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 アルメニア王国三四八年もその半分程が過ぎた。アルメニアの北、トラスベリアとの国境地帯の山脈で冷やされた空気が、風に運ばれアルメニア王国を包み、それは夏になっても払われることはなかった。例年であれば、南からの風で冷気は飛散するのだが、今年に限ってはその南からの風が吹かない。


 作物の育ちが鈍り、さらに疫病も流行った。咳と下痢を伴う高熱が人々を襲い、さらにそれは恐るべき速度で蔓延した。特にアルメニア王国中央部で流行り、その影響は経済だけでなく、遠征中の軍兵にも及ぶ。


 ラネー公爵によるゴーダ騎士団領国侵攻は失敗に終わり、さらにバノッサを失った。ゴーダ地方侵攻の拠点であった城塞都市は、ヒーロ・ギューンにより包囲され、徹底的に破壊されたのである。五万人の市民は逃げ惑い、踏みとどまろうとした者達は殺され、街は瓦礫の山となった。


 これまで専守防衛を国是としていたゴーダ騎士団領国が、それを拡大解釈して国境を越えた事実に、アルメニア王国は戦慄した。


「馬鹿な!」


 これは、バノッサ陥落の報を受け取ったリシュルー公爵の言葉だ。彼はその被害の甚大さに驚き、さらにラネー公爵の軍がわずか数百まで数を減らして帰還した事に嘆いた。多くが逃亡し、軍に帰参していない。疫病によって命を落とした兵も多い。事実上の壊滅である。


 ゴーダ騎士団領国軍は、バノッサを破壊すると兵を退いた。しかし、国境付近の都市クルージュに二個師団を残し、いつでもやるぞという構えを解かない。


 慌てふためく王宮の一室で、右往左往する臣下達とは別の次元にいる男が、寝室に女を招き入れた。


「陛下、皆様が大変な時でございますよ」


 女は甘えるように声を発し、国王の醜く太った身体に指を這わせる。


 弟の怒りに震えていたのも数日だけのことで、兄はやはりこういう男であった。彼は大公が不気味に沈黙を守る事を都合良く解釈し、再び享楽の世界へと舞い戻ったのだ。


「宰相がうまくやる。全て、宰相に任せておればよいのじゃ」


 フィリプ三世の声が震えたのは、女の指が彼の身体をなぞったからであった。ワラキア伯ヴラドが、国王に献上した異国の女は、魅惑的な肢体と刺激的な房中術で彼を虜にした。


 女の舌が国王の大腿部をなぞり、焦らすように這いまわる。


 だらしなく口を開けたフィリプ三世は、さらなる快感を求め女へと手を伸ばした。乳房を荒々しく揉みしだき、女の腰を抱き寄せる。彼女は喘ぐように身じろぎし、国王の胸に手を這わせた。


「悪い国王陛下……」


 女の声が彼の耳元で囁かれた。


「そうじゃ……予は国王じゃ」


 誰からも期待されずに国王となった男の股間に、女が顔をうずめた。舌と唇によってもたらされる快感に、フェリプ三世が呻く。


 女の唇が粘着質な音と共に離れると、国王はその頭を掴んだ。


「続けよ」

「はい、陛下」


 国王は瞼を閉じた。快感が脊髄を駆けのぼり、背筋が震える。それを見た女の目が、半月を描くように変化した。


 彼女は知っていた。


 この醜く太った男が、絶頂に達する間際にいつも瞼を閉じることを。


 女は髪を止めていた髪飾りをそっとはずしながら、舌の動きを早める。髪飾りは尖った先端を国王へと向けた。国王が彼女の口の中で果てようとした瞬間、彼女は深く咥えこんだものを、その根元で噛みちぎった。


 半瞬後、この世のものとは思えない絶叫が国王の口から発せられる。


 女の口から吐き出された国王の男性器が、べちゃりと床を汚した時、彼女は髪飾りを、尖った形状の先端を、激痛と恐怖に歪む男の目に突き立てた。




-Féliwce & Emiri-




 女が国王を殺害したのとほぼ同時刻。


 ワラキア伯ヴラドの軍勢がフォンテルンブローの城門をくぐった。国王殺害の決行時刻を事前に打ち合わせていたとしか思えぬ呼吸である。


 偉丈夫に率いられたその一軍は、国王に招かれ王都に到着した証を警備の兵達に見せながら、異常なほどの速度で市中に入った。


「よっぽど急かされていたのだな」

「陛下が無理を言わぬことなどあったか?」


 城門の警備兵達が笑い合う。しかしそれも、次々と市中になだれ込む尋常ではない軍勢に静まった。


 ヴラドはワラキア州で集めた軍勢五〇〇〇人と、自分に従う貴族達の軍をまとめ一万近くにまでなった大軍で王城を囲んだ。


 二個大隊のみを率いて王城へと入ったヴラドは、何事かと歩み寄る官僚達を睨んだ。


「宰相はどこだ!?」

「閣下は……執務室におられます」

「ベアトリス! 宰相執務室に行け!」


 怒鳴ったヴラドの背後で、一個中隊を率いて動き出す幕僚。偉丈夫は視線を忙しく動かす官僚に、抜き放ちざまの一閃を見舞うと、鮮血で頬を濡らした。


「ドラクル!」

「は……」


 ヴラドに負けず劣らず大きな男が、戦斧を片手で軽々と持つ。


「殺しつくせ」


 言い放つと同時に、ワラキア伯爵ヴラドは歩きだす。彼は一直線に後宮に向かう。途中、泣き喚く官僚達を惨殺し、抵抗する兵士達を斬り伏せた。魔導士達が彼の前に立ちはだかるも、放たれる魔法による攻撃を悉く結界で無力化したヴラドは、右に左に魔導士達を斬り殺す。彼が動く度に、鮮血と悲鳴が宙に飛散し、目を背けたくなるほどの一方的な殺戮が繰り広げられた。


 国王の寝室を片っ端から開けたヴラド。その一つで、血に濡れた顔の女を見つけた。彼女は複数の警備兵によって惨殺され、国王を殺害した凶器を握り締めたまま絶命していた。


「でかした! 貴様の家族は俺が面倒を見る!」


 警備兵達が何事かと振り返るのと、ヴラドが白刃を煌めかしたのがほぼ同時だった。


 巨漢が恐るべき速度で警備兵達に迫った。


 彼は右手の長剣を水平に払い、警備兵の一人を地に伏せる。兵は腹部から内臓をこぼし、それを手で抑えながら倒れた。彼の仲間達が伯爵は敵だと認識したのはその時である。


 致命的な遅れだった。


 ヴラドは剣を振るいながら、左手で火球を創りだす。焦げくさい匂いを発する拳大の火球が、ヴラドを包囲しようとした警備兵を怯ませた。


 一人で空間を支配したワラキア伯は、右手の剣で警備兵達を血祭りにあげ、左手の火球を遅れてやって来た警備兵に向かって放った。寝室の出入り口ですさまじい爆発が発生し、寝室へなだれ込もうとしていた警備兵達が悲鳴をあげ、身体を焼かれる。


 寝室の中では、死の旋風となったヴラドの剣が唸り、警備兵隊の鎖帷子をものともせず、その身体を斬り裂いた。偉丈夫の咆哮に、警備兵達の叫喚が重なり、豪華な国王の寝室はその内側を人間の血と肉片で汚れた。


 人血で赤く染まった顔から笑みを消したヴラドは、満足そうに笑う死に顔の女を抱き上げる。


 その背後で、焼けただれた死体を踏み越え部下達が並んだ。


「王子を捕まえました」


 兵士の報告に頷いた偉丈夫は、踵を返した。


「後宮の女達は好きにして良いぞ」


 指揮官の言葉に、兵士達が下劣な笑みを浮かべた。


 一方、後宮から離れた場所で伯爵軍から逃げまどう大貴族の姿があった。この王宮でまさか自分が敵に追われることなど想像したことなどなかったリシュルー公爵は、何度も同じ言葉を叫びながら逃げまわった。


「何故だ!?」!


 リシュルー公爵はわずかばかりの兵に守られ、王城の中を彷徨っていた。彼に異変を伝えた官僚は、すでにワラキア伯軍の兵士によって殺されている。


 いくら警備の兵を増やしたところで、不意を突かれればこうまで脆いのかと宰相は後悔する。


 多くの警備兵が事態を把握できないままに斬り殺され、ようやく組織だった抵抗を見せたころには、大勢は決していた。


 喘いだ宰相は、背中を押し急かしていた兵士の力が抜けるのを感じた。振り返ろうとしたが、後方で「宰相がいたぞ!」と声があがる。同時に、大貴族の顔の近くを、高速で矢が走った。


 前方を走っていた兵士の一人が、肩に矢をあびてうずくまる。周囲の兵士達がリシュルー公爵を守るように壁を作り、盾で主の身体を守りつつ、迫る伯爵軍兵士に白刃をかまえる。


「閣下、お急ぎを!」


 部隊指揮官と少数の兵士がさらに宰相を急がせた。


「マリアンヌ……マリアンヌと孫達を助け出さねば」


 それからしばらく、国王の正妻であり、王妃である娘とその子供達を探し、広大な敷地の中を動き回る彼であったが、ワラキア軍によって娘と孫達が捕らえられたと知った時、気力と体力は底をついた。


「ここにおられたか」


 リシュルー公が顔をあげると、ワラキア伯の部下ベアトリスが兵士を従え立っていた。冷酷な輝きを発する瞳は、ようやく獲物を見つけたと言わんばかりに、その光をさらに増した。


「ど……どうしてだ!?」


 リシュルー公爵の声は、乱入者達によって無視された。彼らは宰相の部下達をあっと言う間に斬り殺すと、立ち上がる余力のない大貴族を包囲する。


「貴様ら……」


 腕を掴まれ、無理やりに引き起こされた宰相は、手枷をつけられ喉を鳴らした。


「伯爵閣下がお呼びだ。来てもらおうか」


 宰相は恐怖で震える唇を動かし、罵詈雑言を吐きだす。しかしそれも、返り血で赤く汚れたヴラドを見るまでの事であった。


「宰相……探したぞ」


 偉丈夫の前には、小さな男の子が二人、並んで立っていた。そしてその隣に、青ざめた顔の娘を見つける。


「は……伯よ! 気でも狂うたか!」


 リシュルー公爵の喚きに、ヴラドは首を傾げた。


「ふふふ、狂っておらねばできぬとでも思うておるのか? 俺はいたってまともだ……まともだからこそ、お前は今、俺の前にいるのではないかな?」


 ヴラドは薄ら笑い、がくがくと震えるリシュルー公を一瞥すると、手に持つ長剣を二人の男の子に向けた。


「宰相よ……ラング家が数百年に渡り、貯め込んだ財貨を悉く吐き出せば、孫は助かるかもしれぬが……良いかな?」

「た……頼む!」

「では、隠し金庫の在り処を教えろ」


 リシュルー公は唇を噛んだ。まさかその存在まで知られているとは思っていなかった彼だが、孫に剣を突きつけられて、誤魔化す余裕もない。さらに言えば、彼はこの期に及んでなお、王家に忠誠を誓うほど飼いならされた犬ではなかった。


「王族専用の庭園に池がある。その池の噴水が入り口だ」

「聞いたな? 行け」


 ベアトリスが一礼し離れて行く。


「では次だ。宰相の地位を俺に譲れ」

「そ……それは」

「安心しろ。娘も助けてやる。俺の妻としてな……」


 リシュルー公爵は目を見張った。


 この男は……国王の父親として権勢を振るう気か! そして……そして王になるつもりか!


 驚愕で硬直した宰相の顔は、流れ出る汗で雨に打たれたように濡れ、その滴が彼の顎から床へと滴った。


 偉丈夫が顎を逸らして口端を吊り上げた。それはまさに、勝者のみに許された笑みであった。


「大事にする。俺の子を産む大事な女だ。孫達も生かしてやる。俺の子が王位を継ぐまで、その座を守ってもらわねばならぬからな。だがそれも、貴様の返答次第だ」

「隠し金庫の場所は教えた!」

「それで孫一人分だ。宰相の座を守って孫と娘を失うか、全てを諦めてこ奴らを助けるか……どうする?」


 王国宰相は押し黙った。


 ヴラドの手に持たれた長剣の切っ先が、怯える子供を交互に捉える。その小さな口から、悲鳴が起こった。二人の母親が祈るような目で父親を見た。


 リシュルー公爵は屈服した。


 彼は震える唇を噛みしめ、瞼を閉じると大きく頷き膝を折った。


「殊勝な心がけだ。元宰相閣下」


 ヴラドの哄笑に、二人の王子達が泣き始めた。




-Féliwce & Emiri-




 フェリエスはその報告を執務室で聞いた。


 急ぎ立ち上がると、扉を開け放ち歩く。いや、走っていた。彼は階段を駆け下り、家老の寝室へと飛び込む。


 寝台の周囲には、医師達が暗い表情で一人の男を見つめていた。


「爺!」


 寝台に駆け寄った大公は、アレクシの手を握る。土気色に顔を染めた家老が、かすかに唇を動かした。背後で、クロエに連れられたエミリが姿を見せるも、フェリエスはアレクシから視線を離さなかった。


 長くない。


 そう知っていたフェリエスは、出征中に家老が逝くことを嫌った。せめて、最後を看取りたいと彼は考えた。国王に宣戦しながらも大公が軍を動かさなかった理由は、アレクシと身重の恋人だったのだ。以前の彼であれば、動いていたかもしれない。しかし、現在のフェリエスは動かなかった。それはきっと、エミリという恋人の存在が大きく作用しているはずで、それは彼自身、誰に指摘される事なく気付いている。


 フェリエスが、優しくエミリの手を握る。彼は自分の隣に恋人を立たせると、痩せこけた家老の手首に触れる。


「爺、エミリも来た」


 大公の声に、アレクシが瞼を開く。濁った瞳を微かに動かした彼は、フェリエスの恋人を確かに見た。


 ルイ大帝と呼ばれたフェリエスの父に従い、数多の戦場で万の大軍を操り、周辺国を相手取り謀略の限りを尽くした男は、その最期の時を迎えていた。


 アレクシの世話をしていたクリスティンが、大公の隣に立つ。


「アレクシ殿がこれをと」


 側室の手には、一通の手紙があった。


 フェリエスはそれを奪うように取ると、封を乱暴に破り中身を取り出す。そこには、ひどく弱々しい文字が並んでいた。死の淵にありながら、残された力を振り絞り残したアレクシの言葉がそこには記されていた。


『エミリ様から頼まれておりました御子のお名前。男の子であればルイ。女の子であればアデリーヌがよろしいかと』


 エミリが家老にすがりつく。血と痰で汚れたアレクシの唇を、とても愛おしいものに触れるように撫でた彼女は、家老の頬に唇を寄せる。


 フェリエスは恋人の肩を優しく抱き、瞼を閉じようとする家老に言った。


「ありがとう、爺」


 アレクシ・デュプレが瞼をゆっくり閉じた。




-Féliwce & Emiri-




 ストラスブール郊外の墓地は、ベロア家の関係者で埋め尽くされる。


 小雨が降り出し、大公が恋人をそれから庇うように抱きしめた。彼が馬車へ戻るように彼女に促すと、黒髪を雨と悲しみに濡らしたエミリは、顔をあげぬまま歩きだす。その隣に、クロエが付き添う。その背中は、アレクシを見送りたいという意思に満ち溢れていたが、お腹の子の為にそれを沈黙と共に抑え込む。なによりアレクシが望んでいた、大公とエミリの子供の為に、黒髪を雨に濡らしたエミリは大公の勧めに従ったのだ。彼女は馬車の中に乗り込む時、一瞬だけ動きを止めた。


 フェリエスは、恋人の肩が激しく震えたのを確かに見た。


「アレクシ・デュプレ卿を称え黙祷!」


 軍務卿の大音声に、揃って頭を垂れる一同。その中にあってフェリエスだけが正面を見据えていた。


 顔を涙と雨に濡らした大公に、オーギュストがそっと近づく。


「殿下……」


 政務卿に頷いた大公が、微かに顎を引いた。その青い瞳は何の感情も浮かべておらず、それがアレクシという男が、いかにフェリエスの支えとなっていたかを政務卿に伝える。


「殿下、王都で異変がございました……」


 フェリエスの瞳に、色が戻った。


「国王が、ワラキア伯に殺された模様……。王都は大変な混乱との事」

「……ボルネアは?」

「別邸の者共を束ね脱出しておるでしょう。鳩を放ってすぐに……」


 参列者達が歌い始める。アルメニア王国で広く信仰されるイラ神へ祈りを捧げる歌であり、死者を天界へと送る歌だ。バグパイプの絶え間ない音色に、歌声が重なる。そこに雨音と啜り泣く女達の声が追奏した時、黒雲から大地に向かって一本の光が走る。


「父上も泣いておられる」


 大公の声は、雷鳴によってかき消された。




-Féliwce & Emiri-




 国王が殺された。


 殺した犯人は既にワラキア伯爵によって誅され、犯人の背後にいたリシュルー公爵はワラキア伯爵によって拘束され投獄されている。国王の二人の息子はワラキア伯に保護された。


 リシュルー公爵にしてみれば、まさに濡れ衣もいいところであったが、反論のしようがない。なぜなら、王城の牢獄から一歩も出る事ができないからである。


 この知らせを受け、カミュルは北部戦線の拠点であるルブールの城で、不機嫌を通り越した無の表情を幕僚達に見せていた。


 アルデミルが発言を求めたが、王弟は無言を通す。彼は思考を完全に凍結させ、ただただ羽根ペンを右手で弄ぶ。


「王弟殿下……急ぎ軍を引き返すべきでございます」


 エミールの声に、はっと顔に生気を取り戻したカミュル。彼は咳払いをして身体を動かす。椅子に長時間、座り続けていたせいで、すっかりと肩と腰が硬くなっている。


 カミュルは肩をもみながら悩んだ。


(ワラキア伯ヴラド。確かに一流の用兵家であったが、こうまで野心の大きな男であったと誰が思ったであろうか。国王に尻尾を振り、追従しながらも機を窺っていたというのか)


 国内は疲弊し戦争が続き、中央が手薄になった今、大胆にも動いた。いや、おそらく以前から手回しをしていたに違いないと彼は思った。国王に女を送り込んだ事を知った時、なぜこれを予感できなかったかと悔やむ。だが、実際にはそれは無理というものだ。これまで、国王の機嫌を取る為に、女を後宮に送り込んだ貴族達は一人や二人ではなく、その中の一人に、ワラキア伯がいたとして、それを疑わなかったことを責めることなど誰にもできないだろう。


(……待て。俺はもっと根本を見過ごしている?)


 カミュルは、ヴラドが動いたのは四公と自分による統制が乱れたからだと理解した。そして、それすら、あの変質者が仕組んだかと疑うも、すぐに否定する。あの男にそこまでの知恵はないと決めつけ、真犯人に気づく。


(アラゴラ公を王都から離し、ラネー公をゴーダ人共に張りつかせた張本人は他にいる)


 カミュルの脳裏に、不敵な笑みを浮かべる年下の叔父が描かれた。


「大公は?」


 ようやく声を発したカミュルに、アルデミルが姿勢を正す。


「家老が死に、喪に服しておりまする。しかし遠からず動くものと思われます。ベルーズド領の複数の商会が、食料の買い付けに奔走しておりまする」


 この時、王弟は雷に打たれたように立ちあがった。


「しまった!」


 彼は目を丸くするエミールを見た。


「すぐに食料の買い付けをしろ!」

「は……は? しかし、糧食は十分にございますれば……」

「馬鹿者!」


 カミュルは卓を拳で殴りつける。床から跳ね上がり、軋んだ音を立てた卓が、かたかたと音を立てて止まった。


「冷害で食料が不足しているのだ! これからどれだけ軍を維持せねばならぬか分からぬ状況だぞ! 早急に動け!」


 王弟の焦りに触発されたエミールが急ぎ立ち上がり、部屋から出て行く。


 おそらく、アルメニア王国内は大規模な内乱を迎える。これを乗り越えるには、軍が必要だ。その軍を維持するには、大量の糧食が必須であった。冷害の被害をあまり受けていない大公が、ことさらそれを買い占めているのは、糧食の確保以上に、他勢力に流れる糧食の絶対量を減らす狙いがあると悟った王弟。さらに言えば、糧食の値段をつり上げる効果もあり、冷害対策で国庫を吐き出したラング家にとって、その影響はベロア家より甚大だ。常人では到底、辿りつけない次元での戦いがすでに始まっているのである。


「アラゴラ公とモリペレント公はどうしておる?」

「アラゴラ公は王弟殿下に従う旨、申し出ておりまする。モリペレント公は大公討伐の準備中に、今回の騒ぎ。自領に引きこもり情勢を見守る構えです」


 カミュルは唇を噛んだ。


 こめかみを押さえつつ、部屋の中を歩き回った王弟。


「コーレイトとトラスベリア……口惜しいが和平する。今は、あやつらを相手に遊んでいる場合ではない」

「条件はいかがなさいますか?」

「コーレイトにはブリステンの半分を与える。トラスベリアは放っておけばよい。コーレイトに泣きつかれておせっかいを焼きにきただけだ。コーレイト人どもが兵を退けば、あやつらもそうするであろう。アルデミル、お前に交渉を任せる」


 魔導士が一礼したと同時に、部屋から飛び出したカミュル。


(とにかく、王都に向かわねばならぬ。兄の子供達を取り戻し、あの図体並みに野心を大きくさせた男を倒さねばならぬ)


 彼は外人連隊のみを率いて、王都近郊まで帰還するとし、そこで全軍を待つと決めた。




-Féliwce & Emiri-




 王都を占領したヴラド。


 彼はどうして国王を殺したのか。彼は自分が伯爵位を相続したことを、認めたものの嘲笑っていた王家に恨みを抱いていたと言われているが、実際のところ、それはとってつけた言い訳に過ぎないのではないか。なぜなら、ヴラドは自分の野心の大きさを知っていたし、それを実現すべく計画を立て行動をしたのだ。そして、王家に憎悪を抱いていたというなら、何もフォンテルンブローを巻き込む必要は全くないはずであった。


 彼は野心と欲望を満たすために、国王を殺し、王都を支配下においたのである。


 ではなぜ、今だったのか。


 単純に国王の周囲が隙だらけであったからと、仕込んだ女が、見事に国王の目にとまったからだ。王弟が王宮にいれば、ヴラドの出る幕などなかったであろうに、あの国王はなぜか、北伐へと弟を派遣した。北部諸侯の要請があったとしても、あまりにも短慮だった。なぜ? やはりそこは、他人では知る事のできない兄弟間の問題があったのだろう。


 フォンテルンブローは、突然の不幸に泣き叫んでいる。まさに阿鼻叫喚だった。


 ワラキア伯に触発されたのか、指揮下の兵達は占領下のフォンテルンブローで悪逆非道の限りを尽くしているからだ。


 抵抗した市民達を捕えると、煮えたぎった巨大な鍋の中に突き落とす。子供を捕えて惨殺し、その肉を親に食べさせたりした。強姦や強盗が多発し、王都は地獄絵図をこの世に映し出したかのようであった。


 その中でも特に悲惨であったのが、貴族達である。彼らはワラキア軍兵士達に目の敵にされた。それは常に虐げられてきた者達が、逆転した力関係に酔い、歯止めの効かない子供のような暴力性を彼らに叩きつけたからであった。


「おやめください! おやめください!」


 娘を兵士達に捕まった貴族が必死に懇願するも、欲望と血に飢えた狂気に支配された者達には、なんの効果もなかった。


 兵士は父親の首を剣で突くと、悲鳴をあげる娘の前で水平に払った。半ばで首を切断された父親は、鮮血を噴き上げ血だまりに倒れる。泣き叫ぶ娘は、狂ったように喚く母親の前で犯され殺された。


 また、ある貴族の館では、金品を強奪するだけでは飽き足らず、兵士達による殺戮が繰り広げられた。逃げる貴族の子弟を捕え、大人達の目の前で四肢を斬り落としていく。


 救いようがないのは、このような蛮行を指揮官であるヴラドが推奨したことであった。


「人は恐怖によって支配される。これまでの歴史を見よ。恐怖以上に安定をもたらしたものがあるか?」


 彼はそう宣言し、自らも後宮の女達を犯し、殺した。


 王家とも血のつながりを持つリシュルー公爵の娘であり、フィリプ三世の妃であったマリアンヌは、二人の母親といえどこの時三十歳。大貴族の娘らしい美しさを誇っていた。


 白い肌を汗に濡らし、乱れた寝台の上で意識を取り戻したマリアンヌ。彼女は子供達に会う事すら許されず、父の生死すら確かめる事叶わず、ただ憎き男に弄ばれる日々を過ごしていた。自分が生かされているのは、単にヴラドの子を宿し産む為だけだと知っていた。


 巨大な王城の中は、未だ血の匂いが取れず、これがあのアルメニア王国の国王が住む居城かと思うほどに、淀んだ空気を内部に溜めこんでいる。


 扉が開いた。


 ヴラドが全裸のままで現れると、無造作に水の入った杯を彼女に差し出す。屈辱に耐えながら、それを受け取り、喉を潤すマリアンヌは、誰でもいいから助けてくれと切に願った。


「俺の母は男であれば片っ端から寝室に連れ込むふしだらな女であった」


 偉丈夫が珍しく、命令以外の言葉を吐き出す。


「ようするに、俺は誰の子かわからぬらしい。王家が俺をワラキア伯に認めたがらぬ理由もわからぬでもない。しかし、それは俺のせいではない」

「お前はそのようなことを私に話して何とする? 獣は獣らしく私を蹂躙するだけで満足すれば良かろう。私の気持ちまで得ようとするとは図々しいというものじゃ」


 一国の王妃として、王子達の母親として、リシュルー公爵の娘としてマリアンヌには譲れぬものがある。それは命を賭しても守らねばならぬと彼女は考えていて、尊敬に値する勇気だった。


 ヴラドは意外そうに笑うと、マリアンヌの隣に座った。激しく弄ばれた彼女の身体は、ところどころ赤くなっている。それを目で追ったヴラドの口が歪む。


「お前はあの国王の妃に収まるのは勿体ない女であったようだな」


 マリアンヌは、侮蔑の表情を浮かべてみせると、偉丈夫の腕を撥ねのけた。


楽しげに笑ったヴラド。


「お前と子らは俺の領地に運ぶ。そろそろ、うるさい蝿どもが群がって来るころだろうからな」


 ヴラドに強く乳房を掴まれ、苦痛に顔を歪めたマリアンヌは、それでも声を荒げる事は無かった。


「王家に群がっておった蝿が何を言う。お前がこうして王都を汚せるだけの力を得られたのは、皮肉にも王家のおかげであろう?」


 ヴラドは、目を細めて口端を吊り上げ笑った。


「そうか……気が変わった。お前の目の前で蝿どもを叩きつぶしてやろう。望みを完全に立ち切った後も、同じような威勢が張れるか楽しみだ」


 マリアンヌは屈辱に耐えるように、男の腕の中で唇を噛みしめた。




-Féliwce & Emiri-




 大きくなってきたお腹をフェリエスが撫でる。微笑む彼を見ていると、今が内戦である事を忘れてしまう。それほど、父親になろうとしているフェリエスの表情は穏やかだ。


 私がその金色の頭を抱きしめると、大公殿下は私の手を握ってきた。


「この子の為にも、俺は平和な国を作らねばならない」

「そんな恐い顔したら、この子が恐がるよ」


 フェリエスが笑う。彼は最近、よく笑う。どうやら、そうすることでお爺ちゃんが死んだ辛さから逃れようとしているのかもしれない。誰よりもフェリエスを支え、守ってきたアレクシお爺ちゃんの存在は、恐らく私達が考えている以上に大きかったはずだ。


 フェリエスはあらゆる状況を無視して、アレクシお爺ちゃんを優先した。彼は大切なご家老さんが最期の時を迎えていると知り、王家への復讐、野心といったものから目を背けた。それは戦略的に失敗だったと思う。


 でも、人として正しいことをしたと私は誇りに思っている。と同時に、私は矛盾も感じる。


 フェリエスが軍を率いて王都を目指した時、それはたくさんの命を奪うことになるのだ。


 それは、人として正しいこと?


 この疑問は、ずっと私に付き纏う。いくら決意しようとも、節目には必ず現れる。そして、私を悩ませるのだ。


「フェリエス……変なことを言ってもいい?」

「なんだ? 愛してるとかは何度言われても嬉しいぞ」


 あんた……とっても可愛くなったね!


 頭をぐりぐりとしてやりたい衝動を抑え、彼の頬にキスすると、彼が私の手の甲に同じ行為をしてくれた。


「私の国はね、王政のような支配態勢から立憲君主制に移行して、今は民主制なんだけどね」

「ふむ……真面目な話だったか」


 姿勢を正す彼。


 あんた、私が真面目な話をするのは珍しいってか!


「怒るな……。怒った顔も可愛いけど怒るな」


 ふにゃあ……となってしまうのです。


 私は、最近めっきり男らしくなった彼の顔を覗きこんだ。少年らしさがすっかりと消え、大人の男性になったフェリエス。イケメンであるのに変わりはないけど、なよなよしたものが消えたと思う。これも、父親になるという自覚なのかしら……私はどうだろ? 


「昔、大きな戦争をして負けた……いや、大勢の人が死んだという歴史があるから、今はとっても戦争をしない国になってるの。そういう国に生まれ育った私からすれば、きっとこの国もそうと望めば戦争をしなくて良くなると思うの」


 フェリエスが、目を輝かせる。こういう話が本当に好きだな……きっと日本に来てもモテなかっただろう。デートでずっと政治や軍事の話をして、女の子にドン引きされるはずだ……私に出会えて良かったねぇ。


「私、思うんだけどね。一部の権力者が自分の都合とやらで軍隊を動かせるのは異常だと思うんだよ。彼らが安全な場所にいることにも腹が立つ。私、フェリエスにはそれをして欲しくない」


 フェリエスが、私の髪を撫でながら遠くを見つめるような目をした。


「お前の言っていることはわかる。しかし、それを実現させる為には王制をやめ、民衆が自ら国政を執り行う形態へと移行せねばならぬ。法も今とはまるで違うものにせねばならぬし、国民の知的水準をずっと高いものにせねばならぬ。畑は一日でできぬというではないか」

「でも、難しいからと諦めていたら、いつまでたっても変わらないよ」

「……そうだな。確かにそうだ。だが、まだ問題がある。例えば俺が臣民に向かって、明日からお前達に任せると言ったとしよう。彼らは喜ぶか?」


 私は黙っていた。それは、彼は質問をしているようで、その実、答えを知っているからだ。そしてその答えは、私の考えと一緒なのだ。


「押し付けられたと感じるだろう。彼らは何を望んでいる? 平和で豊かな世を、善良な権力者によって作られる事を望んでいるのだ。いや、これは彼らが悪いのではない。このほうが統治者にとって楽だから、年月をかけて俺達、権力者がこうしたのだ」


 彼は水の入った杯を私に取ってくれた。柑橘類の香りのする水を喉に流しながら、私はフェリエスの言葉をじっと待つ。彼は私をその胸に抱き寄せてくれた。


「戦争を無くせと言われたら、俺は無理だと答えるだろう。人間は元来、争うものだ。それを倫理と法で抑えつけることなど不可能だ。だが、権力者の都合で戦争をしない国を目指せと言われたらできなくもない。時間をかけ、国権を国民に返す礎になれと、エミリは言いたいのだな?」

「そう……フェリエスのおかげで言いたいことがまとまったよ」


 彼は青い瞳を曇らせた。


「わかった。お前の望みだ……俺は礎となる。約束する」


 フェリエス……、微笑んでいるのに、どうしてそんな悲しそうな瞳をしてるの?


 私はこの時、恐くて聞けなかったのです。




-Alfred Shyster-




 依頼人が紅茶のカップを受け皿に置く。陶器がぶつかり合う音が微かに聞こえた。


「助教授は、エミリ・ホリカワがフェリエス大公を殺していないと証明したいとおっしゃってくださいましたが、それはなぜ?」


 僕は腕を組み、椅子に深く座り直す。


「動機がありません。次に証拠がありません。確かに歴史書ではそう記されていますが、その歴史書そのものを疑う僕にとって、決定的な証拠にはならないのです」


 僕は説明がさらに必要であると感じて、補足する。


「確かに歴史書はこれまでの歴史を綴った書物であり、ないがしろにするわけではありませんが、ただそれはいつの世も、勝者によって残された物であるという事実を無視してはなりません。ですから僕は、歴史書だけでなく、様々な文献から過去の状況を推測し、証拠を集めるのです。歴史書だけで、過去はこうだったと決めつけるのは……例えば正八面体を一つの方向だけから見て、四角形だ、三角形だと言っているに過ぎないのです」


 依頼主は微笑んだ。僕の言葉に同意してくれたものと受け取った僕は、庭から聞こえる笑い声に誘われ、視線をその方向へと転じた。


「僕らはあくまでも当時を推測するだけです。その推測を証明する証拠があるかないか、多いか少ないかで、歴史は都度、変わるものです」

「おっしゃる通りです」


 僕は笑みを浮かべた。


「僕はこう考えるようになりました。エミリ・ホリカワという女性は、天から舞い降りたかのように歴史に登場しました。そして、その途中で何度も表舞台から姿を消しているがゆえに、また確かに存在したという証拠がとても少ないために、架空の人物であるとか、誰かの偽名であるとか言われていますが、それはこれを狙った人達の思惑があったからではないかと」


 依頼主を窺うと、彼女は「どうぞ続けて」と僕を促す。


「それをできた人達とは、アルメニア王家をおいて他にはありません。大変失礼ながら、僕はそう思うのです。ということは、王家にとってエミリ・ホリカワの存在は、何がなんでも隠さねばならなかった。しかし、彼女の成したことが余りにも偉大であった為、全てを隠す事はできない。となれば、伝説上の人物に過ぎない、おとぎ話に出てくる主人公、架空の人物であるという風に操作できないか……それを考え実際にしたから、今、こうして僕が苦労しているのですよ」


 依頼主の顔から笑みが消えた。彼女は僕から視線を逸らすと、迷うかのように宙を見つめる。いや、僕にはそう感じられたのだ。彼女がようやく、その唇を動かしたのは、遊び疲れたエリザちゃんが、祖母にまとわりついた時だった。


「助教授は見事なご慧眼をお持ちです。いえ、私と同じ意見だからこう申すわけではございません。私は単に希望的推測でそう信じているにしか過ぎませんが、あなたは違うようですし、その説明には納得できるものがあると思います」


 膝に孫娘を乗せた依頼主。彼女はそれをしながらも、視線を僕から逸らさなかった。


「あなたのお考えは、ほぼ正しいと申し上げることができます。そうなのです。王家によってエミリ・ホリカワはその存在を危ういものとされているのです。いえ、これは王家を批判するものではありません。私は王家の事情を良くわかる立場におりますから……」


 依頼主が姿勢を正すのを見て、自然と僕もそれに従う。


「私の名は、ファティアラ・ベロアと申します」


 ベロア!


 ベロアか!


「そうです。私はフェリエス大公の子孫なのです」


 僕は、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。


 大公には子がいたのだ!


「そして、我が家は決して公にはしない名を継いでおります。もう、お察しでございましょう?」


「ホリカワ?」


 依頼主が満面の笑みを浮かべた。


 僕は感激に震える身体をどうする事もできず、ただただ彼女を見つめる。


「ベルーズド公爵位も代々、継いでおります。つまり、私の存在自体が表には出てはならぬものなのです」


 ベルーズド公爵位は、現国王がその権利を有していると理解されている。この時、僕はある疑問を依頼主にぶつけた。それは、表に出てはいけない家の小さな女の子に関してだ。


「エリザちゃんは……学校へはやっていないので?」

「家庭教師をつけております」


 依頼主はそこで、初めて暗い影を顔に落とした。


「実は……私はエミリ・ホリカワを憎んでおりました」


 彼女は膝の上で眠った孫娘を抱きしめた。


「皆と同じように学校に通い、友達を作り、恋をする。私は……いえ、私達にはそれが許されません。常に王家の庇護の元、存在すらせぬ者として日陰の暮らしをしていかねばならないのです。これがどんなに辛い事か、聡明な助教授ならおわかり頂けるでしょう?」


 僕は依頼主の膝で眠るエリザちゃんの寝顔に微笑む。


「分かります。そして、この子もそうなのですね?」


 依頼主が頷いた。


「あの人が……エミリ・ホリカワがいなければ、普通の生活を送れるのにと、どれほど憎んだことでしょう。ですが、最近になって……屋敷の地下室で見つけた物によって、私は考えを改めたのです。エミリ・ホリカワがフェリエス大公を殺害したから、私達は不遇なのであると信じていた私の考えは違うのではないかと考えるようになったのです」


 彼女はそこで、孫娘の髪を撫でる手を止めた。逡巡が行動に出たものだと僕には感じられた。


「彼女が……フェリエス大公を殺害したのは本当なのだろうか……仮にそうだとしても、そこには私達には理解の及ばない理由があったのではないか。そういうものを明らかにしたいと私は願うようになりました。この考えに、陛下はご賛同くださいました」


 依頼主の言葉に嘘はないと感じた。この女性は、保守的な王家のなかにあってさぞ浮いた存在であるだろう。しかし、現国王陛下は歴代のなかでも類を見ないほどの開明的な人物である。彼女は幸運に感謝したに違いない。となれば後は、明らかにしてくれる協力者を探さねばならない。


 ただ「私はベロア家の人間である。地下で見つけた文書が、エミリ・ホリカワの実在と濡れ衣を晴らすものである」と叫んでも、千年という沈黙を覆すことは不可能だ。では、国王陛下がそれを後押しすれば良いと考えるのは、とても危険だ。なぜなら、国王陛下が……王家が依頼主の存在を認めれば、彼らは彼ら自身によって歴史を改ざんしていたと公言することになり、表には出したくないそういうものを、詮索され暴かれ収拾がつかなくなる。


 であるなら……。


 研究者が歴史を調べ、真実を明らかにし、王家でさえも知り得なかったとする事実を公表する事で、彼らは研究者に感謝する図。


「それで、陛下のある決断につながるのですね?」


 僕の質問に、依頼主が微笑んだ。


「さすがはアルフレッド・シェスター卿です。陛下はベロア家の存在を公になされ、尚且つエミリ・ホリカワがどんな女性であったか明らかにすべきだと考えられているのです」


 僕は興奮で言葉を発することもできない。


「ですから、陛下は偶然にも大切な書物を紛失なさるでしょう。それがなぜか、幸運にもあなたによって発見され、あなたはそれを――」

「遺跡や古城で見つけたと公表する。王家すら知り得なかった情報を手にし、真実を明らかにする」

「ありがとうございます」


 依頼主が優しくエリザちゃんの頭を撫でた。そうしながら、彼女はボディガードの名を呼ぶ。


「ディディエ……例の物を」


 いかつい男が書斎に現れる。彼はその大きな手に持った封筒を僕に差し出した。


「とても古いものです。手では触らず、覗き見るようにして読んでください」


 僕は素直に従う。


 封筒の中には、一枚の紙があった。


 ああ……見ればわかる。これはとても古いものだ。変色具合から考えるに、王立図書館で触れた書物ほどに古いのではないか。であれば、完全に密閉され、温度と湿度を保った空間で保管するのが一番いいのだが……いや、おそらくそうされていたに違いない。依頼主は、わざわざ僕の為に持ちだしてくれたのだ。


 それは古アルメニア語で作成された婚姻届で、そこには確かにフェリエス・ベロア・ベルーズドと、エミリ・ホリカワの署名が記されていた。


 他の署名と違って、大公もエミリ・ホリカワも、とても丁寧な文字で署名をしている。一文字ごとを慎重に書いている。その文字が僕に訴える。


 二人は確かに愛し合い、こうなることを心から望んでいたのだと。


「王家でさえ、真実は知りませぬ。いえ、おそらく長い時の中で失ってしまったのだと思います。残された書物にある断片をつなぎ合わせ、真実を見つける事が出来るのは、アルフレッド・シェスター卿。あなたの他にいないと私は信じております。どうか、私達を……いえ、フェリエス大公とエミリ様を助けてください」


 僕は課せられた責任の重さに手を震わせながら、封筒をボディガードに差し出した。受け取ろうとした男を、ベルーズド公爵夫人が止める。


「助教授、それはお預け致します」

「しかし……これはベロア家秘蔵の文書であるはずです」

「いえ、これは二人の愛の証です。二人だけのものであり、今となっては誰のものでもありません。ですからどうか二人の為に、お役に立ててください」


 僕は瞼を閉じ、両腕を胸の前で交差し床に膝をついた。そして深く一礼する。これは、王家の人間に対する、忠誠の誓いなのだ。この時、僕は自然とそれをしていた。これまで、国に協力するよう強いられてきても、のらりくらりと逃げてきた僕であったが、この女性に対して抵抗なくこれをすることができたのである。権力者というのは正直、嫌いだ。だが、彼女はこれまで接してきた彼らとは違うと僕は感じ、畏敬の念を抱いていた。


 この人は間違いなく、フェリエス大公とエミリさんの子孫だ。


 突きつけられた事実を無視しても、僕は彼女に対してそう思っていたに違いないという確信。それほどまでに、封筒を僕に預けると言った彼女は威厳に満ち、僕を圧倒していたのだった。


 エミリ・ホリカワは大公妃となっていた……。


 エミリさん、あなたは幸せだったのですね? フェリエス大公に愛され、彼の事を愛し、そして彼の子を授かったのですね? 


 ではなぜ?


 なぜ、夫を殺した罪を背負わされたのですか?


 本当に殺したのですか?


 違いますよね。あなたはきっとそんな人ではない。それはシェスター家に伝わる子守唄が証明している。これを僕は作り話だとずっと思っていました。でも、ベルーズド公爵夫人と出会い、あなたを調べていくにつれ、それは作り話ではないと思うようになっています。


 僕は、依頼主にもその子守唄というかお話を教えてあげたくなった。彼女は微笑み、エリザちゃんの頭を撫でる。


-・-・-


 むかしむかし、レニンは大公さまに招かれ彼の領地に行きました。


 とことことことこ……


 とことことことこ……。


 長い道のりを歩いて行きました。


 大公さまはレニンに言いました。


「皆が笑顔で暮らせる国を作りたいんだ。手伝ってくれないか」


 レニンはもちろん、手伝う事にしました。


 お妃さまは言いました。


「皆が病気で苦しまないようにしたい。大きな病院を作りましょう」


 トンテンカン……。


 トンテンカン……。


 お妃さまは言いました。


「悪い人達を追い出して、皆が笑える国をつくりましょう」


 ガンガンガン……。


 ドンドンドン……。


 お妃さまは言いました。


「皆が話しあって、未来を作れる国を作りましょう」


 レニンは聞きました。


「大公さまはどうするのですか?」


 大公さまは言いました。


「妃と子供と暮らしたいんだ」


 お妃さまは言いました。


「大公さまと子供と暮らしたい」


 そして二人は言いました。


「レニン、後はよろしくね」


 二人は笑っていました。


 ニコニコニコ……。


 ニコニコニコ……。


 レニンは言いました。


「何かあったら助けてくださいな」


 二人は振り返って言いました。


「もちろん。でも、そうならない事を願ってますよ」


 おしまい。


-・-・-


 何度も子供の頃に聞いたこのお話の中に出てくる、大公さまとお妃はフェリエスとエミリだ。僕は祖父に「フェリエス大公とエミリ様の話を聞かせてよ」と言って、このお話を聞かせてもらっていたのだ。


 僕は知っていたじゃないか……。


 シェスター家は、ずっと語り継いできていたじゃないか。


 僕は虚構の歴史に埋没した真実を明らかにして見せる。ベルーズド公爵夫人とエリザちゃんの未来の為に、過去を知る必要が彼女らにはあるのだ。もしかしたら、残酷なことかもしれない。でもきっと、そうすることで陽のあたる道が現れると信じる。


 そうか……僕が今、感じているこの重圧。これをきっと当時の大公とエミリ・ホリカワも感じていたに違いない。国の未来の為に、彼らは自ら進む事を選んだに違いない。


 ベルーズド公爵夫人を玄関で見送った時、エリザちゃんが何度も振り返って手を振ってくれた。


 犬達が僕の足元で一緒にお見送りをしている。


「先生、招待状を出すからね! 絶対に来てね!」


 僕を駄目にする笑顔の彼女に、僕は大きく頷いた。


 とにかく、小さな天使の為にも頑張ろう。大公妃となったであろう三四九年以降を調べようか……。


bridal training おわり

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[気になる点] 《さらにラネー公爵の軍がわずか数百まで数を減らして帰還した事に嘆いた。 》 は普通「を嘆いた」ですが、何故か「に」でもいけそうな気がします。「~した事(嘆くに至った原因・経緯)に自分の…
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