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フェリエスは国王からの使者を応接間で迎えると、その美しい顔に苦笑を浮かべた。彼の脇には家老の姿があり、それを確認した国王からの使者オーランド・ダイム・コルトバ男爵が緊張した顔に汗を流す。
「で、陛下はこれを本気で俺におっしゃっておられるのか?」
「は……は」
コルトバ男爵は声を絞り出した。
フェリエスは手に持つ書状をアレクシへと手渡しながらも、視線を使者から逸らさない。青い瞳には、使者を震え上がらせるには十分な怒りが込められており、コルトバ男爵は喉を鳴らして額の汗をぬぐった。
「男爵、大公殿下はこれまでベルーズド地方を発展させ、さらに他国の侵略を防いできた。にも関わらず陛下のこの仕打ちはいかがなものであろうか」
アレクシの言葉は、明らかに国王を批判するものであったが、使者であるコルトバ男爵自身、国王の大公に対する仕打ちには疑問を感じている。だが、それを国王に指摘する勇気もなければ力のない彼にとって、そうとわかっていても使者としての務めを果たす他、道は無かった。それがわかっている大公だったが、それでも感情は抑えられず、怒りの矛先を使者に向けてしまったのだった。
「大公殿下におかれましては、お怒りもごもっともでございます。ですが我らは廷臣として、陛下の言であればそれに従わねばならぬは道理。ここはなにとぞ、お怒りをお沈めくださいますよう」
フェリエスは怒りを息と共に吐き出すと、美しい顔にわざと笑みを浮かべた。それは、コルトバ男爵がこれまで見てきたフェリエスの表情の中でも、最も威圧的なものであると感じた。
「ゴーダ騎士団領国へ出征する余裕などない。帝国とロゼニアの状況は予断を許さぬ。昨年からの連戦続きでようやく落ち着いたところでもある。それに、王家自ら出征しても破れたというに、この俺に何ができようか」
フェリエスは脳裏で太った甥を描く。その腹に剣を突き立て、内部で肥大した自己顕示欲をかきだしてやりたいと舌を鳴らした。
使者であるコルトバ男爵が遠慮がちに口を開く。
「これは私めの独り言でございますが……」
そう前置きした彼は、二人の顔を交互に眺め、言葉を吐き出す。
「陛下は大公殿下を恐れておいでなのだと思います。ベルーズドが短期間にここまで発展するとは、誰が考えたでしょうか。出る杭は打たれるもの。おそらく陛下は、ゴーダ騎士団憎しという感情に、大公殿下の力を削ぐという実益を乗せようとお考えなのではないでしょうか……大公殿下におかれましては、一度、負けられてはどうかと思っておりまする」
フェリエスの目に、驚きの色が宿された。
コルトバ男爵は先代国王の代から中央政権で職を得ている領地を持たぬ貴族である。つまり、国王の犬と呼んでも過言ではない。その彼をして今の発言をさせるということは、国王から人心が、フェリエスが考える以上の速度で離れているという証ではないだろうか。
「男爵は俺に負けろと申すか」
大公の言葉に、脇でアレクシが笑う。
「さて……私は独り言の声が大きいものですから」
コルトバ男爵が、汗をぬぐいながらも惚けてみせた。
「わかった男爵。ただ総司令官など恐れ多い。俺から陛下に、ラネー公爵あたりを総司令官にして頂くようお願いしよう。すぐに書き上げる。それと……」
アレクシに視線を転じたフェリエスに、家老は大きく頷いた。
「男爵、王都は華やかである反面、疲れるようだな。どうだ? 家族を連れてベルーズドに遊びに来ぬか? 山紫水明の景色を案内するぞ」
大公の言葉の意味を理解したコルトバ男爵。
彼は深く一礼し、無言で退室をした。
「器が違う。あの王では御せぬわけだ」
コルトバ男爵の声は、誰にも聞かれる事は無かった。
すぐにでも王都に帰り、家族を説得せねばならんと考えながら、国王の使者は休憩室に入り、最上級の長椅子に深く座ったのだった。
-Féliwce & Emiri-
その日は朝から、モランお爺ちゃんのお世話に、屋敷の掃除、花壇の水やりに草抜きと忙しかった。昼になると、お爺ちゃんによる歌の稽古。そして解放されたのは夕方……。
腹減った! 飯……飯はまだかぁ……。
部屋で着替えをしようと服を脱いでいると、窓を叩く音に振り向く。
ギニアスさんが立っていた。
あの……ここ三階だよ? どこに立ってんの? それに私、今は完全に下着姿なんですが……。
窓を開けて入ってこようとする敵国のスパイに、私は渾身のパンチをお見舞いする。
「うわああ!!」
躱そうとしてバランスを崩した彼が、悲鳴と共に落下していった。
運がいいよ。下は池だからね。
ドッボーン! という盛大な音を聞きながら、私は着替えをする。今日はずっと城にいたから、外の空気を吸おうと思い、散歩することにしたんす。
城の庭を歩き、町へと向かう私の背後に、ずぶ濡れの男が張りつきました。
「スケベ。あんたね、女の子が着替えてたら、普通は遠慮するもんでしょ?」
「ああ、すまん。君は綺麗だな」
あらそう?
「胸がもうちょっとあったら、完璧だったのにな」
振り向きざまのボディブローを、ギニアスさんはひらりと躱す。そこに回し蹴り、膝、右ストレートに左の裏拳という連打を浴びせるも、全てを見事な体裁きでいなすスパイ。
私は右脚の蹴りを見舞うとみせかけ、相手を屈ませると上段からの踵落としを見舞った。
「ぐえ!」
地面に倒れたギニアスさんを無視して、私は畑の脇から川へと向かうあぜ道を歩く。
雪がまだ完全に消えていない地面には、私以外の足跡はない。どうせまた追いつかれるなと思っていると、前方の茂みが揺れた。
「あんたね、神出鬼没すぎんの」
私が立ち止った時、茂みから大きな猪が現れる。
「……ギニアスさん?」
変装にしてはリアルだよ?
猪さんは私を見ると、完全に戦闘モードに入ってしまわれた。
「はは、ごめん。本物だったんだね。ちょっとタンマ……て、ダメー!?」
突進してくる猪から、右方向に飛んで逃げる。すぐに方向転換して鼻息を荒げる猪。
猪突猛進てのは嘘じゃん! とっても素早く方向転換してんじゃん!
私はすぐさま立ち上がり、猪の目をじっと睨んだ。こんな事なら、剣をぶら下げて来るんだった。
猪は、地面を力強く蹴ると私に向かって突進をして来る。図体のわりに早くて、油断をすると大きな牙で大腿部を刺されそうだ。
右方向に飛び、地面を回転して立ちあがった私は、すぐに走りだした。来た道を城の方向へと走る。
へっへ! 走るの得意だもんね! 男の子にも勝ってたもんね!
て……速ぁ!
猪はぐんぐんと迫って来る。それはもうすごい威圧感。私は立ち止り反転すると、迫る猪にタイミングを合わせて跳躍した。
大きな身体が、木にぶつかり動きを止める。数歩、後退した猪はぶるぶると身体を揺らして振り向いた。
目が三角になっておりんす……。
狩りをした時は、犬もいたし兵隊さん達もいた。でも今は一人。武器もない。あんなでっかい牙に脚を刺されたら、脚フェチのフェリエスが悲しむ。フェリエスの為に、絶対に逃げきるんだ!
猪が私に大きな牙と怒りをたぎらせた目を向けた瞬間、その巨体に幾本もの槍が刺さった。
「え?」
よく見ると、その槍は白く半透明で、霧のような煙を噴き上げている。氷の槍だ……。
猪は、しばらく暴れていたが、さらに降り注いだ氷の槍に身体を尽き抜かれると、全く動かなくなる。
「危なかったな」
猪の背後で、ギニアスさんが手を振っていた、
-Féliwce & Emiri-
猪鍋を囲む私とスパイ。近くの農家で大きな鍋を借りて、調味料やら野菜などを、残りの肉と交換してもらったのです。残りの肉といっても、私達二人分の肉のほうが少ない。
「ハフハフ……旨いな」
「味噌があったらもっといいんだろうけどね」
「ミソ? ミソってなんだ?」
「豆を発酵させて作る調味料です。いやあ、助かったよ。ありがと」
味噌……恋しいよぉ。味噌汁、サバ味噌……食べたい。
「いきなり襲いかかってきたからびっくりしたぞ。胸のことを言われるのがそんなに嫌なのか?」
「あ、ごめーん」
わざとらしくスープを彼のズボンにこぼす私。
「熱い! あつつつ!」
ズボンを脱ぎ出すスパイ。下着姿で私を睨む。
「わかった。もう絶対に言わない」
わかればいいんだよ。
農家の人達が私達の食べる猪鍋を不思議そうに見ている。私が手招きすると、器をもって近寄って来た。
「熱いから気をつけてね」
よそってあげる私。彼らは初めて食べる猪鍋をたっぷりと眺めた後、パクリと食べた。
「美味しい!」
「旨い。これ旨いですよ!」
「でしょ? 美味しいよねぇ」
旅行に行った先で食べた記憶を頼りに作った猪鍋。味噌がないけど、匂いのきついチーズを代用してみたらこれがとっても合いました。香草なんかをぶち込んで、トリュフもたんまり入れてますから、とても高価な猪鍋です。
「そうだ。忘れるところだった。ギューン閣下が会いたいそうだ。明日のエリュトーの時間、いいか?」
あんたね、そういう大事なことを忘れるなっての。
「転送されてくるの?」
「他にどんな方法がある?」
私は考える。農家の人達が、おかわりを要求してきたので、彼らの器についであげながら考える。
転送の魔法か……これがあれば……。
「フェリエス、会いに来たよ」
「エミリ、どうした?」
「えへへ、会いたくなっちゃったよぉ」
「そうか。おいで」
なーんて事も……じゅる。
「何をにやけてる? 閣下に会えるのが嬉しいのか?」
「違うわ! いや、嬉しくない事はないけど、転送の魔法って便利だなぁと思って」
ギニアスさんがにんまりとした顔を作る。
「うちに来れば、便利だぞ? どうだ?」
「でもさ、ポンポンと使えないって言ってたじゃん」
そうです。転送の魔法は頻繁に使えないのです。アレクシお爺ちゃんにも確認したところ、転送の魔法はとても強力で、大陸でもこれを使えるのは一人だけ。その人は世間から深紅の魔導士と呼ばれる人で、とても優れた魔導士だけども戦争嫌いらしい。
名前……レニンなんたらという人だ。
その人しか使えない魔法で、わざわざ私に会いに来てくれるの?
私は、ヒーロさんに会えるのが楽しみだと思ってしまったのでした。
あくまでも、尊敬できる軍人さんと会えるのがです。これはちゃんと断言しておきます。
そうか……わざわざ私の為にね……。フェリエス、聞いてる? 私、けっこうモテるんだよ? だから、油断しちゃだめだよ!
浮気は絶対にダメだかんね!
私も浮気は絶対にしないからね!
-Alfred Shyster-
モランミリー。
人口三万人の小さな地方都市。大陸でも有名なトゥラッフルの生産地。トゥラッフルは昔、ネコノフンダケという不名誉な名前だったらしいが、食材としての価値が認められ、現在の名前になった。
僕は今日、この町で満開のサクラというのを初めて見た。
図鑑でしか見た事がなかった僕は、どうしてエミリ・ホリカワがこの花を愛していたのかわからなかった。確かに、綺麗で可愛らしい花だと思っていたが、自分の軍旗、印までサクラにこだわっていたのは不思議だった。もっと綺麗で派手な花があるのにと思ってしまったのだ。しかし今、目の前にずらっと並ぶサクラの木が、一斉にその枝に花を咲かせているのを見て、エミリ・ホリカワがこの花をとても愛していた理由が分かった。
春に、しかも数日間しか咲かないサクラ。しかし、まるで狂ったように咲き乱れたその花は、ピンク一色に僕の視界を染める。サクラの木は道路を挟むように並び、優しくも華やかな朱色の世界が僕を包む。
しばらく見惚れていると、近くで茶店を開いている男性が僕に話しかけてきた。
「あんた旅行者だね? 運がいいよ。今は見頃さ。もう少ししたら、散ってしまうからな」
「散る? これが全部、散るんですか?」
「ああ、そうだよ。俺達の目を楽しませてくれた後、役目を終えたとばかりに全部、散ってしまうんだよ。またその散り際も綺麗なんだけどね」
咲き誇り、散って行く花……か。
僕の腕を助手がつついた。
「綺麗ですね」
僕は運がいい。まさか彼女が同行してくれるなんて。
「知ってました? 私のご先祖は大和の国なんですよ。このサクラはそこから二百年前にアルメニアに贈られたんですって」
「君のご先祖の事は知らなかったけど、サクラが贈与された話は知ってる。たしか、ストラブール離宮とクロロ公園、そしてモランミリーのこの道路。三カ所に植えられたんだよな。公園に咲き誇るサクラも綺麗だろうけど、サクラ並木ってのもいいね」
二人でサクラの美しさを楽しみながら、目的の場所へと向かう。それは、この土地を収めていた領主の城で、今は図書館となっている城だ。そこの館長と会える手はずとなっていた。といっても、一方的に手紙を送っただけですが……。
サクラ並木を歩きながら、僕は考える。
エミリ・ホリカワはどこでサクラを見たんだ?
助手の言葉通り、サクラは二百年前に大和から苗を贈られた。それはアルメニアと大和の国交樹立を記念してのもので、アルメニアから大和には、たくさんのカトレアの種が送られた。これは花外交と呼ばれている。
つまりだ。エミリ・ホリカワの生きていた時代、アルメニアにはサクラなんて無かったはずなんだ……。
城が見えて来た。
モランミリーの町はずれに建つ城は、王位継承戦役以前から建つ城で、歴史の重みというものを見せつけてくる。千年以上昔の建物なのに、今でも崩れる事なく建つそれは、まるでこの国そのものであるかのように感じ、僕はしばらく情緒的なものに支配された。ふと城門をくぐる時、僕は確かに見た。
サクラの家紋?
え? どういうことだ?
エミリ・ホリカワがこの城を所有していた記録はない。ここは公爵家が断絶した後、王家の管轄となり今に至るのだ。
助手に急かされ中に入る。気になるが、仕方ない。それに、ここの館長に聞いたほうが早いかもしれない。
司書に名前を名乗ると、彼は握手を求めてきた。
「アルフレッド・シェスター助教授! 感激です。助教授の光の法則と転生魔法の関連には、とても感銘を受けました」
「ありがとう。読んでくれたのかい?」
「ええ、館長がお待ちです。どうぞ」
前回のモランミリー訪問の時、時間の都合もあって図書館には来られなかった。やはり無理にでも時間を作らねば、調査は進まないのだなぁ。
-Féliwce & Emiri-
私はギニアスさんと城へ帰りながら、いろいろ情報交換をした。私のほうから彼に流したのは、大公領の検地に関して。彼からはヴラド・ヴィシュル・ワラキア伯爵の動き。
「その『血のヴラド』って呼ばれてるおっさんが、どうして私に目をつけてるの? 可愛いから?」
「君が大公の恋人だからだろ?」
ははあ、人質にでもするつもりかな?
「捕まえに来たら、ギッタギタにやっつけてやるよ」
「軍隊を連れて来られたらどうする?」
……そうか。一人で来る馬鹿じゃないか……。
ギニアスさんは珍しく、その表情を曇らすと、腰まで伸びた草を引きちぎって宙に払った。
「ヴラド卿はなエミリ。手強い相手だぞ。一流の用兵家であり、一流の魔導士でもある」
「あんたたよりすごいの?」
彼は微かに笑った。
「魔導士同士で戦う場合、魔法では決着がつかん。お互いに結界を張って睨みあうからだ。だから俺達は体術や剣術を身につける。ヴラド卿の場合、肉弾戦が圧倒的に強い。熊と戦って勝てるか?」
私はようやく真剣になった。
ギニアスさんも強い。実は彼に襲いかかった時、私ってば本気だったんだよね。それくらい腹が立っていたのです。おっぱいの事……だけど、彼は本気で攻撃する私から、不意打ちをくらったというのにあれだけ動いていた。
初めからやるつもりだったら、格闘では勝負はわからなかったんじゃないかな。そのギニアスさんが、熊と比喩するヴラド卿。相当に強いんだろう。ハザルさんとどっちが強いかな……。
「ヴラド卿はフィリプ三世の側近中の側近だ。その彼が自領に帰り、何やら怪しい動きをしている。と同時に、君の事を調べている。もしかしたら、この町に諜報員が入っているかもしれんぞ」
「それらしい人はいた?」
「いや、同業者っぽいのはいない……。お、なんだ? もしかして頼りにしてくれてる?」
目を輝かせるギニアスさん。
「そうか、ついに俺達の仲間になる気持ちが強くなってきたか」
そっちの方向にどうしても持って行きたいんですね。
私が呆れたように彼を眺めていると、ギニアスさんは特徴のない顔に笑みを浮かべた。
「じゃ、明日な。迎えに行くから」
「着替え中は遠慮してよね!」
走り去っていく変なスパイに、私は怒鳴っていた。
-Féliwce & Emiri-
ワラキア州の州都グリンベルンの城で、ヴラドは弟を部屋に招いた。兄弟とは思えないほどに顔の違う弟は、母親そっくりで女のように見える。それを兄は、直視できぬほどに嫌っていた。
「ラドゥエル。女一人を捕まえるのに、何を手間取っておる」
弟は兄の怒りに身を縮めると、卑屈に身を屈めた。
「あ……兄上。お許しください。このところ、ちょこまかと一人で行動する事も多くなってきたようですので、近日中にはかな――」
首を掴まれ、声も出せない弟は、すがるような目で兄を見た。
あの女と同じような顔をしやがって!
ヴラドの目には憎しみがありありと宿り、ラドゥエルはその凄まじさと苦しさで顔をしかめる。彼は助けを求めるように手足をもがき、自分の腕の倍以上をある兄の手首を掴んで喚いた。
「お許しくだ……すぐ!」
ラドゥエルの肺が空気を大きく吸い込んだ。激しく咳き込み、顔を白黒とさせる弟に、兄の冷たい声が降りかかった。
「二百もあれば良かろう。いつまでも時間を無駄にするな。陛下のご不興をこうむる前に、大公の大切な家老補佐を連れてこい。大公の元を離れておる今だからこそ、好機であるのだぞ」
頷き喘ぐラドゥエル。彼は決して非力ではない。その彼ですら、兄の膂力の前には無力であった。彼はその双眸に恐怖を浮かべると、ヴラドの背中を見つめた。
(これはすぐにでも行動に移らねばならぬ。事を荒立たせぬようしてきたが、ここにきてそれは望めぬ。ならば、一気にカタをつけるしかあるまい)
額の汗をぬぐった弟が立ちあがった時、兄は廊下で幕僚から報告を受けていた。大きな背中に付き従う細身の男。青い髪に同じ色の瞳を輝かせ、切れ長の一重の目が冷徹に光る。
「そうか、大公はラネー公爵を巻き込んだか」
「は、どこまでもしぶとい男。陛下も廷臣達の手前、正当な主張を退けることができませなんだ。確かに、ラネー公爵はゴーダ騎士団領国の暗殺者を招き入れた張本人。ここは責任を取る意味でも、司令官として出馬せねばならぬでしょう」
「ゴーダ騎士団か。ヒーロ・ギューンなる青二才が随分と名を上げているが、昨年の討伐戦で俺を前線に出しておれば、今とは逆の結果になっておったものを……国王め、どこまでも思慮の足らん男だ」
ヴラドは舌打ちを鳴らし、背後の幕僚に振り返りもせず言葉を続けた。
「間違いは正すべきだが時期が大事だ。国王の身辺は隙だらけだ。一度、王宮に潜り込めば、臭いゴーダ人でさえああも国王を追い詰めることが出来た。ベアトリス、進んでおるな?」
「は、そちらは問題なく……で閣下。ラドゥアル様ですが――」
「放っておけ。女一人に手間と時間をかける馬鹿者めが! 兵を与えておれば、後は好きにするであろう。戦女神か何か知らぬが、たかが女一人に大層な……おおよそ、ハザルあたりが大公の女に華を持たせたのであろうよ」
ベアトリスは一礼と共に、ヴラドを見送った。
-Féliwce & Emiri-
図書室で、猪退治関連の本を読んでいると、ギニアスさんが現れた。図書室まで忍びこんでくるとは……
「何か調べ物か?」
「猪が嫌がる匂いをちょっとね。草を燃やして煙で追い払うって方法もあるんだと分かったのは収穫だったね。慌てふためいて逃げ出すらしいよ」
「煙なら、空に昇っていってダメなんじゃないのか?」
ちっちっち……。
舌を鳴らして指を左右に振る。
「炎を立てないようにすれば、煙は立ち昇らないのですよ。煙が上昇するのは、熱によって空気が暖められるからなのです。ま、一例ですけどね」
「ふーん、君は意外と頭がいいのだな」
でしょ? ていうか、日本では小学生のうちに習うのですがね。それに、私が言ったのはあくまでも一例に過ぎない。例えば、空気より重い気体であれば、勝手に地面を這って行く。
ただ、今の季節、ベルクトの町に向けて山から風が吹いてくる。煙作戦は他の季節まで無理かもしれない……。メモを取って、ジャン君に教えてあげれば、私がいなくなっても大丈夫だろう。
二人で町のはずれ、畑に向かう。農道の脇に建つ小屋の前に、彼はいた。
ヒーロさんは相変わらずカッコいい……。
二人で散歩しながら、町のはずれにある川に到着した。彼は近々、タラス共和国に援軍を率いて出征しないといけないそうです。
すみません。それ、私のせいです。
ロゼニア王国一国だけで、帝国の攻勢に持ちこたえるのは無理。神聖スーザ帝国の国力を考えれば、三方面に軍を分けるくらいで、ちょうどロゼニアと拮抗するのです。だから、旧ターラザント、現在はタラス共和国の人を唆して、帝国と領有権で揉めている島で漁をさせたのでした。まんまと揉めに揉め、実力行使に出た帝国。
「エミリどのはどうして、大公の為に戦う? いや、大公の事を想っているは知っているが、あなたまで戦う必要はないのではないか?」
ヒーロさんの言葉は、駆け引きなどない純粋な気持ちから発せられたものだった。私は川の水を手ですくい、それを川へと戻す。特に意味のない行動を、じっとヒーロさんが見つめていた。
「剣の稽古をしている手だ。その手で大公をこれまで、これからも守っていかれるのか?」
「はい。私がこの国にいられるのは、フェリエスのおかげなの。だから私は彼の為に戦う」
ヒーロさんが私の隣に座った。二人で川原にしゃがみこみ、しばらく水面を眺める。川魚が水面に浮かぶ虫を捕らえる為に跳ねた。
「そうか、おつらいな」
彼はしばらく視線を前方の川に向けたまま動かなかった。彼の言葉にはいろんな意味が込められていて、私は膝を抱えるようにする。
そう、つらいです。
自分達の為に、知らない人を犠牲にする事も厭わない。ロゼニアのウソーで、私が動いた結果、殺された人達の幻影が脳裏で蠢く。 あの小さな女の子が、口から血を流し私を見ている。なぜか、彼女に抱かれた人形までも、その口から血を流していた。
ヒーロさんがいきなり、私を抱きしめた。
ちょっと……まずいですよぉ……。
抗議しようと顔をあげた私だったが、震える彼に気付いてしまった。
「あなたには幸せになって欲しいと思う。その幸せを俺が叶えられたらとも思うが……いや、悪い。明後日には軍を率いてタラスだ。しばらくこうさせてもらえないだろうか」
私は抵抗しなかった。
フェリエス、ごめんね。彼はとっても立派な軍人さんだけど、本当は戦争を恐がっているの。それが私にはわかる。人を殺す事を、部下や仲間を殺される事を恐れている。どうしてだろう? ハザルさんも、ジェラームさんも、そしてフェリエスも……とっても優しい人達なのに、どうして戦わないといけないんだろう。
ヒーロさんが私から離れた。
「俺の祖父も父も、ゴーダ騎士団の騎士として、侵略者と戦った。俺はそんな彼らを誇りに思っている」
黒い髪を揺らした彼。川の水が穏やかに流れる先で、魚がまた跳ねた。
「そして気付けば軍人になっていた。幼いころ、魔導士の血を持ちながら、魔法を全く使えなかった俺はそれで馬鹿にされ、いじめられた……だから見返す為に剣術と身体を鍛え、頭を鍛えた」
多分、それでつらい思いをしたんだろうね。
「あなたも聞いたことくらいあるだろうが、俺はいかなる魔法も無力化する力を持つ特殊な存在だ。そうと望めば、どんな魔法であれ無効化できる化け物みたいな男だ。皮肉にも、俺が軍人として今の地位におれるのは、この化け物の力だ」
「違うよ。努力したからだよ」
ヒーロさんが微笑んだ。
「ありがとう」
彼は私から視線を逸らすと、川の反対側に広がる森を眺める。
「俺はたくさんの戦争に従軍する中で決意したのだ。どんなことがあろうとも、祖父や父が守ろうとしたゴーダ騎士団領国を守ると。その為には、どんな悪逆非道な事でもすると……そうでなければ、大切なものを守れない時代だ」
彼がどうして、私にそんな話をしてくれているのか理解した。
「エミリどの。大公を守りたいなら、敵を作る事を躊躇うな。大公の為なら、赤子でも殺せる冷酷さが今の世は必要だ。それほどまでに、大公は危うい存在だ」
ヒーロさんと私の視線が交差する。
「フィリプ王が大公を狙っているという情報が俺の耳にも届いている。俺は敵国の人間としてこれをあなたに教えるべきではないと思ったが、友人としてなら話すべきだと思った」
友人という言葉は擦れるような発音だった。私はとても申し訳なく想い、彼の手をそっと握る。
「シャンパーニュ公爵の養女となったあなたは、悪く言えば大公の庇護が届かない。あなたを国王が狙っている。大公の弱味はあなただと知ったからだ」
「どうしてわかったのかな?」
「あなたがシャンパーニュ公の養女となった裏に、何があるか気付いたやつが国王の近くにおるのだろう。おそらく、リシュルー公爵あたりであろうな。あなたを人質にすれば、大公は手も足も出せなくなると考えたのだ。そしてそれは事実だ」
確かに私は、王家の許可を得て、モランお爺ちゃんの養女となった。よく許可が出たなと思っていたけど、モランお爺ちゃんが国王に、残った財産のほとんどを献上した結果だと後で知った。
「気にするなエミリ。こういう時の為にへそくりはあるんじゃ」
モランお爺ちゃんはそう言って笑っていた。
彼の優しさに感謝したのもつかの間、彼の養女となったことで、私がフェリエスにとってどういう存在なのかを国王に悟られたのだ。それに、リシュルー公爵には会った事がある。確かに、あの時私は、フェリエスのパートナーとして彼と会った。リシュルー公爵はあの時の私を覚えていたのだ。
家老補佐であり、恋人である私を、モランお爺ちゃんの養女にする理由。それは、私に王家の男子に相応しい家柄をつける為。
そして、ヒーロさんの言う通り、私は人質としての価値はある。自惚れるわけじゃないけど、きっとフェリエスは困る。
考え込む私に、ヒーロさんは言葉を続ける。
「それにあなたは、自分の価値をよくわかっておられない。昨年のあなたの働きは、あの木偶でさえ危機感を感じずにはいられなかったという事だ。自分の首を狙う大公に、あなたのような味方がついた。アルメニア東部であなたは戦乙女と敬われるようになって……それは中央にも広まり始めている。俺であっても、二人の間を裂こうとする。ただ、俺と違ってあの国王は、直接的な手段に出る事にしたようだ」
ヒーロさんはゴーダ騎士団に来ないかと誘ってくれたけど、国王は私をどうするつもりなんだろう?
「そういえば、ワラキア伯爵が私を狙っているとギニアスさんから聞きました。これは国王の命令?」
「そうだ。ワラキア伯ヴラドは王の信任厚い人物だ。そして、王以上に冷酷で、残虐な男だ。どういう手段で出てくるか……あの男であれば、捕らえるよりも命を奪ったほうが早いと考えてもおかしくない。だから、あなたがここで暮らす間、身辺をギニアスに守らせる」
「そんな!」
「いいや、そうする。そうさせてほしい。俺は戦争に行く。もしかしたら、もうあなたに会えないかもしれない。だから、悔いなく戦場に行きたい。お願いだ」
ヒーロさん……あなたの気持ちを受け入れない私に、そこまでしてくれるのは酷いよ。
私、あなたのことを好きにはなれないのに……。
こんな出会い方はしたくなかったな……。
二人で町へと歩く。森の中を抜ける小道で、私は彼に尋ねた。
「ヒーロさんから見て、フィリプ三世という人はどんな人ですか?」
彼はクスリと笑った。
「そうだな……短絡的で感情的で怠惰で傲慢。アルメニア歴代の王達の中でも、上位に位置するほどの愚かな王だ」
私は苦笑する。
「しかし、危険だ。予測がつかぬからな。例えば大公に領地を与えたと思えば、こうして命を狙う。長期的視野にたっておらず、その時の気分で決めておるのだろう。いや、懐柔に失敗したとみて殺しにかかっているのか……?」
「フェリエスの野心を満足させてあげたくて、ベルーズドを与えたけど、フェリエスの狙いが領地ではないと気付いたから、方針を変えたとある人は言ってたよ」
ヒーロさんの横顔には、『ある人』とは誰か分かったと書いてある。
「であるなら余計に気をつけられよ。幸い、アルメニアは北で派手に戦争をしている。コーレイトが珍しく、本気でアルメニアと戦っているからな。ブリステンはフランドルに並ぶ毛織物で有名な土地だ。コーレイトの羊毛を輸入し加工した後、大陸各地に売る。コーレイトがこれを取るか、アルメニアが守りきるかで、その後数十年の経済活動に多大な影響が出る。アルメニアとしても、余計な面倒を増やしたくないはず。今はコーレイトに集中しておくべきなのだが……」
彼は私の手を握る。
はは……フェリエスに見られたら二人とも殺されます。
私はそっと逃げた。
「あの国王だけは予想がつかない。エミリどの、手を握るくらいいいではないか」
「ダメですー」
笑って逃げた私を、ヒーロさんが追いかけて来る。二人でじゃれあっていると、彼が戦争に行ってしまう事がまるで嘘のようで……。
嫌なことを忘れるように、私は笑い続けた。
皆が戦わないで、ニコニコとできる日々は来るのかな?
……そうか、そういうことか。
私はまだ日本にいる感覚が抜けていない……誰かがしてくれるなんて、また考えてた。
ここは日本じゃない。
誰も、してくれないのだ。




