バレンタイン・2
「うわー。たくさん人がいる」
休日。僕は絵梨姉ちゃんと一緒に自転車で近くのショッピングモールに向かった。バレンタインのチョコレートを買うためである。まだバレンタイン当日まで十日近くあるので閑散としているかな、って思っていたのに、予想に反して売り場は大盛況だった。僕より明らかに年下な女の子から、お母さんよりも年がいった人まで、たくさんの女性がチョコレートを物色していた。
「この辺りで一番大きな売り場だからね。優ちゃんは来るの初めてよね?」
「うん。こんなにチョコが売れるんだね」
感心しつつ、僕は売り場に足を踏み入れる。どの棚にもすでに先客がいるので、なかなか商品を手に取ってみることが出来ない。
それでも人混みを掻き分けるようにして、チョコを手に取る。この辺りのチョコは大人向けみたい。お酒が入っているのかなぁ。夢月ちゃんたちにはあげられないけれど、お父さんたちは喜ぶかな?
「へぇ」
後ろで絵梨姉ちゃんの感心した声をあげた。それがチョコの品ぞろえではなく、僕に向いていたことに気づいて、首をかしげる。
「どうしたの?」
「ふふ。優ちゃんと初めて洋服を買いに来たときのことを思い出しちゃってね」
「え?」
「あのころ、優ちゃんったら、女性服売り場になかなか入って来なくて、私が無理やり引っ張り込んだのよねぇ」
「あはは……そうだっけ」
とぼけてみたけれど、よく覚えている。
僕が秋山家に居候した初日のことだ。手術で女の子になって退院してから初めて女性服を買いに行ったとき。さすがにあのときは仕方ないと思う。
でも、あれからもう一年も経ったんだ。
「女性がたくさんいて、しり込みするかと思っていたのに、普通に入っちゃうんだもん。大したものよ」
「そうかなぁ」
僕としては当たり前のような気がするんだけれど、確かに一年前の僕だったら、女の人がたくさんいる場所なんて、恥ずかしくて入れなかった。当たり前と思えるようになったことが、絵梨姉ちゃんの言うところの大したものなのかな。
「チョコを選ぶ際のアドバイス。あまり高すぎるもの避けること。もらった相手が気にしちゃうからね」
「うん。分かった」
僕は素直にうなずく。これはバレンタインに限ったことじゃなく誕生日やクリスマスのプレゼントでも同じことだ。
「よし。じゃあ、他に何か聞きたいことはある?」
「えっと。例えば、虫の形をしたチョコをあげるのはありかな……?」
「へ? なんで虫?」
「いや、その、ウケ狙いでゲテモノとか……」
僕がそう言ったら、絵梨姉ちゃんは一瞬きょとんとして、それから笑われてしまった。
「やっぱり、優ちゃんは優ちゃんのままね」
「えー、なにそれ」
「あげる相手にもよるけれど、優ちゃんは女の子なのだから、普通に可愛らしいものにしなさい」
「はぁい」
そんなことを話しながら、僕たちはチョコを見て回った。最初はお父さんの分だけ買うつもりだったんだけれど、どれも日持ちするみたいなので、今のうちにみんなの分も買っちゃうことにした。
夢月ちゃんはナッツ系が好きだったなぁ。柚奈ちゃんは甘いもの好きだけれど、体重気にしているから、小さめなものにして、その分高級なものを選んでみようかな。お父さんは、やっぱりビターかなぁ……
なんて考えながら回っていて、ふと思った。
「そういえば、僕が、僕用に食べたいチョコって買ってもいいの?」
僕が聞くと、絵梨姉ちゃんは、何を言ってるの、といった表情で答えた。
「当たり前でしょ。それがバレンタインの一番の楽しみじゃない」
「あはは……」
――なるほど。
女の子たちがどうしてバレンタインが好きなのか、その意味がとってもよく分かった瞬間だった。
☆☆☆
「チョコレート、そっちに送ったよ。一応、日時の指定をお願いしたから、14日当日に届くと思うけれど」
チョコを買った後、絵梨姉ちゃんに手伝ってもらい、発送手続きを終えた僕は時間を確認して地球の裏側に電話をかけた。今の時間なら、お父さんは仕事中のはず。
「分かったわ。お疲れ様。ごめんなさいね。お父さんが変なこと言って」
「あはは……」
というわけで、僕の話し相手はお父さんではなくお母さんだった。
「でもせっかく送ったのなら、直接お父さんに電話してあげればよかったのに」
「……えっとまぁ、そうなんだけど。何ていうか、その、恥ずかしくて……」
そんな僕の言葉に、お母さんが電話越しに「ふふふ」と笑った。
チョコを選んで買うまでは良かったんだけれど、いざ発送となると何か恥ずかしくて、結局メッセージも書けずにただチョコを送るだけになってしまった。
今まで父の日や誕生日に何度もプレゼントをしているけれど、女の子になってバレンタインのチョコを贈るのは、ちょっと違った。女の子の生活にだいぶ慣れたつもりだったけれど、まだまだ覚えることは多そうだ。
「ところで。優希は、お父さん以外の男の子には、チョコを贈らないの?」
「えっと。宏和伯父さんと、あと友達二人に贈る予定だよ」
「あら。で、そのうちどっちが本命なの?」
「ほ、本命って。違うよ。ただの友達だから!」
「そう。残念」
「残念って……」
普通、親って、娘の恋愛には厳しいものじゃなかったっけ。
以前に比べて、お母さんの僕への接し方が少し変わってきた気がする。相変わらず厳しいのは同じだけれど、なんていうか、親しみのようなものを感じるというか、距離が近くなった感じ。これが母娘の関係なのかなぁ。
逆に、お父さんの方が変になってきたような気も。これも普通の父娘の関係……なのかなぁ。
「まぁとにかく、優希にとっては初めてのバレンタインなのだから、楽しんでらっしゃい」
「うん。……あ、そうだ」
「何? どうしたの」
「お母さんって、お父さんと中学のときに知り合ったんだよね? 中学生のとき、お父さんにチョコを贈ったの?」
「――それじゃ、優希。身体に気を付けて元気でね」
強引に無視されて、電話を切られてしまった。
少しずつ変わって来たけれど、照れ屋さんなのは相変わらずだった。
☆☆☆
そんなこんなで、いよいよバレンタインデーもあと二日に迫った祝日の休み明け。
学校の調理室は、あまーい香りと女の子たちの熱気にあふれていた。
「そうそう……火の加減に気を付けてね。あまり熱すぎるとダメよ……」
「う、うん」
沙織先輩に見てもらいながら、僕は慎重にチョコを溶かしていく。
放課後の調理室は、我が家庭科部と調理部で日にちを決めて使い分けている。で、今日は本来、家庭科部が使用する日だ。
けれどせっかくバレンタインが間近なのだから、と沙織先輩が、調理部や一般生徒に開放して、チョコレート教室が開かれることになったんだ。
もっとも「教室」と言っても、沙織先輩が作り方をみんなに講義するわけではなく、各々が自由にチョコを作っているだけだ。もちろん顧問の野上先生に許可はもらっているので問題はない。
その先生は、今も面倒くさがりながらも、チョコを作っている生徒を巡回しては、指導してくれている。うちの学校って、制服には厳しいけれど、バレンタインなどのイベントには甘いみたい。
僕はすでにみんなの分のチョコレートを用意しちゃったんだけれど、せっかくなので、沙織先輩にチョコレート作りを教わっている。できたチョコは絵梨姉ちゃんと雪枝さんに食べてもらおうかな。あ、もちろん、僕も食べるけど。
ちなみにそんなわけで、男子生徒の耕一郎くんは部活なのに、文字通り蚊帳の外である。
溶かしたチョコを、ナッツを入れた型に慎重に流し込んでいく。あとは冷やして型から取れば完成だ。
溶かして固めるだけといっても、温度にこだわったり水分や空気が入らないように注意したりと大変。フライパンの上で卵を割ればできると思っていた目玉焼きと一緒だね。
「ええ。いい感じね。どんなチョコレートお菓子を作るにしても、チョコを溶かすのは基本だから、覚えておいた方がいいわ」
沙織先輩がそう言いながら作っているのは、チョコレートケーキだ。なるほど。チョコレートケーキもチョコに違いない。ただのチョコより、プレゼントされたら嬉しいだろうな。ちょっと重そう(胃袋的に)だけど。
「美味しそう。これ、誰にあげるんですか?」
「あ、あげるって。そんな――友達と後で一緒に食べようと思っているだけで、男の人になんて――っ」
つい聞いてしまった途端、沙織先輩が思いっきり狼狽して首をぶんぶんと横に振った。
「あ、あの。僕、一言も、男の人になんて、言っていないんですけど……」
「くすん……。いいわよね、優希ちゃんは。M.Kくんにチョコをあげるのでしょう……」
「え?」
沙織先輩の言葉に、僕は思わず聞き返してしまう。
あ。すっかり忘れていた。
初めて沙織先輩の家に行ったとき、僕と耕一郎くんがそういう仲だと勘違いされないための設定として、僕は、M.Kくんが好きということになっているんだ。
ちなみに、「M.K」とは、「夢月.木村」。とっさのことだったので、つい夢月ちゃんの名前を使ってしまった。まぁチョコをあげる予定なので、間違いではない、かな。
きょとんとした僕の反応は予想外だったみたいで、急に沙織先輩が慌てた様子を見せる。
「あっ。ご、ごめんなさいっ。その、優希ちゃんの恋の行方が気になって、こっそり耕一郎くんに聞いてみたら、仲良くやっているみたいなことを言っていて、だから、つい……」
「い、いや。別にいいですから」
気にしてくれているのは嬉しいけれど、だからって、僕と同じクラスの耕一郎くんに聞いたら、イニシャルの意味がないよね。まぁ、耕一郎くんも夢月ちゃんのことだと分かっているから、仲良くやっているって言っているんだろうけれど、相手が女の子で変に思わないのかな。
僕はふと、クラスメイトの名前と苗字を思い浮かべる。「M.K」のイニシャルなんて、夢月ちゃん以外にいないと思うけれど。
K。か・き・く・け・こ……。か、金子。稔――って、いきなり、いた!
僕は思わず声をあげそうになってしまった。
今更気づいたけれど「M.K」って、夢月ちゃんだけじゃなくて、稔くんもそうだったんだ!
ってことは、もしかして、耕一郎くんに勘違いされている?
あくまで設定であることは耕一郎くんが一番知っているわけだけど。でも、稔くんを好きって……なんか、急に頬が熱くなってきた。
「どうしたの?」
「い、いえ。別に……」
「……もしかして、チョコあげないの? 喧嘩しちゃった?」
沙織先輩が心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。喧嘩しちゃった、のニュアンスがどことなく子供っぽくって、なんか可愛らしい。
「喧嘩したわけじゃないけど、その人、バレンタインにいい思い出がないみたいだから……」
そんな沙織先輩に向けて、僕は正直に答えた。
調理室は想像以上に大盛況で、ひとクラス分くらいの女子が集まっている。
みんな楽しそう。
中には、今にも泣きそうなほど真剣な表情をしてチョコを作っている子もいる。僕なんかと違い、本命チョコを作っているのかもしれない。
稔くんにチョコをあげたという子は、どういう気持ちでチョコを贈ったのだろう。そして稔くんは、どう断って、どんなトラブルになってしまったのだろう。簡単に聞いていい話だと思わなかったので、詳しくは知らない。同じ学校だった(クラスは別)夢月ちゃんの話だと、その子は私立の中学に進学したみたいだけど。
少なくとも、今のクラスで稔くんが女子から孤立していることはない。悪いうわさも聞かないし、もう終わった話なんだろう。もしかすると稔くんが言うほど大事じゃなかったのかもしれない。けれど稔くんがいい思いをしなかったのは事実。
それなのに、僕が無神経にチョコを贈って、思い出したくない過去を思い出させてしまったら……?
「そう……。確かにバレンタインには告白が付きものだから、決していい思い出だけではないわよね。――優希ちゃんは優しいのね」
沙織先輩が優しく微笑む。
「でも、もしかしたら、M.Kくんは、実は優希ちゃんからのチョコを欲しがっているかもしれなわよ」
「えーっ。まさかぁ」
僕は思わず笑ってしまった。稔くんに限って、それは、ない。
でも、義明くんと耕一郎くんの分は用意してあるのに、稔くんの分だけないのは、変かな。
とそんな僕の心境を察したのか、沙織先輩が言う。
「バレンタインがダメなのなら、チョコ以外のものを贈ってみたらどう?」
「あ、なるほど。でもせっかくのバレンタインだし……」
やっぱりチョコを渡したいよね。
でもバレンタインはNGだし……と考えていたら、不意に思いついた。
「あ。そうだ」
「あら? いい方法、思いついた?」
「うん」
僕は、にっこりと笑ってうなずいた。




