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先輩達が仕事を大量に寄越してくれたおかげで、私はお昼寝休憩の時にはぐったりと動けない有様です。しかし、こういう陰険なイジメというものはどの世界にもあるのだと思い、驚きと怒りで悲しみは感じない。
私は大部屋で談笑する先輩達から遠くとおくとっても遠くに離れ、部屋の隅っこに毛布を運んで寝床を作ると横になった。欠伸をすると、私を見てひそひそと良くない噂話を交わしている彼女達がいて、私は瞼を閉じながら、日本の学校を思い出す。
武術に剣道にあけくれ、何でも言いたい事を言う私はやっぱり良くない目で見られていたのだと、今の彼女達を見て再確認できたのです。
皆、自分と同じ。
同じものが好きで、同じものが嫌いで、そういう人達の中で安心したくて、だから私みたいなのは苦手で、結果として嫌うのかと難しい事を考えながら、いつのまにか寝ていたらしい。
「……リ!」
「……ミリはお前だろ!」
「おい、起きろ!」
「ほわ!」
飛び起きた私は涎を袖で拭きつつ、オレンジ色の髪をしたおっさんが立っているのを見る。オーギュストという偉そうな名前の人だとピンときた。
「おい、荷物が見つかったと聞いたはずだろ? さっさと確認して持って帰れ」
声に抑揚があまりなく、事務的な印象を受けるが先輩達よりもよっぽど親しみやすいと感じるのは悲しい現実かもしれない。
彼に連れられ納屋に向かうと、この屋敷と城の広さが良く分かる。学校くらいはあるかもしれない。
でも不思議な事に、誰もがセカセカと歩き話し合っているせいでどこもかしこも賑やかだ。今も
「だから治水事業が先だって言ってるだろ! 殿下のご指示だぞ」
「あほ! 治水事業をするに道具や材料を運ぶし工夫の移動もある! 道路が先だ! 予算は道路を先に申請する!」
「夏の雨期までに治水は終わらせないといけないだろ!」
と口論しながら歩く人達とすれ違う。私は会釈したが、彼等は無視です。こちらの世界ではすれ違う程度ではいちいち挨拶をしないようだ。
と、前方から今度は一団がやってきます。
「耕作地の開拓計画は半分が見直しだ」
「古龍が住む森はまずいからな。しかしどうする?」
「川の近くである必要はない。地盤を調査し地下水がある土地を探そう」
「水質検査もいるな」
と相談しあう彼等。その後方には
「農民保護が必要だ。これまで通りでは子供に土地を分け与える度に一家あたりの耕作面積が小さくなって小作農が乱立し、結果として潰れる」
「相続法でしばるか? しかし反対が強そうだが?」
「殿下に相談しよ……あ、オーギュスト卿! あとで相続法の件で相談があるのですが」
話しかけられたオレンジ頭のおっさんは無表情で
「執務室に来てくれ」
と答えて私を先導してスタスタと進む。
それから納屋に行くまで何度か、オーギュストさんは様々な人達に
「相談があります」
と言われ続けた。
私は素直な質問をする。
「オーギュストさんて偉い人なんですか?」
「偉くはない。ただ、公爵領の開発責任を仰せつかっているから権限が集まっているだけだ。俺に権限があるのではない。仕事に必要な今はそうであるだけだ」
つまり偉い人なんだなと理解する事にしました。
「フェリエスさんに信頼されているんですねぇ」
褒めたつもりの私だったが、彼はくるりと振り向くと初めてその顔に感情を宿らしていた。
怒り一色。
「お前! 殿下を御名前で呼ぶ以上の無礼を!」
「すいません! 許してください! 慣れてないんです! フェリエス殿下です。殿下様です!」
「殿下だけでいい! お前みたいな野良猫みたいな娘が殿下の御名前を口にするな」
野良猫が可愛そうだ。
いや、私が可愛そうだと思います。
口を尖らせ、脳内でオレンジ頭をけなしながら歩いた私は、彼が指差す納屋に入った。煉瓦造りの立派な建物は、倉庫みたいなところで、その入り口脇に見慣れた鞄を発見する。
「あった! マイバッグ!」
飛びつき中を確かめる。
財布は中身共々無事で、定期入れとパスモもあった。
そして、教科書に参考書が出てきた時、あの日は小テストがあったと思いだし、なんとも言えない苦しさに呼吸が難しくなる。
大きく息を吸い、吐き、こぼれた涙を手で拭い、私はバッグを抱きしめた。
あれだけ嫌いだったテストのせいで、こんなにも寂しく感じるのは複雑ですが、でもそうだからこそ、私は私の世界に帰りたい。
「これもお前のか?」
オーギュストさんではない声がして、ほぼ同時に竹刀が目の前に現れた。
私はそれをひったくり、家の道場を思い出して、家族を順に脳裏に描く。
お父さん。
お母さん。
大嫌いだけどお兄ちゃんも出てくる。
そして流れ続ける涙。
「おま……泣いてるじゃないか! オーギュスト、お前は女の子を泣かしたな?」
「違う。言い訳がましいかもしれんがこいつが勝手に泣き出しただけだ。それよりハザル、お前がここにいるほどに暇なら、やはり軍事全般に回した予算をいくらか返してもらっても良いという事かな?」
「忙しい! ちょっと寄っただけだ。変な娘が現れたというから間者かと思ってな」
私の背後で会話する男達の声を無視して私は泣き続ける。
と、いきなり私の目の前に片目のおっさん顔が逆さになって現れた。
私は驚きのあまり、涙と鼻水をその顔にぶっかける。
「うわあああ! 汚ねぇ!」
独眼竜が消え、私がえぐえぐとしながら振り向くと、オーギュストさんの袖で顔を拭く片目のおっさんと、その彼を迷惑そうに眺め呆れているオレンジ頭がいる。
変な大人達だと、泣きながら見つめた私にオレンジ頭が言う。
「泣いて解決するならいくらでも泣け。面倒な奴だ。自分は可哀想ですとかまってほしいのか?」
嫌な大人だ。
私は涙を拭って立ち上がる。
ぶん殴ってやろうと思ったのだが、ハザルと呼ばれた片目のおっさんが微笑んで口を開いた。
「いや、泣いて解決する事もあるぞ。とりあえず思いっきり泣けば、前を向ける時もある。我慢せず泣け。俺もお前も泣くからこそ、笑う時がくるだろ? 次はきっと笑う時が待ってる」
私はそこで、また大泣きしてしまったのだった。
-Féliwlice & Emiri-
悲惨な境遇の私にも友達ができたのは五日目。
クロエちゃんという、とても綺麗な女の子なんですが、なぜか家族でもないのにフェリエスさん家に住んでいるのです。
「ははぁ……そういう事ね。あいつも意外とスケベだね」
顎に手を当てニヤリとした私を見て、可憐が服を着たような女の子が首を傾げる。
その仕草もかーいいじゃんよ!
「どういう事?」
彼女の問いに私は人差し指を立てます。
「つまり! 殿下はクロエちゃんに惚れてるんじゃん? 偉い人って女の人を家に閉じ込めるよね」
クロエちゃんが吹き出した。
「誤解ですよ、エミリ。私は殿下のご厚意でここにいるだけです。殿下は、兄様と私を助けてくださったんですよ」
そう否定した彼女だったが両頬は朱色に染まっていた。
ま、あのイケメンですからね。
いいなと思ってしまうのは、女の子であれば無理からぬことでしょうな!
それから彼女がどうしてフェリエスさんに助けられたのかと聞かされ、この国の王様ってのは恐ろしい奴だと思えた。
一方の大公殿下はとってもイイ人に思える。超絶イケメンですが、それが冷たく感じられるところがあり、近寄りがたい印象を受けるものの、意外と話しやすい。そして彼女にも私にも、こうして親切なのだ。
そういえば、たくさんの人が出入りするお屋敷の中で、彼に対するマイナスの発言を耳にした事がない。いろいろと盗み聞きしてしまうのですが肯定的な噂しか聞こえてきません。そんな彼の弱点を見つけたと思ったけど、それは違ったようです。
と、考えながらお喋りしていた私は庭掃除の途中で、当然ながら大幅に遅れていることを思い出します。
当然です。サボってたようなもんです。
仕事に渋々と戻る私に、クロエちゃんが
「エミリ、良かったら午後から買い物に一緒できない?」
と言ってきた。
もし私に猫耳があれば、ピンと立ってたに違いないんす!
「買い物!? 行く!」
「本当!? 良かった! 殿下がお屋敷の中ばかりいたら息がつまるだろうって仰られて……午後は買い物に出かける事にしたの」
そういえば私はこの屋敷の外を知らない。
せいぜい、城の塔から景色を眺める程度だ。
確かに、あの塔から見える街に行くのは楽しそう。
「絶対に行く!」
と断言して彼女と別れた私は、嫌なことを思い出します。
現在、私には自由などありません。侍女であるメリル先輩の下で働かせて頂く身分なのです。勝手に出かけたら怒られるのではないかと不安がよぎります。
許可を取るべきですね。
私はこうして、おっぱいの大きな先輩を探し、屋敷内の花瓶に生けられた花々の様子を窺い回る彼女を捕まえました。
「メリルさん!」
ジロリと睨まれた。
「何の用?」
はいはい、怖いですよ。
そんなに睨まなくても、私を嫌っていることぐらいわかっていますから、そんな目をするの止めてくれませんかね……。
「クロエちゃんが買い物に誘ってくれたんですけど、午後から行ってきてもいいですか?」
そう尋ねた私は、自分の発言を後悔する事になった。
罵詈雑言という熟語が可愛らしく感じるほどの罵倒を浴びせられた私は、般若のようなメリルさんの前で小さくなる。そして嵐のような言葉の暴力に耐え、その勢いが弱まるのを待った私は、その時になってようやく上目遣いで彼女を見つめる。
「クロエ様と買い物行くような身分じゃないんだよ! この田舎娘! 言葉遣いもロクにできない馬鹿がどれだけ厚かましいんだ!? あんたは黙って掃除や洗濯してりゃいいんだ!」
「ずいまぜんでじた」
うっせ! おっぱいお化け! 牛! 栄養をおっぱいに取られるばかりだからキレやすいんだよ! とは反撃しません。
メリルさんは罵声ではなく嫌味で攻撃してくる。
「だいたい、殿下のご厚意で置いてもらえている捨て猫みたいな分際で、殿下とご朝食はとるわ、一人だけ殿下に呼ばれてお部屋に入れてもらえるわ、名前で呼んでもらったりもしてるわね? そして今度はクロエ様にも取り入って……」
ここで彼女の口が大きく開かれ固まった。
首を傾げた私の肩に、ポンと手が置かれる。
「メリル、その辺で許してやれ。こいつも慣れない土地で大変なのだ」
フェリエス大公殿下様です!
フェリエス様! ああ、素直に様をつける事ができます!
彼は私の前に出ると、メリルさんの肩にも手を置いた。
おっぱいお化けの顔が一瞬で赤くなる。
「メリル、こいつの世話と仕事の両立で大変だろうが、こいつも記憶喪失で大変なんだ。少しは優しくしてやれ。お前らしくないぞ」
私は記憶喪失設定なんすね?
確かに、気づけば知らない土地に立っていたなんて頭おかしいか嘘を言ってるかのどっちかですもんね……。
頬を染めて俯く先輩から視線を転じた超絶美男子が私に微笑む。
ちょっとドキンとした……。
「エミリ、クロエに会ったのか?」
「え? ああ、はい。花壇の草取りと掃除をしていたら声をかけられて」
「そうか。彼女は色々と事情があってな。年齢がお前と近いから声をかけやすかったのかもしれんな。お前はしがらみを無視できる貴重な存在だから仲良くしてやってくれ」
そこで彼は、メリル先輩から買い物の件を聞かされた。
「わかった。メリル、お前が叱った後で許可をするつもりであったように、俺も許そうと思う。エミリ、メリルに感謝し、帰ったら仕事をしっかりしろよ。買い物にはもちろん行って良い。クロエも護衛達に囲まれるなど望まんだろう。遠目に警護させるゆえ、二人で楽しんでくるがいい」
話がわかるわぁ。
私、あんたのそういうとこ好きだなぁ。
こうして男前の許可が出たことで、私はストラスブールの市街地へクロエちゃんと繰り出すことになったのだ。
出かける服のない私は、この世界に来た時の格好である制服に着替えた。
メイド服は嫌です。
「そんなに脚を出すの!?」
クロエちゃんが驚く。
確かに、この世界の女性は皆、肌の露出をそうはしていない。それでも例外はある。ドレス系統の服は大胆なのだ。という事はつまり、勝負の時こそ見せたれ! ていう意味なのかと推測しながら、クロエちゃんに続いて歩いた。
城と屋敷を囲う高くて頑丈そうな壁は、表門と裏門の二箇所で外に通じている。
警護の人たちは皆、マントこそしているが普通と言っても良い格好で、さらに私達の後ろを離れてついてきた。
市街地の中心たる場所から外に出ると、円形の街は中心から外へと真っ直ぐに伸びる道と、城を中心に円を描くような道が内側から外へと幾本も波紋の様に通っていて、直線と曲線は交差していて市街地を区切っている。その市中をたくさんの馬車がガラガラと賑やかに往来している。歩いている人も多く、城の南側に進む私達の右手には、クロロ公園と呼ばれる大きな緑地帯が見えた。
その公園に面した通りは、椅子やらテーブルやらが並び、カフェという名前が正しいのか分からないが、それらしいお店が連なっている。
市場と呼ばれる場所へと向かう私達は、そういう景色とお喋りを楽しみ歩く。
ああ、こういう子が日本の学校にもいれば仲良くなれたのにと思えるほどに気が合う。
「エミリは黒髪が綺麗だし、可愛いから恋人は国にいたんでしょ?」
会話はそういう類のものへと変化し、全くもってモテなかった私は「ニャハハ」と笑う。
「いやぁ、褒めてもらって嬉しいけど、私ってば背が高いでしょ? 全然」
彼氏いない暦十六年で、現在も更新中です。
ああ、カッコ良くて剣道や居合、合気道の有段者でも関係なく付き合ってくれて、思いやりのある素敵な殿方はどこにいるのでしょうか。
できれば、年の差五歳以内で。
脳内で悲しんだ後に期待した私は、フェリエスさんを描いていた。
優しいし親切だ。竹刀を持った私を見て、「稽古の相手、務まるくらいに使えるではないか! よし、呼んだら来いよ」
と喜んでくれていた。
いろいろと考えてしまう。
「どうしたの?」
「な……なななんでもない!」
クロエちゃんに尋ねられるも誤魔化した私は、これまでよりも元気良く歩き出す。
市街地見物も兼ねて楽しみ歩く私達は、『ベルルファレル』という名前のお菓子屋さんでお茶をする。ここはベロア家に出入りする菓子店のひとつで、来客やら催しの時に屋敷や城に職人が来て菓子を作ってくれるのだそうだ。
苺を贅沢に使ったタルトと紅茶と楽しむ。苺のジャムも出てきて、タルトに塗るのかと思ったがそうではなかった。
「ジャムを食べて、紅茶を飲むの。美味しいよ。遠く東の国で、東西横断公道の玄関口って呼ばれる国がグラミアなんだけど、そこの王専属の料理人が考案した紅茶の楽しみ方なの……田舎の国だけど、グラミア紅茶とサファイアは有名ね」
クロエちゃんは物知りなんす。
さすが、元貴族のご令嬢。
「グラミア紅茶か、その料理人に感謝だね」
私の笑顔に彼女も笑う。
お上品に紅茶とタルトを楽しむ彼女と、ズルズルクチャクチャと楽しむ私はまさに白と黒です……。
休憩の後、市場見物もして、いよいよ目当ての装飾品店に入る。
クロエちゃんが指差した方向には、『ラムザ』と書かれた看板があった。
「ラムザ商会の装飾品店なら珍しいのも置いてあるかも。東西横断公道で、東の端っこまで行くみたいだから」
「ふんふん……良いものが見つかるといいね」
「エミリちゃんも殿下からお金を頂いたんでしょ? 一緒に買おうね」
私はお財布である革袋を確かめる。
金貨と呼ばれるものが十枚。
なんと、クロエちゃんも同じ額を殿下からもらったそうだ。しかし、先ほどのお菓子と紅茶は、誘ったのは私だというクロエちゃんが払ってくれていた。
買い物をするというのに、私のお茶とお菓子まで出してくれて……いい子すぎる!
奢ってくれる人はいい人という方程式が私の中にはありますです。
店に入り、あれこれと品々が並ぶそこに圧倒される私は、イヤリングのコーナー? に一直線に進むクロエちゃんに驚く。
「もう決めてるの?」
「うん。兄様とひとつのイヤリングを片方ずつね。家族や、大事な人と離れて暮らす時でも、その人の無事を祈るって意味があるんだよ」
私もそんな人がいたらな……。
兄貴……ひきこもりでニートで、家族に迷惑をかけるしかない存在のあいつでも、私がいなくなって心配くらいはしてくれているだろうか……
「うーん……グラミア産サファイアは高いなぁ……エダーリオ産ダイヤも手が出ない……」
クロエちゃんの唸り声に、私は隣に立ち値札を見る。
おお……どこの世界でも宝石は高い!
「この真っ赤なの、可愛いね」
私が指差した先には、赤く丸い石のイヤリングがある。
「南方大陸のルビーだよ。赤が鮮やかで濃いの。これは……ロード産だね……あ。これ良い!」
クロエちゃんの目が、青く可愛い石が輝くイヤリングを捉えていた。
「タンザナイト……」
値札を盗み見ると、おお……足りない。しかし、私の金貨を半分寄付すればクロエちゃんは買えるはずだ。
私は金貨五枚を掴み、クロエちゃんの手のひらに握らせる。
「使って!」
「え? 駄目だよ! 私はエミリと友達になりたいの! だから気を使われたりは嫌だ」
「友達だから気を遣う時もあるじゃん。それに私はこれが買いたいし、余るんだからクロエちゃんに使ってもらったほうが大公殿下も喜ぶよ」
私が指差した先には、金貨三枚もあれば買える指輪が置いてある。それが欲しいというわけではないが、しかしこうでも言わないと、クロエちゃんは受け取ってくれない。
それでも断る彼女に、
「お兄さんとお揃いのイヤリング、するんでしょ?」
と説得し、ようやく彼女はコクリと頷いた。
可愛い……性格良い……すなわち敵無しだな。
私が男だったら襲い掛かってチューしてしまうほどの可愛い顔と仕草で、彼女は金貨を握りしめ、私に言う。
「ありがとう」
こうして、クロエちゃんはイヤリングを、私は指輪を包んでもらう。この時、店の人が私達に微笑む。
「二人で買い物をしてくれたから、もう一つ、この指輪と同じ額なら金貨五枚で収めるよ」
その手には乗るしかない。
商売上手め!
真剣に品々を眺め、宝石を使ったものは高いという理由で、加工製品の棚に狙いを絞る。するとそこに、桜の花がデザインされたイヤリングを見つけた。
この世界にも桜があるのか!
じっと眺めていると、クロエちゃんが覗きこんでくる。
「これにする?」
「……桜の花、私、大好きなの」
「サクラ? これってサクラっていうのか……可愛いね。あ……」
彼女が言葉を止める。
そうなのだ。
ちょっとお高いのだ。
すると、店員さんが近寄って来て、サクラのイヤリングをさっと取って包装を始めた。
「あの、でもこれ――」
私を遮った彼は、笑顔で包みを私に渡してくれる。
「値札、どれだったか忘れた……あはははは!」
素敵な店員さんだ。
こうして帰路についた私達。
クロエちゃんは何度も私にお礼を言い、私はその度に抱き着き頬ずりして彼女を笑わせた。そうしながら進む私は、向かう先に見える停留所を指差す。そこにはちょうど、馬車が到着していた。
市街地をぐるぐると周回するこれは、言うなればバスに近い。道のあちこちに馬糞が転がるはずなのだが、清掃が行き届いた市内は清潔このうえない。日本人の私がこう思うほど、ストラスブールは綺麗だ。
遅れて到着したクロエちゃんが、馬車に駆け乗ったと同時に運転手さんが馬を進ませる。屋根付きの四頭立て馬車は人が歩く速度よりも少し早い程度で、それは駆け足に近い。でもこういう移動手段があるのは、例えば老人や子供にありがたいと想像できる。
しかも安い。
どこまで乗っても十フラム。
これはストラスブールの平均日当が三百フラムであるから、とても親切な値段設定だと思うす。この便利な馬車が市内をたくさん周回しているせいで、重い荷物を持った女性も一人で移動できたりもするのだ。
「機会創出だ。運賃で儲けたいところであるが、まずは人の移動を促進させたい」
オーギュストさんとフェリエスが来年度の運賃値上げ案を却下した時、私もその場で掃除をしていたので聞いていた。
その時は、運賃をあげたら儲かるやんけ! と思ってたんだけど、二人の狙いは別のところにあったんですねと今は思える。
クロエちゃんと二人で車窓から街を眺め、次はあそこに行こうとか、ここに寄ろうとかお喋りする。
公園脇のカフェが並ぶ通りは、夕方である現在、お酒を出すバーに早変わりしていて、テーブルを灯すキャンドルがたくさん連なる光景は美しい。
夜に恋人と来たいねと二人で胸を高鳴らせ、楽しい気持ちで屋敷まで帰ったのですが、公爵邸に帰った途端に、楽しく愉快な気持ちは吹き飛びました。
屋敷の庭に立派な馬車が停まっていて、来客かな? と思いながら屋敷に裏口から入る。そこでクロエちゃんと別れ、私は仕事に戻るべく着替えの部屋まで歩いていた。
通路の向こうに、鮮やかな金髪のメイド姿が現れる。
メリルさんだ。
彼女は凄まじい速度で私に接近すると、恐ろしい笑顔でこう言った。
「お客様がお見えよ! 早く着替えて手伝いなさい!」
叱られてばかり……。
私は急ごうと走り、通路の角で人とぶつかる。
「気をつけろ!」
「ああ! すいません!」
「あ! お前か」
通路にひっくり返っていた私を引き起こしてくれたのは独眼竜のおっさんで、ハザルという名前の人だ。彼は空中に放り投げていた大事な装飾品の包みをキャッチしてくれていて、立ち上がった私に返してくれると同時に言う。
「お前がまさかねぇ……」
「あの……ありがとうございます。失礼します」
立ち去ろうとすると、手を掴まれた。
……この人、相当に強いと分かる。
「ハザル様! エミリには仕事がございます。御用がありましたら、私が伺いますが?」
おっぱいお化けにも動じない片目のおっさんは、私の手を掴んだまま歩き出した。
「剣が使えるよな?」
「ひぁ!」
「ちょっと来い。稽古場に来い。試合の相手をしろ。強ければ使ってやる。人手不足でな」
私はこうして、問答無用でハザルさんに連れられ稽古場に向かったのでした。
-Féliwlice & Emiri-
応接用の室は豪華な調度品が揃えられているが派手ではなく、品々の価値を理解するには教養がなければ難しいだろう。
ロゼニア王国からの使者ヘルムンド伯爵は、黒檀の卓に置き広げた書類を老人と若者に説明し、そこに記されている内容に嘘偽りないと言葉と表情で伝えた。
「しかるに、我が陛下におかれましては、アルメニア王国との関係こそ重視すべき潮時であると申しております。その王国を統べる国王陛下の叔父上が、ロゼニアと接するベルーズド地方を治められているのも何かの縁。ロゼニア王国とアルメニア王国を橋かけるに、これ以上の縁談はございません」
ヘルムンド伯の口上が止まり、フェリエスは見事な金色の髪をかき上げ薄く笑う。そして青い瞳に使者を映すと、視線は止めたままアレクシに言う。
「使者殿はこう申されておるが、どうか?」
大公の問いに家老は顎を引き答える。
「帝国の属国でしかないロゼニアが、殿下を利用しアルメニアに取り入り、自立の道を探すという意味においては、この婚儀は役立ちましょうな」
あえて相手を怒らせる言い方をしたアレクシにフェリエスは苦笑し、使者も同じくそうした。ヘルムンド伯とすれば、ここはいちいち感情を露わとするのも馬鹿らしい。
アレクシの言は事実だからだ。
それでも、もう少し言い方があるだろうという抗議を咳払いで示す。
フェリエスの家老は瞬きし一礼すると謝罪した。
「失礼を……老人は口が悪いものです」
臣下の非礼を詫びるという名目で大公が家老の後を継ぐ。
「すまぬな……しかし、貴国の申し出はなかなかに興味深いものであったし、女王陛下のお考えを伺えて嬉しく思う。それでも俺は一存でこれを決める事はできぬ。陛下のご判断を仰ぐしかなかろうよ」
若く美しい大公の声にヘルムンド伯は頷き、ならば王の考え次第だなと確認を視線に込めた。それを受けたフェリエスは口端を歪めて頬杖をつく。
「伯、そのような目で見られても頷く事はできんな」
フェリエスと使者の間で、空気が緊張で張り詰めた。
内諾だけでも取りたいヘルムンド伯爵と、そんな事などできない大公の静かな争いはアレクシの咳払いで終わる。
「殿下、しかし問題があります」
「なんだ?」
問題など俺の気持ちくらいだとフェリエスがアレクシを見た時、老人はヘルムンド伯に視線を転じていた。
「伯、ロゼニア王家の姫君をお迎えするに、妾、側室の類は取らぬが条件ですな?」
「左様ですが?」
それがどうしたという顔の使者。
ロゼニア王家は代々、女王が支配する国家であると同時に、王家の女子は必ず強い魔力を宿している。そして見目麗しく育つと言われていて、それは事実であった。そしてロゼニア王国は一夫一婦の風潮が強く、王家はさらに強い。優秀な魔導士の血と美女が、ロゼニア王家という箔をつけて嫁いでくるとあれば、少なくない者が一夫一妻に従う。
有名な例でいえば、ゴーダ騎士団領国の先代総長がこれであった。
アレクシは言う。
「殿下には妾がおりまする。残念ながら、すぐにどうこうできませぬ。殿下も人の子、大事にする女性に出て行けと冷淡な態度を取るには時間が必要でしょうな」
そんなものはいない。
嘘であると知るフェリエスは無表情で、知らない使者は目を見開いた。
彼はこの話を持ち込む前、ベルーズド公爵たるフェリエスの身辺を調査している。ここで女性の影は塵ほども出なかったのだ。
だが嘘だとする材料もない彼は、男色の噂さえ立つからという理由で決めつける事もできない相手を前に押し黙る。
沈黙。
破ったのはフェリエスだった。
「お休みになりながら国への報告をまとめられればよろしかろう、伯」
終わりだと告げた大公は、ヘルムンド伯の姿が室から消えた後、アレクシに流し目を送る。
頬杖をついたままなのは、嘘をつくにもこんなものは嫌だとする不満の表れであったのかもしれない。
「アレクシ、どういうつもりだ?」
「ご相談なきまま申し訳ありません。ですがこれで時間は稼げます。殿下、ロゼニアと帝国の関係、調べがまだ足りません。お待ちください」
大公は笑うこともできなかった。
「おい、お前は俺に妻を娶れと言うか?」
今度は老人が驚く。
「まさか一生独身のままで? ありえませぬ。どうせいつかはどこかの姫君を頂くのです。どうせなら、美しく賢く魔力を持つ美女で良いではありませぬか。ロゼニアという土産を抱えて来るのですぞ?」
「ロゼニアを?」
「王に対抗するに、ベルーズド地方と周辺だけでは足りませぬ。ロゼニアのトリノ……内海貿易の一大拠点であるここからの富はありがたく使わせて頂きましょう。それにロゼニア王家の軍は貧弱なれど、抱える魔導士は優秀と聞きます。ありがたいではありませんか」
フェリエスの渇いた笑い声は呆れであった。
今さらながらに野心旺盛な老人を前に、自分などとてつもなく謙虚であるとも思えた。
「どうやる?」
「簡単な事。帝国にこの情報を流すだけで後は勝手に踊るでしょう」
アレクシからして、ロゼニアは誤ったと見えていた。
このような大事を自分がするならば、フィリプの許可を得た後に問答無用で搦めてしまうだろうと彼は思う。ゆえに、「ロゼニアはお上品ですな」と家老は言う。彼は笑みを浮かべていたが、凄まじい迫力を若者に与える。
フェリエスはだが微笑を保ち、妾をどう仕立てるつもりかを彼に問うた。
「良い娘がおります」
「クロエか? ジェロームとのこともあるし謀に使うのは気がひけるが?」
断りを入れたフェリエスにアレクシは同じく微笑む。
「エミリです、殿下」
この時、大公は隠していたはずの動揺を晒し、家老に見られた。
「思えば殿下が、あの様に気をかける女子など他におりませんでしたし、憎からず思っておられるのでは?」
「嫌いではないが?」
「殿下、その回答が答えでございますよ……それに、あの娘なれば事が終わればいかようにもできます」
「俺は彼女を雑に扱おうとは思っておらん……気の毒だと思わないのか?」
「そのような甘いことでは、いつか寝首をかかれまするぞ……では」
腰を摩り立ち上がった家老が室を出て行く。
フェリエスは鈴を鳴らしてメリルを呼ぶと、ジェロームを連れて来てくれと頼んだ。彼女は一礼し去っていくが、昼間のことを思い出した大公が吹き出し、気付いた侍女が赤面する。そしてそれを隠すように彼女は急ぎ去った。
「あのメリルが感情露わに怒るとは……エミリめ、どうせ表だっては従順を装いつつも、隠せない反抗心が顔に出ているに違いない」
フェリエスは喉を鳴らして笑うと、ようやく頬杖を解いた。
彼は椅子に身を沈めたまま、窓から差し込む陽の光が弱く薄くなっていて、照らされた床と闇の境界がぼやけているのをただ眺めた。
エミリが国に帰る時まで守ってやりたいと思う自分に戸惑う。
それは、アレクシが自分を守ってくれたものとまた違うが、しかし彼にはそう思えた。
共感ではない。
では何かと考えた時、彼はやはり恐いのだと思えた。
エミリを見る時、過去の自分を思い出し、そして助けなければあの時の大人達と自分も同じであると思い込んでいる。
ごちゃごちゃと理屈をつけて自らを納得させたいあたり、やはり彼は彼女を憎からず思っているのだが、しかし彼自身はそれを否定する。
これもやはり恐いからだった。
思考の沼にはまった彼を助けたのは、ジェロームが扉を叩いた音である。
「お呼びでございましょうか?」
「ああ、モリエロ州への仕掛けのことだ。アレクシはお前と決めるが良いだろうと言う。まだまだ隠居はさせたくないが、本人は俺達に考えさせたがっているからな。考えてやろう」
ジェロームは勧められるがままに座り、大公に自案を出す。
それは、ゴーダ騎士団領国への出兵が近いという噂を利用してのもので、彼の地で高まるであろう不満を大きくしつつ利用する類のものである。聞き入るフェリエスは質問を挟まず、空腹で場所を変える移動の際もジェロームに喋らせ続けた。しかし、ある場所へと近づいた時、大公は初めて幕僚の声を遮る。
稽古場であった。
エミリの声がしたのだ。
彼女が剣を使うのは大公も存知であったが、誰と稽古をしているのかと嫉妬に近い興味を覚えて覘く事にする。
相手はハザルだった。
フェリエスは安堵し、自らの心境に苦笑するも、それを隠して声を発した。
「楽しそうな事をしているな!」
「殿下、試合に勝ったらこいつを俺にください」
ハザルの申し出にフェリエスは目を丸くし、同じくエミリも木刀片手に茫然とした。
「いえ、その……軍にくださいという意味です」
誤解を訂正した隻眼の男に、フェリエスはそういう使い方もあるかと閃く。彼は曖昧な返事をし、試合を始めた二人を眺めながら隣のジェロームに尋ねる。
「ロゼニアから使者が来ている。ロゼニア王家の姫を取れという目的だが、お前はどう見る?」
「は……目的は明白なれば、時間を稼ぎ帝国とロゼニアに楔を打ち込みたいところです」
アレクシもそう言ったと微笑む大公は、なかなか動かない試合中の二人を見て、なるほどと頷く。彼自身もエミリと手合せしたが、最小限の動きで敵を倒すという動作が鍛えられているし、俊敏さを武器に強かった。その彼女を構えと空気から認め本気を出すと決めたハザルを前に、彼女も彼の強さを読み、今の膠着があるとフェリエスは顎を引いた。
「ジェローム、爺は時間稼ぎに妾を仕立て上げると言った。エミリを勧めてきたが、それは彼女だ」
ジェロームは妹からもらった耳飾りを思い出し、それが輝く右耳に指で触れる。
「事情を聞いております。妾役ですか……外見だけで言えば気の強さが眉や目に現れておりますが、それがかえって可愛らしさなのでしょうか……殿下のお気持ちが大事だと思いますけれども、如何?」
「妾として近くに置くのは抵抗を感じる。そもそも俺は、女性とそういうのは苦手だ。いや、男好きだというわけじゃないぞ」
未だ対峙したままのハザルとエミリを眺める二人は、それぞれが微かに笑った。
「例えば……護衛という事で近くに置くなら、俺はそれならばと今、思っている」
フェリエスの言葉に、クロエの兄は一礼した。
それが賛成の意であると受け取ったフェリエスと、立ち去るジェロームが離れた時、試合が動いた。
「いやーん! ハーザールさーん、こわーい! 本気だしちゃ、やーだー!」
くねくねと身体を悶えさせ、猫撫で声を出したエミリに、フェリエスだけでなくハザルも驚く。
刹那。
エミリが一瞬で木刀を一閃させていた。
フェリエスをして、入ったと思った打ち込みはだが見えているわけではない。
それでも、ハザルは笑って木刀を持っていて、攻撃を仕掛けたエミリは手にない木刀が宙をくるくると飛んでいるのを見て悔しそうな表情を浮かべる。
「俺の勝ちだな」
隻眼の男が誇る事なく言い放ち、落ちてきたエミリの木刀を掴み、大公に言う。
「殿下、こいつを軍にください」
フェリエスが笑い、片手をあげ答える。
「半分はそうしよう。エミリ、お前を妾兼護衛に命じる。後で執務室にハザルと来い」
大公は言い終えると同時に歩き出していて、稽古場から離れる。
彼は笑いたいのを我慢していて、この時、やっと笑う事ができた。
エミリの卑怯な攻撃を目の当たりにして、フェリエスは自分好みだと思えている。
「勝ち負けに正々堂々を持ち込まないところが気に入った。はは……あいつ、おもしろいな」
フェリエスは、使用人達に不審がられるほどに緩んだ顔で自室へと向かった。