7
ワラキア伯ヴラドは、王都にあって苛立ちを隠せない。まさか、このような形になるとは、誰が予想しえたであろう。
女に逃げられただけでなく、弟を殺され、さらにルーベルト州の彼の領地は大公軍騎兵によってボロボロにされたのである。さらに王宮からは王家の人間であるシャンパーニュ公爵殺害の疑いをかけられ、指示したはずの国王すら「誰もここまでやれとは申しておらぬ」と全く頼りにならない。いや、そもそも頼りにしていたわけではないが、ここまで見事に手の平を返されると、腹が立つのは彼とて人と変わらないのだ。
ヴラドは王都の邸宅で、ベアトリスの報告に舌打ちした。同時に、大公が家老を使者として遣わせた事実に頬を歪める。
「会うとするか」
「よろしいので?」
「ベロア家の家老が乗り込んで来たのだ。追い返すわけにはいくまい」
廊下を歩くヴラド。
彼はフェリエスの秀麗な顔を脳裏に描くと、軽く舌打ちをした。だいたいあの男が、どこの誰かもわからぬ女を囲うから厄介事が増えたのだと彼は思う。しかも男のように軍まで率いさせ、目立つ事この上ない。
(東方の戦乙女などと呼ばれるまでに名声が高まっているが、どういうつもりで、そのような事をしている?)
扉を開けると、老人が長椅子から腰を浮かす。ヴラドはあくまでも丁寧な所作でそれを制すと、対面に座った。
「俺はまどろっこしいのは嫌いだ。用件を申されよ」
「しからば……」
フェリエスの知恵袋であるアレクシ・デュプレが一礼する。ワラキア伯が鼻を鳴らしたと同時に、老人が笑みを浮かべた。
「殿下は伯と事を荒立たせようとは思うておりませぬ。ただ、叔父上を殺害され、婚約者をつけ狙われたことに黙っておっては周囲が納得しますま――」
「待て」
ヴラドがアレクシの言葉を遮った。
「俺こそ、弟を殺された」
「弟君は、殿下の伯父上を殺し、その養女を狙った張本人でござる。そして、それを命じたのは伯爵閣下であられる。証人もおりまする。弁解の余地はございますまい」
(どこまでも憎らしい爺め! どうせ、捕えた兵士を証人に仕立てあげたに決まっておる)
「では、俺の領地を荒らしまわったのはどこのどいつだ? 貴様らの軍であろうが」
「あくまでも、自衛に過ぎませぬ」
ヴラドが双眸を危険な色に輝かせるのを見た老人は、腕を組み背筋を伸ばした。
「で、閣下。これはわしの独り言。聞き流してくれて結構でござる」
アレクシが微かに目を細める。ヴラドは、この男の独り言がどういうものか興味を持つ。
「閣下がシャンパーニュ公やその養女を狙う理由がござらん。つまり、閣下とて望んでした事ではございますまい。となると、誰の意向かが問題となりまするが、ワラキア伯が頼まれて断れぬ相手となると、一人しかおりませぬな」
ヴラドは大きな身体を揺らして笑った。
「俺も独り言を言おう」
彼はアレクシから視線を逸らし、部屋の窓から外を眺める。王城の巨大な塔を見ることが出来た。
「どのような想像をするのも勝手だ。ただ、俺がこうして王都に留まっているのは、どういう理由か考えればわかるであろう」
この男、ただの筋肉馬鹿ではないな。
アレクシは笑みを浮かべた表情とは裏腹に、胸中で大きくなる不気味さに喉を鳴らす。
(馬鹿であれば利用しがいがあるというものだったが、これはいかん。この男は、殿下が思うような男ではない)
「アレクシ卿も苦労が絶えぬな。ま、俺とて同じようなものか。しかし、殿下におかれてはまず気をつけられるは弟のほうであろう」
ヴラドの言葉に、アレクシは表情を消した。
「さて、さっぱり見当がつきませぬ」
「ふむ。ならばそのままで聞かれよ。ブロー家の伯爵位召し上げは記憶に新しいが、キュイ卿が存命であるのはご存知か?」
アレクシの右眉がぴくりとあがる。
「知らぬようだな。弟が匿っておる。いや、匿っておるという表現が正しいかは分からぬが、あの男が利用価値のない者を匿うような真似をするはずがないことを、殿下もアレクシ卿も存じておろう?」
ベロア家の家老は立ちあがった。
「これにて失礼つかまつる。伯爵閣下の御厚意には、殿下も謝辞を述べられるでございましょう」
ヴラドは口端を歪めて見せた。
-Féliwce & Emiri
アレクシは王都の大公別邸に急ぎ戻ると、鳩をストラブールと大公の元へと飛ばした。
(カミュルめ。どこまでも嫌な男じゃ)
ジェロームは真面目な男である。だから伯爵家を召し上げられた事を、語らぬが相当に恥じているのである。しかしそれが、フェリエスの手によって起こされたものだと想像でもしたら……ワラキア伯ヴラドが、わざわざアレクシの耳に入れたという事は、そういう筋書きがあるのだ。
カミュルは大公の力を削ぐ為に、君臣の間に隙を生じさせようとしているのだ。皮肉にも、この策がフェリエス陣営にとって痛いのは、完璧に反論できぬところである。結果を見れば、誰が得をしたか一目瞭然であるし、またこうなることを望んでいたのは、間違いなく事実であったからだ。ただ、フェリエスが当初、狙っていたのはモリエロ伯キュイの臣従であって、破滅では無かった。それを、キュイ・ブローを助けた王弟が、ブロー家に起きた悲劇の張本人は大公であると吹き込んでいるのであろう。確かに、そう苦労することではない。
カミュルはキュイ・ブローにこう言えばいいのである。
「考えてもみよ。結局、得をしたのはどこのどいつだ?」
「キュイ卿も皮肉なものだ。息子は策謀の主犯を恩人と奉って忠義を尽くし、娘は外面だけは立派な男に尽くしておる。領地を奪われ、爵位と名誉を奪われ、さらに家族まで奪われたか」
ジェロームの忠義の根は、彼と妹を救ってくれたフェリエスに尽くすという点に尽きる。この根が張っている限り、彼の忠義は疑いようのないものだが、とアレクシは思う。
「真面目であるからこそ、危ういの」
アレクシは大公別邸の一切を取り仕切るボルネア・デサイーを呼ぶと、王弟の屋敷を探るように命じた。
「は……草を使いますれば、数日後には」
「うむ。とにかくここは、キュイ卿が間違いなく生存しているか確かめる必要がある」
ボルネアは短く切りそろえた茶色の髪を指でつまみながら、窓の外に視線を走らせる。
「いるか?」
夕闇が迫る王都。人の影を窓に浮かび上がらせるには十分であった。影は声を発せず、じっと動かない。アレクシがしわがれた声を発する。
「王弟の身辺を探っている者から報告をあげさせよ。キュイ卿について聞きたいのだ。それと、ジェロームに誰かをつけろ」
影がゆるりと動き、一言も発さないまま姿を消す。
「ボルネアよ。近々、草達の事をエミリに話そうと思う」
大公別邸の責任者は、笑みを浮かべた後に首をかしげた。
「ご家老。しかしエミリ様は奥方様になられます。こういう仕事はもっと相応しい者がいると思いますが……」
アレクシが水の入った杯を手に取り、片目だけを細めた。
「残念ながら、今は太平な世ではない。いや、太平な事など、人間の世にはないな」
独り言のようにつぶやいた家老が、ボルネアに視線を向けて言を続けた。
「歌や踊り、恋話や花にうつつを抜かして許されるほど、大公殿下の奥方という立場は軽々しいものではない。そもそも、一国の妃とあろう者が、宮中で贅沢三昧に興じている今のアルメニアが異常なのだ。国中を見てみよ。飢えた民は明日の食事にも困り、年端もいかぬ娘に客を取らせている。息子を奴隷として売り払う事で、冬を越す金を手にいれる民もいる。華やかな王都の中しか知らぬ人間には、この国の窮状が見えておらぬのだ」
家老の言を受けて、ボルネアは口を開く。
「エミリ様はとても素晴らしいお方です。私……いえ、家中の誰もが、エミリ様には幸せになって頂きたいと願っておりますれば」
アレクシが鼻を鳴らした。
「わしだってそう思っておるわ。じゃが状況が許さぬ。国王はベルーズドの発展を目にし、それがどういう目的を持って為されたか感づいた。いや、おそらくカミュルあたりが入れ知恵をしたのであろう。殿下は数年前に比べ力をつけられたが、立場的にはまずくなられた」
税収をあげる為に、急激な投資と改革が行われたベルーズド公領。人はそこを大公領と呼ぶが、なぜこうまで早急に発展せしめる必要があったのか。賢い者が少し考えれば、私財を投げ打ってまで急いだ理由は、王家と対立する為に力をつける必要があったからだと推測できる。税収を上回る投資を行い、反発も恐れず改革を断行した大公は、平和的な統治者ではなかった。利権にあぐらをかいていた者達は追い出され、そこには決して表に出なかった争いもある。そうまでして、大公領を発展させた理由。それは自前の軍隊を継続して養うだけの財力と、独立した経済圏の確立を短期間で築く必要があったからだ。
「ご家老、しかしエミリ様が望んでおられるのは、殿下との穏やかな日々でございます。我ら家中の者共、身を挺して働きますれば、エミリ様には楽をして頂きたい。これまで、おつらい日々をお過ごしのあの方には、その権利がございます」
ボルネアはエミリの姿を脳裏に描く。彼女がこの屋敷にやって来た時、彼は目を見張った。美しく賢そうな顔立ち。しかし彼はこの時、殿下にとって相応しい相手ではないと思ったのだった。美しい女はそれを鼻にかける。賢さを持ち合わせていれば、それは男にとって生意気にも映る。殿下のお相手は、殿下を癒すことが求められると彼は考えていて、そういう女性はもっとおっとりとした、控えめな中にも芯の強い女性だとボルネアは思っていた。
ところが、夜は大公の寝所を守り、昼間に隠れて睡眠を取るエミリ。彼女はそれを決して表にはださず、寝不足でできた隈を化粧で隠して健気に勤めていた。大公と喧嘩をしていたにも関わらず、彼女は必死に、フェリエスの為にできることをしていた。
これが貴族の娘達であれば、周囲の侍女や付き人に当たり散らしていたであろう。
ボルネアはある疑問をアレクシにぶつけた。
「エミリ様はとても賢く、武術に優れておられ、とても平民の出とは思えませぬ。しかし、どこぞの名家のご令嬢でもないご様子。いったい、殿下はどこでエミリ様を見つけられたのですか?」
現代日本の義務教育は、この世界では高等学問に相当する。いや、もっとかもしれない。幾何学や化学、物理など、この世界では高位の学者が学ぶものであるからだ。
アレクシは笑った。
「ある日突然、殿下の目の前に現れたのだ。まるで天から降ってきたようにな」
ボルネアが目を白黒とさせるのを見て、家老は悪戯めいた笑みを浮かべた。半瞬後、表情を改めたアレクシが口を開く。
「エミリは確かによくやってくれている。ロゼニアの件など、殿下がもう一人いるようであった。お役御免を申しつけてやりたいところではあるが、そうもいかぬ……ベロア家は領地を持ってまだ四年。大きく膨らんだせいで、人が足りぬ。譜代家臣がおらぬからな。マルセロやカミーユは領地経営を任せるには大丈夫だが、あくまでも方針を決めてやらねばならん。大局を見て軍事に内政に方針を定め、計画をたて実行できる人材がわしをおいてはエミリしかおらぬ。わしはもう爺だからな」
アレクシが自嘲気味に笑うと、ボルネアが思いだしたように一人の男の名をあげた。
「ジェローム卿がおりまするよ」
「ジェロームか……」
アレクシが頬を強張らせたのに、ボルネアは気付く事はできなかった。
-Féliwce & Emiri
商人達との会合において、オーギュストから見ても明らかにエミリは場を支配していた。大公の代理として臨んだその場において、彼女は凛とした美しさで商人達に販売量と価格の協定禁止を通達した。
当然、多くの反発があった。
「関税を撤廃したのは、健全な競争を望む殿下の方針の表れです。何もあなた方のみを保護する目的ではありません」
「馴れ合いは下降線の始まりです。大公領において強者が強者で居続けるにはさらなる経営努力が必要なのです。その為の支援は惜しみません」
彼女はこう説明した。
商人達とて馬鹿ではない。これまで通り、大公領で商売を続けることが彼らの望みでもあり、関税や価格権税を取らないこの領地にいる利点を活かすことが繁栄につながると理解している。ただ、反論せねば気がすまない独立性がそうさせているのだ。
「皆さま方を困らせるだけが我々の仕事ではありませぬ。来月から寄港料を撤廃いたします。それとロゼニア王国との間に通行料撤廃、出入国審査緩和が決まりました。詳しくは通達文書でご確認くださいますように。まずはご報告だけ」
鞭の後に飴を握らされ、公爵府が置かれた城から出て行く商人達は皆、笑っていた。鞭より飴のほうが恐ろしく巨大であったからだ。
彼らを城の出口で見送るエミリの背後に、オーギュストが立つ。
「それではご機嫌よう……」
一人ひとりに頭を下げるエミリ。商人達も丁寧な物腰の彼女に悪い印象は持たない。
多くの商人達が去り際に、エミリへと挨拶をする。
「美しい指輪が入りました。一度、ご覧になってくだされ」
「エミリ様、来月の入札の件、必ず参加させて頂きますよ」
彼らを見送る彼女の隣に、オーギュストが立った。
「人気者だな」
政務卿の声にエミリは黒い瞳に疲労を浮かべて微笑んだが、表情は晴れやかだった。
「オーギュストさん、歩きながら話があるの。麦の値段が全体的に上がってきてるから手を打たないといけない。商人さん達も困ってるし」
「大公領だけを見れば生産量は上がっているが、王国全体で見れば下降線を辿っている。それでだろう」
書類と羊皮紙を束ねて持つエミリが、城から公爵邸へと歩き出す。その隣を、夕日に染まったかのような髪を手でかき回すオーギュストが並んだ。幾人かの兵士がすれ違いざまに一礼し、二人もそれに礼を返す。半瞬後、オーギュストは笑った。以前の彼なら、いちいち礼を返したりしなかった。それがエミリとこうしてつるんでいると、ついつい返すようになったのだ。
「おお、そうだ。エミリに言っておかねば……。例の指揮官の件で応募があった。いつ会う?」
「何人?」
「三人だ。いずれも二十代から三十代。傭兵稼業で身を立てていた連中だ」
「ふうん……すぐ呼んで。彼らが到着するまで、土地相続法の打ち合わせ。資料を持って私の部屋に来て」
「ああ、分かった」
彼女と別れたオーギュストは、ふと足を止めた。
いつの間にか、エミリの指示に従っていた自分に気付く。
「……生意気な」
言葉とは裏腹に、彼は喜んでいた。なぜか分からない。だが、無償に心地よい感情を抱いた彼は、黒髪を揺らして足早に離れて行くエミリを見送っていたのだった。
-Alfred Shyster-
アルメニア王国という国は、民主制から絶対王政となり、そして立憲君主制となっている。エミリ・ホリカワが生きた時代というのは、絶対王政の末期であり彼女が絶対王政から立憲君主制へと移行させたといえる。しかし、彼女の存在自体が危ういため、現在において王家が自ら、そう動いたのだという説が強い。
しかし、それこそこじつけだろう。誰が好んで自ら権力と富を手放すというのか。確かにアルメニア王家による統治は混乱を極めていたが、それでも巨大であったはずなのだ。
学会から帰った僕は、依頼主の援助によって王立図書館の王家秘蔵の書物を読ませてもらう許可を得られた。依頼主のことは詮索しないという約束だった為、ここまで力のある人物であったと知った時は天を仰いだものだった。
失礼をこれまでしていない事を祈る。
その書庫で、僕は歴史がかなり間違って伝えられていたものであると知った。王家はこれを公表しないのは何故だろうか。これを世に出せば、エミリ・ホリカワという女性が実在の人物であったという確たる証拠になるのに!
「王家には王家の考えというものがあるのですよ」
書庫入室許可が出たと僕に伝えた時の依頼主が言った言葉だ。
いくつか衝撃的な事実がわかった。
フェリエス大公が正妻を娶ったという記録は残っていない。しかし、アルメリア王国歴三四八年春に、彼は婚儀をあげている。相手は書かれていない。
次に、エミリ・ホリカワは三四七年夏に、シャンパーニュ公爵の資産相続を放棄している記録があった。つまり、あのお話は本当だったのだ。当時はベルクトという名の町で、シャンパーニュ公爵と町の人達と楽しく過ごしていたのだろう。
また、重要なのは彼女が資産を放棄しているということだ。彼女は公爵の養女となっていたのだ。なぜ? 家柄をつける為と考えるのが妥当だ。であるなら、彼女は何の為に家柄が必要だった? 高貴な者と結婚する為だ……フェリエス大公と結婚する為だ!
それにこの記録そのものが、彼女が実在の人物であるという疑いようのない証拠である。
僕は正しかった。彼女は実在していたし、フェリエス大公と恋仲で、しかも結婚していたのだ。
エミリ・ホリカワが公爵の相続権を放棄している書類には特徴的な彼女の署名が書かれていて、見れば記憶に残る印象的な字だと言っておこう。aとmの字、当時は『アルダ』『マム』と発音する字がやけに斜めだ……急いで書いたのだろうか。
いくつか疑問があるが、後でまとめて考えよう。
アルメリア王国歴三四七年春から夏まで行われたアラゴラ公爵討伐は、最終的に休戦という形で終わっている。これは、王弟が仲裁に奔走した結果であるというのが一般的な解釈であるが、この書庫でそれは間違いであるとわかった。王国宰相であるリシュルー公爵が、アラゴラ公爵の息子に末娘を嫁がせ、つまり人質を差し出し休戦を結ばせたのだ。これは完全に負けに近い引きわけである。しかしなぜ、宰相はそこまでしたのか……当時の書物をかき集め調べると、異常な冷害で夏に作物が育たなかったと書かれているのを見つけた。これが原因か。そうに違いない。作物が取れず、兵糧が不足し、戦争が継続できなくなったのだ。冷害の被害は王国中央部、つまり王家の直轄領が多くを占める一帯で特に大きい。相当な打撃を国庫は受けたのだろう。
フェリエス大公とエミリへと戻る。二人は三四七年秋になってようやく再会している。
二人が連名で、大公領の税制改革を発表している資料が書庫の奥に眠っていた。こういうのを表に出さないから、研究家達は苦労するのだ!
フェリエスがまだ大公であった頃に導入した三兵制度、当時は歩兵、弓兵、魔導士で三兵であったこの制度も、三四七年秋に大公領で本格導入されている。
記憶を辿る。
彼女は公となっている歴史書に現れていない期間が多々ある。まずは、三四七年の冬から夏にかけて。シャンパーニュ公爵葬儀後から三四七年秋にフェリエス大公と税制改革を発表した後、再び結婚式まで姿を消す。そしてその後、さらに数カ月の期間、表舞台に立っていない。
いちど消えてから四カ月目に結婚式で登場。再び姿を消して……十三ヶ月後に、イスベリア侵攻戦の軍を指揮している。結婚式から一年以上も姿を見せていない。この期間に関して、王家が隠し持っていた書類や記録にも出てこない。
なぜだ?
……三四七年冬に、大公領で謀反があったという記録がでてきた。これも表には出ていない。どうしてだ?
書庫の中を探しまわったが、目当ての物は見つからなかった。代わりに、彼女が謡ったであろう歌が出てきた。
『遠くとおく離れていても、あなたはまるで隣にいるよう。こうして手を伸ばせば、あなたの髪に振れているよう』
『あなたが笑えば、私も笑う。そんな日々が、当たり前になりますように』
他にもたくさん出てきた。これを上手いか下手かと論じるほど、僕は歌には詳しくない。メモっておいて古歌研究の同僚に見せてやろう。大公の事を想って歌ったのだろうか……。
しかし、王家はなぜエミリ・ホリカワの存在をこうして隠しているのだろうか。確かに彼女は、王家に弓引いた人物だが、しかしそれは、今、改めて考えてみるとフェリエスの為にした事ではないだろうか。彼女は、彼の為に汚名を着たのだ。彼の為にしたくもない事をしたのだ。エミリは、国民の為に王権を打倒したのではなく、フェリエス個人の為に、あえて行動したのだ!
……興奮してしまった。
彼女の記録が公式文書には一切、残っていないのは王家がご丁寧に隠し持っていたからであるが、それによって歴史研究者達は彼女を架空の人物であるとか、誰かの偽名であると考え、それは既に一般的なものになってしまっている。僕一人がどう足搔こうがその流れに逆らえない。例えば、ここに眠る彼女の記録を持ちだせれば、それを変えることが出来るかもしれないが、三重の防御とあのうるさい検査官、そして魔導士による検問を突破するのは難しい。仮に突破できても、僕がここに入った記録が残っている以上、僕は残りの人生をかけて逃げ回らないといけなくなる。
おとなしく、調べ物だけさせてもらおう。
フェリエスはアラゴラ公爵討伐から帰還し、領政を行う一方で、何度かロゼニアに救援を出している。それはここの記録とも一致する。彼は休む事を知らない人間だったらしい。
三四八年冬には、ストラブールにおいて総合医療を目的とした巨大な病院を開業させていて、当時では珍しい小児科や産婦人科までここにはあったようだ。こういう偉業も隠してしまってはもったいないと思うのだが……。
三四八年になって、アルメニア王国は再び、ゴーダ騎士団領国へと侵攻している。この時、アルメニア王国軍は前回とは比べものにならないくらいの規模で、記録には五万とされていた。これは食料問題のせいだ。書庫の資料によると、公になってはいないが、疫病も王都近辺で流行したと書かれていた。
そして三百四十八年春。今風に言うと四月四日。
ストラブールでフェリエス・ベロア・ベルーズドは夫となった。新婦の名は記録に残されていない。どうして? おそらくエミリ・ホリカワのはずなのだが。
可能性一。署名を新婦が拒否した為。つまり、婚儀途中で逃げ出したのだ。これはさすがにないだろう。
可能性二。当時は新郎のみが署名をする風潮だった。しかし、これも考えにくい。これより過去を見れば、王家の婚儀において、新郎新婦の署名は必ず連名で残っているのだ。
可能性三。署名はしたが、意図的に消された。
……消されたのだ。
エミリ・ホリカワの名前を記録から消したのだ。
いや、待て。ちょっと待て……。
税制改革の資料には名前が残っているぞ……。こっちのロゼニア王国併合の署名も彼女の名前は書かれている。これは結婚式よりずっと後だから、結婚式の署名を消すなら、これも消すのが普通だ。
農地開発、都市計画、法律改正……彼女は署名していて、それが残っている!
結婚式の署名だけ消しているのはなぜだ……?
いや、王家がエミリ・ホリカワの存在を隠すのはなぜだ? 現在において、彼女が架空の人物であるとか、誰かの偽名とか、そういう説が堂々と論じられているに関わらず、真実を知っているはずの王家が資料の発表を控え、議論から身を引いているのはなぜか。
僕には、王家によって彼女が消されようとしているようにしか思えないのだ。
アルメニア国民は、これを知るべきではないのか。今、僕達が享受している平和な世界、僕達が手にしている権利、こういうものを勝ち取った彼女の功績を僕達は知り、もっと彼女に感謝しなければならないのではないだろうか。
退室の時間だ。まだ調べ足りないが、今日はこれで帰ろう。次も許可を出してもらう為に、おとなしく引き下がるのも大切なのだ。
-Féliwce & Emiri
フェリエスが帰って来た。
ラネー公によるアラゴラ公討伐は事実上の失敗に終わった。これは王権に対する不信を高める事になり、地方貴族達はこぞってそれぞれの派閥の長と通じるパイプを太くする事に必死となる。
疲れているにも関わらず、大公殿下は私の寝室に顔を出してくれた。
「エミリ、留守の間、家中をよくまとめてくれていたようだな。珍しくオーギュストがお前を褒めていたぞ」
私の隣に腰をおろしたフェリエス。彼は紅茶を淹れる私の手の動きを目で追った。
「手慣れたな……。メリルを見るかのようだ」
「練習しましたから。モランお爺ちゃん流です」
秀麗な顔が、苦しそうに歪められた。
「ごめんなさい。嫌な事を思い出させたね」
そうです。私を彼女の養女にするとフェリエスが言わなかったら、こんな事にならなかったと彼はとっても後悔していたのです。
彼の金色の髪を指ですくう私。彼はその私の顔を優しく微笑み覗きこんできた。
「叔父上の仇は必ず取る。だが、今すぐは無理だ」
彼が私をソファに押し倒した。もちろん、抵抗はしません。
「それより、エミリ。ひさしぶりに会ったのだ。もっと甘えてきてもよいぞ」
「淑女たる者、そうそう殿方に甘えないのです」
青い瞳を煌めかせた大公殿下が、私の頬にキスをしてくれた。
嬉しい!
「らしくないな……じゃあ」
悪戯をする子供のように笑った彼が、いきなり私に抱きついて来る。
「ひああ!」
情けない声を出した私の胸に、顔をのっけるフェリエス。
ど……どどどどどどしたの!?
「甘えてこないなら、俺が甘える」
ああ! なんという笑顔! なんというセリフ!
私は初めて彼のことを可愛いと思った。だって、これまでこんな風にされたことなんて無かったんだもん。いつも甘えるのは私。それをあやしてくれるフェリエス。この図式が、今に限っては逆転してます。いいや、今だけじゃないのだ。これから何度もして欲しい!
コンコン……。
「失礼しまぁす」
私達は誰かに邪魔をされる運命なの……? でか、「どうぞ」という前にドアを開けて入ってくるってどうなの!?
サラちゃんが部屋に入るなり、手にしていたお盆をひっくり返す。
「ももも申し訳ありません」
咳払いをして身体を起こしたフェリエスが、青い目に苛立ちをたぎらせ、私の侍女を眺めた。彼女は、お盆に載っていた皿を拾い、さらにそこにあったであろうクッキーを拾い集めている。
……また皿に載せるって事は、それを出そうっていう気じゃないよね。
サラちゃんはおどおどとした様子で、クッキーを拾い集め皿に盛ると、私達の目の前にあるテーブルに置いた……。
「失礼しましたぁ」
出て行く侍女……。
メ……メリルさん、助けて! 私、嫌味やお叱りを受けようとも、あなたが良かったよぉ!
「エミリ……大変だな」
人ごとのように私を見るフェリエスは笑っていた。どうやら、怒りを通り越して呆れている模様。
雰囲気をぶち壊され、床に落ちたクッキーを出された私達。仕方なく、紅茶を飲みます。ちょっと時間が経ちすぎたか……。
「ごめんね。ちょっと遅かったみたい」
「いや、俺が邪魔をしたのだ」
片目を瞑ってみせた彼は、クッキーに手を伸ばし、息を吹きかける。
「腐っているわけではあるまい。これも大事な食べ物だ。食べよう」
サラちゃん、恐るべし……。
フェリエスがそれを食べる前に、彼の手からクッキーを奪い取り自分の口に放り込んだ私。ぐむぐむと噛みしめ、大丈夫なのを確認してから、新しいクッキーを手に持ち、息をふきかける。
「ふぅ……ふぅ……。はい、どうぞ」
フェリエスが、私の手に持たれたクッキーをじっと見つめ、口をあんぐりと開けた。
可愛い……。
どうしたんだろう? いつから甘えキャラになったの? ま、嬉しいからいいや。
パクリと私の指ごと食べた彼。目を丸くする私をいきなり抱きしめると、さっと抱き上げる。
「駄目だ、エミリ。可愛過ぎて無理だ。抱く」
きゃああああ!
嬉し過ぎる!
でも……。
「ちょっとタンマ……」
「タンマ? 駄目だ」
「お風呂」
「……」
フェリエスが私を抱きしめたまま、たっぷりと考え込んだ。
そ……そんなに!?
「わかったエミリ。一緒に入ろう」
私は、顔を真っ赤にしてお風呂場に運ばれたのでした。
-Féliwce & Emiri
フェリエスの執務室にアレクシがやって来た。家老は世間話をしばらくしていたが、ふと言葉を止めた後、大公をじっと見つめる。
「ジェロームの事か?」
若く美しい大公の言葉に、家老は微かに顎を引いた。それを肯定と受け取ったフェリエスが、羽根ペンをインク壺に投げ込むと腕を組む。
「変わった様子なく、務めてくれているようだが、それでもまだ不安か?」
「夏に休暇を取って王都へと行った様子。草によりますと王弟が所有する館に入ったとの事でございます。これでキュイ卿がいる場所は掴めましたが、ジェロームが父と会い、話をしたということも事実です」
どういう会話がなされたか、さすがにそこまでは分からない。しかし、報告によると半日近くもその館の外にジェロームが出ていない事から、長時間、父子が何らかの話合いを持ったという事を伺い知る事が出来る。当然、アレクシが心配するのは、大公によってブロー家が追い込まれたと考えるキュイ・ブロー卿に、ジェロームが影響を受ける事であった。
「殿下、一度、ジェロームとお会いになるようお薦め致します」
アレクシに、フェリエスが笑みを見せた。
「爺は心配性だ。俺は奴の忠義を信用している。ジェロームとて、俺に疑われていると知れば良い気はしないであろう。キュイ卿がどう思っていようが、あの聡いジェロームがそんな世迷言を信用するとは俺には思えぬ」
「しかし殿下。ジェロームとて人間であれば、人を疑うということも我らと同じく致します。誤解は誤解だと説明されるまで、真実になるから恐ろしいのです」
フェリエスが初めて、整った顔から笑みを消した。
「爺、アレクシ……家老たるそなたがそこまで俺に臣下を疑えと進言するは、確たる証拠があってのことか? そうではあるまい。単に息子が父に会いに行ったというだけだ。そこに何の問題がある?」
これ以上は怒りを買う恐れがあると思ったアレクシだったが、ここは言わざるを得ないだろうと腹をくくった。だが、彼が口を開くより早く、フェリエスが言葉を発する。
「そもそも、あのワラキア伯などが吐いた情報だ。それ自体が誘導である恐れもあるぞ」
口を半開きにしたアレクシだったが、すぐにそれは違うと断じた。
「殿下、そうであるなら、ジェロームが王都に行った理由がありませぬ。彼がどうして王弟の屋敷を訪ねたか……王弟から何らかの接触があったのではありますまいか。そしてそうであるなら、それを隠すジェロームの考えは、我らにとって良くないものであるように思います」
フェリエスが押し黙った。
顎を指でつまみ、視線を宙に彷徨わせる大公。
それをじっと見つめる家老。
「ジェロームを呼べ。そろそろクロエと一緒に住んではどうかと話をしよう」
フェリエスの意図を了解した家老が、深く一礼した。




