女子トイレ
ぺったん、ぺったんと、スリッパの音が廊下に響く。この辺りは個室が多いせいか、いつもあまり人を見かけない。静かで薄暗い病院の廊下を、僕は一人でゆっくりと歩いていた。点滴はつい最近外され、導尿カーテルも外された今、僕の身体に繋がっているものは何もない。それはかなり嬉しい。
手術直後は立つのも大変なくらいだったけど、今ではある程度体力も回復して、時間はかかった以外は問題なくトイレの前までたどり着けた。
「さてと……問題はこれからなんだけど……」
僕は前方を見上げた。
トイレには二つの入り口がある。
左側には、黒で紳士っぽいデザインが描かれた表示が、右側には、赤でスカートを穿いているっぽいデザインが描かれた表示がある。つまり左が男子トイレで、右が女子トイレである。
今の僕は、病院で用意された寝間着を着ている。シンプルな服で、男性でも女性でも同じデザインである。手術したのはあくまで下の部分で、顔を整形したわけじゃない。髪の毛も伸ばしているけど、つい最近まで男の子として学校に行っていたわけだから、女の子としては短い。隠す必要がなくなった胸の膨らみも、薄着とはいえゆったりした服だから、服の外からはよく見ないと分からない。
つまり、ほかの人から見たら、僕はまだ男の子のように見えてもおかしくないわけで。
(本当に女子トイレに入っていいのかな……変に見られないかな?)
変態扱いされたらどうしよう、と不安になる。
けど時間がかかっていたら、お母さんや先生が心配して見に来てしまうかもしれない。
(……誰もいませんように)
僕は覚悟を決めて、女子トイレの入り口の扉を開けた。
「あ――」
中から出ようとしていた目の前と女の人と、思いっきり目が合ってしまった。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
僕は慌てて扉を閉めた。
そして閉めてから気づく。僕は女の子なんだからもっと堂々とすれば良いのに、謝ってしまったらまるで覗こうとした男の子みたいじゃないか、と。
逃げた方がいいのかな……でも身を隠そうにも、廊下は一本道。すぐ隣に男子トイレがあるけれど、あそこに入っていいのか……
なんてことを考えていたら、女子トイレの扉が開いて、さっきの女性が出てきた。
「ふふ。驚かせてごめんなさいね。どうぞ」
二十代中頃の、患者さんというよりお見舞いに来た感じの女性はくすりと笑って、僕の横を通り過ぎていった。
えっと……
どうやら女の人は、僕がトイレに入ろうとしたら鉢合わせしてびっくりして謝ってしまったと思っているらしい。それに「どうぞ」ってことは、僕がちゃんと女の子に見えたのだろうか。
その点はぜひ知りたいけど、まさか面と向かって聞くわけにもいかない。
他の人が来ないうちに、僕はもう一度入口の扉に手をかけて中に入った。
トイレ内に他の人の姿はなかった。三つある個室も、鍵がかかっていないので、今誰かが使用しているということはなさそう。僕はほっとして、トイレ内を見渡した。小便器がないだけで、男子トイレとそれほど変わりはない。病院のトイレだからか、衛生的で、ほのかに芳香剤か香水の匂いが漂っている。
僕は観察もそこそこに、一番近くの個室に入った。
個室の中も、なんか小さなゴミ箱が置いてあるくらいで男子トイレとほとんど一緒で、少し気が楽になった。それにしても、個室にまでゴミ箱を置いて何を入れるんだろう。トイレに流しちゃ駄目って言うティッシュとかかなぁ? ちょっと気になったけど、ふたを開けて中を見るのも悪趣味なので、やめておいた。
僕はズボンとおむつみたいやつも脱いで便座に座った。
男の子のときも、大きい方をするときは普通に座ってするので、この行為自体に戸惑いも真新しさもない。ちなみに、大きい方は固形物を口にしていないおかげか、幸い手術してからまだお目にかかっていない。
「さてと……」
僕は便座に座ってふぅっと息を吐く。
別に尿意が差し迫っていたわけではないので、すぐにおしっこが出てくることはない。
上本先生からおしっこが出る場所を教わったけど、傷口をまともに見れなかったことと、どうせ割れ目の中から出るのならそんなに場所は変わらないだろうとあまり気にしなかった。
けれどいざ出すときになって、後悔した。
(……えーと。確かこのあたりから出るって言っていたけど……便器からおしっこが飛び出したりしないよね……)
割れ目を指で恐る恐る押し開けて、僕は男の子のときにしていたのと同じように、おしっこを出そうと下腹部に力を入れてみた。
しばらくして尿意が一気に集中してきて……
「あ、出た」
幸い痛みもなく、便器から外れることもなく、普通におしっこが出てきた。
今までおちんちんの中を通っていた分がないため、直接お腹の中から出ているような感覚。勢いも思ったより強くて真下に出る感じなので、ジョボジョボという水音が大きく響いて、ちょっと恥ずかしい。それでも少し感動してしまった。
おしっこが出終わると、僕は便座の脇にあるボタンに目をやった。ウォシュレットのボタンである。お尻じゃない方のボタンを恐る恐る押す。
「――っ。ぃたっ」
水が勢いよく当たって、つんとした痛みが走った。慌てて水を止める。
油断していたけど、手術したばかりなんだから全部が傷口のようなもので、仕方ないかもしれない。血は出ていないみたいなので、少しほっとする。刺激を与えないように軽くトイレットペーパーで水分を拭き取った。
えーと、これで終わりでいいんだよね……?
「……やっぱり女の子のトイレは少し面倒くさいかも」
ぼそりとひとり呟きながら僕は水を流して、先生に渡された縞パンを紙袋から取り出した。心なしか、サイズがずいぶん小さい気がする。大丈夫かな。
両足に通して、僕は立ち上がって縞パンを穿いた。少しきつく感じたけど、痛みはなく、問題なく穿けた。
「なんか、変な感じ」
下半身を見下ろすと、そこにはすっきりとた曲線があった。男の子のとき付いていたアレがなくなっていることが、今更ながらに実感できて、改めて女の子になった気がした。
「あ、そうだ。これどうしよう……捨てちゃっていいかな?」
僕は紙袋の上に置かれた、さっきまで穿いていた紙おむつ(仮称)を見た。使い捨てみたいだし、持って帰るのも恥ずかしいので、個室にあるゴミ箱に捨てようと思って、僕はゴミ箱のふたを開けた。
「…………」
中は血溜りだった。
僕はそっとふたをもとに戻した。
「ま、まぁ……病院だし。仕方ないよね……」
僕は紙おむつ(仮)を紙袋にしまうと、逃げるように個室から飛び出して、手を洗うのもそこそこにトイレから出た。
後日、あの中身の正体を知って、僕はこれから訪れるであろう生理がさらに憂鬱になってしまった。