さつきさんと二人の鬼
「さつき、もう君とは暮らせない」
「彼女といると楽しいし、安らぐんだ。君とこのまま一生退屈な日々なんて、過ごせない」
「――何だ? 慰謝料を寄越せというなら、この家を好きにしていい。僕は彼女のところに行く」
「さよならだ」
あのひとは自分の身の回りのものだけスーツケースに詰めると、そのまま出て行ってしまった。
ダイニングテーブルの上にはあのひとのサインと判子が押された離婚届。
仄暗い夕日の差し込む部屋の中、私は死ぬことにした。
あのひとがいなくなってがらんとした家の中から庭に出る。
空を見上げると、まん丸い月が見えた。今晩は満月らしい。
椅子を一脚庭へ持ち出して、近所のホームセンターから買ってきたロープを庭で一番背の高い樹に掛ける。本当はこんなことに使うつもりで買ってきた物ではなかったが、この太さと頑丈さなら、私の重さも支えてくれるに違いない。
枝に掛けたロープの先に輪っかを作りながら、思う。私の何がいけなかったのだろう、と。
そこまで良い妻ではなかったかもしれない。
でも、毎日頑張って料理は手作りしたし、メニューも出来るだけ要望に沿ったものにした。弁当だって作った。
掃除洗濯も溜めないようにしていたし、あのひとの帰りが遅くなるときだって、なるべく起きて待っているようにしていた。
あれもした。これもした。した。していたのに。
何故だろう、一体何があの女に劣っていたのだろう?
ぐるぐるとまわる思考を他所に、輪っか付ロープは完成した。後はこれを首にかけ、椅子から降りるだけである。
そうなると、急に当たりの音が、様子が気になってくる。
遠くに響く車の音。
裏の通りから聞こえる犬の遠吠え。
どこからか近づく、ばたばた、という複数の足音――足音?
私は慌てて辺りを見回す。ご近所さんだろうか。否、そうでなくても、誰かに見つかれば止められてしまうだろう。警察など呼ばれてしまうかもしれない。一度隠れたほうが良いだろうか、しかし、ロープは固く庭木の枝に結ばれている。
ロープを急いでどうにかしようとまごつくうちに、その足音は樹の傍にある家の塀の向こう側まで来て、そこで止まってしまった。
まずい。ばれてしまう。
思わず竦んだ私に、声はいつまでたってもかからなかった。
おかしい。
足音が止まった位置からは、背伸びせずとも枝に掛かったロープと私の頭が見えているはずだ。それなのにどうしてか、足音の主はその場から動かない。
私は、恐る恐る塀の向こうを覗いた。
そこにいたのは二人の若い男性だった。
年の頃は二十台前半であろう、金髪の青年と、それより少し背の高い、パーカーのフードを目深に被った青年。
彼等は、じっと私を注視していた。思わず目が合う。
すると、金髪のほうがぐっとガッツポーズを決めた。
思わず口を開けた私に、今度はフードのほうが親指を立てた。
そして二人は言った。
「「グッドラック!」」
「……え?」
思わず、声が出た。
彼等は今、何と言った?
ぐっどらっく?
それは今この状況で出てくるべき言葉なのだろうか??
唖然として動きの止まった私に、彼等は口々に述べ立てた。
「大丈夫! 誰も呼ばないから!」
「俺達は見守っているだけだ」
「痛いのは一瞬だから! 多分!」
「勇気を出せ」
「それ! やるなら一息に!」
「後は俺たちに任せれば問題ない」
金髪は精一杯元気づけるかのような声で。
フードは冷静に宥めるかのような声で。
彼等は私に声援を送っていた。
……訳が分からない。
「えっと、あの……止めないの?」
思わず聞いた私に、金髪は、
「そんなわけないでしょー?」
と、破顔一笑した。
「本当に大丈夫だよ。誰にも言わないからさ」
「……本当に……?」
「本当だって!」
何を言ったら良いのかわからない私に、フードが聞き捨てならないことを言った。
「血も肉も、俺達が美味しくいただいてやる。安心しろ」
「はあ!?」
こいつは一体何を言っているのだ。
困惑する私を前に、二人はまたおかしなことを言い出した。
「お姉さんはまだ若いみたいだし、健康そうだし、血もきっと美味しいよね」
「肉もまだ柔らかそうだ」
「お姉さんは葬式とかの心配もしなくていいし、俺達はお腹一杯になるし、本当にお得な話だよ!」
「骨は死霊術師にでも売りとばすがな」
私は、気味が悪くなってきた。
こいつらは一体何の話をしているのだ?
私を、食べる?
「あ、あんたたち、何言ってるの、人間を食べるなんて……!」
声が震える。
私の前にいるのは、一体ナニモノなのだろう?
「冗談でもやめてよね、そんな怖い話!」
「冗談じゃないよ」
「生きたまま喰うんじゃないから安心しろ」
駄目だ、話が通じない。
「何なのよあんたたち! 一体何なの!?」
「吸血鬼だよ」
「人食い鬼だ」
ああ、頭のおかしいひとたちだ。
そう思ったのが顔に出たのだろう。吸血鬼と名乗った金髪が不満そうな顔をする。
「あ、信じてないでしょ!」
「あ……当たり前でしょ!? そんなもの、いるわけがないじゃない!」
むしろ、いてたまるか、そんな化け物。
「今、お前の目の前にいるだろう」
「嘘つけ!」
フードを怒鳴りつけ、私は思わず塀から身を乗り出す。
「本当だっていうんなら、証拠出しなさいよ、証拠!」
怖かったのが段々怒りに変わってきた私の前で、
ばさり。
金髪が飛んだ。
「へ?」
「ほら、羽根! コウモリっぽい羽根! 人間は飛べないでしょ?」
見れば確かに金髪の背には黒いコウモリの羽が生えていて。
彼はそれを忙しなく動かし、私の目の前を行ったり来たり飛んで見せた。
ひとが空を飛んでいる。
私は気が遠くなりかけた。
「そして牙! ほら、口の中見て! 牙生えてるでしょ? これで血を吸うんだよ」
地上に降りてきた金髪が、あーんと口を開けてくる。
そこには確かに通常の人間にはない鋭い犬歯があった。
「嘘……」
思わぬことに口に手を当てた私の前で、今度はフードが被っていたフードを脱いだ。
「この角を見ろ。鬼の角だ」
彼の頭の、髪の生え際あたりに、白い角が2本、生えていた。
「特別に、触らせてやってもいいぞ」
そう言って塀に近づいてくるフード。
断るのも怖い気がして、私は恐る恐る手を伸ばす。
角は、確かに角だった。白く艶やかなそれは、つるつるとして手触りの良いものだった。
「これで信じた?」
金髪のドヤ顔に、私は渋々頷くしかなかった。
困ったことになった。
私はどうやら本物の人外と遭遇してしまったらしい。
「っていうか、飛べるなら、何でうちに入ってきて私を襲わないの? そのほうが早いでしょうに……」
「吸血鬼は勝手に他人の家には入れないんだよ、知らないの?」
「知らないわよ、そんなこと」
「その家の住人に招かれないと入れないんだ。不便だよね」
金髪改め吸血鬼はしょっぱい顔をする。
「じゃあ、そっちの人食い鬼のひとはどうなのよ」
「俺は問題ないが……最近は当人同士の合意なしに勝手に襲って喰うと、色んなところがうるさい。俺達のような鬼を狩る連中にも見つかりやすくなる」
「鬼を狩るって……」
「だから、こうやってわざわざ死にたい人間を探してるんじゃないか。暗いうちに」
「……人目につかないように?」
「それもあるが、鬼というのは元々夜行性でな。特にこいつ……吸血鬼は日光に弱い」
「今は吸血鬼用の日焼け止めとか開発されたけど、それがなかった時代は日に当たるだけで死んだりとか、大変だったんだよね」
彼等にも苦労はあるらしいが、吸血鬼用の薬を作ったひとは、何とも迷惑なことをしてくれたものである。それとも、吸血鬼が製薬会社でも作ったのだろうか?
そんなことを考えていたら、何だか全てが馬鹿らしくなってきてしまった。
最近はずっと、あのひととあの女のことばかり考えていた。
何もかもが行き詰って、どうしようもなかった。そう思っていた。
でも、そうじゃなかったのかもしれない。
単に他のことに考えが移って、少し気が晴れただけなのかもしれないけれど。
それに、何故だろう……どうしてかはわからないけれど、何だか楽しくなってきてしまった自分がいた。
ずっと嫌な事ばかり考えていたけれど、今夜この人外の二人に、非日常の住人に出会って――おとぎ話のような出来事に、胸が躍っている気がするのだ。
「……私、死ぬのは止めにするわ」
そう宣言した私を前に、二人はあんぐりと口を開けた。
「ええっ!? そんなあ! 何で急に!?」
「なん……だと……」
吸血鬼は今にも泣きそうな顔になり、人食い鬼はいかにもショックを受けた顔をした。
そんな二人の様子に、私はつい笑ってしまった。
「ちょっと待ってて」
家の中に入り、台所へ。コンロに置いた鍋の中に作り置いたままの煮物を、家にあった一番大きなタッパーに詰められるだけ詰め、炊飯器の中に残っていたご飯と梅干で大きめのおむすびを四つ作る。それらと割り箸二膳をビニール袋に入れ、再び庭に出た。
椅子に登り、律儀にその場で待っていた二人に煮物とおむすびの入ったビニール袋を差し出す。
「え? 何ですかコレ」
「今日のお礼よ。私はもう死ぬ気が無くなっちゃったから食べさせてあげられないけど、そのかわりにそれを食べるといいわ」
「えー」
「人肉のほうが」
「うっさいわね。私を生きる気にさせたあんたたちが悪いのよ」
二人はなおもぶつくさ言っていたが、渋々といった様子ではあるが、素直に袋を受け取った。
「世界って広いわね。世の中、あんたたちみたいなのがいるくらいなんだから、たったひとり駄目な男がいたからって落ち込むのは損よね。きっと他所にもっと良いひとがいるかもしれないわ」
私がそう言うと、
「いやいや、もっと悪い男とか! 騙されるかもしれないし!」
「世の中には悪人がごまんといるんだぞ!」
二人そろって鬼のようなことを言い募るが、顔が必死すぎて逆にますます笑ってしまった。
こんなに声を上げて大笑いしたのは久しぶりかも知れない。
「そこは頑張って良いひとを探すようにするわ。だから、あんたたちも帰りなさい。ほら、空が段々明るくなってきてるわよ?」
うっすらと薄紅に染まりゆく空を指さして言ってやると、二人は
「しまった! 帰んなきゃ!」
「急がねば!」
などと言いながら慌てたように駆け出した。
そんな二人の後ろ姿を見送りながら、私はこれからのことに思いを馳せる。
明けの明星が輝く空の下、私は生きることにした。
「クソッ、あの女……三股だと!? 騙しやがって……!!」
誰かを口汚く罵りながら、スーツケースを引きずって歩く一人の男がいた。
その足は一軒の家の前で止まる。
「絶対許さないからな、あの――」
男の悪口雑言はそこで止まってしまった。
『栗林』という表札のついたその家の門には、『売家』という看板が掛けられていた。
「え あ あああ さ、さつき……さつきーーー!!」