隆太
ぽけーっと、コタツに入りながら、窓の外の、木枯らしに揺れる木々を眺める。
うーん……暇だ。
居間で一人ぽつんと、テレビの中のコメンテーターの解説を聞き流しながら、僕は暇を持て余していた。
お正月はあんなに騒がしかったのに、今この家にいるのは、僕一人だけだ。
お父さんとお母さんはまた海外に行ってしまったし、建兄ちゃんも帰ってしまった。宏和伯父さんは会社が始まって、絵梨姉ちゃんも部活。雪枝さんは買い物に出かけている。
こうやってコタツでゴロゴロするのも冬休みの醍醐味だけれど、そろそろ退屈というか、僕だけなにもしてなくて、申し訳ない気持ちも生まれてきた。ちなみに、冬休みの宿題は、夏休みの反省で去年のうちに終わらせちゃった。
僕はふと、テレビの後ろにかけられたカレンダーに目をやって、気づいた。
――そっか。ちょうど一年前なんだ。
体調不良で近所にある病院に行ったのは。
そこで偶然往診に来ていた上本先生と出会って、体調不良の原因が分かって……それから大きく人生が変わったんだ。もっとも病院に行かなくても、僕の身体があのままなら、そのうち同じ道をたどることになったかもしれないけど。
冬という季節のせいかな。ちょっとアンニュイな気持ちになっていた。
時計に目をやる。うん。今ならまだ余裕がある。
「……ちょっと、行ってみようかな?」
☆☆☆
「うーん。変わってないなぁ」
駅に降り立った僕は、思わず声を漏らしてしまった。瑞穂市から電車を乗り換えること三回。隣の県にある山王市に着いた。隣の県と言ってもだいぶ今の場所からは離れているし、都会に出る路線とも別なので、来ようと思わない限り、もう来ることもなかっただろう土地だ。
僕はこの町で、小学五年生の二学期、おととしの夏から、去年の冬に入院するまでの一年ちょいを過ごした。短い期間だったけれど、思い出はいっぱいある。ちなみに、その前にいたのは九州だから、簡単に思い立っていけるようなところではない。
「……うぅぅ。やっぱり、寒い……」
駅を出た途端、冷たい木枯らしに晒される。
コートにマフラーに手袋に厚いズボン(パンツと呼ぶよりしっくりくる)という完全防寒に身を包んだとはいえ、寒いものは寒い。それでも寒さより懐かしさが勝って、僕はゆっくりと見覚えのある道のりを歩き始めた。
駅前も町並みも、一年前とほとんど変わっていなかった。
歩くこと十分ほどして、三階建ての集合住宅が見えてきた。僕とお父さんとお母さんが住んでいた社宅だ。その部屋の窓に見覚えのないカーテンが掛かっているのが見える。きっと今は違う人が入っているんだろう。お隣さんはまだいるかな。知り合いに挨拶したいところだけれど、今の僕ではそうはいかないので、外からそっと眺めただけで、マンションを後にした。
懐かしい道のりを歩きながら、次は通っていた小学校に向かった。
こちらも変わっていなかった。冬休み中なので閑散としている。校庭で遊んでいる子がちらほら見えるだけだった。その中には、小学生に見えない人も交じっていた。おそらく近所に住んでいる男子中学生だろう。二人組でテニスの練習をしていた。
なんとなく、ぽーん、ぽーんと跳ね回る玉を眺める。
しばらくして、一人が荷物をまとめて校門のところに止めてある自転車に乗って帰って行った。もう一人はしばらく壁打ちしていたけれど、飽きたのか同じように、止めてある自転車に向かっていく。
あれ? あの自転車って、どこかで見たような……
それにあの人……え? あっ、もしかして――
「隆太っ!」
僕は思わず大きな声で叫んでしまった。
声が届いたのか、自転車に乗りかけていた男の子が僕のほうを向いた。ずいぶん背が伸びて、縦にも横にも全体的に大きくなった感じだけど、一年前の面影が残っている。間違いない、前の小学校でよく遊んでいた坂田隆太だ。
「……もしかして、優希か?」
「うんっ」
分かってくれた。僕は大きくうなずいた。
それにしても隆太って、声変わりしたんだ。低い声に少しドキッとしてしまった。
「おぉ、久しぶりだな、いつ帰ってきたんだよ。こいつ。結局連絡もよこさねーで」
「ごめんごめん。ちょっと事情があって」
「ていうか、お前ずいぶん背が縮んだな」
「縮んだって……失礼なっ。隆太が大きくなっただけだよっ。僕だってこう見えて、ちゃんと背だって伸びているんだからね」
と隆太に食って掛かるけれど、小学生時代からもともとあった体格差はさらに広がっていて、あっさりといなされてしまう。
「それにしても、お前、髪もかなり長くなったし、なんか丸くなったってか……まるで女みてーだな」
「えっ――」
最初は隆太が何を言っているのか分からなかった。
女みたいって……あっ。
僕はいまさらながらに、二つのことに気づいた。
一つは、この町に来ても知り合いには会わないようにしようと決めていたのに、つい隆太に話しかけてしまったこと。
そしてもう一つは、隆太が僕のことをまだ男の子だと勘違いしていること。
隆太は僕が手術を受けて女の子として暮らしていることを知らない。ただ海外の学校に転校しただけだと思っているはずだ。
今の僕の格好は、完全防寒の重ね着にコート。下もスカートじゃない厚手のズボン。これだけ厚着をしていると、女の子特有の身体のラインは、ぱっと目分かり難いはず。それに加え、マフラーしているから、肩に掛かる髪の毛は隠れているし。
だから男の子だった僕を知っている人から見たら、まだ男の子に見えるのかもしれない。
(……どうしよう?)
このまま男の子のフリをして通すか、それとも隆太に正直に話すか。
隆太にだけなら……と一瞬思ったけど、騒がれないために転校したのに、それを話すのは本末転倒だ。もともと町を見歩くだけで知り合いに会うつもりはなかったんだし。
「悪かったね。もともと女顔だし、声変わりもまだだしっ」
結局、僕はすねて見せた。
隆太に悪い気がするけれど、このまま勘違いしたまま別れることにした。
「なぁ。まだ時間あるか? どこかに行かねーか?」
けれど簡単にはそうはいかなかった。なんてたって久しぶりの再会なんだから、こういう流れになるのは当たり前なわけで。
もちろん僕だって、もっと隆太と話したいこともある。
だから僕はうなずいて答えた。
「うん。いいよ。行こうよ」
大丈夫。
女の子になったときだって、男の子だって疑われなかったんだし、今回だって大丈夫だよね。
――って、それとはちょっと違うかな。
☆☆☆
隆太とやって来たのは駅前のショッピングセンター内にあるハンバーガーショップだった。同じセンター内にあるゲーセンでよく隆太と遊んだっけ。
ここに来るまで、隆太の自転車に乗せてもらった。つい足をそろえて横に座る女の子すわりしそうになって焦ったけれど、無事店まで来ることができた。
「それにしても、お前、自転車に乗っていたとき気づいたんだけど、いい匂いするよな……って、別に変な意味じゃねーぞっ」
「シャンプーの匂いだよ」
「だよな。てゆーか、店の中なんだから、コートとマフラーくらい脱げよ。暑いだろ」
「いいんだよ。僕は寒がりなんだから」
「そーいえば、去年も妙に厚着してたよなぁ。五年のころはふつーに短パンで学校に来てたのにな」
「はは。そうだっけ。それより、みんなは今どうしてるの?」
「そうそう。佐藤だけど、あいつは――」
二人してハンバーガーを食べることそっちのけに、今や昔の話で盛り上がった。まぁ、僕の今の話はそのまま言えないので、適当にうまくごまかしておいたけれど。
そんなこんなで盛り上がって、話がひと段落したところで僕は席を立った。
「ん? どうした」
「あ、僕ちょっと、トイレに……」
「あ、んじゃ、俺も行くわ」
「……え?」
僕が声を上げると、隆太は笑った。
「なんだよ。連れションしちゃまずいのか。それともまだ毛が生えてなくて恥ずいのか?」
隆太がお得意の下ネタを言う。うっ、まだなのは事実だけど――って、そうじゃなくって!
まずいに決まっている。毛云々以前の問題だ。隆太が一緒じゃ、女子トイレに入れない。だからって、男子トイレに入れるわけない。
「……い、いや。別に。そういうわけじゃ」
けれど僕はうまく断る口実が思い浮かばず、結局二人してトイレに向かった。以前の稔くんの件があるので、あまり我慢はしたくない。
トイレは店の隅っこにある。小さなお店だと入り口が一つで一人しか入れない男女共有になっているタイプもあるけれど、ここはショッピングセンターにあるごく普通のトイレだ。
二つの入り口。右が女子トイレで、左が男子トイレ。
後ろに隆太がつっかえている。
隆太の前で女子トイレに入るわけにはいかない。
(えーいっ。仕方ない)
僕は実に一年ぶりに、男子トイレに足を踏み入れた。
そこには、懐かしの小便器が二つ並んでいた。一年ぶりに見る光景は、街並み同様変わっていなかった。小学校のトイレに比べればずっと清潔で、女子トイレとさほど違いはない。他に利用者もいなくて、良かった。
隆太が小便器の一つに並ぶ。僕は入り口で戸惑ったままだ。
あそこに思いっきり体を寄せてズボンを下ろして……って、無理むりっ。
かといって、このまま僕の目の前で普通におしっこされても目のやり場に困る。
と視線をそらして僕は気付いた。
そうだ。小は大を兼ねるのだ。
「じゃあ、僕はこっちで……」
そう言って、そそくさと個室に入った。
「なんだ。うんこかよ。だから一人で来たがってたのか」
ドア越しに隆太が笑う。ひどい誤解で反論したいところだけれど、まぁ仕方ない。
ズボンと下着を下して便座に座り――そして、僕は女子トイレとの違いに気づいた。「おとひめさま」がないっ。そう言えば、中学校の女子トイレで見つけて驚いたんだっけ。今となっては、たまたま男子のときあるのに気付かなかっただけだろうと思っていたけれど、男子トイレには、本当に「おとひめさま」がなかったんだ。
えーい。仕方ない。隆太が聞き耳立てていないことを祈ろう。
音消しを気にするなんて、女の子みたいだ。なんて矛盾したことを考えながら、用を足して個室を出る。隆太の姿はなかった。良かった。ばれなかったみたい。
けれどほっとして手を洗っていたら、別の男性がトイレに入ってきた。
「あっ。ごめんなさい」
僕は思わず男性に謝ってしまい、背中に変な視線を感じつつ、慌てて男子トイレを飛び出た。変に見られたのは、女がなぜ男子トイレに、という意味ではなく、いきなり謝られたからだと思うことにして。
席に戻ると、先に戻っていた隆太に笑われた。
「長かったな。便秘か?」
「ノーコメント」
また変な誤解が生まれたけれど、とりあえず、ばれずに済んだようだ。
こうして、隆太に正体を隠し通したまま、僕たちは店を出た。
「それじゃ、またな」
「うん。じゃあね」
携帯電話はまだ持っていないと嘘をつき、隆太の連絡先だけを聞いた。このまま別れて僕が連絡をしない限り、もう隆太と会うことはない。女の子になったってことはばれず、普通の男友達として別れることができる。
けれど……
――本当にいいの?
そんな思いが頭によぎる。
「隆太っ」
気づいたら僕は、自転車を漕ぎかけようとしていた隆太を呼び止めていた。
「んだよ。どうした」
僕は意を決して、隆太に言った。
「あの、僕、本当に女の子になったんだ」
「はぁ?」
なに冗談言ってるんだ、って感じの視線が向けられる。そりゃそうだ。ある程度事情が知っているはずの建兄ちゃんに説明したときも、雪枝さんと絵梨姉ちゃんと三人がかりで長々と説明してやっと納得してもらったんだ。こうやって唐突に言っても信じてもらえるわけがない。
隆太はこの後用事があるみたいで、長々と説明している暇はない。
僕は髪の毛を覆うようにしていたマフラーを取った。肩にかかる髪の毛がふさっと揺れる。
「あー、そうか。髪の毛、女みたいにすげー伸ばしたのか」
けれど隆太の反応は薄い。確かにこれくらい髪の毛を伸ばしている男の人だって、いないわけじゃない。
女の子になった証拠って、保険証くらいかな。あいにく家に置いてあって手元にない。まさかここで服を脱ぐわけにもいかないし。うーん。――仕方ない。
僕は、戸惑っている隆太の、大きく太くなった手を取った。
そしてそれを無理やり引っ張って、僕の胸に押し当てた。
むにっ。
コートの上からだけど、たぶん分かってくれたと思う。
「お、おいっ」
隆太が慌てた様子で目の色を変えた。それを見て、僕は手を離した。
「ね? 分かったでしょ」
「あ、あぁ……って、ちょっと待てって」
隆太が時計を見ながら混乱している。時間が差し迫っているんだろう。
もっと詳しく話したいけれど、そうはいかないようだ。
「ねぇ、隆太、明日か明後日、開いてる?」
「明日なら……」
「それじゃ、明日の午後二時に、西部線の水穂駅に来て」
こっちだと隆太以外の人に見られてしまう可能性もある、そこで僕が女の子として暮らしている水穂市で会うことを提案した。
「僕、そこで待っているから。そのとき、詳しい説明をするよ」
「あ、あぁ」
「じゃあ、またね」
いまだ納得できていない様子の隆太に手を振って、僕は駅に向かった。
マフラーを取って風が冷たいはずなのに、ほとんど寒さを感じなかった。




