6
神聖スーザ帝国軍総指揮官アーセル・スボビッチは、ロゼニア王国の王都トリノへと連行された。彼は十二人しかいない枢機卿の一人であり、既にアルメニア侵攻戦で戦死したグロスクロイツ枢機卿とあわせると、二人の枢機卿席が空席となったのは、神聖スーザ帝国において前例のないことであった。
帝国はスボビッチ枢機卿の幕下であった聖天騎士団総長が撤退戦を指揮し、ロゼニア方面軍残存を国境付近まで撤退させた。そして素早く補給線を整え、ロゼニア王国北東部のラノキア州を占領したまま動かなくなった。おそらく後任人事が決まるまでのことであろうと思われるが、ロゼニア王国としては、民兵を前線に送りだす時間を作る事ができたのである。
一方でこれはアルメニアにとってどうか。
まず、これまで友好関係にあった二国間の関係が反対方向へと針が大きく振れたことで、東部国境の力関係が一変した。これでアルメニア王国は、二カ国から一方的に侵略を受けるという事がなくなり、更に言えば、ぶつかり合う両国の様子を見ながら、好きなように干渉が出来るのだ。ただそれはロゼニアを支援しつつ、という前提がある。
ロゼニア女王イザベラの眼前には、神聖スーザ帝国の大軍をわずか三百の騎兵で翻弄した騎兵連隊の指揮官二人が並んでいた。
いかにも武人という隻眼の将軍は、侍女に笑みすら浮かべる余裕であった。一方、これが指揮官かというほどに愛らしい顔立ちの少女は、黒い髪に瞳を輝かせ、イザベラとクリスティン、そしてヘルムンド伯爵を見つめた。
「ご返答は?」
どこまでも憎らしい笑みを浮かべたハザルに、イザベラの苦笑が重なる。
「側室を認めるわけにはいきませぬ」
イザベラの言葉に、にんまりと笑ったハザル。その隣で、瞼を閉じた黒髪の少女は、上質の紅茶を口元に運んだ。
女王は、彼女をじっと見つめるクリスティンの横顔を見た。
イザベラは、娘とこの少女の間に何があったのかと疑問を感じたが、ハザルが声をあげて笑い始めたところで脚を組み直して視線を二人へと戻す。
しかし、大公軍指揮官の二人は去るというのである。
「では、私達はこれで」
紅茶を受け皿に置いた少女が、会釈をして腰を浮かす。それに続いた隻眼の武人を見て、イザベラはこの行動から二人の力関係を悟り、目を見張ったが、今はとにかく引き留めなければと慌てた。
「待ちなさい。それでは、あなた達は何も得ぬままアルメニアに帰るのですか? 私達を助けただけではありませんか?」
無礼にも、一礼もなく立ち去る二人の背中に女王の言葉が投げかけられた。
エミリは微かに振り返る。隣のハザルが眉をひそめるほどに、彼女は冷めた顔を作っていた。
「女王陛下。あなた達はこれから、自分達だけで帝国と戦わなくてはなりません。そのお陰で、私達は東部国境の安全を保てます。それでは御機嫌よう」
その言葉が、はったりでない事を、躊躇なく退室した二人から理解した女王。彼女は、クリスティンに視線を向けた。
あの少女がわざわざ捕えた敵の指揮官を、ロゼニア王国に引き渡すと申し出てきた時、どこまでお人よしなのかと女王は内心ほくそ笑んだが、そうではなかったのだ。帝国の憎しみと怒りの矛先を、ロゼニアに向けておきたいから、あの少女はスボビッチ枢機卿をロゼニア王国に引き渡したのだ。悲しいかな、今のロゼニア王国は、囚われの枢機卿を交渉のカードに使わねばならないほどに困っている。
女王は、側室を認めないというロゼニア王家の主であり、四人の娘の母親である。自分がそうであったように、娘達にも女の幸せを独占して欲しいと願っていたが、それも国あってのものだと諦めた。だが、そう簡単に決心が固まるわけもなく、女王は娘に声をかけるまで、長い沈黙を必要とした。
「クリスティン。ベルーズドに行きなさい」
女王の言葉は、激しく震えていて、聞きとるのに苦労したとされている。
「陛下……」
ヘルムンド伯の苦しげな声に、クリスティンは瞼を閉じた。彼女は白い頬に手をあてると、大公の手紙の意味を考える。側室としてなら迎えるという大公。そこには、妻ならお断りだという意図以上に、エミリという少女以外の女性を妻にはしないという大公の想いが込められていないだろうかと感じた。
「母上。ベルーズドへ入ります。わたくしが大公の近くにあれば、その狙いもわかりましょう」
「そなたは、この状況でさえも大公の目的ではないと申すか?」
イザベラの言葉に、クリスティンは瞳を宝石のように輝かせ、驚く母を見つめた。
「それを見極めるのも私の務めと存じます。ヘルムンド伯、対帝国の指揮を頼みます。あなたなくして、国はもちません」
ヘルムンド伯が深く一礼をした時、クリスティンは微笑みを浮かべた。
彼女は、思わず微笑んでいたのだ。
(あの大公に会える)
クリスティンの気持ちは声とはならないが、母親にはそれが伝わった。イザベラは、娘が初めて見せる表情に、不安と不満を感じたが、それを表情に出すことはなく、女王としての威厳を保った。
-Alfred Shyster-
アルメニア王国歴三四六年、冬。
神聖スーザ帝国の侵攻を押し返したロゼニア王国軍は、大量の民兵を前線に投入する事で、帝国軍をラノキア州北部へと追い詰める。しかし、ここで帝国軍は息を吹き返した。それは、自国へと接近したことで兵站が繋がり、本国からの援軍も駆け付けたからでからだ。糧食と武器を手にした帝国軍と、国土を荒らされ怒りと復讐心に滾るロゼニア軍は、ラノキア州北部一帯で激しく衝突を繰り返したが、雪が止まず軍が動けなくなると、拠点に籠り睨み合うという状況に落ち着く。まさしく、アルメニア王国のみが得をする状況となってしまった。こうなると、アルメニア人達は高笑いをしながら、両国の様子を眺めていれば良いだけなのだが、国王ははやり尋常ではなかった。
諸侯に対して軍を発するよう命じた国王が狙うは、アルメニア北部国境を越えて他国の財貨と人命を奪うことであったのだろう。
「北伐を行う。コーレイト王国と称する海賊どもの末裔を大陸から締め出せ」
フィリプ三世の濁った眼に映る世界は、彼を中心に描かれているものであり、それは、彼の考えを周囲の人間が右往左往しながら実現する世界でしかない。であるから、彼は誰にも媚びない。己の我儘を通すのみだ。
アルメニア国王の目には北の二国、コーレイト王国とゴーダ騎士団領国が禍々しく映っていたのかもしれない。だからこそ、これほどの執念を持っていたのであろうか。
アルメニア王国へ激しく攻撃を繰り返すコーレイト王国との国境へ、王弟カミュルを総指揮官として派遣したのは、対コーレイト戦という一点のみを見れば良い判断であっただろう。しかし、点ではなく面で見た時、アルメニアという面の多くを支えていた支柱が、北へと大きく傾いた。ある歴史研究家によると「カミュル・ラング・アルメニアという傑物は、戦略家というより政略家であった。確かに彼の戦績はすばらしいが、それは政略で勝利をしていたからであり、戦場とは違う次元で勝利をしていたからである。この点は、大公と似ていると言える。その王弟をひとつの戦場に縛り付けた事が、フィリプ三世の失敗の始まりであったのだ」ということらしい。
つまり、カミュルという人物が中央から離れたこの時期に、フィリプ三世の終わりが始まっていたのかもしれない。後世に生きる僕達からすれば、どうしてこんな事をしたのかという疑問も、当時の世界で生きる人達からすれば、正当な理由があり、そこには感情によって左右されるものも多々あるだろう。多数派ではないが、フィリプ三世と弟の仲はしっくりといっていなかったという意見がある。僕もそれに賛成だ。そうであれば、国王の判断も頷ける。
しかるにアルメニア王国歴三四六年後半の歴史を動かしていたのは、人の感情ではないかと僕は推測するのだ。
フェリエス大公の感情。
フィリプ三世の感情。
王弟の感情。
四公と呼ばれる大貴族達の感情。
ロゼニア王国要人達の感情。
これらがお互いに干渉し合い、波紋がぶつかり大きくなるかのごとく、三四七年へと続いていったのだと僕は思う。
おっと、玄関に誰か来たようだ。おそらく、頼んでいた本が届いたのだろう。ついでにお茶も淹れ直そう。すっかり冷めてしまった。
-Féliwce & Emiri-
フェリエスは屋敷の執務室の中を、落ち着かない獅子のようにぐるぐると歩きまわっていた。それを見てオーギュストが苦笑するも、大公に睨まれ口を閉じた。
オーギュストの代わりに、アリストロが口を開く。
「殿下。伝令によりますと今日の夜には到着するとの事でございますれば、まずは落ち着いて出迎えの言葉などを考えてはいかがでございますか?」
フェリエスは「ああ」とか「うん」とか呻くと、窓際の長椅子に音をたてて座った。
(エミリが帰って来る)
帝国軍の兵站をわずか三〇〇の戦力でずたずたに斬り裂き、ロゼニアに勝利をもたらした少女の名は、今やアルメニア東部諸侯の間でもちきりであった。
そして、すぐにでも中央へと届くであろう。
フェリエスは、あの酒を飲むだけのためにある国王の口からエミリの名前を発音されるのは癪だと思うが、フェリエスの幕僚であるという認識を国王に植え付ける為には仕方がないと諦めた。
『国王といえども、諸侯の臣下を召し上げる事は困難です。そのようなことをすれば、他の諸侯が黙っておりませんでな』
アレクシの言により家老補佐の役職を与えられて初の仕事をやり遂げたエミリが、もうすぐ帰ってくる。
(ああ、そうか。エミリは俺が戦場にいた時、今の俺のように心配に思ってくれていたのだな)
大公の固まっていた表情が一変し、にやけた笑いを浮かべるのを見て、幕僚二人は顔を見合わせた。
「ついに限界を越えられたのだろうか……?」
「オーギュスト卿、騎兵連隊がどこまで帰ってきているか、確かめて参ります」
「ああ、頼む」
大公に一礼をして退室したアリストロだったが、それすら気付かぬフェリエスは、にやけた顔を窓から外に向けた。
(エミリの好きな肉団子をたくさん用意させたし、蜂蜜漬け檸檬もたくさんある。装飾品の出入り業者の者も待機させているから、褒美に好きなものをいくつでも買ってやろう。大丈夫だ、きっと喜んでくれるし、怪我一つない笑顔を見せてくれるはずだ。そうだ、怪我がないか確かめねばならん。医者がいるな、そうだな……)
「オーギュスト、医者を待機させろ」
「は……は?」
「医者だ。外科医と内科医を呼べ。市中で最も腕の立つ医者を呼べ」
「は……、しかし、腕の立つ医者は人気ゆえにすぐには来られぬかもしれませぬが」
「そこをなんとかするのが貴様の仕事だ。良いな?」
オレンジ頭を抱えながら、大公執務室から出たオーギュスト。
彼の敬愛する大公殿下は、あの黒髪の少女の事になると人が変わったように我を通す。
「ご自分のことで我を通された事などないというに……」
政務卿が呻きながら廊下を歩く様子を見て、すれ違う侍女や文官達が声を潜めた。
「また、殿下に無理難題を言われたのかしら?」
「今度はどれだけの開発を命じられたのだろうな?」
「大丈夫よ、オーギュスト様なら心配いらないでしょ」
おそらく、オーギュストにとって、侍女や文官達の推測のほうが簡単な事であっただろう。
部下が頭を抱えて退室した後、一人となったフェリエスは執務椅子にどかりと座ると、左耳を指で触った。
癖になりつつあるその行為をしながら、机の上に並べられた書類の中から、ロゼニア王国女王から届いたばかりの手紙を拾いあげる。
『クリスティンをよろしく頼みます』
ただそれだけ書かれた紙を眺めて、フェリエスはエミリの笑顔を脳裏に描く。
(どうやら、じゃじゃ馬を正妻に迎えることは回避できそうだ。あの道楽息子がこれからどう出て来るか油断は禁物だが、形式上は迎えるだろうから、そう無理な事もしてこぬであろう。なぜなら、あいつは結局のところ、俺とロゼニアをくっつける事のみに執着している節がある。となればつまり、あいつは馬鹿なりに俺を罠にはめようとしているのだ。それがロゼニア繋がりで俺を陥れる算段なのか、俺と搦めてロゼニアを巻き込むの算段かは分からぬが、そのどちらかであると言っても過言ではなかろう。小策士め、おとなしく弟の手の平で踊っていれば良かったものを)
彼は手紙を暖炉へと投げ込むと、脚を組みかえ頬づえをつく。
(それにしてもエミリ。これだけの短期間で、ロゼニアと帝国を膠着状態にもっていくとは……。ハザルの助けを借りたとはいえ、軍に死者は出ていないようであるし、この上ない結果だ)
彼は思う。隣国同士が睨みあっている間に、中央に楔を打ち込み、内政に集中する。そして……。
「吹きあがった炎は、沈める事が困難であるものだ」
金色の髪を揺らし、フェリエスは炎に揺らぐ手紙に笑みを投げた。
-Féliwce & Emiri-
フェリエスが自ら愛しい恋人を出迎えた時、彼女はぎこちない笑みを浮かべた。それを見た大公は、照れ隠しでそうしているのかと思ったのだが、食事にも装飾品にも興味を示さず、ただ一人になりたいというエミリに困惑する。
「ハザル。何をした?」
「滅相もございません」
うろたえた軍務卿から視線を逸らしたフェリエスは、屋敷の塔へと続く階段へ向かうエミリの背中を見つめ、悲しげに瞳を揺らした。
(何があった? 俺に話せないような事があったのか?)
すぐにでも追いかけ、背後から抱きしめたい衝動に駆られたが、彼の肩をハザルに掴まれ思いとどまる。
「失礼をお許しください、殿下。しかし、今はエミリを一人にしてやってくださいますよう」
隻眼の武人が、誰よりもエミリと自分の仲を取り持ってくれていると知っているフェリエスは、寄せた眉を落胆で下げると溜め息をついた。
「すまぬな。お前にまで気を遣わせて」
戦場から帰り、疲れているだろう部下を労わったフェリエスに、ハザルは片膝をつき首を左右に振った。
「とんでもございません、殿下」
「そんな礼儀は不要だ。立ってくれ」
ハザルが立ちあがった背後で、騎兵連隊の兵士達が整列をしていた。彼らを眺めた大公は、全員が再びここに帰って来てくれたことに感謝した。そしてそれを成し遂げたハザルと、寂しげに塔へと向かったエミリに対する謝罪の気持ちを覚え、その声は少し震えた。
「すまなかった。俺の力がいたらぬばかりに、お前達に苦労ばかりかける」
大公は、臣下達に頭を下げた。
兵士達が慌てて平伏する。そうでもしなければ、頭を下げたフェリエスを見下ろす格好になってしまうからだ。彼らは皆、職もないままベルーズドにやって来て、悪事に手を染め生活をしていたが、フェリエスに雇われることで生活が好転した者達ばかりだった。
学も家柄もない彼らに、王族が頭を下げた異常な光景がそこにある。
「エミリの影響を一番受けているのは、他でもない殿下ご自身だ」
離れた場所からそれを眺めていたオーギュストが、隣で笑みを浮かべるジェロームに言った。クロエの兄は、モリエロからわざわざエミリの無事を確認しようと駆けつけてきていたのだ。
オーギュストの感想に、ジェロームが思うところを口にする。
「ですが、殿下の為だから戦うとも思えるのです、私は……それはきっと私だけではなく、あの兵士達もでしょう。金で人の心は買えますが、それは金でまた転んでいきます。心で寄せつけた心は、離れていく事はありますまい。政務卿もそうでしょう?」
「政務卿と呼ぶのはやめてくれ。照れくさい」
オレンジ頭が照れながら足を進め、騎兵連隊の兵士達に報奨金と休暇を宣言した。
「食事も用意してある! 朝まで食べ、飲み明かしてくれ!」
兵士達から歓声があがる。
「ケチな政務卿のお許しが出た! 大公殿下のご慈悲とエミリの見事な指揮に乾杯しようじゃないか! ほら、杯を配れ!」
ハザルのおどけた声に、兵士達の笑いと政務卿の抗議が重なる。
屋敷の庭で、盛大な祝賀会が始まった。
その賑やかさから隔離された塔のてっぺんで、エミリは手に息を当てた。
艶やかな黒髪を風に撫でさせながら、甲冑すら脱がぬまま佇む少女は、いつもそこでそうしているように、この時もストラブールの街並を眺めていた。大公軍勝利に沸く市中は、夜更けなのに未だ明るく、星空を落としたかのように煌めきを発している。だからこそ、エミリはロゼニアで失われた人々の命を考えさせられるのである。
もっと他に方法は無かったのか?
戦争に関係のない人達を救える方法があったのではないか?
自分は、ただ考えるのを途中でやめてしまったのではないか。それは、誰もが辿りつく答えを見つけて、本当の答えを知らずに喜んでいた思慮の足りない人と同じ行為ではなかったかと自問する。
(もっと慎重になるべきだ。私の決断は人の命を左右する。もっと慎重になるべきなんだ)
彼女の頬を、いつのまにか涙がつたっていた。
エミリは塔から東を眺め、遠くに見える山々の向こうに日本があるんじゃないかと期待していた過去を思い出した。そして、実際にはあの山々を越えた先はロゼニアという国だったと瞼を閉じる。
彼女は手の甲で涙をぬぐう。吐く息がすぐに白くなるほど外気は低いにも関わらず、その滴は温かった。
「ごめんね。皆の命を奪っても、私はこうして生きてるよ」
(ごめんね。それでも私はフェリエスと一緒にいたいの。許してくれなんて言える資格ないよね。許してもらえるわけないよね)
その場で膝から崩れるように座り込んだ彼女の髪に、白い粉雪が付着する。それは一つ、二つと数を増やしていき、エミリが涙を払って顔をあげた時、白い宝石をちりばめたような黒髪が、夜空の中で輝いていた。
「エミリ、殿下が寂しそうですよ。そろそろ、宴に顔を出してください」
エミリが振り返ると、そこには優しい笑みを浮かべたジェロームがいた。
誰もが安心する笑みを湛えたクロエの兄は、宴席から離れられないフェリエスの代わりに彼女を呼びに来たのだが、大公の恋人はすぐに賑やかな場所に出られる状態ではないと、彼は彼女の顔を見て悟った。
ジェロームは少女に歩み寄り、膝をついて視線を合わせる。
冷え切った静謐の中で、しんしんと雪が降る。
「泣いて……いたのですか?」
「ジェロームさん。フェリエス……怒ってる?」
クロエの兄は苦笑すると、自分の上着を脱ぎ黒髪の少女に纏わせた。
「怒るはずがないでしょう。こんな可愛い女の子が、無事に自分のところに帰ってきてくれたのですから」
「えへへ……えへへへ、お世辞、うまくなったね」
ジェロームに助けられて立ちあがった彼女は、濡れた長い睫毛を揺らした。
「遠く離れていても、彼の事を想ってたの。そしたら、全然、恐くなかったよ。フェリエスが祈ってくれていたからかな……彼は……祈ってくれてたよね?」
ジェロームは彼女の背中を抱く様に歩くと、塔から屋敷の三階へと通じる階段を見た。
「間違いなくそうなさっていたでしょう。ほら、自分で確かめたらいいんです」
「……皆、優しいね。ハザルさんも、ジェロームさんも……なのに、どうして戦わないといけないのかな……なんで戦争があるの?」
エミリの言葉は、ジェロームに対して問うものでは無かった。それでも彼は、彼女の気が和らげば……疲れて震える少女の心が温まればと思い口を開く。
「ありがとう、エミリ。そう言ってくれるのはあなただけだ。だから心からこう思う。お帰りなさいエミリ。無事で何よりですよ」
黒髪の少女はそこで立ち止まると、堰をきったかのように泣きだした。ジェロームの胸にすがりつく。
慟哭する彼女を包むように膝をつくジェロームは、顔をあげる。
彼は雪を吐き出す夜空を睨んだ。
(この優しい少女をこの世界へと送った神がいるとするなら、今すぐ目の前に出てこい! 俺は貴様を絶対に許さぬ。その頭を掴んで、エミリの前に引きずり出し、這いつくばらせて許しを請わせてやる! お前の浅慮の結果、この少女がどれだけ苦しんでいるか分かるか? 大公殿下と出会った事で、得た喜びと同等の苦しみに喘いでいるのだ! なぜ、もっと穏やかな出会いをさせてやらなかったのだ!? なぜ、喜びだけを彼女に許してやらなかったのだ!?)
ジェロームは怒りを彼女に悟られぬよう、雪の中でも動かない。彼は、泣く妹を宥めるように、エミリの背中を撫でながら、泣きやむのを待ってやった。
同時に彼自身の心も静める。
「ジェロームさん、ありがと。私、行くよ」
涙をぬぐったエミリが、わざとらしい笑顔を作り階段へと向かう。
ジェロームは、その背中を見つめて胸に溜め込んだ負の感情を息と共に吐き出した。
彼は、少女から視線を逸らし、市街地の方向へと振り返る。そこには、激しさを増した雪に、白一色へと染めあげられた世界があるのみだった。
-Féliwce & Emiri-
私達以外は誰もいない寝室の中で、フェリエスが私を背後から抱きしめながら、私の髪に指を通す。
私はまどろみの中で彼を感じ、背中に触れる彼の身体に安らぎを求めた。
「エミリ、起きたか?」
彼は私の耳元で囁くと、空いた手で私のお腹をなでた。
心地よくて動けない。
私はまた瞼を閉じ、この大切な時間が少しでも長く続くことを祈った。




