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進言

皆さまからのご意見を参考に、修正させていただきました。

 ロビーに入るなり、病院内の独特の香りが僕の鼻に飛び込んできた。今の僕にとって、その匂いは不思議と有難く感じられ、安心させられた。

 そのおかげか、ロビーにはたくさんの男性患者がいたけれど、それほど過敏に反応しなくて済んだ。

 家を出る前に連絡してあったので、受付に行くと待つことなく、あっさりと診療室まで来てくださいと言われた。暇なのかな。僕のために時間をわざわざ調整してくれたわけじゃないと思うけれど。

「私は待合室で待っているから」

「うん。分かった」

 僕は絵梨姉ちゃんと別れ、一人で診療室に向かった。

 ドアの前に立ってノックすると、「どうぞ」と炭谷さんの声がした。僕は軽く深呼吸してから、扉を開けた。

「優希くん。こんにちは。神社でいつでも来てくださいと言いましたが、まさか、こんなに早く来てくれるとは思いませんでしたよ。ははは」

 上本先生が相変わらずのぼさぼさ頭と笑顔で待っていた。隣には炭谷さんもいる。僕は黙ったまま、ただ小さく頭を下げて、椅子に座った。

「それにしてもせっかく可愛い女の子になったのだから、そんな地味な格好じゃなくて、お正月の振袖みたいに、もっと女らしい色気のある格好で来てくれれば良かったのに」

 上本先生が言う通り、今日の僕は昨日と対照的な、色気や可愛らしさとは程遠い厚着をまとっている。上本先生は冗談で言ったんだろうけれど、そのことを指摘された途端、昨日のことがフラッシュバックしてきて、僕の中の何かが切れた。

「うっ、ううっっ……せ、先生も……。男の人は、みんなそういう目で僕を見るんですかっ」

 あっという間に瞳が熱くなって、涙がぽろぽろ零れ落ちる。

 ――バァァンッ!

 突然、激しい音が響いた。

 思わず嗚咽が止まる。炭谷さんが上本先生の頭をバインダーで叩いた音だった。

 炭谷さんは、頭を抱える上本先生を無視して、そっと僕を抱きしめた。

「このデリカシーのない男は放っておいて……栗山さん。話せる範囲で構いませんから、聞かせてくれますか?」

 女の勘だろうか。状況を察してくれたみたいだ。そもそも予約の際も、僕自身の相談を、絵梨姉ちゃんが代理で電話してくる時点で、何かあったのだと感じてくれたのだろう。

 僕は炭谷さんの胸の中で小さくうなずいて、昨日隆太にされたことを、ぽつりぽつりと話した。



「栗山さん。女性として辛い思いをさせてしまい、同じ女性を代表して謝らせてください。本当に申し訳ございません」

 僕の手首に出来たあざの治療をしながら、炭谷さんが言った。

「そんな……」

 話を終えた後、乱暴を受けた際に怪我がなかったか、炭谷さんに一通り身体を診てもらった。その結果、手首だけじゃなくて、肩や背中にも、あざや擦り傷が見つかった。隆太に襲われていた時間はほんの少しだったのに。女の子の肌はデリケートっていうけれど、改めて自分が女の子なんだと思い知らされた。

 ちなみに、上本先生は席を外してくれた。ていうか、炭谷さんに追い出された。隆太にあんなことされた直後だけに、診察とはいえ男の先生に肌を見られるのに抵抗があったので、炭谷さんの配慮が嬉しかった。

「ですが栗山さん、どうか、女の子のことを、自分のことを、嫌いにならないでください」

「はい……」

 昨日のことを説明する際、つい感極まって「こんなことになるんなら、女の子になんてならなければよかった!」と叫んでしまったことを、気にしているのかもしれない。

 治療が終わり、席を外していた上本先生が戻ってきた。

「優希くん。災難でしたね。でもそれは、それだけ優希くんが女性として魅力的になったということで、手術を担当した私も鼻が高いと――」

 炭谷さんがじろりと冷たい目で先生をにらむ。

「いやいや。もちろん、私も同じ男性として恥ずかしいですよ。もしその者がうちに来たら、去勢手術をしてやりますよ。まぁ取ったところで、優希くんみたいに可愛くなれるとは思いませんが」

 可愛いとか、魅力的とか、先生の言葉が僕の胸に突き刺さる。わざと言っているんじゃないか、ってくらい。なんか、逆にいちいち反応するのが馬鹿馬鹿しくなってしまう。

 先生は席に座ると、僕の目を見て言った。

「さてと。正直まさかこんな相談が来るとは思ってもいませんでした。先に言っておきますが、私は、カウンセリングは専門外です。的外れだったり、優希くんを逆に苦しめるようなことを言ってしまうかもしれませんよ?」

 先生の言葉に、僕はびくっと身体を震わせる。

「いやぁ。一応、単位は取ったんですけど、どうもあの堅苦しいところが苦手でね。被害者に気を遣いすぎで。もっと、ずばっと言ってもいいんじゃないかと――」

「――次は角で殴ります」

「……はい。すみません」

 バインダーを掲げてみせた炭谷さんに、上本先生が素直に頭を下げた。

「栗山さん。悪いことは言いません。こんな男に相談するより、専門のカウンセリングを受けたほうがいいです」

 炭谷さんが心配そうに言ってくれた。けれど……

「……いや。それでも、先生に相談に乗ってもらいたいです……」

 正直、隆太の話を、また別の人に説明するのは苦痛だから。

 それに、下手に慰められるより、上本先生のようにずばっと言ってくれた方が、今の僕にとってはいいのかもしれない。そんな風に感じた。

 ――単に、僕が自暴自棄に陥っているだけかもしれないけれど。

「分かりました。ではさっそく聞きますが、優希くん。今あなたが望んでいることは何ですか?」

「――え?」

「加害者への復讐ですか? それとも心の傷を癒すことですか」

 僕はじっくりと考えて、胸中を伝える。

「今は、隆太がどうこうというより……ただ、みんなを心配させないよう、今まで通りの普通の生活ができるように、なりたいです……」

「つまり、昨日の出来事を早く忘れたい、ということですね?」

「はい……」

 答えながら、僕はちょっと不思議な気持ちになる。布団の中で一人思いを巡らしていたときにはまとまらなかった考えが、自然と口に出るようになったからだ。人と話すことって、やっぱり大切なことなんだ。

「このようなことが起こってしまった原因は、自分は元男の子だから、と油断した気持ちがあったからだと思いますか?」

 先生の言葉に、炭谷さんが強い口調で口を挟む。

「その考え方は間違っています。理由はどうあれ、悪いのは加害者です!」

 炭谷さんの気持ちは嬉しい。

 だけど、僕はゆっくりと考えて、上本先生の問いにうなずいた。

「……はい。そういう気持ちはありました」

「話は変わりますが、初詣で会ったとき、優希くんは、私に何を言ったか覚えていますか?」

「え? えっと……」

 色々話したけれど、具体的に何を言ったかって聞かれても、すぐに答えられない。

「優希くんは、振袖姿を見せながら『元男なのにこんな格好していて、変に思いませんか』と言いました。質問の意味は理解できますが、私にはちょっと奇妙に思えましたねぇ。いや、振袖姿が似合う少女から、元男などという言葉が出てくるものですから」

 僕は黙って先生の話に耳を傾ける。

「おそらく加害者の男性からも、優希くんは普通の女の子に見えていたんじゃないですかね。小学生時代がどうあれ」

「で、でも隆太は……」

 僕が口を挟む。けれど先生は構わず続ける。

「ところで優希くん。現在のお友達には、あなたが元男性だったということを伝えていますか?」

 僕は黙って首を横に振った。

「どうしてですか?」

「それは……元男だと知られたら、みんなに変な目で見られてしまうからと、両親と話し合って決めたからです」

「そうですね。しかしお友達との付き合いももうすぐ一年を経つわけですし。そろそろ思い切って、カミングアウトでもしてみたら、どうですか?」

 先生の軽い調子の言葉に、僕は反射的に席を飛び立った。

「そんなことできるわけないじゃないですか! 話したから……隆太に話したから、僕は――っ」

「まぁまぁ。過去を知っている人に現在のことを説明するのと、現在を知っている人に過去のことを説明するのは、別ですよ」

「で、でも……」

 先生は相変わらず落ち着いた様子だ。

 僕は軽く深呼吸して、再び席に着いた。

「今の優希くんは、『今は女だけれど、元男』な状態です。外見はもうすっかり女性なのにこのような考え方をしていると、今回だけでなく、今後も何かしら生活に支障をきたしかねませんよ」

「はい……」

「けれど、現在のお友達にカミングアウトすることによって、優希くんの状態は『元は男だけれど、今は女』に変わります。今以上に、女性としての意識が高まるのではないでしょうか」

「それはあくまで言い方の違いだけで、詭弁です」

 炭谷さんが上本先生の言葉を遮るように言った。

 けれど、僕はなんとなくだけど、先生が言いたい意味が分かったような気がした。

 今は女の子だったけど、昔は男の子。

 昔は男の子だったけど、今は女の子。

 似ているようで微妙にニュアンスが違う。

 小学校のときに流行った「カレー味のう○こか、う○こ味のカレーか」に似ているような気もするけど――それはとりあえず、脇に置いておいて。

「……確かに、そういう考え方は必要かもしれません」

「秘密を一人で抱え込むというのは、精神的にも相当辛いものですからねぇ。今となっては仇となってしまったようですが、加害者の男性に、今の自分のことを打ち明けたときの気持ちはどうでしたか?」

 僕は、なるべくその後に起きたことを考えないようにしながら、打ち明けたときの気持ちを思い出す。

「……心が軽くなったというか、嬉しかった……です」

 先生は黙ってうなずいた。

 嘘をついていたという負い目があったから、それから解放されたときは、すごく良い気分だった。

 今僕は、みんなに昔のことを隠したまま接している。

 小学校のときの話題になると、なんとか誤魔化して話題を逸らそうとするのに必死になって。そんな僕の様子を、香穂莉ちゃんにも気にされていたっけ。

 もし、男の子だったことを打ち明けて、受け入れてもらえたら。

 それはきっと素晴らしく素敵な気持ちになれると思う。

「ところで――」

 上本先生が急に口調を変えて言った。

「優希くんは相談する際、昨日の出来事を早く忘れたい、とおっしゃっていました。今も、頭の中は昨日の出来事のことで、いっぱいですか?」

「あっ――」

 先生に言われて、僕は病院に来た本来の目的を思い出した。

「いえ……今はそれほどでも……」

 昨日からずっと頭の中だけじゃなくて身体中にまで圧し掛かっていた隆太のことが、過去の告白に気を取られ、薄れているのに気付いた。

 そんな僕に向けて先生が笑って言った。

「人間の脳なんて単純なものです。答えが出ないことを延々と考えてしまうのなら、別の考えごとに置き換えてしまえば良いのです。忘れよう忘れようとしても、その思いに固執して、かえって忘れられないものです」

「……まさか。そのためにこんな話をしたのですか?」

 炭谷さんが非難するような口調で言う。すでにバインダーが構えられている。

「辛い出来事を忘れることも大事です。けれど性別の告白も、栗山さんの一生を決めかねないことですよ」

 炭谷さんの言葉に、僕ははっとした。

 上本先生は何も答えなかった。けれど、その笑みが肯定を示していた。

 ――そうだ。炭谷さんの言う通りだ。

 過去のことを話しても、受け入れてくれるかどうかなんて分からない。

 仮にみんなに打ち明けたとして、もし気味悪がられたり、急に避けられるように拒絶されてしまったら……

 きっと僕は、もうこの町で生きていけないと思う。

 いいことばかりじゃない。炭谷さんの言う通り、僕の一生を決めることかもしれない。簡単に言い出せることじゃない。

 けれど――

「もちろん、乱暴されたことを忘れるためだけに提案したわけではありません。心の傷を癒すには、優希くん自身の頑張りと、周りの人のサポートが必要になってくると思います。そのとき、優希くんの過去を知っている方が一人でも多くいれば、大きな支えになってくれるんじゃないでしょうか」

「……はい」

「過去を伝えることで逆に、男の子だったという過去から解放させ、より女性として楽しく過ごせるはずです。――話のすり替えではありますがね」

 先生はそう言って、にやりと笑った。

 僕はうなずくと、ゆっくりと席を立って、頭を下げた。

「上本先生。炭谷さん。本当にありがとうございました。近いうちに良い報告ができるよう、頑張りますっ」

「……納得いかない部分もございますが、栗山さんが決めたのなら仕方ありませんね。頑張ってください。陰ながら応援しています」

 頭を上げた僕の前で、炭谷さんが微笑みながら言ってくれた。

「……はいっ。ありがとうございます」

 それが本当に嬉しくて、久しぶりに笑顔が出た気がした。

「あの……ところで、診断料ってどれくらいかかるんですか……?」

 ほっとしたら急に不安になって僕がそう尋ねると、先生が笑って答えた。

「いやいや。今の私たちはただの休憩中ですよ。受付で保険証の提示を求められなかったでしょ。言葉通り、単に相談に乗っただけです」

「あ。でも……」

「先程も言いましたが、正式なカウンセリングでしたら、もっと真面目にやっています。まぁ優希くんが来てくれたおかげで、休憩中の炭谷くんも、ナース室からわざわざ来てくれましたからね」

「――栗山さんがお帰りになったら私も戻りますので」

 炭谷さんがそっけなく言った。その様子がおかしくて笑みがこぼれそうになった。

「いきなり知り合い全員に向けてカミングアウトしろとは言いません。まずは本当に信頼できる人だけに打ち明けてみてはいかがでしょうか?」

「はいっ」

 先生の言葉に、僕は大きくうなずいた。



 僕の秘密を打ち明けられる人。

 真っ先に思いついたのは、もちろん夢月ちゃんだった。



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