傷
「行ってきまーす」
「はい。行ってらっしゃい」
雪枝さんに見送られて、僕は家を出た。
冬らしいどんよりとした曇り空の下、相変わらず寒いけれど、気合と根性で通学路を歩く。
「おはよー。優希」
いつもの待ち合わせ場所に着くと、珍しく夢月ちゃんが先に来ていた。
「夢月ちゃん、おはよう」
「どう? 優希、問題なさそう?」
「え、うん。平気だよ」
始業式の日なので朝練がないから、学校への道には同じ中学の人がたくさんいる。その中には当然男子生徒も混ざっていて、何度か追い抜かれたりしたけれど、特に問題なかった。
一時的に男性不信になっていたことは夢月ちゃんには話していなかったんだけれど、何となく察してくれたのかな。
「それは良かった。ていうか、私の方がヤバい」
「えっ? 夢月ちゃん、体調悪いの?」
「そうじゃなくって、つい優希の秘密を口走りそうで。むしろ言いふらして自慢したい」
「あはは」
僕は思わず笑ってしまった。夢月ちゃんに「笑い事じゃない」って怒られたけれど、僕としてはそれで秘密が漏れてしまって、みんなから避けられるようになっても、大丈夫だと思った。
――少なくとも一人、夢月ちゃんが理解してくれるのなら。
「むっきー、くりゅ、おはおはー」
教室に入るなり、なぜか少し肌が黒く見える柚奈ちゃんが手を振って挨拶してきた。
部活がなかった僕としては、約二週間ぶりに足を踏み入れる教室。
夏休み明けのときは、みんなが色々変わっていて驚いたけれど、冬休み明けはそれほどでもないかな。けれど懐かしい顔がいっぱい。
僕が席に着くと、柚奈ちゃんがさっそく声をかけてきた。
「ねぇねぇ。くりゅは冬休み、何してた」
「えっ、えっと」
柚奈ちゃんの質問に、僕は固まってしまった。
初詣に行ったり、お父さんとスキーに行ったりした。けれど、真っ先に頭に思い浮かんでしまったのは、隆太の件だったから。
そんな僕に助け舟を出すかのように、夢月ちゃんが口を挟んだ。
「優希。どこぞの芸能人みたいにハワイ行っていたやつに答える必要ないって」
「えーっ。柚奈ちゃん、ハワイ行ってたの?」
夢月ちゃんの言葉に、近くにいた彩ちゃんたちが食いつく。
「まーねぇ。そうそう、むっきーが言うところの、どこぞの芸能人も結構いたよん」
「うそーっ。もしかして、ジョニーズの誰かに会ったりした?」
「うーん。ジョニーズじゃないけれど、お笑いタレントの……」
あっという間に柚奈ちゃんの周りに輪が出来ていく。そのおかげで、僕の話題はそのまま流れてくれた。
「……夢月ちゃん、ありがと」
僕が小声でお礼を言うと「いいってことよ」と夢月ちゃんが笑った。
しばらくみんなで話していると、稔くんと義明くんが教室に入ってきた。
「おはよ。稔くん」
僕は隣の席に荷物を置く稔くんに、自然に声をかけた。うん。大丈夫。
「あ、あぁ、優希。おはよう」
けれど、逆に稔くんは、なんか変な反応。どこか戸惑っているというか、何かを押し隠しているような感じ。ついでに寝不足っぽくも見える。
昨日の夜に電話で話したときは普通だったのに、どうしたんだろう。
僕がそれについて聞こうとしたら、それより早く、近くにいた彩ちゃんが稔くんの言葉に反応した。
「えっ、なになに、今の。金子っち今、優希ちゃんのことを『優希』って呼び捨てで言ったよねっ。これって、もしかして、ひと夏の経験ならぬ、ひと冬の経験っ?」
ご丁寧に『優希』のところを稔くん口調で言いながら、彩ちゃんが騒ぎ立てる。
うーん。彩ちゃんが何を期待しているのか分からないんだけど。
「あ、それ、僕がお願いしたんだ。みんなともっと仲良くなりたいから」
夢月ちゃんと柚奈ちゃんは、お正月の神社で、すでに稔くんが僕のことを優希って呼んでいるのを聞いていたから、特に驚いた様子はない。でもそのときも、柚奈ちゃんが似たような反応していたっけ。
別に、そこまで気にするようなことじゃないのにねぇ。
あれ? でも、気にするようなことじゃないのなら、なんで僕はわざわざ神様にまでお願いしちゃったのかな。
ま、いっか。
「簡単に言うけどさ、中学生男子にとっては、女子の下の名前呼ぶのって結構勇気がいるんだよなぁ。何か意識して、特別な感じっていうか」
義明くんがそう言いながら、ちらりと柚奈ちゃんを見るけれど、柚奈ちゃんにあっさりと「幼馴染は別」と言われ、がっくりとした様子を見せた。
「そーなの? 僕は普通に嬉しいけどなぁ。あ、そうだ。せっかくだから義明くんも下の名前で呼んでよ。ついでに」
「あ、いいのか? まー、栗山って言うより、ゆーきの方が言い易いよなぁ。――って、ついでかよっ?」
義明くんが安定のノリツッコミを見せる。うん。さすがだ。
「……ねぇねぇ。金子っちとしては、『優希』って呼ぶ男子が増えて、ほっとした? それとも残念だった?」
そんな僕たちのやり取りの横で、彩ちゃんが興味津々に稔くんに聞いていた。
始業式・ホームルームと終わって休み時間を迎えた。
ちなみに、この後にはなんと、普通に授業があるのだ(午前中だけだけど)。さすが中学校。ゆとり世代が羨ましいよ。――ふっ。
なんてこと思いながら授業の準備をしていたら、隣の稔くんに呼ばれた。
「優希、ちょっといいか?」
「ん、なに」
「いや、ここじゃ。ちょっと」
稔くんが視線を廊下に向ける。何だろう。教室やみんなの近くでは話しにくいことなのかな。
僕は稔くんの後について廊下に出た。
向かうのはトイレや階段とは逆方向。この先には特別教室しかない。次の授業で使うクラスがないのか、ひっそりしている。
教室を出た時点で、人気の少ない場所を目指しているのを分かって付いて来たけれど……。
稔くんの、僕よりずっと大きい背中を見ていたら、不意に動悸が激しくなってきた。
「あの、ここで……」
僕は足を止めて言った。止めた足がかすかに震える。稔くんを疑っているわけじゃない、怖いわけでもない、女の子としての当然の対応なんだと自分に言い聞かせる。
そんな僕の様子に気づいた感じもなく、稔くんはあたりを見回して近くに人がいないのを確認してから、少し声のトーンを落として話し出す。
「昨日の電話のことだけれど……」
「うん……」
「優希。その、転校とかしないよな……?」
「え、しないけど……」
思わぬ言葉に、僕はきょとんとしてしまった。
一方で、稔くんはほっとした様子。どうやらこれが聞きたかったことみたい。
「そっか。ならいいんだ。何か、意味深だったから」
「……そうかなぁ。普通に電話しただけだけど」
僕が首をひねると、稔くんが大きくため息をついた。
「まぁいいか。ところで、結局三学期も席替えしないことになったな。優希的にはどうなんだ?」
稔くんが話題を変えた。
さっき行われたホームルームで席替えの議題が上がったんだけれど、なんか今の席がみんなの中で定着しちゃったのか、反対意見が多くて、そのままになったのだ。
「ううん。席替えしても面白そうだけれど、僕としては、しなくて良かったかな。またみんなと同じ班になれるし。ストーブが遠くて寒いけれど」
「まぁな。確かに、今更だよな」
そう言って稔くんも笑った。
「三学期は短いけれど、また隣の席として、よろしくね」
「……あ、あぁ」
気のせいかな。
僕の言葉に、稔くんは少しだけ寂しそうな顔をした。
☆☆☆
「それでは。また明日」
「うん。じゃあねー」
午前中で授業が終わり帰り道。駅の近くで香穂莉ちゃんたちと別れ、僕と夢月ちゃんの二人きりになった。みんなの家の場所の関係で、登校時とはルートが違って、駅前を通る。
お昼時。駅前にはそれなりの人がいた。それを横目で見ながら駅を通り過ぎようとしたときだった。
――不意に、隆太を迎えに駅まで来たときのことを思い出してしまった。
あれから、隆太からの連絡は何もない。連絡先を教えていないのだから、電話やメールは寄越しようにないんだけど。
けれど……
隆太はこの駅を知っている。
僕の家の場所だって、県道出て一本道だから、覚えている可能性が高い。
隆太が謝りに来ようとすれば、来れないわけではない。
いや、謝りに来るのならまだいい。けれど、もし、僕に拒絶されたことを怒って、復讐に来ていたりしたら……
そう思った途端、身体がぞくりと震えた。
僕は思わず後ろを振り返る。それなりに人がいる。その中に隆太の姿はない。けれどどこかに。電柱や路地に隠れていて、急に襲い掛かられたら……
そんなことあるわけない。大丈夫。
必死に頭に言い聞かせる。でも駄目だった。嫌だ。……怖い。
「でさ、それはやっぱり……って、優希、どうしたのっ? 顔、真っ青だよ」
隣りを歩く夢月ちゃんが、僕に気づいて顔を覗き込んできた。
鏡がないので、僕が今どんな顔しているか分からないけれど、強張っているのは間違いないと思う。
「大丈夫……平気だから」
「大丈夫に見えないって! 熱は無いようだけど……。家まで送ってくよ」
「……うん。ありがとう……」
夢月ちゃんには悪いと思ったけれど、一人にはなりたくなかったので、素直に甘えさせてもらった。ダメと言っても聞かなそうな勢いだったし。
ゆっくりと駅から離れていく。けれど体調は良くならなかった。
夢月ちゃんは僕の体調が悪いことに気を遣ってか、途端に無口になってしまった。
無言で歩いていると、どんどん僕の頭の中に、隆太との悪い妄想が埋め尽くされていく。胃がむかむかする。めまいもしてきた。
「ここまでで平気だから」
「……分かった。辛いようならちゃんと病院行くんだよ」
「うん……」
夢月ちゃんと別れて家に入った途端、胃の奥から込み上げるものを感じて、僕は慌ててトイレに飛び込んだ。
「うぅっ、ぅ……ぅ……ぁぁ」
また、戻してしまった。
水を流しながら、涙がこぼれた。
大丈夫だと思っていたのに……
もう、いやだ。
やだよ……っ。
お昼前だから雪枝さん昼食を作ってくれようとしたんだけれど、僕は食欲がないと断って、そのまま部屋に閉じこもってしまった。絵梨姉ちゃんは、まだ帰ってこない。
ベッドの中に潜り込んでしまったら、また前と同じだ。それは嫌だ。けれど……。とそのとき、急に携帯が鳴った。
――夢月ちゃん?
僕は反射的に携帯を手に取って、着信を見た。……え? 稔くん?
僕からは何度かかけているけれど、稔くんから電話がかかってきたことってあったっけ? もしかすると初めてかもしれない。一体、どうしたんだろう。
僕は一呼吸おいてから、電話に出た。
「……もしもし?」
「優希か。悪いな、電話かけて」
「ううん、別にいいけど……」
「あのな。俺が電話した理由だけど」
「……うん」
「優希の声が聞きたかっただけ」
「…………。え」
「つ、つまり、昨日の仕返しだよ。いきなりこんなこと言われたら、驚くってのが分かっただろ」
稔くんの慌てた様子が伝わって来る。それが可笑しくて、けれど不思議と嬉しくて、気づいたら、なぜか涙が頬を伝っていた。
しばらく無言でいると、僕の様子が普通じゃないことを悟ったのか、稔くんが戸惑った声で言った。
「……悪い。優希の事情も知らないで変な電話かけて。今切るから――」
「待って! お願いっ。切らないで」
僕は電話越しに必死に叫んだ。
稔くんは「分かった」と短く言うと、僕の気持ちが落ち着くまで、ずっと無言で待ってくれた。はぁ……ふぅ。よし、もう大丈夫。
「ごめんね。ちょっと取り乱しちゃって」
「いや、こっちこそ悪かった。変な電話かけて」
「ううん。稔くんの声が聞けて良かったよ」
「……あのな。あまりそういうことをすぱっと言うなよ」
「え?」
意味分からないけど。
「あ、そうだ。せっかくだから、ちょっと稔くんに聞きたいことがあるんだけど」
「ん、なんだ?」
「あのね、あくまで例えな話だけれど、例えば義明くんが急に女の子になったとしたら、稔くんは義明くんの胸や体を触りたいって思う?」
「……なぜそんな質問されるか分からないが、それはない!」
稔くんがきっぱりと断言した。
「ていうか、キモイだろ。それ」
僕は義明くんの顔そのままに、髪の毛伸ばして化粧して胸と腰が出た姿を想像してしまった。うん。義明くんには悪いけど、ちょっとそれは、ナイ。
「じゃあ、その、義明くんが美……少女ってほどじゃないけれど、身も心も一般的な女の子になったとしたら?」
あくまで例えの話なんだけれど、「美」は付けづらかった。だってこれは僕の話だから。
稔くんは相変わらず僕の質問の意味が分からないだろうけれど、電話越しにそれなりに真剣に考えてくれるのが伝わってきた。
「うーん。それなら触りたいって思うこともあるかもしれないが……」
ずきり、と心が痛む。
「もちろん、義明がいいって言った場合だけどな」
「その……無理やり押し倒したりしないの? 義明くんは一般的な女の子なんだから、その気になれば余裕だけど……」
「するかっ。だって身だけじゃなくて、心も女なんだろ。それじゃ普通の女と一緒じゃん。そんなことできるか」
「そっか……」
急に、信じられないほど心が軽くなった。
稔くんは、隆太とは違う。
たったそれだけで、世界が一変したような気がした。
「――これで満足か?」
「う、うん。ありがと。ごめんね、変な質問して」
「別にいいよ。どーせこれ、大石が考えている『びーえる本』とかのネタだろ」
……。
そういえば、彩ちゃん、「みの×よし」と「よし×みの」の違いを力説していたっけ。
「あはは。それはノーコメントということで」
僕は笑ってごまかした。
「それじゃ、稔くん。ありがと。また明日学校でね」
「あぁ」
電話が切れるのを確認すると、僕は、よしっ、と気合を入れて立ち上がった。
今ならお昼、食べられそうな気がする。雪枝さんにお願いして、お昼ご飯を作ってもらおう。
そして食べ終わったら、夢月ちゃんのうちに遊びに行こう。
部屋にこもっていたら、ダメになっちゃうから。




