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沈鬱

「……優希ちゃん、大丈夫? お昼ごはん、食べられそう?」

「ごめんなさい……。まだ体調が悪くて……」

 僕はベッドに寝込んだまま、心配そうに見つめてくる雪枝さんに答えた。

「いいのよ。ご両親が来てはしゃいでいた反動が来ちゃったのかしら? まだ冬休みなんだし、無理しないでゆっくり寝てていいのよ」

「……うん」

 本当に冬休みでよかった。明日学校だったら、どんな顔をして登校すればいいんだろ。怖くて昨日からずっと鏡も見ていない。きっと今の僕はとても酷い顔をしているはず。

「ただ、あまり辛いようだったら、病院で診てもらった方がいいかもしれないわね。ただの風邪ならいいのだけど……」

「うん……」

 優しく言って部屋を出て行く雪枝さんの背中に、僕はもう一度小さく「ごめんなさい」と呟いた。



 昨日、隆太に襲われた。

 絵梨姉ちゃんが来てくれたおかげで最悪の事態は免れた。けれど、もし絵梨姉ちゃんがいなかったら……。怖くて想像もできない。

 隆太は絵梨姉ちゃんともみ合いの末、家を飛び出して、そのまま逃げて行ったらしい。それっきり、隆太からは何の連絡もない。

 自転車がある絵梨姉ちゃんなら、逃げる隆太を追いかけることはできたけれど、街中で追いかけたら騒ぎになってしまうし、僕のことも心配だったからと、深追いはせずに戻ってきてくれた。

 夢月ちゃんは偶然うちに遊びに来たところだった。

 そこで、隆太を追いかけていた絵梨姉ちゃんに「優ちゃんのことをお願い!」と言われ、訳が分からず二階に上がって来たらしい。そして、お菓子やアルバムが散乱してテーブルがひっくり返った部屋と、隆太に襲われた直後の僕の姿を見られてしまった。

 あんな姿、夢月ちゃんには見られたくなかった。

 取り乱して喚き立てる僕を、夢月ちゃんはぎゅっと、いつまでも抱きしめてくれた。もし夢月ちゃんがいなかったら、僕は自分で自分の体を傷つけていたと思う。

 事情を察した絵梨姉ちゃんは、戻って来るなり「警察に通報する」と言った。

 けれど僕が泣きながら首を横に振り続けていたら、それ以上、何も言わなくなった。

 こんなこと誰にも知られたくない。警察にだって、話したくない。

 僕は心配してくれる二人を追い出すようにして、ベッドの中に潜り込んだ。

 絵梨姉ちゃんはなおも納得いかない様子だったけれど、夢月ちゃんが庇ってくれて、隆太のことは、僕たち三人だけの秘密となった。



 用事から帰宅した雪枝さんは、ずっと寝込んでしまっている僕の症状を、風邪のたぐいだと思っているようだ。騙しているみたいで心苦しいんだけど、本当のことなんて言えるわけがない。僕は秋山家に預かられている身でもある。その中で僕が襲われたことを知ったら、お父さんとお母さんが何も言わなくても、雪枝さんは自分を責めてしまうに違いないから。

 実際、体調が悪いのは本当だ。昨夜無理やり食べようとした夕食はほとんど戻してしまった。今朝の朝食も、ほんの少し口にするだけで精一杯だった。今も体が重くて、辛くて、自分が生きているのか死んでいるのか分からないくらい、頭も身体もぼーっとしている。

 宏和伯父さんにも悪いことをしてしまった。昨夜から今朝まで、まともに顔を合わせられなかった。宏和伯父さんが隆太と同じ「男」だと思った途端、身体が無意識に拒絶してしまうのだ。近づけない、視線も合わせられない。声が震えて、会話もできなかった。

 伯父さんが悪いわけじゃない。分かっているのに――。

 無意識の反応に、僕はショックを受けた。このままだと、稔くんとも義明くんとも、もう普通に話すことが出来ないかもしれない。

 どうして……

 どうしてあんなことに……

 僕は、痛む手首に目をやった。隆太にぎゅっと掴まれた跡が、あざとなっていた。

 それを見た途端、枯れたと思った涙があふれてきて、僕は顔を布団に押し付けた。



 どれくらい経ったのだろう。寝てしまったみたいだ。泣いて眠ったおかげか、少しだけすっきりした。僕は気力を振り絞ってベッドから起き上がり、部屋を出てトイレで用を足し、また部屋に戻った。

 部屋の真ん中に突っ立って、ぼんやりと考える。

 僕は……これから何をすればいいんだろう。

 昨日のことを思い出してしまうから。部屋を見回すのは苦痛だった。

 僕はぎゅっと目を閉じて、ベッドに腰掛けた。

 眠りすぎてぜんぜん眠くないけれど、そのまま横になった。

 しばらくして、部屋のドアがノックされた。

「……優ちゃん。入るよ」

 絵梨姉ちゃんだ。今日は部活の日なのに、僕のことを心配して休んでくれた。さっきのトイレの音で、僕が起きたことに気づいたのだろう。

 なぜかクッションを持って部屋に入って来た絵梨姉ちゃんの顔は、真っ青だった。自分のことを棚にあげて「元気出して」って言いそうになるくらい。けれど、僕のほうが絵梨姉ちゃん以上に暗い顔をしているんだと思う。

「優ちゃん。大丈――ううん。ごめん。そんなわけないよね」

 絵梨姉ちゃんは軽く首を振ると、手にしているクッションを床に置いた。絵梨姉ちゃんの部屋にあったものだ。

「これ、飽きちゃったから、優ちゃんにあげるね。あんまり可愛くないけれど」

 そう言いながら、僕の部屋のクッションと取り替える。昨日、隆太に押し倒されたとき、下に敷いてあった物だ。

 絵梨姉ちゃんは少し迷った様子を見せてから、僕に話しかけてきた。

「私、性犯罪を受けて泣き寝入りする女って、どうなの、って思ってた。そりゃ辛いだろうけれど、警察に届けないで何もしなかったら、相手の男を助けるだけじゃない? けれど、今の優ちゃんを見ていたら、優ちゃんの気持ちを考えたら、とてもそんなことを言えないことに気づいたわ」

「ごめんなさい……」

「いいのよ。悪いのはあいつなんだし、今はあいつのことより、優ちゃんが少しでも元気になるほうが重要よ」

「うん……」

 元気になる、か。

 元気になるって、どうすればいいんだっけ……

「ねぇ。優ちゃん……」

 絵梨姉ちゃんが少し間を開けて、言った。

「一度、病院で診てもらった方がいいんじゃないかしら」

「病院――って」

 僕は自分の両肩を抱いて身を引いた。

「あ、ごめんなさい。優ちゃんが、そこまでされていないのは分かってる。けれど、どこかぶつけたりひねられたりしているかもしれないし。それに精神的にもカウンセリングみたいなものを受けたほうがいいんじゃないかって。このままだと優ちゃん……」

 とそのとき、机の上に置いてある僕の携帯電話が音を立てて震えた。

 びくっ。

 思わず身体に緊張感が走る。

「優ちゃん。大丈夫。あいつに連絡先教えていないんでしょ」

 震える僕の肩を抑えるようにして、絵梨姉ちゃんが言った。

 黙ってうなずく。携帯電話のことを伝えられないままああなってしまった結果だけれど、今となっては幸運だった。

 音はすぐに止まった。電話じゃなくて、メールだ。

 隆太からの連絡が来るわけない、そう頭の中で言い聞かせつつ、恐る恐る携帯を手に取った。

 夢月ちゃんからのメールだった。件名は書かれていない。

 無題のメールには、絵文字も何もなく、シンプルな一文が記されていた。


『くやしい。こういうときになんて言えばいいかわからない。国語の勉強しておけばよかった』


 ……国語の勉強、たぶん関係ないよ。


 少しだけ頬が緩む。――そんな自分自身の反応に僕はちょっと驚いた。

 こんな状態でも、僕、笑えるんだ。

「優ちゃん?」

 絵梨姉ちゃんが心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。

 ――これ以上、二人に心配をかけたくない。

 絵梨姉ちゃんと、夢月ちゃんからのメールを見て思った。

 僕自身がどうこうより、そっちの方が重要だ。

「……絵梨姉ちゃん、僕、病院に行ってみる」

「そう。良かった。私も付いていくね」

「え、大丈夫。一人で平気だから……」

「私も付いていく」

 絵梨姉ちゃんは強い口調でもう一度言った。

 まるで僕を一人にしないように言っている感じだった。

 ――今の僕は、そんなに自殺しそうな顔に見えるのだろうか。

 僕も、一人で平気って言ったけれど……

「……ごめん。やっぱり付いてきて」

「ええ」

 絵梨姉ちゃんの優しい笑顔を見て、また少し瞳が潤んできた。



 カウンセリング専用の病院は知らないので、上本先生がいる病院に行くことにした。お正月に会ったとき、何でも相談してくださいって言っていたし、今回のことは僕が男の子だったことも関係しているので、ちょうどいいかもしれない。まさかこんな相談されるとは思っていないだろうけど。

 病院への連絡は絵梨姉ちゃんがしてくれた。僕の名前と上本先生の名前を告げて、隆太のことは隠しつつカウンセリングを受けたいと伝えたら、あっさりと予約が取れたみたい。

 電車で二駅先の病院まで行くことに、雪枝さんは少し意外な表情を見せたけれど、僕とその病院の関係を知っているし、なにより僕がベッドから抜け出して「病院に行く」と伝えたことにほっとしている様子だった。僕が思っていた以上に、雪枝さんにも心配をかけていたのかもしれない。

「……それじゃ。行ってきます」

「ええ。気を付けてね。絵梨、優希ちゃんのことお願いね」

「うん。分かってる。行ってきます」

 雪枝さんに見送られて、僕と絵梨姉ちゃんは家を出た。



 病院に行くためには電車に乗らないといけない。

 平日の昼時とはいえ、乗客が全くいないわけではない。普通に男性の乗客もいる。駅に行くまでの間にも、何人もの男性とすれ違った。

 男の人が近づくたびに、僕は無意識のうちに身体を固くしてしまった。

 けれど、絵梨姉ちゃんがそんな僕の手を、そっと黙って握ってくれたおかげで、なんとか耐えることが出来た。


 目的の駅を降りて歩くこと十分ちょい。

 僕が一か月と少しの間入院していた病院が見えてきた。



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