表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

さつきさんと家

 首つりが未遂に終わったその日、私は早速引っ越すことに決めた。

 私の中であのひとが過去の人間になった今、あのひととの接点はできるだけ断ち切っておきたいのである。家は好きにしていいと言っていたし、売りとばして独立のための資金にでもしよう。

 今更実家に戻るのも何なので、しばらくは独身時代に貯めた貯金を崩し、仕事を探して一人暮らしをしようと思う。できることなら正社員が良いが、駄目ならパートでも何でもいいので、とにかく自分一人養えるだけの職が欲しい。

 幸い今日は平日だ。今日のところはとりあえず、あのひとが置いていった離婚届にサインをして、とっとと役所に提出してこよう。そしたら不動産屋を探そう。






 家は早速買い手がついた。

 試しに近所の不動産屋に相談しに行ったら、丁度この地域に棲家を求めているご家庭が複数あったらしい。家の大きさも丁度良い具合だというし、売値は良く解らないので不動産屋に一任することにする。元々不倫と家庭不和により売られる家だ。欲張って高く売ろうなんてことは憚られる。

 後は今後の私の棲家を探すだけだが、これは現在の住所よりも離れたところに住みたい、最低でも二、三駅は離れた場所が好ましいという希望があるので、時間がかかるだろう。一刻も早くこの地を離れたいところではあるが、こればかりは我慢である。


 試しにネットでテレビでよく見る不動産屋のページをいくつかまわり、ちょこちょこ検索を掛けてみるが思わしくない。自分がどの程度の家に住んだら丁度いいのか、良く解らないのだ。私物が多いので、広いほうが良いし、部屋数もあった方がうれしいが、今後無職の期間がどれだけ続くかわからないので、あまり家賃の高いところへは住みたくないのである。貯蓄はそこそこあるものの、すぐに良い仕事が見つかるかどうかわからない。増してや、これから全く知らない場所へ住もうとしているのである。そこの環境に適応できるまで時間がかかるだろうし……などと考えていると、どうにも困ってしまう。

 どの部屋も見取り図は載っているし、物件によっては室内の写真がついているものもあるが、小さい写真で見難く、部屋全体の様子がわかりづらい。終いにはどの部屋も同じように見えるようになってきて、私は検索するのをやめた。

 そういえば今の家も、どこに住むのかを決めたのはあのひとだった。今から思うと、その時に自分も色々勉強しておくべきだった、と今更ながら後悔した。

「やっぱり、実物見ないとわかんないわねえ……」

 思わず独り言が漏れる。

 あのひとと結婚するまでは実家住まいだったので、一人暮らしの経験がないのが悪いのだと思う。

「……そうだ、聞いてみればいいんだわ」

 結婚してから縁遠くなっていたが、学生時代の友人に、ずっと一人暮らしをしていた子がいた。彼女に独り暮らしの心得など、聞いてみるのもいいのではないか。

 私は、早速彼女――恵子けいこに電話をかけてみた。


『あれー? さつき? 久しぶりじゃない、元気してた?』

「ま、まあ……ぼちぼちってとこかな」

 久しぶりに声を聞く彼女に、私は誤魔化した返事をした。いきなり離婚という重い話をするのも悪い気がしたのだ。

『こっちは立て込んでた仕事が一息ついて暇ができたところだよー』

「そう、お疲れ様、良かったわね」

『あーもうほんとクタクタだよ……で、今日はどうしたの?』

「え、えっとね、ちょっと……色々あってね、一人暮らししたいんだけど――」

『あれ? 結婚、したよね?』

 誤魔化せなかった。考えてみれば、そりゃそうだ。結婚したのに一人暮らしの話が出てくるなんて、普通はない。

「えーっとね…………離婚しちゃった」

『ありゃりゃ』

「で、住むところ探したいんだけど、恵子ってずっと一人暮らししてたじゃない、ちょっとどうしたらいいか聞こうと思って」

『あー、なるほどねー』

 恵子はそれ以上は何も聞かず、快く相談を受けてくれた。ありがたいことだ。

 彼女が言うことには、やはり物件は自分で見てまわるのが一番いいらしい。無理に大手不動産屋に拘るよりは、住みたいところへ行って、そこの地元の不動産屋に話を聞いた方が良い物件が見つかるかもしれないとのこと。

『何なら、あたしがどこか紹介してあげよっか?』

 とも言ってくれたが、何もかもお願いするのは悪い気もするので、まずは自分でやってみて、どうしても駄目そうならお願いすることにした。






 翌日、私は現在の家の最寄駅から数駅先にある少し大きな駅に行ってみた。ここは別の路線との乗換駅にもなっていて、駅前にも店が多い。そういうところのほうが交通の便も良くて住みやすいかと思ったのだ。

 駅前を少し見回してみる。ドラッグストアやコンビニなど、色々な店はあるが、不動産屋は見当たらなかった。私は、駅前の繁華街を少し歩いてみることにした。


 駅から少し離れた場所にあるショッピングモールまで歩いて、私はちょっと休憩しようとモールの一階にあるハンバーガーショップに入った。もうすぐ昼時なので、ついでに昼食もとってしまおうと思ったのだ。少し混み始めた店内で窓際の席を確保し、私は一息ついた。

 家探しとは何とも難儀なものである。ちょっと探すだけでこんなにも労力を要するとは思ってもみなかった。

 ぼけっと窓の外を眺めつつ溜息をついた私の目に、小さな看板が映った。濃い緑の地に白抜き文字で『大野不動産 この先30m』と書かれたその看板は、私に再びやる気を起こさせた。


 昼食を終えた私は店を急いで出ると、真っ直ぐに不動産屋の看板に向かった。白抜きの文字の下には白い矢印が描かれていて、それに従って歩くと、件の不動産屋はすぐに見つかった。喫茶店と百円ショップに挟まれたそれは、少しくたびれた印象で、小さく地味な建物であった。私にはそれが、いかにも地元っぽいように思えた。

 私が少し緊張しつつ入口をくぐると、ほんのり薄暗い店内のカウンターにいたのは存外に若い男性であった。スーツの胸元に『大野』と書かれた小さな名札を付けた彼は、笑顔で私を迎えてくれた。

「いらっしゃいませ! 本日はどのようなご希望でしょう?」

「あ、えっと、その、家を借りたいのですが。一人暮らしなんですけども……」

 緊張しすぎて間抜けな答え方をしてしまった私だが、彼は笑顔のまま、カウンターの下から分厚いファイルを取り出してぺらぺらとめくり始めた。

「女性のお客様の一人暮らしとなると……おすすめの物件がいくつかあるのですが、ご予算はお幾らくらいでしょう?」

「あの、一人暮らしをするのは初めてで……大体いくらくらいの部屋が多いんでしょうか?」

「そうですねえ……」

 彼、大野さんはいかにも素人な私に、丁寧に説明をしてくれた。ここの近辺だと六~八畳一間で四、五万くらいが目安らしい。

「こことここと……あと、この物件なんかもおすすめですよ。周辺は街灯もしっかりついてますし、夜道も安全です」

「へえ……そうなんですか」

 ぺらりぺらりとめくられるファイルのページを眺めているうちに、私は少しどきどきしてきた。何と言っても初めての一人暮らし。初めて自分で自分の家を探す、という出来事に、気分が浮ついたのは否めない。

 そんな私の様子に気づいているのかいないのか、大野さんはにっこり笑ってこう言った。

「ご希望でしたら、いくつかの物件は今すぐ内覧に向かうこともできますよ」

「本当ですか? じゃ、お願いします」

 こうして私は大野さんの運転する車で物件巡りをすることになったのだった。



 私達が最初に向かったのは二階建てのアパートの一室だった。

「まずはここですね。六畳で洗濯機室内設置です」

 そこは至って普通の部屋だった。白い壁にフローリングのがらんとした部屋に、半畳のクローゼットがついている。試しに開けてみたが、特に変わった様子はなかった。ただ、お風呂とトイレは一緒だった。

「お風呂とトイレは別々のほうが良いんですが……」

「なるほど、承知しました。次はそういう物件に向かいましょう。近いですよ」


「次はこちらです。六畳でバス・トイレ別です」

 三階建てのアパートの二階の一部屋にて。

 ここも何の変哲もない部屋だった。白い壁に今度は畳。一畳の押入れつきだ。そしてお風呂とトイレは別室で、お風呂の中に洗面台も一緒についている。

「いかがです?」

「いいですね。あ、でも別の部屋も見てみたいかなー、なんて……」

「了解です」


「こちらは八畳になります」

 再び二階建ての建物で、今度は一階の部屋だった。

 白い壁にフローリング。一畳のクローゼットつき。

 何だろう? やけに白い壁が眩しい。

「洗面所は独立したタイプになります」

「いいですね」


「こちらも八畳になります」

 三階建ての建物の三階の角部屋。

 またも白い壁にフローリング。

 疲れているのだろうか。

 壁の白がフローリングにまで映りこんで、まるで部屋全体が白く塗りつぶされているような印象を受ける。

「こちらも洗面所は独立してますね。洗濯機はここに置くことになります」

「あ はい」

 焼けつくような白から目を逸らし、薄暗い廊下に逃げ出した。


「……大丈夫ですか?」

 大野さんの運転する車の中で、私は眩暈を感じていた。

 急に何か所も見てまわったせいだろうか、目がちかちかする。

「……だ、大丈夫です」

「じゃ、次に行くところで少しお休みしましょうか」

 運転しながら振り向いた大野さんの顔を見て、私は、初めて彼の笑顔を見たような気がした。


 次の建物はこれまでのものとは違い、大きなマンションだった。

 見た目はそこまで古くない。古くないはずなのに。

 私の目に、その建物は廃墟のように映った。

「こちらです」

 大野さんはずんずん進んで行ってしまう。私は彼を追いかけた。

 階段を上る。明らかに十階近くあるのに、エレベーターはないらしい。

 八階まで上り、私の足は棒になった。

「803、803っと……」

 部屋の鍵を開ける大野さんの後ろで、私は立ち眩みを起こしていた。何だか体が重い。

「開きましたよ、この部屋です」

 彼に促されるままに入った803号室は、これまでの物件とは違い、部屋がいくつもあるようだった。ただ、カーテンが閉め切られ、部屋の中は薄暗い。

「あの、大野さん、ここ、お高いんじゃ……」

「大丈夫ですよ、これまでの部屋とそう変わりません。ほら、こちらにいらしてください」

 大野さんが私の手を引く。そうして入ったリビングルームと思しきその部屋で、私は思わず膝をついた。

 まずい、と私は思った。このままここにいるのはいけない。

「ほら、広いでしょう?」

 大野さんの声が遠い。いつの間にか彼は私の背後にまわっていた。

「お、大野さん、ちょっと、私、気分が悪いみたいで」

「大丈夫ですよ」

 何が大丈夫なのかは知らないが、彼はにこにこしているだけだった。

「あの、大野さん」

「ここでお休みください。すぐに楽になりますよ」

 私は床に手をついた。そのまま倒れてしまいそうになるのを、どうにか支える。

 ここで倒れたら、何もかもお終いだ、という確信が私の中にあった。

 何とか逃げ出さないと。それだけで頭がいっぱいになった私は、残った気力を振り絞り、立ち上がった。

「わ、私、帰りますっ」

 そう言って玄関へと続く廊下へふらふらと逃げ出そうとした私を、大野さんが抱き留める。

「大丈夫、大丈夫。そのままお休みなさい」

 耳元で、あやすような声が聞こえる。

 駄目だ。このままじゃ駄目だ。

 私の本能が危険信号を出している。

「い……いやあっ」

 悲鳴を上げた私は、思わず彼を殴っていた。

 よろけた大野さんをどうにか押しのけ、私は廊下へと逃げ出す。

 眩暈がする。廊下が、波打っている。

 ぐにゃぐにゃとする廊下をまろびつつ進む。

 背後から、逃がすな、という声が聞こえた気もするが、そんなことに気を配っている余裕はなかった。

 手を伸ばし、ドアノブを掴む。開かない。

「いい加減に……しなさい!」

 声を、体力を振り絞り、私はドアに体当たりした。


 バーン、という音がして、気がついたら、私は建物の入り口にいた。

 這うようにして建物の敷地内から道路へ出ると、途端に意識がはっきりしてきた。

「……に、逃げなきゃ」

 私は走った。精一杯走って走って――






「――き、さつき!」

「へ?」

 目の前に、恵子の顔があった。

「良かったー! やっと目覚ました!」

「あれ……? 恵子……?」

 見回すと、そこは恵子の住んでいるアパートの前だった。

「いったいどうしたの? 何でこんなとこに倒れてたの?」

「いや……えっと……ごめん、わかんない」

 その日は私を心配した恵子の部屋に泊めてもらえることになった。やはり、持つべきものは友である。

 料理の得意な恵子の晩御飯に舌鼓を打ち、お互いの近況やら愚痴やらを話し合う。まるで学生時代に戻ったみたいだ。

「仕事と家を探してるっていうんなら、これはどう? この頃そこら辺の電柱に張り紙してあるんだけど、家に住み込むだけで25万もらえるんだって!」

「住むだけで25万? あはは、ばっかねえ、そんなの詐欺に決まってるじゃないの」

 そんな馬鹿話をしながら、その夜は更けていった。


 結局、恵子の紹介で、とりあえずは月三万で六畳一間の格安物件に住むことになった。洗濯機がベランダ置きなのは不満だが、お風呂とトイレは別なので、今のところはよしとしよう。定職が見つかり、お金に余裕ができたらもっと広いところに引っ越せばよい、と恵子も言っていた。

 



 その後、しばらくしてから件の不動産屋の場所に行ってみたが、そんなものはなかった。

 そう、建物自体がなかったのだ。喫茶店と百円ショップの間にあるのは細い路地だけで、とても建物一軒入るスペースなど存在しなかった。ついでにいうと、看板もなくなっていた。

 あれは一体何だったのだろう。

 最後に訪れたマンションのほうも実在するのか確かめてみようかとも思ったが、やめておいた。というより、あの男にぐるぐる知らない土地ばかり連れまわされたせいで、場所が全くわからなかったのだ。それに、あの建物自体が不動産屋同様存在しない、というのも怖いが、まだあそこであの男が待ち構えていたら、またあんな変事に巻き込まれたら、と思うと足がすくむ。

 何はともあれ、思い出すだけでも震えがくるあんな体験は、金輪際ごめんだと思った。





















「ちぇっ、あとひとりで今月のノルマ達成だったのになあ」

 転げるように走って逃げていく女の背を、屋上から若い男が眺めていた。

「いてて……あれだけ弱らせてから連れてきたのに、まだあんなに抵抗できるなんて、予想外だったなあ」

 赤く腫れた頬をさすりながら、彼は溜息をついた。

 女は運動選手もかくやというスピードで走って行き、あっという間にその姿は見えなくなった。

「まあいいや、急いで次のエサを探そう……」

 彼はそう言って後ろを向くと、すう、とその場から姿を消した。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ