お見舞い ~稔視点~
リクエストもあり、個人的にも書きたかった別視点(稔)からの話です。
時期的には、遊園地の話の後、誕生日会の前あたりになります。
※ ご指摘を受け、セリフを一部修正しました。
数学の増田先生が黒板に書かかれた方程式を、素早く消していく。
ぼんやりしていたら、ノートに書き写し損ねてしまった。
三学期は短い。半分が過ぎて、もう少しで三月。期末試験も迫ってきている。
授業に集中したいところなのに、教壇から語られる言葉が、半分も頭に入って来ないことを自覚していた。
というのも。
ちらりと左の席に目を向ける。
誰もいない机。もともと俺の席は廊下側なので寒いのだが、今は反対側の席も空っぽで、特に寒々しく感じる。
(優希……大丈夫だよな……?)
いつも隣の席にいる優希は、インフルエンザにかかって学校を休んでいる。
昨日まで普通に学校に来ていたのに、家に帰ってから急に体調を崩したらしい。今日、病院に行ってインフルエンザと診断されたと、学校に連絡が来た。
ちっちゃい身体をしているが、優希は意外と健康で、学校を休むことはほとんどなかった。確か、一学期の後半に一度休んだきりだったかな。
学校にくれば、いつも当たり前のように、隣に優希がいた。
だから左の隣に誰もいないのが、不思議に感じる。
いや、不思議というより……
「あらあら。みのるんったら、愛しの、くりゅちゃんがいなくて、さ・び・し・い?」
――俺は黙って、ノートを筒状に丸めると、裏拳の要領で右手をふるった。
「いっ、てぇっ!」
べしっという小気味良い音とともに、義明の悲鳴が上がった。
「ん? どうかしましたか」
「い、いえ、なにもありませんっ」
増田先生の視線に、義明が慌てて取り繕う。
しれっと教科書を見ている俺はノーマークだ。日頃の行いの差だな。
「……馬鹿ねぇ。みのるんは、くりゅのことが心配で気が立っているんだから、本当のことを言っちゃ駄目だって」
おい。聞こえてるぞ。
小石の声を無視して、俺は授業に集中する。
けれど……
やっぱり、心配だよな。
乳幼児や高齢者ではないので、インフルエンザが命に係わることはないと思うけど、高熱による異常行動の例も聞く。優希がそういう状態に陥るのは想像できないが、それだけに不安になる。
学校には携帯電話の持ち込みが禁止されているから、連絡は取れない。インフルエンザって分かったのも、学校の渡辺先生に電話がかかってきて、それで教えてもらったからだ。
家に帰ったらすぐに電話してみるかな。でも、熱出して寝込んでいるときに電話したら、迷惑だよな? メールでのやり取りは、普段からあまりしないので、何て書いて良いか分からない。
直接お見舞いに行っても……電話と同じで気を遣わせてしまうかもしれないし。どうするか……
そうこうしているうちに、あっという間に放課後になってしまった。長かったような短かったような、不思議な一日だった。
「それじゃ、来月の予定表を配る」
帰りのホームルームで、渡辺先生が壇上から言った。
前の席からプリントが回ってくる。隣の席の優希はいないので、俺が経由して、木村から受け取ったプリントを、小石に渡す。
優希のプリントは、少し迷った末、誰もいない優希の席に置いた。
プリントには、期末テストや行事などの予定が記されていた。
「これ、どうする?」
ホームルームが終わった後、木村と小石が優希の席に向かい合うようにして話し出す。
「メールで送っても良いけれど、せっかくだから家まで持っていって、お見舞いしたいよねぇ」
「うん。けど、インフルエンザだからなぁ……」
木村が口惜しそうに言う。
「見舞いに行って、下手にインフルが移ったら、優希にめっちゃ気をつかわせちゃうじゃん」
優希の性格を考えると、確かに木村の言う通りだろう。
木村のイメージだと、インフルエンザなんて吹き飛ばしてやる、って感じだけれど、優希のこともよく知って、考えているんだな。
優希の過去のことも、俺より早く打ち明けられていたっていうし、女友達と比べるのは違うかもしれないが、少しだけ、羨ましかったりする。
「あ、そういえば、金子くん、前にインフルエンザの予防接種を受けた、って言ってなかったっけ?」
耕一郎の発言に、「マジで?」と女子二人の視線が集まる。
「あ、あぁ」
小学生のとき、インフルエンザにかかって苦労したので、それ以来予防接種を受けるようにしている。
「これは、決まったね」
「うん。女友達より、愛する男よねぇ」
「お、おいっ」
木村と小石が勝手に話を進めてくるので、さすがに慌てる。
「優希は女の子なんだし、男の俺が勝手に家まで行ってもいいのか?」
あまり女子のことは知らないが、見られたくないものもあるのではないか。
「問題ないって。むしろ優希、喜ぶよ」
「うちらが先にくりゅに連絡しておくから、大丈夫だって」
すでに二人は乗り気だ。
その勢いに押し切られそうになっていると、ぽんと後ろから肩を叩かれた。
義明だった。
「リア充、爆発しろ」
「なんでだっ」
とまぁ、そんなこんながありつつも、結局俺は優希の見舞いに行くことになった。
優希に迷惑かなと思いつつもやっぱり心配なので、大手を振って会いに行けるのは、嫌ではなかった。
☆ ☆ ☆
県道沿いの歩道を一人歩く。
家に帰るのなら、次の道を左に曲がるのだが、今日はそのまままっすぐ進む。
優希の家に行く前に一言連絡したかったけれど、携帯ないし家まで戻るのも変なので、連絡せずに向かう。そろそろ、家が近い小石たちが優希に連絡してくれた頃だろう。
ていうか、小石が「愛する男」って言っていたけれど、俺から優希に対してはともかく、優希からすれば、俺が「愛する男」なのかは、まだ分からないんだよなぁ。
ちょっと複雑な気持ちになりつつ歩いていると、優希の家が見えてきた。
県道沿いに建てられた二階建ての一軒家だ。
何度か優希を送って家の前まで来たことはあるけれど、中に入ったのは、夏休みの終わりのときだけだ。
あのときは、家に誰もいない状態だったけれど、今日は違う。ご両親は海外だけれど、お世話になっている伯母さんはいるはずだ。一度、優希が伯母さんと従姉のお姉さんと一緒に買い物をしているときに偶然会って話をさせてもらっているので、顔は知っている。
人の良さそうな感じだったけど、やっぱり緊張する。
「……大丈夫だ。俺はただ学校のプリントを持ってきただけだ。別にやましいことをしに来たわけじゃない……」
自分に言い聞かせるように呟いてから、やましいことってなんだよ、と自分でツッコミを入れてしまう。
いや、まぁ、正直言えば――
『……寝ていて汗かいちゃったから、タオルで身体を拭いてほしいんだ。僕だと拭けないところもあるし。ちょっと恥ずかしいけど、稔くんなら、いいよ……』
そう言いながら、優希はパジャマの前ボタンをゆっくりと外していく。
「……ごほん」
なんてラブコメ的展開が頭の中に全くないかと言えば、嘘になる。
そんな邪念を頭を振って振り払う。
優希に限ってそんなことあるはずないって。いや、でも天然なところもあるし……って、だから変なことを考えるなっ。
そんな葛藤をしていたら、玄関の前まで着いてしまった。
さて、どうやって挨拶するか……なんて考えていると、不意に内側から扉が開いた。
「あら。稔くん?」
「ゆ、雪枝さん」
優希がお世話になっている伯母さんだ。優希がよく「雪枝さん」と言っているので名前を憶えている。
「あ、もしかして優希ちゃんのお見舞いに来てくれたの? ちょうど良かったわ。これから買い物に行こうとしていたんだけれど、その間、見ていてくれるかしら」
「あ、は、はい」
ほとんど俺の返事を待たずに進めて、雪枝さんが行ってしまった。
その後ろ姿を眺めながら、ぼんやりと思う。
木村たちもそうだけれど、女って強引だよなぁ。ま、うちの親もそうか。
こうして一人残された俺は、雪枝さんが閉じたばかりの扉を、遠慮がちに開ける。玄関に置かれているのは、優希がいつも登校時に履いている白い運動靴だけ。改めてこうやって見ると、ちっちゃいな。
背のことを気にしているから、優希の前では言えないけど、小柄なところも可愛らしくて好きなんだけどな。本人に言うとぷぅってむくれるけど。
しんとした家の中。置かれた一足だけの靴。本当に優希しか家にいないようだ。
家に上がり、脱いだ靴を優希の靴のすぐ隣に揃える。
「……おじゃましまーす」
黙ったまま家の中を勝手に歩くのもはばかれるが、玄関から大声を上げるのも変なので、小さく挨拶してから、ゆっくりと優希の部屋がある二階に向けて階段を上る。
さて、どうするか。とりあえず部屋をノックして……でも、優希が寝ていたらどうするか? ここまで来て入らないという選択肢もないから、とりあえず中に入らせてもらって、プリントを置いて帰ればいいか。
ついでに優希の寝顔をちょっとくらい見ても問題ないよな? あと、軽く頬に触れるくらいなら……
「あ、稔くん。いらっしゃい」
部屋の扉はノックするまでもなく開いていて、中で優希がベッドの上で本を読んでいた。
「……ああ。どうせそんなことだろうと分かっていたのに。はぁ……」
「どうしたの?」
ベッドの上で、優希がきょとんと首を傾げる。
俺は邪な想像を気づかれないよう、平常心を保ちながら尋ねる。
「起きていて大丈夫なのか?」
「うん。病院でもらった薬を飲んだから、もうほとんど平気だよ」
「そうか。入っていいか?」
「うん。もちろん」
優希の許可を得てから、ゆっくりと部屋に足を踏み入れる。電気ストーブがついていてかなり暖かい。扉が開いていたのは換気のためだろう。
優希の部屋に入ったのは、あの夏休み最終日以来だった。
そのときに比べると、単に夏と冬の違いかもしれないけど、だいぶ女の子っぽい温かみのある部屋になった気がする。
部屋の隅に、優希がいつも着ている制服が掛かっていた。ベッドの上に起き上がっている優希はパジャマ姿だ。
最近だいぶ優希の私服姿を見る機会も増えてきたけれど、パジャマというさらにプライベートな服を着ているところを目の当たりにすると、より距離感が近づいて来た感じで、少し嬉しい。
ちらりと優希の胸元に視線を向けると、制服姿ではあまり目立たない、柔らかそうな膨らみが見て取れた。慌てて目を逸らしたが、春先に比べると、それなりに成長しているような気がする。
本人にはあまり自覚がなさそうだけれど、部屋だけでなく、優希自身も入学式に初めて会ったときに比べて、ずっと女っぽくなっているかもしれない。
そんな内心を勘付かれないように、話題を変える。
「俺が来ること、小石たちから連絡きていたのか?」
「うん。急に連絡が来たから、急いで準備しちゃった」
優希がにこりと笑う。
ふと視線を机の上に向けると、携帯電話と一緒に、手鏡と櫛が無造作に置かれていた。
小石たちから連絡があって、慌てて身だしなみを整えた、ってところだろうか。どちらかというと女子っぽさが少ない優希だけれど、こういうところを見ると、やっぱり優希も女の子なんだよな、と少しドキッとする。
「悪いな、気を遣わせて」
「ううん。退屈だったし、稔くんが来てくれて嬉しいよ」
優希にストレートに言われて、少し頬が熱くなる。同じように、優希の顔もいつもより赤みを帯びている。
というより……
俺はずいっと顔を近づけて、優希の瞳をのぞき込む。
「な、何……?」
「優希、まだ熱あるだろ」
そう言うと、優希は露骨に目をそらした。
「……えっと。測ってないけど……たぶん」
「測れよ」
「うーっ。だって、熱を見るのが怖いんだもん……」
「大丈夫だって。俺も一緒に見てやるから」
俺はそう言って、テーブルの上に置いてあった体温計を優希に手渡した。
「……それって、別に嬉しくないんだけど」
優希は泣き言を言いつつ、体温計を受け取ると、パジャマの上のボタンを一つはずして、胸元から脇に体温計を突っ込んだ。あまりに自然な動作だったので、視線を逸らすのも忘れてしまい、一瞬露わになった肌色に、思わず目が行ってしまった。
優希は特に気にした様子もなく、どこか祈るようにしながらぎゅっと脇で体温計を挟んでいる。
しばらくして電子音が鳴った。
「どうだ?」
「……うぅ。38.5度……」
「寝てろ」
きっぱりと言い放つ。
「で、でも……せっかく来てくれたのに」
「いいから」
「……うん」
優希がしぶしぶと言った様子でベッドの中に潜り込んだ。
「元気な姿を見せてくれようとするのは嬉しいけれど、俺は見舞いに来たんだから。無理して頑張らなくてもいいんだぞ」
俺は軽く優希の頭に手をやりながら、続ける。
「むしろ、こういうときくらい、甘えてくれた方が、俺も嬉しいというか……」
さすがに言っていて少し恥ずかしくなったので、視線が逸らし気味になってしまう。ちらりと見た優希の顔も赤くなっていたのは、熱のせいだけではないだろう。
優希は、ぼけぼけな面もあるけれど、基本的にはしっかりしている。
それも優希の魅力のひとつでもあるんだけど、男としては、もう少し頼ってくれても、という気持ちもある。
優希はしばらく考えた様子を見せると、遠慮がちに口を開いた。
「……じゃあ、僕が眠るまで手を繋いでて」
「え?」
思わず聞き返してしまう俺に対して、優希は軽く目を閉じて、どこか思い出すように言う。
「去年の今頃は、女の子になる手術を受けて、まだ病院で入院していたんだ。もうほとんど身体的には問題なかったんだけど、検査や周りの目もあってね。話す相手もいないから、一人でベッドの上にいて眠れないけど横になっていることが多くて……これから女の子としてちゃんとやっていけるのか、って、ずっと不安だったんだ」
優希は、去年まで男だった――
そのことは、優希の口からだけでなく、ご両親など関係者から話を聞いたり、昔の優希の写真を見せてもらったり(水着の写真は見せてくれなかった)して、頭の中では納得している。
だが、不安だったという言葉とは対照的に、もうすっかり女の子な優希を見ていると、今でも冗談だったのでは、と思ってしまうこともある。
「だからね。こうやって昼間にひとりベッドの上で横になっていると、そのときの不安な気持ちが思い浮かんじゃって……。だからかな。今日はまだ、ほとんど寝れていないんだ」
「そうか。分かった」
何か気の利いたことを言いたかったけれど、何て言っていいか分からなかった。
俺はただ黙って布団の中に手を伸ばし、優希の右手を軽く握った。
「ん……ありがとう……」
優希が軽くはにかみながら、小さな手で握り返してくる。
「稔くんの手……おっきいね」
「優希の手はちい……いや、暖かいな」
「むぅぅ。今、小さい、って言おうとしたでしょ」
ぷくぅっとむくれてしまった。
その様子を見て、思わず笑ってしまった。
「罰として、僕が眠らない限り、ずっと握ってなくちゃだめだからねっ」
それがまた、小さなお姫さまの機嫌を損ねてしまったようだ。
「ああ。分かったって」
罰のつもりなのか、優希はなかなか眠ろうとせず、俺たちは手を軽く握りあいながら、取り留めもない話をした。
それでもしばらくすると、優希は眠くなってきたのか、だんだん口数が減ってきた。そして言葉の代わりに、小さな寝息が聞こえてきた。
「眠ったのか……?」
俺は小声でささやきながら、右手で優希の手を握ったまま、確認のために左手をそっと優希の顔に近づける。
やや熱い寝息を確認していると、不意に指先にしっとりと柔らかな感触が走った。指先が、優希の唇に触れてしまったのだ。
「やば……っ」
慌てて優希の唇から左手を離す。
優希は特に反応を見せず、健やかな寝顔を見せていた。
俺はその様子にほっとしつつ、離した左手を、何となく自分の眼前に持ってきて、見つめてしまう。
「…………」
微かに湿った指先を、そっと自分の唇に近づけて――慌てて首を振る。
駄目だダメだ。これはさすがにマズイって。
俺は無造作に左手の指先を優希のベッドで擦る。
そして名残惜しかったけれど、優希と繋がったままの右手をそっと離す。
一息ついてからゆっくりと立ち上がって、ふと思い出す。
「そういえば、学校のプリントのこと、話さなかったな」
本末転倒と思いつつ、学校でもらったプリントをそっと優希の机の上に置く。
「あ――」
「はは。どーも」
立ち上がって移動したら、開け放しの部屋の扉の向こうで中を窺っていた、優希の従姉のお姉さんと、思いっきり視線が合ってしまった。
「い、いつからいたんですか……っ」
優希を起こさないよう小声で聞く。
「うん。えっと、優ちゃんの手を握る前くらいからかな」
お姉さんが悪びれずに言う。
「いやー、一応、優ちゃんを『預かっている』立場だからね。二人きりになって、変なことしないようにって……」
「変なことって何ですかっ?」
お姉さんによると、高校は一足早く試験準備期間中なので部活もなく早く帰ってきたとのこと。玄関に俺の靴が置いてあるのを見て事情を察し、こっそりと様子を見ていたという。
未遂とはいえ、さっきの唇の件を思い出して、頬が熱かった。
買い物に出かけた雪枝さんはまだ戻って来ていなかったけれど、お姉さんが帰ってきたので、俺はお姉さんに優希を任せて家を出た。病院で薬をもらったって言っていたし、あとはしっかり眠れれば大丈夫だろう。
無事お見舞いを果たし、お姉さんに一部始終を見られていたとはいえ、優希と二人きりの時間を過ごせて、胸が高鳴っていた。
まだ頬が熱い。
こんな状態で家に帰ったら、うちの親に優希のことを勘づかれてしまうかもしれない。あんなんだけど、勘だけはいいからな。
「少し、冷ましてから帰るか……」
俺は暗くなった夕暮れの風を浴びながらゆっくりと歩いた。
――身体を冷ましすぎて、今度は俺が風邪をひいたら馬鹿みたいだよな。
後日。これが原因ってわけではないが、普通に風邪をひいてしまった。
そして入れ替わるように元気になった優希が、やたらお姉さんぶって上機嫌にお見舞いに来るのは、少し先の話である。
作中の小石とは、柚奈のことです。
今年あたりは厳しいかなと思ったのですが、主要人物がみな残ってくれて良かったです(ライオンズネタ)




