ある日の入院生活
番外編第三弾。時系列は、9話と10話の間の話になります。
番外編というより補完的な話ですが、入院生活についてはあまり描けていなかったのでこうやって投稿できて良かったです。
「……あれ?」
トイレの中で、僕はぽかーんと口を開けてしまった。
用を足そうとトイレに入ったはいいんだけれど、そのトイレには、なぜか肝心のおしっこをするところ――小便器がなかったのだ。
少し考えて、ここが女子トイレであることに気づく。そっか。間違えて入ってしまったんだ。
誰かに見つかったら変態扱いされてしまうので、早く出ようとしたところ、ちょうど個室から出てきた女の子とばったり会ってしまった。
わっ。しまった。
僕は思わず硬直してしまう。
けれど不思議なことにその女の子は、僕を見ても特に気にした様子もなく、手を洗ってトイレから出て行った。
助かったぁ……。けど、なんでだろう?
僕はふと視線を下に向ける。
えっ。な、なんで?
そこに見えたのは、スカートから伸びる僕の脚だった。
どうして僕、スカートなんか穿いて――
「――わっ」
気が付くと、僕は病院のベッドの上で寝ていた。
無機質な白い蛍光灯と天井が目に入る。閉められたカーテンから朝日が差し込んでいた。
「夢……か」
僕はうわごとのように呟いて、それから苦笑いしてしまった。
僕が女の子である、っていうことは、もう夢じゃないんだけどね。
☆☆☆
「うがが……っ、い、痛いっ、痛い!」
「はいはーい。もう少しで済みますからねー」
上本先生が強引に、ベッドの上で寝ている僕の腰をひねる。
男性と女性では、骨盤の形や位置が違うみたい。それが女の子の腰のくびれや丸いお尻に繋がっているんだって。僕も中身は女の子だったから骨格は女の子寄りみたいなんだけど、それでも普通の子に比べると色々まだまだみたいで、こうやって整体で骨の位置やゆがみを直してもらっているんだ。
「はい終了。お疲れさまでした」
「……ふぁ、は、はい」
僕はぐったりとしたまま返事した。やっと終わった……
そんな僕を後目に、上本先生がてきぱきと片づけをしながら話しかけてきた。
「術後もう半月が過ぎましたが、どうですか? 女の子になったって実感はありますか?」
「うーん。あんまり……」
僕の答えに、上本先生が苦笑した。
だって、確かにあそこはなくなっちゃったけれど、それだけで。トイレの仕方が変わったくらいしか、実感がないのが本当のところ。
「――ときに、優希くん?」
「はい?」
急に上本先生の口調がまじめになった。
「私はいわゆる『ギャップ萌え』するタイプなのですが、優希くんはどうですか?」
えっ? ぎゃ、ギャップ……?
「えっと、僕、そういう話はよく分からなくて……」
先生の話についていけなくて、申し訳なく答える。
けれどそんな僕の答えに、なぜか上本先生は満足そう。
「うん。優希くんは今のままの方がいいかもしれませんね」
「え?」
「午後も診断があるから、リハビリがてらに病院を歩き回るのもいいですけど、時間までに病室に戻ってきてくださいね」
そう言って、上本先生はなぜか上機嫌で部屋を出ていった。
うーん。何だったんだろう?
上本先生が出て行ったあと、ぼけーとテレビ見たり本を読んだりしているうちに、お昼ご飯の時間になった。
「もうしっかりと食べられるようになりましたね」
「はい。美味しかったです」
僕は食器を片づけてくれる看護師の炭谷さんに笑顔を向けた。
病院食は美味しくないって聞いていたけれど、そんなことはない。味付けは確かに薄いけれど、手術直後は全く食べられなかったし、その後も熱にうなされて食欲なかったので、今は食べられること自体が嬉しくて、どれも美味しくいただけている。
今では退屈な病院生活の数少ない楽しみの一つだ。
食事は看護師さんが病室まで持ってきてくれる。このフロアには共同食堂もあるんだけれど、手術後は出歩くのが辛かったし、お母さんにあまり人前に顔を出さないようにって言われているので、まだこうやって病室で一人で食べている。
「術後もう半月が過ぎましたが、どうですか? 女の子になった実感は沸いてきましたか?」
食器を片付けながら、炭谷さんが上本先生と同じことを聞いてきた。
「えーと。あんまり」
なので同じように答えたら、炭谷さんにちょっと渋い顔をされてしまった。
「確かにお気持ちも分かりますが、せっかく手術を受けられて女性になったのですから、私としては、もっと女の子として楽しんでほしいですねー」
「うーん。女の子として、か……」
やっぱりまだピンと来ない。
そんな僕に向けて炭谷さんは「後で女性向けファッション雑誌でも持ってきますね」と言って、食器とともに病室を出て行った。
「ふぅ」
無事用を足し終えて、ほっと一息つく。下半身の管が外れて自分でおしっこするようになってからしばらく経つけれど、やっぱりまだ緊張する。今のところ、僕が女の子であることを一番実感できる時間だ。
便座に座ったまま、ぼんやりと考える。さて、午後の診療時間までどうしようかなぁ。
リハビリ・ホルモン治療・手術跡の経過診断等々、していることは多いんだけど、一日中やっているわけではないので、合間の時間を持て余してしまう。
手術直後は毎日来ていたお母さんも最近来なくなったし、教科書や持ち込んだ漫画もほとんど読んじゃった。ゲームもやり込み系が好きだったら、時間を有効に使えるんだけどなぁ。炭谷さんが持ってきたファッション誌を早速読んでみたけれど、あまり面白くないし。
「そうだ。少し歩いてみようかな」
この病院に入院して半月が過ぎる。けれど、ほとんど個室に籠もりっきりだったから、病院内のことをあまり知らないんだ。なんか探検みたいで面白そう。
手術直後はまったく歩けなかったけれど、今では普通に歩く分にはほとんど問題なくなってきた。リハビリにもいいかも。
僕はトイレから出ると、病室とは反対方向に歩き出した。病院のパジャマのままだけど、別にいいよね?
ちなみに、病院なので熱がある人が多いためか、病室も廊下もすごく暖かい。なので何かを羽織らなくても、薄いパジャマ一枚だけで大丈夫。
まっすぐ歩いていると階段が見えてきた。ここは六階。そういえば、五階にはちょっとしたテラスがあるって言っていたっけ。行ってみようかな。
というわけで、ゆっくりと階段を降りる。
「……っぅ。もぅ」
不意に胸の先っぽに痛みが走る。
入院してホルモン治療を始めたせいか、胸が成長して痛みが走ることが多くなった。病院で女の子用の胸をガードしてくれる下着を用意してくれて多少楽になったけど、やっぱり痛いときは痛い。
別におっぱいなんて大きくならなくていいのに。これ以上膨らんだら、ブラジャー付けないといけないのかな。面倒くさそう。
なんてことを考えながら五階に降りると、階段から身を乗り出すようにして下の階を覗き込んでいる変な男の子を発見した。
年は僕と同じくらい。半ズボンを穿いた活発そうな男の子だ。私服の感じからして、入院患者じゃなくて、お見舞いに来た人かな。
僕は少年に声をかけてみた。
「ねぇ、何してるの?」
男の子は見ず知らずの僕に話しかけられても、特に驚くことなく気さくに答えてくれた。
「ん? 退屈だから、病院内を探検してるんだ」
うわ。小学校高学年にもなって探検って、
――なんて僕と気が合う!
「病院の四階って縁起が悪いって言うじゃん。もしかしたら幽霊でもいるのかなって」
「ゆ、幽霊っ?」
さすがにそれはちょっと怖い。入院していると、そういうのも連想しちゃうし。
「ね、ねぇ。五階にテラスがあるみたいだし、どうせなら、一緒にそっちに行ってみない?」
僕が強引に話題を変えると、少年は興味深そうに笑った。
「へぇー。それも面白そうじゃん」
その無邪気な笑顔が、入院中の僕にとって眩しく感じられた。
五階にあるテラスには、たくさんの植木と白いテーブルが並んでいて、日当たりも良くおしゃれな感じだった。噴水まであって、ちょっとした空中庭園だ。患者さんやお見舞いに来た人、それに病院の職員さんも休憩していて、賑わっていた。
僕たちも外に出て一通りまわってみたけれど、外はちょっと寒いので、隣にあるガラス張りのロビーのソファーに座って色々とお喋りをした。
彼の名前は岡田くん。病院の近所に住む小学五年生で、お父さんが足を骨折して入院しているのでお見舞いに来たみたい。幸い症状は軽く、すぐに退院できるようだ。
「へぇ。入院ってのも大変なんだなー。学校休めて楽そうなのに」
「僕は学校に行っている方が羨ましいよ」
小学校に行かなくなってからまだ一か月もたっていないのにずいぶん昔のように感じる。治って退院しても、もう小学校には通わず、そのまま伯母さんの家にお世話になる予定だし。
岡田くんが当たり前のように話す学校の話題や愚痴は、楽しそうで懐かしくて、ちょっぴり切なかった。
そんなこんなで話が盛り上がっていたとき、急に岡田くんが何かに気づいたような顔をした。
どうしたのかな、って思っていると、岡田くんは少し言いにくそうな様子で、僕に聞いてきた。
「そういえば、お前って……」
「ん、なに?」
「男、だよな?」
「えっ」
「いや、僕って言ってるし、話してても女っぽくないけど……髪の毛が中途半端に長いし、それに胸が膨らんでいるように見えるし」
あ。
僕はとっさに両腕で胸を覆った。
しまった。小学校では厚着と猫背で隠し通していたんだけど、今は薄いパジャマ一枚だけだし、治療のおかげ(?)で多少成長したのもあって、胸が膨らんでいるのが分かっちゃったんだ。
「えっと、その……」
そんな僕の様子を、岡田くんが怪訝げに見てる。
どうしよう。どうすれば……
よく考えれば、小学校時代はともかく、今は女の子なんだから隠す必要ないんだけど、混乱していて思わず変なことが僕の口から出てしまう。
「そ、そう。実はこれが病気なんだ。胸がちょっと腫れちゃって」
「あ、そうか。それで入院してるんだ」
「うん。そうそう。今度手術して切り取る予定なんだ」
「うわっ。痛そうだな、それ」
「大丈夫。麻酔があるし」
まぁ、痛いのは手術後の麻酔が切れた後なんだけどね、と実体験を思い起こしつつ、僕はほっと一息つく。
ふぅ。なんとか誤魔化すことができた。
ついとっさに男の子だって嘘(なのかな?)をついてしまった。まだ自分を女の子だって認めるのが恥ずかしいって言うか。ま、仕方ないよね。
なんてことを話していると、岡田くんの背後に立っている女性が、急に大声を上げた。
「ちょっとあんた、こんなところにいたの? 探しちゃったじゃない」
「あ、やべ」
岡田くんが振り返って、顔をしかめる。
どうやら岡田くんのお母さんみたい。
僕はお母さんに向けて軽く会釈をする。するとお母さんは驚いた様子を見せて、それから岡田くんの服を引っ張るようにして、強引に奥へと連れて行く。
「……ちょっと、あんた。やるじゃん。なに可愛い女の子ナンパしてるのよ。ヒューヒュー」
「……は? ちげぇーよ。男だって」
「……えっ? そうなの」
そんな親子のやり取りが聞こえてくる。
もともと女の子っぽい顔をしていたから男の子のときにも女の子だって間違われることはあった(実際は間違いじゃなかったのな?)。けれど今は中身だけじゃなくて外も女の子になっているわけで。
なんか見ず知らずの人に「可愛い女の子」なんて言われて、むず痒い気持ちになっちゃう。
「んじゃ、俺そろそろ帰るな」
「うん。楽しかったよ。付き合わせてごめんね」
じゃあね、と最後に付け加える。
たぶん、もう彼と会うことはないだろう。病院なんてお世話にならない方が、健康で幸せだし。
僕としては久しぶりに楽しかった時間も、外の世界で生きている彼にとっては、いつもと変わらない日常の一つに過ぎないはず。
「それじゃ、胸の切り取り手術、頑張れよ」
「あ、う、うん」
僕は曖昧な笑みを浮かべて彼を見送った。
うーん。結局、誤解させたままだった。これで良かったのかなぁ……なんて思っていたら、背後からちょっとトゲのある声が聞こえた。
「……栗山さん。胸の切り取り手術とは、何のことでしょうか?」
あ。
振り向くと、後ろに炭谷さんがいた。笑顔なのに、笑っていなかった。
「えっと……その……」
僕が、男の子と間違えられたこと、それをそのままにしたことを素直に説明したら、炭谷さんは大きくため息をついた。
「やはり栗山さんは自分が女の子であると、もっと自覚する必要がありそうですね」
「は、はい……」
こうして、暇だった治療の合間の時間に、炭谷さんによる女性らしい仕草や歩き方の講座が組み込まれることになった。時間を持て余すことは少しだけ減ったけれど、あんまり嬉しくなかった。
「はぁ……」
自主勉強のため、僕の病室には、さらに大量の女性向け雑誌が置かれることになった。これがまだ読んでいない漫画だったら良かったのに……
でも炭谷さんの言うことも一理あるよね。手術受けるとき、女の子として生きるって決めたんだし。
――よし。
今度お母さんが来るとき、思い切って「私」って言ってみようかな。




