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-Alfred Shyster-
僕はいつものように歴史書、軍史書、土地ごとの風土記、王国年表などに囲まれ、依頼人の女性を迎えた。
僕がエミリ・ホリカワという歴史上の人物を、改めて調査するきっかけを作ってくれた彼女とは、もう三年もの付き合いになる。
彼女に、これまでの調査報告書を渡して捕捉を説明する。
聞き終えた彼女は笑みを浮かべた。
「他に用意するものはありますか? 費用は?」
「できれば……専門書を数冊、買いたいので少し」
僕が遠慮を込めて申し出ると、彼女は小切手を置いて帰って行った。
小切手には、数冊どころか、何百冊も買える額が書かれている。
興奮する頭を冷ます為に、コーヒーをブラックで飲んだ僕。
仕事を再開しよう。
三四六年後半は慌ただしかったが、年が明けてから三四七年夏まで、アルメニア王国は比較的平穏である。これは以降の年に比べてという意味であるのだが……いや、それはあくまでも、文献に記録されている限りそうであるという表現が正しいかもしれない。その裏で何かが行われていたはずだ。
僕はそれを調べる。土地ごとの風土記や、当時の人口推移、周辺国の動きから推測し証拠を集めている。そうしていると、やはりフェリエス・ベロア・ベルーズドという人物を中心に、三四七年以降の歴史は作られているのだと再確認する。
三四七年前期のアルメニアで、特に注目すべきはフェリエス大公によって作成された大公領教育改革案だろう。これは後世にも多大な影響を与えるものとなった。六歳から十二歳までを義務教育とし、アルメニア語、周辺諸国の言語教育、数学、歴史、化学、物理、生物といった学問を無償で提供するこの制度は画期的であった。さらに高等教育を望む者には、大学を設置し、専門的な知識吸収と研究を推奨している点もすばらしい。また、これをするにあたり、当時は反体制派とみられていた知識人達をも雇い入れ保護した事実は、後の王位継承戦役後のアルメニアが民主制へと円滑に移行していった下地を作っていたともみえる。
今日のアルメニアが魔法工学だけでなく、あらゆる分野で周辺国の先を行く土台を、彼は作ったのだ。この改革案には、当時の政務卿であるオーギュスト・ジダン卿が中心となっている。だが僕はそこに、エミリ・ホリカワの名前がない事に疑問を感じている。彼女は家老補佐であった。どうして、この教育改革に関わっていないのだろうか。もしかしたら、これが文書として作成された時、彼女はどこか別の場所にいたのではないか。そう考えれば、あの『お話』はやはりと思う。
先日、届いたばかりの『シャンパーニュ地方にまつわる民話集』という本の中に、おもしろいお話があったので紹介しよう。
-・-・-
シャンパーニュ地方にある小さな町には、公爵様が住んでいました。
彼は家族を戦争で失い、一人ぼっちでした。
そこに、とても可愛い天使が現れ、寂しい公爵様の身の回りの世話をするようになりました。公爵様は大変、喜ばれ、またその天使を自分の子供のように思うようになったのです。その天使は、町の人達からも大層好かれ、小さな町は天使を中心に楽しく穏やかな日々を送っていました。
ところがある日、とっても恐い伯爵が、軍を率いて襲ってきました。彼は可愛らしい天使を奪う為にその町を襲ったのでした。公爵様は町の人達と、天使を守る為に、たった一人で伯爵に会い、彼に助けを求めました。
『自分の命を差し上げる。だから軍を引いて欲しい』
公爵様はそう伯爵にお願いをしたのです。伯爵は公爵様を捕まえ、町の前まで引きずると、彼に剣をつきつけこう言いました。
『天使よ、出てこい。出て来なければ、公爵を殺すぞ』
さあ、大変です。天使は公爵様と町の人達を守る為に、伯爵の元へと行こうとしました。その時です。公爵様が、天使を助ける為に自ら伯爵の剣に飛び付いたのです。公爵様は死んでしまいました。天使はこれまでの優しく穏やかな姿が嘘のように怒り震えると、たくさんの竜を呼び寄せ、伯爵軍に襲いかかりました。
伯爵は天使の持つ魔法の剣によって成敗され、伯爵軍は竜に追い払われました。天使は、公爵様の遺体を秘密の場所に埋葬すると、町を去っていったそうです。町の人達は、公爵様と天使の事が大好きでしたから、いつでも二人を思い出せるように、町の名前を変えたのでした。モランミリーという名前に……おしまい。
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モランミリーという町にも調査に行ったが、このお話に出てくる天使とは、間違いなくエミリ・ホリカワの事だ。町の中心にあるフェリストミリ公園がその証拠だ。ここには、天使と老人の銅像が建っているが、この天使は他の天使像と大きく違う。翼がないし、子供ではなく女性っぽい。にしては、背が高い。僕は一八〇ラスほどの身長だが、並んで立つと、天使の像は一七〇ラス半ばもあるのだ。当時のアルメニア人女性の平均身長よりずっと高い。誰かをモデルにしたとして、平均身長より高くしたのは、モデルの女性がそうであったに違いないと思うのは、飛躍しずぎだろうか。僕はこの天使像のモデルはエミリ・ホリカワだと確信している。背が高い。唇の横のほくろ。左耳にいつもつけていたサクラのイヤリング。全て一致するのだ。サクラの花も図鑑を取り寄せ確認したので間違いない。
そして公園の名前、フェリストミリ公園。これはフェリエスのエミリという意味にも取れる。当時のアルメニア語では、エは表記されない事が多い。つまり、当時の書き方をすれば、フェリエスはフェリスとなる。ただ、エが言葉の最初にくる場合は別だ。だから、エミリという名前はエミリと表記されるが、この公園の名前として使う場合、エミリは後にくるから、エが無くなる。こうしてフェリストミリという名前になる。言うまでもないが、フェリエスとはフェリエス大公だ。やはり二人は恋仲だったのだ。でも、文献には載ってないから、学会では無視されるだろうな。
話を戻す。公園の名前の意味がそうであるなら、町の名前もしっくりと来る。公爵の名前がモランで、天使はエミリだ。エミリ、あなたはどうしてこの町に来たのですか?
そういえば、大公記四巻で、彼女は登場をしない。家老補佐の役職にありながら、これはあり得ない。しかし五巻になると再び登場する。三巻で登場していた頃に比べ、五巻登場から以降のエミリ・ホリカワは人が変わったかのように精力的になっている。つまり、四巻の部分。アルメニア王国歴三四七年前半部分で、彼女の身に何かがあったのだ。
シャンパーニュ地方にまつわる民話が、それを解き明かすヒントであると僕は推測するのだった。
しかし、公爵を襲う伯爵というのはどういう意味だろうか。伯爵とは爵位であれば公爵の下である。公爵とはつまり、伯爵位を複数持つ者か、伯爵位を持つ貴族を複数従えているかのどちらかである場合が多いのだが、このお話の中では、伯爵のほうが、公爵より強いとなっている。それに、この公爵は、小さな町しか持っていない。
家柄がいいだけの貧乏貴族。
その可能性もあるか……しかし、そんなところで、エミリ・ホリカワは何をしていたんだろうか。大公領では教育改革に、検地、貨幣経済への転換時期であったにも関わらず、彼女はどうして?
謎の多い女性だ。
でも、僕は確信している。
エミリ・ホリカワは確かに存在した。なぜなら、彼女と大公が恋仲であったと仮定しないと、ロゼニア王家が王女を側室で大公に嫁がせたという説明ができないし、大公が生涯、妻を娶らなかった理由が謎のままだからである。
-Féliwce & Emiri-
お爺ちゃんの世話をしてるんす!
私、フェリエスの親戚の家の養女となりました。アレクシお爺ちゃんよりよぼよぼのモラン・ベルクスト・シャンパーニュ公爵は、外見のまま優しく穏やかなお爺ちゃんで、とても若いころ戦争ばかりしていた人には見えません。
フェリエスったら、私をお嫁さんにしたいって……。
フェリエスったら、私を花嫁にしたいんだって!
それで、親戚の家で花嫁修業をしてきて欲しいんだって!
ああ、愛される女はつらいなぁ……その愛に応える私って、なんて健気ないい子なんだろう。
家柄も身元も怪しい私を、堂々と花嫁として迎える為に、シャンパーニュ公爵きっての願いという格好で、私は彼の養女となったのです。シャンパーニュ公爵は、フェリエスのお父さんの弟さん。数少ない大公殿下の味方の一人で、私のことも喜んで迎え入れてくれました。
「いやー、若い娘に風呂に入れてもらうのはええ。若返る」
お茶目でスケベなお爺ちゃんです。
公爵位をもっているにも関わらず、後継ぎ達を次々と戦争で失い、敗戦の責を負わされ領地のほとんどをラング家、つまり今のアルメニア王家の主家に奪われたモランお爺ちゃん。残っているのは、ベルクトという山間の小さな町のみ。三〇〇〇人ほどの人達が暮らす小さな町で、その町のはずれにあるお城が、シャンパーニュ公爵の居城です。
もうここに来て三カ月が経ちます。
フェリエスのお屋敷に比べ、働いている人の数は微々たるもの。軍務卿も政務卿もいません。いるのは、とっても頼りない家老が一人。いえ失礼。だって、家老といっても私と変わらないくらい若いのです……そうか、私も人から頼りないと見られているのかもしれない。
その家老たるジャン・セザール君が、庭の掃除をする私に近寄ってきました。私より少し背が低く、撫で肩でいつも猫背の彼。
もっと堂々とせんかい! と見るたびに言ってやりたくなります。いえ、言ってます。
「エミリさぁん。助けてください~」
「何でございましょう? 私は庭の掃除をしておりますゆえ、忙しゅうございますが」
言葉使いも日頃から気を使っておりんすよ。
「猪が農作物を荒らすんですぅ。網を張っても破って入ってくるし、どうしましょうか。何かいい方法はないすかねぇ」
ああ、頼りない。あんた、オーギュストさんとこに行って鍛えられてきたら? 彼ならきっと「増えすぎて、山の中だけでは食糧が足らんのだろう。狩人を雇って数を減らせば済むだけの話だ」と言うはずです。だから、私はそう言いました。
「狩人、いないんです」
なんという田舎! なんという僻地! 大公領から馬車で十日の距離に、こんなとんでもない秘境があるなんて思ってもみなかった!
「え? 狩人いないの? 山の中にあるのに?」
そうです。ベルクトは山間にある町なのです。
「徴兵されて行きました」
そういうことね。従軍の務めが果たせない代わりに、兵士だけを取られていったのですね。アルメニア王家は今、コーレイト王国とガチンコで戦争をしてますもんね。
私は腕を組んで考えた結果、オーギュストさんから託された助っ人の使い道に気付いてしまったのです。
「私が狩りに出るからさ。ちょっと人数を集めてよ」
「猟犬がいません」
どこまでも弱々しい声のジャン君。
私は城の中庭で遊び回るゴーダ犬達を指差した。
「あれがいるよ」
「……大丈夫ですか?」
「うん。軍用犬だからね」
私が口笛を鳴らすと、遊び回っていたゴーダ犬達が、垂れた耳を揺らして集まってきます。私の周囲にお座りをした彼ら。可愛いくりくりの目を私に向けて、尻尾を振る。
「多分、大丈夫だと……思う」
スヌーピーのモデルになった犬種そっくりのゴーダ犬達を眺め、私とジャン君は不安げに息を吐いたのでした。
-Féliwce & Emiri-
アルメニア王国歴三四七年、春。
周辺諸国も含め、多難の始まりとなったこの年。
まずターラザント共和国は国名をタラス共和国へと変えた。それは帝国の侵略により、共和国東部にあるターラザント地方を国の中心とするより、友好国に近い西部に中心を置くほうが良いと判断した為である。よって、首都をターラザント地方のターラザントから、タラス地方のザンクト・ガレンへと移した。元々、国内最大の都市であったザンクト・ガレンに首都を移した事で、経済がより安定したというのは皮肉な話である。
そしてトラスベリア王国では、五人の選帝侯を中心に内戦が始まった。きっかけは、選帝侯の一人であるソルグレン公爵による王家への反逆で、それを沈める為に集まった他の選帝侯達が仲間割れを起こし、国王派と反国王派に分かれてしまった事だ。ただ、選帝侯の一人である、アシェド・ラスカ・シェブール公爵のみ、自領から一歩も動かず静観をしている。
ロゼニア王国はどうか。相変わらず、神聖スーザ帝国と王国北東部で激しくぶつかり、一進一退であるが、ベルーズド大公領の繁栄もあり、経済的な損失は大きくない。小康状態を保っていると言っても差し支えないだろう。また、
神聖スーザ帝国。ここはアルメニア同様、東で西でと戦に忙しく、北のタラス共和国とも戦端を開こうとしている。教皇によって発動された聖戦は、帝国の東にある国々の反発を招き、泥沼化しつつあった。だが、もとより領地も広く、資源にも恵まれた帝国は、その領土的野心と、神の意志により周辺国へと侵略を進めている。
コーレイト王国。ユーロ大陸北西のコーレイト島と大陸北西部に領地を有するこの国は、アルメニアを相手取り、激しい戦争を行っている。敵対関係にあるトラスベリアとは、ゴーダ騎士団領国を間に立て和平交渉を進めながら、アルメニア王国とは、ブリステン州の領有をめぐって争っており、それについては一歩も引かぬ様子であった。
マドリー、カステーリャ、バレンシア、サラゴサ、アトレティコ、リスボン、ベンフィカなどの南部都市国家連合は、お互いの貿易利権が衝突し、東と西に分かれ、小競り合いを繰り返している。
イスベリア王国。二度のアルメニア領侵攻に失敗した損害から未だ癒えず、損失を補う為に行われた増税に国内では反発が高まり、民衆による暴動が頻発していた。
それらの中心にあるアルメニア王国は、国王によって北部戦線に移動された王弟の国政復帰を望む声が高まり、それが国王の不興をこうむる図となったことで、ここにきて暗雲が立ち込めてきている。さらに、四公の一人に数えられていたアラゴラ公爵が王都から離れ、自領に帰ったという事実は、お互いに協力と譲歩をしつつ国を運営していた中央の瓦解の兆しでもあった。
それらの情勢を眺めて、一人ほくそ笑む男がいる。
フェリエス・ベロア・ベルーズド公爵である。大公とも、国王の年下の伯父とも呼ばれるこの青年は、美し過ぎる顔とは裏腹に、危険な野心を胸の内に住まわせていた。だが、それも一人の少女によって、彼の為だけであったものから周囲の為のものへと変化している。ただ、それによってこれまで以上に、その野心を大きくしているのは、記録には残らないことだろう。
フェリエスは、側室であるロゼニア王国第三王女クリスティンが見つめる中、オーギュストの報告にただ笑った。
「この上ない状況だ。それで、ストラブール大学のほうは順調に進んでいるのか?」
「入れ物はすぐにでも出来まする。ですが殿下。最も大事であるのは中身です。どこぞの国から、高名な魔導士を引き抜いてはいかがでしょうか?」
フェリエスがクリスティンに視線を転じた。
「姫、あなたも魔導士であったな。誰か、良い人はおらぬか?」
クリスティンは、いまだ自分に手を出そうとしない大公の言葉に、嫌味も込めて口を尖らす。
「殿下が私に声をかけてくれるのは、いつもそのようなことばかりです。エミリどのとはえらい違い。ああ、羨ましい」
オーギュストが笑いを堪える為に、頬を引きつらす。それを一睨みし、咳払いをした大公。側室は、いきなり笑いだすと、姿勢を正して一礼をした。
「失礼致しました。嫌味の一つも言わねば、殿下には届かぬと思うておりますれば、お許しください」
「姫、俺はあなたを傷物にするつもりはない。ロゼニアが落ち着かれれば、丁重にお帰り頂こうと思っているのだ」
クリスティンが眉を跳ね上げる。
「私はフェリエス大公殿下の側室でございます。帰る国などございませぬ!」
男二人がどうしたものかと顔を見合わせていると、女神と比喩される姫君が笑った。
「か弱い女の戯れでございます。お気になさいませぬよう。魔導士であれば、実家に相談すれば数は揃えられるでしょう。しかし、質となると話は変わって参ります。大陸で最も魔導士教育で進んでいるのは、大陸東部の大国である大宋国でございましょう。ですが離れております……アルメニアにとっての宿敵ならば手が届くのではありませんか?」
「ゴーダ騎士団から引き抜くしかないか」
フェリエスが唸りながら腕を組んだ。自分の恋人であり、婚約者であり、参謀であるエミリを、まさかゴーダ騎士団が引きぬこうとしていたことを知らない大公。
皮肉な話である。
「ゴーダ騎士団領国なら、深紅の魔導士と呼ばれるレニン・シェスター卿がおられます。大陸広しといえども並ぶ者はいないでしょう」
フェリエスはクリスティンの言葉に瞼を閉じた。
レニン・シェスターは偉大な魔導士だが、相当な変わり物だと聞いている。彼を味方に引き込むには、どうすればよいか。
「アレクシを呼べ」
大公はある考えの元に、家老を呼ぶようオーギュストに命じたのだった。
-Féliwce & Emiri-
「ビー、グー、ルー、ポン、リン」
私が名前を呼ぶと、犬達が尻尾を振って整列をする。彼らは初めこそ番号で呼ばれていたんだけど、それはあまりに可愛そうなので名前をつけたのです。
五匹の犬と、四人の兵士と魔導士、そしてなぜか同行を申し出たジャン君を連れて、私は畑へと移動した。
山と森を切り開いて作られた畑は、見事に荒らされています。
「ああ、アスパラガスが駄目だね……エシャロットもやられてる」
私は、猪の足跡が点々とする畑を眺めた後、視線を山のほうへと転じた。犬達が獣の匂いを感じているのか鼻をひくつかせて宙を見る。こんな真剣な顔をするこの子たちを見るの初めて! あんた達、やっと本気を出したんだね?
シャンパーニュ公爵の抱える軍は総勢五〇名という、まさに町の警備をするためだけの貧弱なもの。その中から魔導士を含める五人の戦力を連れて来たからには、結果が求められる。
弓弦の張り具合を確かめながら私達は山に入った。犬達が起伏の激しい地面をすいすいと進み、立ち止まっては地面を嗅ぐ。
ああ、有名なロールプレイングゲームのようにいかないですかね。
猪が現れた。エミリの攻撃、十五のダメージを与えた。猪を倒した。なんてね……。
猪は基本、夜になって畑を荒らす。だから私達は昼間のうちに、彼らの道に罠を仕掛ける。罠と言っても、網で動きを封じるという簡単なものだ。どうしてこの罠にしたのかというと、猪を捕まえて帰れば、立派な食糧になるから。
「エミリ殿は剣も弓も強いのはどうしてですか?」
兵士の一人が話しかけてきた。シャンパーニュ公領に来て以来、私は彼らの訓練の相手もしているのです。忙しいんです。これでも。
「ふふふ。これでも軍務次官をしてたかんね」
「おお、大公殿下のところでですか? それはすごい!」
兵士達が私を褒めてくれる。
そうよ! 私は褒められて伸びる子なの! もっと褒めて!
ビーが私のところに転がるよう帰ってきた。しかし、この子たち、いつもはワンワンアオーアオーと吠えているのに、今は全く吠えもしない。この時も、私の足におでこを擦りつけるようにして、私の意識を自分に向けさせると、垂れた耳をピコピコと上下に動かし顔を茂みの奥へと向ける。
私は犬笛を口に咥え、短く二回鳴らした。
一斉に集結する犬達。
緊張する私達の前方で、茂みが揺れると、大きな猪が姿を現す。
でか!
猪ってこんなにでかいの!?
そうです。見たのは初めてです。
巨体を揺らして現れた猪は、鼻を鳴らし地面を蹴る。これは相当に機嫌が悪いと見た。
私は腰の剣を抜き放つ。兵士達もそれぞれの武器を手にしたところで、猪が地面を蹴った。
私達に突進してきた巨体を、左右に飛んで躱す。立ちあがった時、犬達が一斉に猪を追いかけるのが見える。
「アオー!」
「アオー! ワオー!!」
犬達の吠える声で、どこに逃げているか分かる。斜面を登り、下り、また登る。茂みをかき分けた先に、犬達の白い尻尾の先端部分が見えた。
「アオー!」
これはポンの声だ!
私はすぐさま跳躍し、犬達に周囲を囲まれ、右往左往する猪に接近する。盾で大きな頭を殴り、剣を後ろ脚の付け根に突き刺した。
ごめんね! 私達も生きる為なの!
「ワンワンワオー!」
グーが大きく吠えた時、兵士達の放った矢が猪に突き刺さる。巨体を苦しげに揺らした猪が、脚を折り地面に倒れた。
「猪さん。ごめんなさい。あなたの命は粗末にはしません」
私は猪に声をかけ、その首に白刃を突き立てたのだった。
-Féliwce & Emiri-
山に入った私達は、二頭の猪を仕留めた。猪は町へと運び精肉店で解体される。血抜きをして内臓を取り出して運んだので、なんとか食べられるみたい。
内臓はとっても愛くるしい犬達の腹へと収まりました。
うう……見たくないところを見てしまったぁ。でも、目をキラキラさせて食べたがる彼らに負けてしまった私のせい。生で猪の内臓を食べる犬を見れば、愛犬家の人達もおそらく一気に引いてしまうのではないだろうか……。
お前ら、虫下しをちゃんと飲め! 口を開けろっての!
犬達に薬を飲ませた後、私は城の一室でジャン君と向かいあう。彼が同行してきたのは、狩りの見学だけでなく、どうすれば効率的に猪を捕まえる事が出来るか考える材料を得るためだったそうだ。
あんた、頼りないけど頑張ってるんだね。一応、ご家老さんだもんね。
虫下しを飲んで寝ろと犬達を眺めた私に、伏せの状態で目だけを私に向けるゴーダ犬達。しっぽをぐるんぐるんと振っているのは、おそらくかまって欲しいのです。
はいはい、ジャン君との話が終わったらね。
テーブルの上に、地図を広げた頼りない家老は、私の顔を覗き見る。
「エミリさん。こことここに罠を仕掛ければいいと思うのですよ。どうですかね?」
「あんたね、こんなところに罠に仕掛けたら、農作業する人達がひっかかるよ」
「ですよねぇ……あははは」
あははは……じゃあない!
「この町の少ない現金収入たる作物を荒らされてるんだよ! もっと考えなさいっての。そもそも、猪が山から出て来るようになったのはどうしてだと思う?」
ジャン君は腕を組んで考える。そういう真面目な顔をしてれば、少しはまともに見えるよ。
「数が増えてる!」
「うん、それもあると思うけどさ。 じゃあ、数を減らすにはどうすればいい? 一応、私も時間の空きを見つけて狩りに行くけどさ。それじゃあ、追いつかないと思うんだよね」
ジャン君は立ちあがると、書斎の本棚に近づく。そこから、一冊の分厚い本を取り出し、広げてパラパラとめくった。
「猪を捕食する動物の数が減っているかもしれませんね。そういえば最近、狼の群れを見ません」
私は彼から本をひったくると、狼の項目を見た。その精悍な顔立ちは、同じ犬科でありながら、ゴーダ犬達が束になっても逆立ちしても敵わない。
「狼か……ああ! そうか」
私はパンと手を叩いた。
ジャン君が驚いて目を丸くしている。
「この子達のおしっこを、畑の周りに巻けばよいのだー! 警戒して近寄って来ないと思うよ」
ジャン君がパチパチと手を叩く。
まずは農作物を守る。次に猪の数を減らす。そして……
「ねえ、あんたさ。無計画に畑を広げすぎなんじゃない? ちょっと農地開発計画を持ってきなよ」
そう。私はこれが本当の原因だと考えてます。畑と山が接近しすぎで、さらに今、山を切り開いて畑を広げようとしているのです。
自分の部屋に飛んで帰ったジャン君は、紅茶の香りを漂わせるカップと共に帰って来た。
「これです」
拝見しますぅ……と、はああ……。
「ねえ、ご家老さん。確かに畑の近くに畑を作れば、農業用水の開発や井戸の開発を最小限で抑えられるけどさ、これはあまりにもひどいよ。誰も何も思わなかったの?」
ジャン君が頭をかく。
「この計画は僕の父上が作ったものなんです。十年前だったかな。それを今、ちょっとずつ進捗させているんですよ」
お前は日本のお役所か? 完全な役所仕事じゃんよ……。
「全部見直し。ちょっと、明後日あたり、農家の皆さんを集めて」
私は頼りない家老から視線を逸らし、書斎から庭を眺めた。その端に鳩小屋がある。私が公爵家の養女となる事が決まった時、フェリエスが犬達と共に預けてくれたのです。
私は桃太郎じゃないんだ……と、その時は思わずがっくりと肩を落としましたが、鳩さんがいるのはとっても便利。フェリエスとの手紙のやり取りを毎日、出来るからです。明日さっそく、助っ人を送ってもらう手紙を書こう。
もちろん、たっぷりと愛の言葉も載せます。
遠距離恋愛はつらいよ。
-Alfred Shyster-
僕は講義を追え、研究室へと戻る。大学の構内を歩いていると、熱心な学生達に囲まれ、彼らの質問攻めにあいながら廊下を歩く。
「レポートを期日までに出すように」
彼らにそう宣言をして研究室のドアを閉めると、助手が僕に笑みを向ける。黒髪の綺麗な女性だ。
はっきり言う。惚れている。
「シェスター助教授。来週の学会へは参加されますよね」
「そのつもりです」
「ホテルはご予約なさいました?」
ああ、忘れていた。
来週に迫った学会で、僕は発表を行う予定なのだ。召還魔法における素粒子の役割と重力の動きについて。
彼女にホテルの予約を頼み、椅子に座ると書類を整理する。発表もあるし、エミリ・ホリカワの事もあるし、魔導士試験の試験官会議もあるし、くそ忙しい。特にエミリ・ホリカワだ。いくら調べても、アルメニア王国歴三四七年前期の彼女の足取りが分からないのだ。公的文書には全く残っていない。
助手が僕の机にメモを置いた。そこには、高級ホテルの予約を取った事が記されている。抗議しようにも、彼女にそれを遮られた。
「もうどこも予約で一杯です。たまにはいいんじゃないかしら」
ホテル『セザール』か……一泊、十万リミエ……高い!
苦笑しながらメモを拾い上げる僕に、助手が不思議そうな目を向けてきた。
「あら、助教授。歴史の研究ですか? 召喚魔法学に集中されてるものとばかり思っておりました」
「歴史は未来を教えてくれるからね。それに、この女性に興味があってさ」
「エミリ様ですね。素敵ですよね。同じ女性として誇りに思います」
「君もそうなの?」
「はい。だって、彼女がいなかったら、アルメニアはとってもひどい独裁者に滅茶苦茶にされていたんですよ」
そうなんだよ。
だから余計に僕は困っているんだ。
エミリ・ホリカワが姿を消した三四七年冬から、夏までに彼女にとって何か重要な出来事があったはずなんだ。でなければ、夏以降の彼女の行動が説明できない。アルメニア王国の王位継承戦争を戦い、王権を倒した彼女。
三四七年の夏までは、彼女は大公領を守るために戦った。彼女の方針は守りだったのだ。しかし、三四七年夏以降に再登場すると、積極的に攻めに転じている。
独裁者を倒す決意を、この消えた半年間で彼女はしたのだ。
なぜ?
モランミリーか……。
「ねえ、ユイ君。明日から三日間、僕は休む」
「え?」
「モランミリーに出張だ。じゃ!」
荷物をまとめて慌ただしく椅子から立ち上がった僕は、助手の抗議を無視して研究室から飛び出したのだった。
-Alfred Shyster-
シャンパーニュ公爵であるモランお爺ちゃんに、夕食を食べさせる。本当は一人で食べられるくせに、私が食べさせてあげないと怒るのです。
「ねえ、人参も食べないと駄目ですよ」
「エミリや、老人の残り少ない余生、嫌いな物くらい嫌いだと主張する権利を許してもらえんか?」
「それを心配する私の権利も主張します」
モランお爺ちゃんは口を嫌そうに歪めた。
彼は人参をもごもごと噛みながら、袖の中から立派な鍵を取り出し、私に見せた。
「これをお前に預けよう」
「何ですか? これ」
「城の図書室の鍵じゃ」
「よろしいんですか?」
「ええよ。ただし」
「ただし?」
「人参は食べたくない」
そんなに嫌いなの!?
ともかく、私は城の図書館に入れるお許しを得た。今まで、お爺ちゃんのお供でしか入れなかったけど、これからは一人で自由に入れる。もう、寝床ごと移動しちゃおうかな。
だってさ、この世界は娯楽が少ないのさ。
日本にいた時は、本なんてあまり読まなかったのにね……。
私はさっそく、毛布とシーツ、枕と蝋台を図書室に運び込み、アルダの行の先頭にある本から手に取る。アルダとは、日本語で『あ』の事です。
本を読んでいると、扉をノックしてお爺ちゃんが入って来た。彼は「ほっほ」と笑い、私の近くに座ろうとする。私が、シーツをそこに敷こうとしたら、手でそれを制した。
「わしの唯一の道楽じゃが、わしはもう読めん」
「読んでさしあげましょうか?」
彼は笑って首を左右に振ると、地べたに座り込んだ。
「お前はええ子じゃ。フェリエスも良い女子を見つけたのう」
えへへへ。素直に嬉しい。
「じゃが、礼儀作法はもっと学ばねばならんぞ。今のままではフェリエスが恥をかくでな」
……厳しい。そうなのです。モランお爺ちゃんはさすがに王家の人。とっても詳しいし厳しいのです!
モランお爺ちゃんが唐突に笑みを顔から消し、私をじっと見つめる。
「エミリ。お前はフェリエスの事を愛しておるのだね?」
直球で聞かれたさすがに恥ずかしい。でも、誤魔化せないお爺ちゃんの雰囲気に、私は真面目な顔をして答える。
「はい。愛してます」
「では話そう」
お爺ちゃんは、懐からスキットルを取り出しニヤリとする。
「お医者様に止められているでしょ?」
「そうじゃ。だからお前の前でしか飲まん」
モランお爺ちゃんがグビリと飲み、私を見た。
「わしは若い頃、兄上の元で王国元帥を拝命し、周辺国の憎しみの的となっておった」
蝋台の炎が微かに揺れた。
「エミリ、戦で何を大事とする?」
「勝つことです」
「お前の勝つとはどういう意味じゃ?」
私は手から本を離し立ち上がる。呼び鈴を鳴らし、侍女を呼ぶと紅茶を二人分、用意してもらうように頼んだ。
「モランお爺ちゃん。私がどうしてここに来たか分かってるの?」
「フェリエスの嫁になる為じゃろ? じゃから大事な話じゃ。あいつはこれから、フィリプの首を狙うじゃろうからな」
シャンパーニュ公爵は、その目を細めた。大陸全土に軍神とまで言われたモラン・ベルクスト・シャンパーニュ公爵。しかし、この十年間は、表舞台から姿を消し、小さな町に引きこもった。敗戦の責を受け、領地を先代国王に奪われただけが理由ではないのではないかと、この時、私は思った。
「フェリエスを助ける為に、アレクシからいろいろ学んだのであろう?」
「アレクシお爺ちゃんを知ってるの?」
「知ってるも何も、兄上の主席参謀を務めておったのがあいつ。王国元帥がわし」
彼はスキットルからアルコール度の高い酒を胃に落とすと、大きく息を吐き出した。
「あの頃は戦争に女に、酒だ。今は酒だけ……」
不良老人が薄く笑う。私はお酒に目を瞑って上げることにした。
ただし今だけ。
「エミリ、戦争とは結局、何の解決にもならん。わしは四十年間、戦争をしてきたが、ほれ、今のわしに何がある? 息子達は死に、領地は消え、残ったのはこの町だけ。アルメニアはどうか? 相変わらず、貴族達が国にのさばり、周辺国から忌み嫌われておるわ」
私は侍女から紅茶を受け取った。
それをカップに注ぎ、お爺ちゃんの前に置く。彼はそこにスキットルの中の液体を注いだ。
「ブランデーですね?」
「飲むか?」
「いししし。少し」
ハザルさんのせいで、酒を嗜む女になってしまった私。
「わしはもう野心も欲も枯れ果てたと思うておったが、お前とフェリエスの為にできる事をしたいと思う。だから、話す」
「はい」
モランお爺ちゃんは、紅茶に口をつけた。
「フィリプはフェリエスを恐れておる。奴はフェリエスにベルーズド地方を与えたが、何故だと思う?」
「えっと……、近くにいたら比較されて嫌だったからじゃないかな?」
「それもあるが、一番の理由はな。フィリプはフェリエスをベルーズドにやる事で、伯父の野心を満たしてやろうと思うたのじゃよ」
私は紅茶を飲んだ。
「じゃが、フェリエスの野心は領土的野心などではない。それを見誤っていたと気付いたフィリプは、フェリエスの野心というより、狙いを自分、いやラング家だと知った。次はフェリエスの首を取りに行くじゃろう。圧倒的に勝てる今のうちにな」
「どうしたらいい?」
「まずは力を手に入れろ。ロゼニアを取りこみ、力を蓄えること。次は、王家を周辺国と諸侯で包囲してやれば良い」
「あくまでも、個別に動いた結果、アルメニア王家を包囲していたという格好を取るのね?」
モランお爺ちゃんが目を細めた。
「賢い娘は好きじゃ。お前ほどに息子どもも賢ければ、命を落とす事は無かったかもしれん……そうじゃ、エミリ。拙い同盟は自らの首を絞める。それぞれがそれぞれの意思で動いた結果、アルメニア王家へと矛を向ける。それを作りだすのじゃ」
私は紅茶のカップを持ったまま、お爺ちゃんの横顔を眺めた。皺が深く刻まれたその顔に、自嘲の陰りが見える。
「今となってはわかる事も、あの頃のわしはわかっておらんかった。息子を失い、兵を失い、王の信頼を失って初めて気付いたのじゃ」
シャンパーニュ公爵は、凄みのある笑みを浮かべて、私から視線を逸らした。私は気になっている質問を彼にした。
「公爵閣下にお聞きしたい事があります」
「何じゃ? 改まって……。わしはエミリにお爺ちゃんと呼んでほしいんじゃがな」
私は死んでしまった本当のお爺ちゃんを思い出す。剣術に武術にとても厳しく、兄がああなってしまった原因を作った祖父。恨んでいたが、今ではとても後悔している。
「私、不安なんです。こんな私で、フェリエスを助けてあげられるんでしょうか? こんな不安な気持ちのままで」
「何に対して不安なんじゃ?」
私は小さく息を吐きだした。
「フェリエスのお嫁さんになる事……だってフェリエス。とっても素敵な人なんだ。それにとっても偉い人。私なんかに務まるのかな?」
「そう思っておるなら、さっさとフェリエスに断ってきたら良いだけの話じゃ」
いじわる……。
「じゃがエミリ。お前はフェリエスの花嫁になる為に頑張っておる。わしから見ても、よく頑張ってるぞ。お前を嫁にもらえて、あいつも幸せじゃろう。こんなに可愛い娘を、生涯、一人占めできるんじゃからな」
モランお爺ちゃんの優しさに、私は思わず微笑んだ。
「じゃから、明日からの礼儀作法や歌、踊りに楽器の稽古は、もっと厳しくするからの」
それだけはやめて欲しいです……。
-Alfred Shyster-
ベルクトの中心で、私は町の子供達を集めて文字の読み書きを教えている。公爵家の仕事の合間に、いろいろと仕事をしているせいで、さすがに疲れも溜まってきました。
今日は朝からフラフラするなぁと思っていると、子供達の前で見事にばたんキューです。
兵隊さん達が慌てて駆けつけて来て、私を近くの診療所に運びこんでくれました。
病名、風邪。
馬鹿は風邪をひかないというのは嘘です。
お城の寝室で寝ていると、ジャン君が書類を束ねて私の部屋にやって来ました。
「エミリさぁん。大丈夫ですかぁ?」
見ての通り、大丈夫じゃない。
「公爵領の今年度予算計画と、前年度がこれ。これは都市開発でこっちは農地開発。これは十年間の人口推移年代別で……」
たくさんの書類をベッドに置いて、私は上半身を起こす。
「あと、料理長がスープだけでも飲んでって」
それを先に出せ!
侍女に運ばれてきたスープを受け取り、スプーンで口に運ぶ。野菜と茸のスープだけど、この茸て何? 風邪で鈍ってる私でも、この旨さが尋常ではないってわかるんだけど。
「ああ、たくさん取れるんですよ。ベルクト周辺でね」
「原形を持って来て」
書類に目を走らせていると、黒い塊を持ってきたジャン君。
私はその手に持たれた茸が、日本というか私のいた世界ではとっても高価なものだとわかってしまいました。
「あんたこれ、トリュフじゃん」
「トリュフ? いえ、これはネコノフンダケという名前です」
嫌な名前だ……。
「ねえ、この茸は有名なんじゃない?」
トリュフですよ? これが材料として使われているだけで、とっても高くなるんですよ。こっちの世界は違うの? そういえば、ストラブールで食べた事ないな。
「いえ、安いけど美味しいからこの町の人達は食べますけどね。安いというより、山にわんさかありますから。エミリさんは食べた事あるんですか?」
日本で食べたよ。あれは、お父さんとお母さんの結婚記念日だったなぁ……。赤坂のレストランで食べた。その高級食材が山で手に入る?
私の脳は、風邪にも関わらずフル回転する。
「ねえ、これをいくつか集めて。ストラブールの店に送ってみるよ。食材として使ってもらえるなら、取引してもらえるかも」
「はあ……。なんでそんなに興奮してるんですか?」
私はベッドの上に散らばる書類を指差す。
「ご家老。これらの書類が言ってます。シャンパーニュ公爵家は対外輸出をしてお金を手に入れなければ、近い将来、破産です。なぜなら」
書類の束を掴みあげる。
「人口は減少の一途を辿ってます。働き口が無く、公共施設が乏しく、上水道も下水道もない。見て下さいよ。この働き手たる二十代から四十代の少なさ!」
日本の過疎地をご想像ください。そしてそこから、車や水道、電気、消防、警察、その他もろもろを無くしてみてください。
住みたいですか?
「まずは人が住みたいと思う町にする為、市場に仕事を用意しないとね。まずはお金」
ジャン君が難しい顔をして、書類に目を走らせていく。
「借金が幸いにもないのが救いですよ。だから、今のうちに手を打つべきだと思います。それと、新しい開墾は町の南西部にしてください。それから農業用水路。これはずっと改修されてないけどなんで?」
「工員が集まりません」
私は書類を調べる。
「ご家老、これっぽっちの日当で集まるはずがありません。倍は必要です」
「ええ? そんなに?」
「当たり前です。お金、いるでしょ?」
ご家老は、こくこくと頷いたのでした。
-Alfred Shyster-
ベッドの上で寝ていると、窓を手で叩く音に目が覚めた。
私は冷たい水が欲しいと思いながら、窓に目をやった。
そこには、手を振るギニアスさんが立っていた。
「ひゃあああ!」
叫んだ私に、ベッドの周囲で寝ていた犬達が起きて伸びをする。
お前ら、番犬にはならないんかい!
幸い、お城は人が少ないせいで、私の叫び声に起きてくる人もいない。お爺ちゃんと私、料理長に侍女が一人の大きな城。これが公爵家?
窓を開けると、彼は当たり前のように部屋へと入って来る。壁時計を見ると、夜の八時だ。ストラブールと違い、田舎のベルクトでは夜の八時、つまりジルーの時間はもう真夜中です。
「いやぁ。探したぞ」
ゴーダ騎士団の諜報員の優秀さが、彼がこの場に現れた事で証明されている。私、ストラブールをこっそりと出たんだよ?
「こんな田舎で何をしている? ついに大公に捨てられたか?」
てめぇ……私が風邪で倒れている事に感謝しな! 健康な時ならフルボッコだよ!
「違うよ。今の質問をそっくりそのまま返します」
ギニアスさんは、ゴーダ犬達を撫でながら、勝手に室内をうろつくと、水差しの水を杯に入れ、私に渡してくれる。常温だったが、アルメニアは寒い国だ。春といっても陽が沈めばとっても寒い。私は冷たい水を飲めた。
「何って? 君を探してたんだよ。ギューン閣下から目を離すなと言われてるからさ……て、あれ? 俺がこんな事を言ったら駄目か」
駄目だと思うよ。
「まあいいや。それより、帝国とタラスが戦争を始めたぞ。君のせいだろ?」
「タラス?」
「ああ、ターラザントの新しい国名だ。なあ、そうなんだろ?」
「私のせいじゃないよ。領有権で揉めてたんでしょ? きっとそれが盛り上がったんだね」
ギニアスさんは鼻で笑うと、椅子を引き寄せて座った。彼は煙草を口に咥えると、指先に炎を灯しそれで煙草に火をつけた。
「なあ、ゴーダに来いよ。いい国だぞ? 美男子が一杯いるんだぞ?」
……そんな誘い方ってないと思うんですよ。私って、どれだけ美男子に弱いと思われてるんでしょうか。
「私は風邪をひいて寝ているんです。帰ってもらえないですかね」
ギニアスさんが目を見開いた。
「おお。そうだったのか、悪かった」
意外だ。こんなにもあっさりと引き下がるなんて。
「明日、また来るから」
……これもある意味、ストーカーだと思うんですよね。
窓から出て行こうとした彼が、何かを思い出したように動きを止め、顔だけを私に向ける。
「そうだ、ヴラド・ヴィシュル・ワラキア伯爵という男は知っているな?」
私は首を左右に振った。
「気をつけろ。何やら、その男が君を狙っているそうだ」
どういう事なんでしょうか……知らない人に狙われるなんて、意味が分かりません。
そうか、私はベロア家の家老補佐なんだ。私が知らなくても、相手は私を知っているって場合もあるんだ。
「ありがとう。どうして教えてくれたの?」
私が窓に視線を戻すと、ふてぶてしい諜報員はいなくなっていたのでした。




