めた。どうやら雪で軍が動けぬとみてさっさと諦めたらしい。王都の連中は迫るモリペレント公の軍に備えているそうだ」
「ふうん。どっちが勝つだろ……」
ハザルさんが腕を組み、宙を睨む。
「ま、普通に兵力を比べればモリペレント公だな。だが、相手はヴラド卿だ。あいつは強いぞ」
私はその名に嫌悪感を覚えた。モランお爺ちゃんの仇の名。それを感づいた片目のおっさんが苦笑する。
「意外と執念深いな」
「執念深いとかじゃないよ。これは私にとって、絶対に他人任せにしたくない事な――」
「邪魔するぞ」
フェリエスだった。彼は私達の前に並んだ書類の山を見て目を丸くする。
「ハザル……どうしてもエミリに仕事をさせたいようだな」
苦笑した大公殿下は、一礼し立ち上がろうとしたハザルさんを手で制して、私の隣に座る。
「私がお願いしたんだよ。暇なんです」
「だろうな」
フェリエスが私のお腹を撫でる。私達に遠慮して退室しようとしたハザルさんだったが、フェリエスが「お前に用だ」と言って止めた。
「おい、ハザル。お前はメリルを未婚の母にするつもりか?」
「は?」
「へ?」
フェリエスの言葉に、目を丸くする独眼竜と私。
「先ほど、メリルを診た医者から仕事を休ませろと言われた。お前も父親になれたぞ。喜べ」
片目のおっさんは顔を赤くしたと思うと、今度は色を消してそわそわとし始める。
「どしたの?」
「いや……その……」
はっきりしなさいっての!
「す……すぐに戻って参ります!」
部屋から飛び出して行った軍務卿。
残された書類を見て、フェリエスが笑う。
「やれやれ、仕方ない。これらは俺とお前で片づけようか」
彼の穏やかな声に、私は大きく頷いた。
瞬間。
「うう……」と呻く私。
「どうした?」
フェリエスが顔を覗きこんでくる。
「きた……フェリエスぅ……う……出たいって言ってる。思いっきりノックしてるぅうう……」
今度は、大公殿下が部屋を飛び出して行きました。
-Féliwce & Emiri-
執務室の中をうろうろと歩きまわるフェリエス。クリスティンが淹れてくれた紅茶は冷たくなっていた。エミリが医者や産婆と共に寝室に籠って、どれくらい経っただろうかとフェリエスは思うも、どうでもいいとすぐにまたうろうろと始める。これを彼はずっと繰り返していた。。
「殿下。お気持ちは分かりますが、そう歩きまわったところで赤子が生まれるものではありませぬ」
クリスティンの言葉に大公が苦笑する。彼は自分がそうしていたと指摘されるまで気付かなかったのだ。
椅子に座るも、忙しなく脚を動かす。
扉が叩かれ、喜色を浮かべた二人だったが、入ってきたのがボルネアであると知り、落胆を隠さなかった。
王都を脱出したボルネアは家老職を継いでいた。長く大公別邸を取り仕切りながら、王都の様子をストラブールへと知らせていた男は、アレクシが囲っていた特殊な技能を持つ一族とも既に信頼関係を築いており、後任としてアレクシ不在を感じさせない働きをしている。
この時、ボルネアは王都周辺と各勢力の動きを大公に報告した。
「そうか……。カミュルめは完全に軍を止めたか」
「は……。天候の影響もありましょうが、おそらくアラゴラ公爵との合流を優先したものと思いまする」
クリスティンが家老の為に紅茶を淹れ、深く一礼したボルネアがそれを受皿と共に手にした。彼は考え込む主君の横顔から視線をはずし、紅茶の香りに目を細める。
「それにしてもワラキア伯がこうまで野心の強い男であったとはな……せいぜい国王の忠実な犬として栄達を望んでいるくらいであると思っていた」
フェリエスは自嘲の陰りを浮かべると、冷めた紅茶で喉を湿らす。淹れなおそうとする側室に、「それには及ばん」と言った大公は、じっと執務室の一点を見つめた。そこには、父の肖像画が掛けられている。
それにしても、わざわざ女を使って国王の命を奪うあたり、最初から宰相に罪をなすりつけるつもりであったのかと驚く。道楽息子はお気に入りの女と共に過ごす時、護衛を遠ざける。ゴーダ騎士団領国諜報員による暗殺計画も、その隙を狙ったものであった。あの時は周囲に他の女がいたから失敗したが、二人きりで寝室に入ってしまえば、事が終わるまで誰も止めることが出来ないであろう。
(ヴラドめ。あの事件を参考にし、さらに頭を使ったのか)
そこで彼は気付いた。
(俺はどうだ? 俺の隙はどこだ?)
フェリエスはその解答を、すぐに見つける。彼の隙、というより弱点はエミリだ。そして今まさに生まれようとしている子だ。仮に、敵対勢力に恋人と子のどちらかを奪われたりしたら、彼は何もできなくなる。
「ボルネア……エミリと我が子に護衛をつけたい。お前がアレクシから引き継いだ者どもは信用に値するか?」
ボルネアが不思議そうに眉をあげた。
「信用できまする。しかし殿下、以前に殿下の警護を草どもに命じようとした時、確か殿下はお止めになられたはず……」
フェリエスが苦笑し、クリスティンが可笑しそうに笑う。
「事情が異なる」
感情でございましょうとはクリスティンは言わない。大公は自分のこととなれば嫌だという感情を優先させるが、我が子とエミリの為なら安全性を優先させる判断をしたに過ぎないと、聡明なこの女性はわかっていた。
ボルネアが、クリスティンの意味ありげな笑みを見て悟ったらしく、頬を弛めて紅茶の入ったカップから口を離した。
「実は、アレクシ様はすでに手を打っておいでです。エミリ様には護衛がついております。草のなかでも少し特殊な者達がお守りしております……彼らは引き続き、御子様も守る予定でございますが……あくまでもそれは平時のみでございます」
「そうか……爺がしてくれていたか……その者達は戦働きはできぬ者達か」
「は……戦働きは不得意な者達です」
大公が頷き、二人の視線を嫌って、顔を窓へと向けた。どこまでも爺に守られていたなと心配をかけておったなと窓から見える黒雲を見上げる。その時、ちらちらと白い粉雪が宙に舞い始めた。
「俺がその草とやらに会うことはならんか?」
「なりませぬ。彼らはあくまで殿下の知らぬところで動いておるからこそ役に立つのです。彼らが何かをしたとして、それが殿下に繋がらぬことが肝要でございます」
ボルネアはエミリにも草の存在を知らせようとしていたアレクシと違い、あくまで自分一人でその責を負うつもりだった。
あの姫君のことだ。草どもの心配まで始めるに決まっていると彼は知っていた。草は見えていて見えぬものだからこそ草なのである。
「クリスティン、ロゼニアへの援軍の件は頼む」
大公が話題を変えた。
突如、話を振られた側室は目を見開くも、すぐに姿勢を正して頷く。
「お任せください。側室としての務めを許されぬうっ憤を晴らして参ります」
ボルネアが失笑し、フェリエスが大仰に溜め息を吐く。
「姫、きっとあなたに相応しい男性を見つけて遣わすゆえ、俺を苛めるな」
クリスティンは、困惑のフェリエスを毅然と見据えた。
「いえ、殿下。私はどこまでも殿下のお傍にお仕え致します。例えそれが許されぬ想いであっても、私は自分の気持ちを斬って捨てようとは思いませぬ。それに……」
彼女は空になったフェリエスのカップに、紅茶を注いだ。
「それに、私はエミリ様を好きなのです。矛盾のようですが、こう……初めて包み隠さず本音を言える相手を見つけられたと感じております」
複雑な胸の内を明かしたクリスティンに、フェリエスは目を伏せた。
「そうであるからこそ、そなたには幸せになって欲しいのだ。ま、これも矛盾しているか?」
フェリエスが二杯目の紅茶に口をつけようとした時、彼の耳に産声が飛び込んだ。
立ち上がった大公は、服が紅茶で濡れたにも関わらず執務室を飛び出ると、エミリの寝室の前に立つ。中から元気な泣き声をあげる我が子の声に、彼は身体を震わせた。
扉が微かに開き、中からメリルが顔を出す。
「お喜びください。元気な女の子でございますよ」
-Féliwce & Emiri-
フォンテルンブローにとって悲劇であったのは国王フィリプ三世の死ではなく、ヴラドによる支配であった。彼の底のない欲望は、王都の富を吸い上げても満足することはなかったのである。だが、彼による破壊は再生への序章に過ぎないのかもしれない。ラング家による支配が硬直を見せていたこの時期にあって、ヴラドという人間が現れたのは天啓であるなら、この同時代にカミュルとフェリエスという二人の傑物が存在していたのも神の意志によるものであったのだろう。
年が明け、アルメニア王国歴三四九年になると、厳しい冬はその猛威をさらに振るった。冷害で弱っていたアルメニア王国は、その無慈悲な力の前に傷つき倒れる。全国民の一割が食糧不足による飢えに苦しみ命を落としたのに加え、経済活動が鈍化することで国庫にも巨撃を与えたのだ。
つまり、ヴラドにしてみれば、臣民や貴族から絞り取らねば、自らが倒れるという危機感を抱いていたのだ。彼には、これまで虐げられた地方貴族達を糾合する為に、力と金が必要だったのである。
これまで王家が溜めこんでいた富を奪い、味方する諸侯にばらまいたヴラドは、自分の懐が痛むわけではないと息まいた。次に彼はフォンテルンブロー市民への支配を強める。奪った財貨で食糧を買い、配給制とした。これは市民達に彼らの支配者が誰であるか、最も知らしめ易い方法であった。長蛇の列を成した市民達に、わずかばかりの食糧が配られる。
大宋国の国都に肩を並べる大都市として、大陸に知れ渡ったフォンテルンブローは、もうこの世には存在していなかったのである。
王国宰相として、マリアンヌ妃の再婚相手として忙しいヴラドの元に、幕僚であるドラグルが面会を求めてきた。彼は主君に負けず劣らず偉丈夫である。だが、どこか母親の面影を残したヴラドとは違い、獣とも比喩されるその男からは、人間的なものが欠落しているようにも思われた。ドラグルという男を良く知る者がそれを聞けば、きっと否定していたに違いない。
ヴラドは眼前で畏まるドラグルが、軍を率いてモリペレント公爵軍とぶつかりたいと息まくのを見て、珍しく諌めた。
「ドラグル。貴様の能力を疑っているわけではないが、モリペレント公はまだ旗色を鮮明にしておらぬ。俺の敵は今のところ、カミュル一人だ」
「ですが閣下、ああも堂々と進軍してくる公の軍に、なんら手を打たぬとあれば笑い者になりましょうぞ」
毛深い男が顎髭か頬髭か分からぬそれを揺らして言い張る。ヴラドは確かに残忍で危険な男であったが、配下の意見を無視する愚かな主君では無かった。意見は意見として耳を傾ける度量は持ち合わせていたはずだった。しかしなぜかこの時、ヴラドにはドラグルの発言が癇に障った。
「くどい!」
ドラグルにしてみれば、これまで当たり前であったやり取りが、突然、拒否されたように感じた。閣下は王都を取って、人が変わられたのであろうかと訝みながら、宰相執務室を後にする。
廊下でベアトリスとすれ違う。
ドラクルはどこまでも涼しげな同僚に視線を送った。
「何か?」
ベアトリスが表情を変えず立ち止った。それが余計にドラクルの苛立ちを強くする。
「何かではない。貴様からも閣下に言ってくれ。敵が合流する前だからこそ、叩く好機であるとな」
ベアトリスが目を細めた。
「閣下はそれらをご承知の上で決められたのだ。我らがいらぬ心配をする必要は全くござらぬ。それとも……ドラグル卿は恐ろしいのか?」
挑発的な笑みを浮かべた同僚に、ドラグルは危険な笑みを返した。二人の中間で視線が交差し、緊張で空気が張り詰める。
だが、寸でのところでベアトリスが視線を逸らした。彼は笑みをその場に残すと、優雅な足取りで宰相執務室に向かう。その背中に、憤怒のドラグルが放った鋭い舌打ちがぶつかった。
ドラグルは何も猪突猛進だけが取り柄の男ではない。ヴラドの指揮の下、多くの戦場で軍を率いて戦ってきた歴戦の指揮官なのである。その彼が危惧するモリペレント公爵軍は、確かに旗色を明らかにしていないものの、誰がどうみてもカミュル派なのである。
王都を牽制するかのように進軍しながら、カミュルの軍が駐留する王都近郊のパーリへと向かっているし、中央に巣食っていた大貴族の一員であり、ヴラドの頭角を快く思っているわけがないのである。モリペレント公爵が望むものは、これまで通りラング家による絶対王政の下で、国の重鎮たることであるのだ。そしてそれは、ヴラドが望むものではない。
この考えは何もドラグルが優れていたから思いついたわけではなかった。少し考えれば、誰にでも思いつくものであった。
であるから、モリペレント公爵が王都の南に布陣し「大恩あるフィリプ三世陛下弔いの為に、囚われの身となられている王子殿下お二人をお救いする為に、戦いたい者共は我の下に集まれ!」とアルメニア王国内に檄を飛ばした時、多くの者がたまげたのである。
この大貴族が王弟をおしのけ、主導権を握ろうとする狙いは何か。
玉座といえば分かりやすいかもしれないが、彼はそうでは無かった。内乱後の治世において、自分が国の中心で辣腕を振いたいのだ。それには、王弟に付き従うだけでは足りぬと彼は考えた。
モリペレント公爵もまた、この混乱に乗じて野心を満たそうとしたのだった。その種類がヴラドと違えど、民の迷惑を顧みないあたりが、この国の貴族という人種を端的に表現しているといっても差支えないかもしれない。
そしてこの事実をもって、フェリエスはある考えを固めたのだった。
-Féliwce & Emiri-
アルメニア王国が騒がしい。
こういう時、周辺諸国はここぞとばかりにその牙を磨き、豊かに肥えたアルメニアを食い破らんと襲いかかるのが常であったが、今回はそうならなかった。これは王弟が周辺諸国に謀略を尽くした結果である。
ラング家を背負う者として、対ヴラドの戦略を練ると同時に、周辺諸国を罠に嵌めた男だったが、モリペレント公爵の檄に便乗する羽目になろうとは予想もしていなかったに違いない。だが彼としては、モリペレント公爵と早急に合流し、主導権を奪う必要があった。
王国中央が騒がしい中、相変わらず動かない勢力が一つ。
フェリエス大公である。
彼は今、内戦の渦中にありながらも父親となった喜びに震え、妻と娘の傍にいることを選んだのであった。当然ながら、それは皆に向けての建て前である。いや、限りなく本音に近い建て前であった。その建て前に隠した作業は着々と進められていて、ハザルとオーギュストが忙しく遠征軍の組織をおこなっているのである。
ストラブールの公爵邸。
エミリは暖炉の傍に置かれた大きな安楽椅子で眠っていた。夢を見ているのか、時たま、何か呻くように声を出すも、それはフェリエスの手が彼女の頬に触れたと同時に収まる。
これまでにないほど厳しい冬だった。
結局、一年を通して暖かいと感じられたのはわずか一カ月程度のもので、それすら春先程度の日差しを大地に届かせるのみに止まった。
エミリが瞼を開く。
その黒い瞳に映る自分の顔を見た大公は、懐から豪華な宝飾を施された指輪を彼女に見せた。
「これは母上の形見だ。エミリの指に合うよう、作り直させていた」
彼がエミリの左手に優しく触れる。
「フェリエス……私、夢を見てたの」
「だろうな。何かごにょごにょと言っておったぞ」
頬を朱色に染めた恋人の指に、大公は母の形見をはめる。猫の瞳ほどもあるサファイアが、フェリエスの瞳のように輝いた。
「すまんな。王宮が機能しておらんため、お前をベロア家の籍に入れることがまだできない」
エミリが、指輪を微笑みと共に見つめ、ほうっと息を吐き出す。その唇が薄く開かれ、白い歯が覗いた時、フェリエスも自然と笑っていた。
「よく似合っている……エミリ、我が領内だけでもお前をベロア家の人間として記す。よいな?」
「形式なんてどうでもいい。あなたが隣にいて、この子の成長を私と一緒に見届けてくれるなら、それが何より嬉しいよ」
そう微笑んだ彼女は、すぐ傍の揺籠で眠る黒髪をふさふさと生やした赤ん坊を見つめて微笑んだ。アデリーヌと名付けられたその子は、髪と瞳の色はエミリ、顔つきはフェリエスという配分だった。小さな手に握られたシーツの端を、口に咥えて眠るアデリーヌ。眺めていると自然と笑みを溢してしまう二人である。
フェリエスが背後からエミリを抱きしめ、黒髪に頬を寄せた。
「大変な時なのに、私達を優先させてごめんね」
フェリエスは黒髪から頬を離すと、エミリの耳に口づけする。彼女は驚いたように身体を動かし、甘えるように大公に身体を寄せてきた。それを抱きしめる腕の力を弛めたフェリエス。
「いいのだ。エミリとアデリーヌの身体が大事だ」
大公の言葉に、エミリが小さく頷き俯く。
(それにしてもエミリの言う通りだ。この国は結局、権力者にとって都合のよいものでしかない。臣民達には全く関係のないところで争い合い、人命と物資を浪費している)
「エミリ、聞いてくれ」
大公は恋人の耳元で囁いた。
「何?」
「お前の言う通りだ。この国は結局のところ、権力者の都合でどんな色にも染まる国だ。俺もその権力者の一人だが、この冷害と不況の中でも考えを改めない者達と同列には並びたくない」
エミリは、大公の腕に顎をのせた。そのまま、夫の言葉を待つ。
「エミリ、お前は俺に礎になれと言ったな。それは俺に権力を握り続けるなという意味だと俺は理解したが、間違っているか?」
「ううん。私はそう思ってるよ。フェリエスは確かに立派な王様になると思うよ。でも、なんていうか……母親の私がこんなことを言うのも変だけど、良い人の子供が良い人だとは限らないと思うんだ。王制には利点もあるというのはわかるけど、致命的な欠陥があるの。それは血統による権力の相続だと私は思う」
フェリエスは意地悪い笑みを浮かべた。
「民主制、立憲君主制、共和制の歴史をみてみろ。百年も続くと、二世や三世の議員がのさばる。それは血統ではないのか?」
「でもそこには、国民が選ぶという過程が入るわ」
フェリエスがエミリの髪に顔を埋める。
「エミリ、本当にお前はただの学生だったのか? ニホンという国を見てみたい。どれほどの教育を国民に施しているのか興味がある」
「教育課程中はうざくて仕方ないもんだけどねぇ」
母は、突然ぐずりだしたアデリーヌを抱き上げて軽く揺らしながら立ち上がった。彼女が娘をあやす姿を眺めるフェリエスは、自然と笑みを浮かべる。
「フェリエス。でも私の一番の望みは、あなたには早く隠居してもらって家族だけでのんびり暮らす事なの。それに、行きたい国もあるの」
大公が青い瞳を揺らして笑った。
「ゴーダ人のように、婚姻後に旅行をするのか?」
「ふふふ……」
フェリエスをドキリとさせる笑みを見せた妃は、娘の背中を撫でながら、夫の膝の上に座った。母親になって、成熟さが増したエミリは、美しさの中に強さも併せ持ったようだった。それは違う世界から飛ばされてきた彼女に、娘という間違いなく血を分けた家族ができたからだと思ったフェリエス。
「エミリ、俺は以前の俺とは変わったと思う。なんというか……俺は王でなくともよい。ラング家は憎い。母上を殺した償いはさせる。だが、それと俺が王になるのは違うと思うのだ。俺はこの国の為に尽くす。それは、お前とアデリーヌの未来の為でもあるし、この国に住む全ての人達の為だ。そこに俺の幸せもあると思う」
「随分と変わったね。以前は復讐の鬼だったと思うよ?」
「あの国王が俺以外の人間に殺されたのが良かったのかもしれない。憑き物が落ちたように雑音が消えた」
フェリエスが両手を妃に付きだす。俺にも抱かせろという意味らしい。そうとわかったエミリが、満面の笑みでアデリーヌを夫の腕へと優しく受け渡した。
「父上でちゅよぉ」
エミリが、柔らかいアデリーヌの頬を撫でると、小さな天使が黒い瞳をフェリエスに向ける。その中に映る、自分の顔を見た大公。彼の髪に手を伸ばした娘は、神々の怒りですら溶かしてしまうだろう笑顔を、父と母に見せたのだった。
「フェリエス……王位を望まないとするなら、あなたはどうするの?」
大公は、娘を抱きかかえたままエミリの頬に口づけする。
「内乱を沈める為に武力を行使するまでは変わらない。だが、収束せしめた後は相応しい者が王となるべきだ。それはきっと、俺ではないと思う」
彼は娘を母に返した。
「エミリ……王家の在り方を変えようと思っているのだ」
-Féliwce & Emiri-
アルメニア王国歴三四九年春。
アルメニア王国中央部では、王都を占領したアルメニア公爵ヴラドと、故フィリプ三世の弟カミュル・ラング・アルメニアを中心とする貴族連合との間で激しい戦いが行われていた。いや、激しいのは誹謗中傷の言い合いで、実際に剣を交えて戦ったのは一度もない。というのも攻撃側が全く戦いを仕掛けないからだ。それは仕掛けるのを躊躇うほどに守備側の有利が圧倒的であったのである。というのも、王都の南、グラン関と呼ばれる巨大な城壁で両軍は睨みあっており、その関は守るヴラド側としては、防御施設を使う事で兵力での不利を補うつもりであるのに対し、攻める諸侯連合はなんとか関から敵を誘い出そうと苦心するのであった。
この膠着した中央部から離れた大公領で、ようやくフェリエスが動いた。
大公夫妻の指揮でイスベリア国境を突破した大公軍。それと同時期に軍務卿とクリスティンに軍を率いさせ、ロゼニアにも援軍を派遣している。フェリエスが二方面作戦を行ったのは、後にも先にもこの時だけである。それほどまでに、この時の大公は時間を貴重なものと考えていたようだ。いや、これまでの遅れを取り戻そうと考えていたのかもしれない。
エミリ・ベロア・ベルーズドは、まだ公的にはベロア家の人間ではなかったが、領内で発行された文書では既にベロア家の一員として記されている。その彼女が、愛しい我が子を乳母であるメリル侍女長の母親に預け、軍を率いイスベリアを侵略したのは、後方の憂いを絶つためであった。
イスベリア王国はこれまで、モリエロ州の領有権を主張し何度も軍を動かしている。その主張に根拠などなく、笑い飛ばせば済む話も、実力行使もやむを得ないと彼らが判断したのなら、守る側もそれ相応の覚悟をするものだ。
エミリはこれを逆に解釈した。つまり、守ろうとするから攻められるのである。この発想は、バノッサを陥落させたゴーダ騎士団領国のヒーロ・ギューン元帥に通じるところがある。
軍列の中にあって、朱色の甲冑が陽光を反射し眩しく光る。黒い髪はまるで黒真珠のような輝きを発し、その存在を強烈に主張していた。
「エミリ、俺は楽をさせてもらうゆえ、好きなようにせよ」
フェリエスの言葉に、妃が頷く。
いつもは優しく輝く黒い瞳はこの時、揺るぎ無い自信と決意で前方のイスベリア軍を見据えた。
国境を突破しながら、途中の都市は全て無視して南下した大公軍五〇〇〇。
イスベリア軍は、防衛の兵を集める時間すら与えられず、また迎撃すべき時を計り損ねたせいで慌てふためき国都の外に出たところで、大公軍を正面に迎えた。彼らの背後には国都オリュンピオスの城壁があり、つまりここで負ければ、国都を敵国の軍に襲われる可能性が高くなる。彼らは負けられない戦いをしなければならなかった。しかしそうであるのに、準備が整っていない。それは、あまりにも大公軍が早かったからだ。矢も足りねば、心も整っていなかった。イスベリア軍兵士達は、これから本当に戦うのかと疑問に思う者までいた始末であった。そこが、いつも訓練をしている国都城壁外であるというのも、彼らの気持ちに影響を与えていたのかもしれない。
その彼らを眺めるエミリは、相変わらず中央に歩兵、両翼に騎兵を配置したイスベリア軍を見て苦笑する。
彼女は兵站すら無視してここまで突き進んで来た。であるから、一気にケリをつけるつもりであった。
大公軍が先に仕掛けた。
「歩兵、前進」
エミリの声に、士官達が声を張り上げる。伝令達が慌ただしく動き出し、大公軍歩兵が前進を始めた。当然、イスベリア軍も黙って待つわけではない。彼らは両翼の騎兵を動かし、大公軍の左右から挟みこむかのような動きを見せる。
エミリは、両翼を形成する歩兵に、槍の用意を命じた。それは通常の倍以上も長く太く作られたもので、地面に柄を刺し、刃先を前方と向けるように設置し使う。それらと同時に、弩に矢を装填した兵達が素早くイスベリア騎兵に狙いを定める。
大公軍は前進を止め、両翼に迫る騎兵に対抗するように軍列を絞って展開した。そして、後方に配置されていた騎兵連隊を軍中央に吸収していく。
イスベリア騎兵が大地を揺るがし迫る。
その迫力は弱兵の国と言われながらも、なかなかのものであった。
大公軍の軍中で伝令が慌ただしく動きまわり、大公軍歩兵達が指揮官の名を口の中で囁く。
「戦乙女エミリ様、我と共にあらんことを」
緊張で汗を流す彼らの耳に、大公妃が放った鏑矢の音色が届いた。
歩兵は対騎兵用の槍を鋭角に大地へと突き立てる。
ぐんぐんと速度を増していたイスベリア軍騎兵の前に、ハリネズミの背中のように尖った先端を並べる大公軍が見えた。が、減速も回避も不可能だった。
ガツっという衝撃が、槍から歩兵達へと伝わる。
馬ごと騎兵を貫いた槍。大公軍歩兵がすぐに剣と盾を手に持った時、後方から数千の矢が直線で前方へと吐き出された。
至近距離から弩による斉射を浴びたイスベリア軍騎兵は、瞬く間すら与えられず地に倒れた。のたうち回る馬達と瀕死の沼に沈む兵士達が創り出した血と肉の泥濘を踏み超えた大公軍歩兵。それを疾風のごとく追い越した騎兵連隊は、朱色の甲冑を先頭にイスベリア軍前衛に突撃する。
「突き抜けよ!」
エミリの頬が紅潮し、その口から発せられた命令が騎兵達の士気をこれ以上ないほどまでに高めた。
盾と槍を並べて迎え討とうとするイスベリア軍前衛を一蹴した騎兵連隊。彼らは歩兵達をむやみに追わず、ただ破錠鎚を抱え疾走し、イスベリア軍中を国都に向かって駆け抜けた。
一撃で粉砕された前衛に、イスベリア軍将校達が色めきたった時、大公軍歩兵が歓声とともに突っ込んできた。金属同士がぶつかり合う音が響き、身体を斬り裂かれる兵士達の悲鳴と絶叫の連鎖。それは、イスベリア側に圧倒的に多く発生し、両軍の力の差をまざまざと見せつけた。
エミリは、アレクシの遺品となった魔法の剣を振るって放たれた矢を薙ぎ払い、国都へと突進する。彼女に指揮された騎兵は戦場を顧みる事なく、四騎ごとにまとまり、破錠鎚が結びつけられた縄を持つ。イスベリア王国の国都、オリュンピオスの城門は固く閉ざされていたが、そこに向かって次々と破錠鎚をぶつけては左右に別れていく騎兵達。
彼らは破錠鎚を城門にぶつけた後に、半円を描いてイスベリア軍の後背へと喰らいついた。
オリュンピオスの城壁上から矢を放とうにも、敵味方がこうまで入り乱れていては手だしが出来ない。困惑する守備兵達は、不気味な火球と鋭い稲妻を目にした。
先ほどまで晴れ渡っていた空はどす黒い雲に覆われ、そこから発生した稲妻が城壁と城門を撃つ。そして雲を割って現れた火球。それは火球と表現するには巨大すぎた。爆炎と衝撃で城壁が歪み割れる。
イスベリア軍にも魔導士はいるが、前を歩兵、後ろを騎兵に攻めたてられ、逃げ惑うので手一杯となっていた。
大公軍の歩兵達は一人ひとりも強かったが、完璧な組織として動くことでその強さをさらに発揮していた。
がむしゃらに個での武勇に頼るイスベリア軍は、剣で斬られ、矢で射られ、槍で突かれた。逃げようにも騎兵に突き崩され、完全に恐慌状態に陥ったイスベリア兵達。彼らはもがくように国都に向かって逃げ出す。
「このまま突入する!」
大公妃の号令に、兵士達の歓声が応える。
オリュンピオスは、逃げ込んで来る味方の為に、大公軍に備える暇もなかった。
市民達が家の扉の内側で身を潜める。神に祈りながら、震える彼らは、どれほどの殺戮に遭うかと恐怖していた。
だが、大公軍は一気に王城に迫ると、完全にこれを包囲した。それからようやく、市中に隠れるイスベリア兵の掃討を始める。と言っても、抵抗せぬなら捕虜として命は助けた。
王城の閉ざされた城門に向かって、一人の美女が進み出る。城から放たれる矢を、剣で払ったその女性は、凛とした立ち姿で声を張り上げる。美しく歌うような声色に、籠城していたイスベリア王でさえ耳を傾ける。
「イスベリア国王に告ぐ。開城せよ! フェリエス・ベロア・ベルーズドが望むは殺戮や領土ではない! 平和である!」
剣を大地に突き立て、それに両手を重ねて置いたエミリは、顎先をつんと上に向けて胸を逸らした。その左右に盾を構えた兵士が並ぶ。
イスベリア国王は、市中がやけに静かであることに戦慄した。通常、市街地に侵入した軍は、賑やかに乱暴狼藉を繰り広げながら進むものである。しかし大公軍は、無駄な行動を一切せぬまま、一直線に王城に迫り包囲したのだと理解する。
「国王よ! 返答はいかに!?」
黒髪の美女の声に、国王は呻いていた。
-Féliwce & Emiri-
イスベリア王国の国都が、国土の北に寄っていたという事実を無視することは出来ないが、それでも異例の速度でそれを陥とした大公軍。いや、都市を陥としたというより、イスベリア国王の心を折ったという表現が正しいかもしれない。
大公妃は甲冑姿のままで、イスベリア国王に対面すると、夫の視線を背中に受けながら、不可侵条約への署名を相手に迫った。
「ここ最近の貴国の侵略に対し、あくまでも牽制をしてみせたに過ぎませぬ。我らが望むのは領土の安定と平和であり侵略ではありませぬゆえ、条約締結の決断を今、ここでなされるが良い」
エミリの言葉にイスベリア国王ピリポス二世は憤ったが、居並ぶアルメニア人達の剣先が自分に向けられているのを思い出し、表情を消す。
「平和を望むと言いながら、無作法この上ない」
憮然と声を発したのは、ピリポス二世の父で隠居しながらも同席したオグテウス一世であった。彼は皺の刻まれた顔を不機嫌に歪めると、若い一対の男女を睨む。息子が父を諌めようとするも、先王は水の入った杯を手に持ち、中身をベルーズド公爵の妃にぶちまけた。
黒髪を水に濡らしたエミリ。
アルメニア軍将校達が、大公が動くより早くオグテウス一世の襟、肩、腕を掴み捻り上げ、床に押し付けると、その細い首に白刃を突きつけた。
「な……なんとする!?」
この状況でも一国の王であった老人の態度は、敗者のそれではなかった。
「老害め……国を息子に譲ったのであれば、しゃしゃり出てくるでない」
エミリの濡れた髪を撫でるフェリエスが冷たい声を発し、アルメニア将校達が反応した。彼らは先王を引き立てると、手を縛り、足に枷をはめる。
周囲をよそに、微塵も動揺を表さない大公妃が口を開いた。
「ピリポス二世陛下、条約締結の証としてお父上は人質としてストラブールに連れ帰ります。余生を楽しんで頂けるよう、お世話を致しますのでご心配なく」
ピリポス二世は顔から血色を消した。
俺が父を疎ましく思っていることを知っておったのか?
彼の疑惑に答える者はおらず、場に沈黙が流れた。
「息子よ! 今しばらくで諸侯の軍が王都に到着する! さすれば、許しを乞うのは奴らのほうじゃ!」
父の言葉に笑いそうになった息子。
剣を突きつけられ、こうまで強情になれるのも一つの才能かもしれない。
だが、息子は隠居した父と違い、今回の大公軍の戦いぶりを見て、何度やっても勝てぬという結論に達していた。戦争というもの、それ自体の考え方が違うのである。
誰が敵国の中を突っ切って、電光石火の進軍で国都を陥とす戦略を取るだろうか? 兵を集める、判断するといった時間を奪われたイスベリア軍のお粗末さに怒るより、この状況を創り出した大公とその妃に感嘆すら覚えたイスベリア国王は、父王の言葉を無視して、署名をする為に羽根ペンを手に持った。
「こちらも条件がある」
ピリポス二世の言葉に、エミリが眉を微かに動かす。息を飲むほどに美しい大公妃に見惚れたイスベリア国王。促されようやく言葉を続けた。
「ロゼニア王国と同じように、出入国審査を緩和して頂きたい」
エミリが夫に振り返った。
「わかった。だが、それをするにはそちら次第だ」
ピリポス二世が、金色の髪をかきあげた大公を見つめる。
「貴国はこれより、アルメニアへの悪感情を国民に植え付けないよう努力せよ。侵略の歴史があったというが、それは事実ではないし、大量の奴隷を連れ去ったというのも捏造であったと認めろ。我が領地で面倒を起こされたくない」
ピリポス二世は唇を噛んだ。
「国内の反発を外に向ける為に我らを利用するのをやめさえすれば、いつでも喜んで審査緩和に応じよう」
大公の声に、連れ去られるオグテウス一世の悲鳴が連なった。
-Féliwce & Emiri-
フェリエスと並んで歩くのは、イスベリア国王の居城の中庭。そこはアルメニアでは見ることができない花が蕾を並べていて、咲き誇ればとても美しい光景であると想像できる。
私は、彼の手をそっと握った。
「ねえ、イスベリアを侵略したり奴隷を連れ去ったというのは嘘なの?」
フェリエスは笑みを浮かべ、池で羽根を休める白鳥達を指差した。
「まるきり嘘というわけではない。十を百や千のように誇張する手法はよくある。見てごらん、アルメニアのより随分と大きい」
「本当だね。一回りも大きいね……あれがお母さんかな」
「ふむ、一見すると優雅な白鳥も、水面下では必死にもがいている……」
仮面で顔を隠したピエールさんが現れる。
「出立はいつでも出来ます。が、いかが致しますか?」
「すぐに引きあげます。兵隊さん達を休ませてあげたいけど、諸侯が迷い、市民達も呆気にとられているうちに引き上げます」
私の指示に一礼し立ち去るピエールさん。ジェローム・ブローという名を彼が取り戻せるのは、いつになるだろう。クロエちゃんと堂々と会える日が、少しでも早くなるようにしないと……。
「お前のお気に入りのヒーロ・ギューンが帝国領に侵攻したのは聞いたか?」
嫉妬ですよ。
表情には出していないけど、彼の言葉と声にはたっぷりとそれが含まれておりんすよ。
「別にお気に入りじゃないもん。ロゼニアに援軍で向かったクリスティンさんと上手くやってるかな?」
フェリエスは綺麗に整った顎に指を添えた。
「クリスティンには、隙あればギューンの首を取って来いと言っておけば良かったかな」
恐ろしい事ことさらっと言うフェリエス。でもそれは、全てゴーダ人の軍人さんに向けられた嫉妬が原因。
私は眉を寄せながらも、フェリエスを怒ることはない。逆に彼の金色の髪に手を伸ばして、ゆっくりとそれを撫でた。
「駄目だよ……ねぇ、皆が待ってるからそろそろ行こう」
中庭から王城の中へと移動した私達は、イスベリア人達の注目を浴びる。そこで初めて、手を握ったままである事こと思い出した私。離そうとしたけど、ギュッとフェリエスに握られ赤面した。
「別によかろう」
ああ、こういう強引さは嫌いじゃない。
少数の兵達を従え、私達に駆け寄ったピエールさん。仮面の下ではきっと目尻を下げているはずだ。
彼と兵隊さん達に先導されながら、私達は城の外へと移動する。イスベリア人達は、怯えたように見えるけど、目の奥にはちらりと憎しみが覗いていた。恐いけど腹が立つというのが、彼らにとっての私達なのだ。
「エミリ、イスベリア人はどれくらい、我慢していられるか?」
フェリエスが私に視線を向ける。流し目が様になる彼に、母親となっても胸がときめくのはどうしようもないのです。
彼が言う我慢していられるってのは、イスベリア人達が条約を守れる期間の事です。私はようやく人並みになった脳みそを回転させ、人差し指と中指を立てて見せた。
「二年」
「根拠は?」
やっぱりいる?
適当とか言ったら笑われるな……ま、根拠はあるんだけどね。
「二度のモリエロ州侵攻で国力が傾いてます。頼りの綱である都市国家連合は喧嘩している。それに今回、大公軍は恐いぞってわかってくれたと思う。そういうものを、アルメニア人ムカつくっていう気持ちが凌駕するのと、他国に進攻できるだけの国力回復が出来るまでの時間を計算して最短で二年です」
「そうか……しかし二年という根拠にはまだ弱いな」
私は容赦のないフェリエスの腕をつねった。彼は大袈裟に痛がり、周囲の兵隊さん達とピエールさんを笑わせる。
「国力回復だけならもっとかかるよ。でも、気持ちの問題だよ。一年は普通に我慢できると思う。でも、二年目にはうずうずしてると思うよ。だって憎いアルメニア人同士が戦っているんだもん」
「そうか……では出入国審査の緩和の合意が取れなくては、俺は二年以内に国内を安定させなければならないのだな」
フェリエスが眉間に皺を寄せた。
確かに彼の言う通り、出入国審査緩和は、そのまま経済交流に繋がり、それはイスベリア王国経済の発展以上に、ベルーズド地方の発展と安全を約束するものなのだ。
経済的な結びつきが強まれば、自然と関係は安定する。これは、結局のところ、国を支えているのは税収であり、それが多いほうが良いと考える支配者が圧倒的多数だからだ。いや、誰もがそうだと思う。
ただし、金の切れ目が縁の切れ目という言葉があるように、経済で結び付いた関係は、経済で破綻する事もある。でもそれは、屈服とか臣従に比べ、長期間の安定をもたらすものだと私は思う。
「イスベリア国王はきっと従うよ。お金に困ってるからね」
度重なる敗戦が、国庫に大出血を強いているのだ。勝った大公軍でさえ、戦争はたくさんの財貨を消費しているのだ。
「おお、忘れるところだった。エミリ、せっかくイスベリアに来たのだ。特産のメロンを食べて帰ろうか」
私は大きく頷いたのでした。
じゅる……。




