保育園
「優希ちゃん、少し日に焼けた?」
久しぶりに会った沙織先輩が、僕を見て微笑んだ。
「はい。友達と海に遊びに行ったりしたので」
「へぇ。楽しそうで良かったわね。けれどちゃんとお肌のお手入れしなくちゃダメよ」
「はい」
一応絵梨姉ちゃんに言われて日焼け止めを塗っているんだけど、たまに面倒くさくてそのまま外に遊びに行くことも多いからなぁ。沙織先輩はインドア派っぽいけれど、やっぱりちゃんとお肌の手入れしているんだろうなぁ。日焼けした様子もなく綺麗なままだ。
日焼けした様子がないと言ったら、岡本くんも真っ白なままだった。
「夏休み前半は、ずっと塾の夏期講習だったから」
聞くとそんな答えが返ってきた。
「うわぁ。大変だねー」
まだ夏休みの最中だけれど、今日は家庭科部の課外活動があるため、僕たちは学校に家庭科準備室(部室兼用)に集まっていた。夏休みはほとんど活動がないので、みんなとは久しぶりだ。
「あー。今日は、隣の保育園で園児たちの面倒を見てもらう。くれぐれも問題を起こさないよーに」
だるそうに言うのは、家庭科部顧問の野上先生。あんまり部活に出てこない先生なんだけど課外授業だからか、今日は珍しくいる。ずぼらというか男っぽい人で家庭科とは無縁っぽいんだけど、手先が器用で裁縫が上手いのだから面白い。
ここ水穂中学校のすぐ隣には保育園がある。付属とかまったく関係ない市立の保育園だ。中学校は夏休みだけれど、保育園は共働きの両親が子供を預ける施設だけに、夏休み関係なく開いている。
そこで一日園児たちの世話をするのが、今回の課外授業。いわゆるボランティアだ。
「大丈夫かな……ぁ」
僕は一人っ子で、年の近い親戚も、建兄ちゃんと絵梨姉ちゃんだけ。小学校高学年のとき、小学年の児童の世話をしたことあるけれど、小学生より小さい子は初めて。楽しみだけれど、ちょっと不安。
「あら。優希ちゃんならきっとみんなに懐かれるわよ」
そんな僕を見て、沙織先輩が微笑みながら言った。
☆☆☆
「ねーねー、ゆうきおねえちゃんっ」
懐かれました。
お、おねえちゃん……っ。
女の子になって、妹扱いされることはあったけれど、お姉ちゃんと呼ばれるのは、生まれて初めてのことだった。お兄ちゃんと呼ばれることを密かに憧れていたんだけど、まさかお姉ちゃんと呼ばれる日が来ようとは。
僕をそう呼ぶのは、西口芙美ちゃん。三歳。さらさらの髪の毛が綺麗な天使の輪っかを作っている。
「ほら。僕とばっかり遊んでいないで、あっちのお兄ちゃんとも遊ぼうね」
「やだ。ぼく、ゆうきおねえちゃんがいいの」
芙美ちゃんの言葉に、僕は思わず感動してしまう。ううっ。いい子だぁ。
ちなみに「ぼく」って言っているけれど、芙美ちゃんはれっきとした女の子。僕が自己紹介したときに食いついてきて、今は僕の真似をして、即席僕っ子を楽しんでいるみたい。
「優希ちゃんは小さいから、みんなが親しみやすいのかもしれないわね」
芙美ちゃん以外にもたくさんの園児たちに囲まれながら制服のスカートや手を引っ張られる僕を見て、絵本を読み聞かせていた沙織先輩が、微笑ましそうに言った。
いやいや。いくら小さいといっても、保育園児よりはずっと大きいですから。
「……子供は苦手だ。行動予測ができない……」
向こうでは岡本くんがぼろぼろになりながらうめいている。岡本くんにもなんだかんだで、男の園児たちが群がっていた。うん。文字通り群がるって感じで、髪の毛や服を引っ張られ、メガネも取られかけて、必死に死守している状況だ。そういえば、岡本くんのメガネを取ったところ見たことないんだけど、どんな感じなのかな。
園児の群がる姿を見て、ふと思う。僕が小さいから親しみやすいと思われたのなら、岡本くんは――
「きっと、『勝てそう』って思われているんだね」
「ふふふ。そうかもね」
僕と沙織先輩は顔を合わせて笑った。
「ちょっといいかしら?」
園児たちがお昼寝タイムに入り、僕も隣で添い寝してそのまま眠りそうになったけれど、なんとか耐えて、別の部屋で休憩中、沙織先輩と紅茶を飲みながら談笑していると、保育園の先生に呼ばれた。僕たちがお世話をしていた、チューリップ組の岸先生だったかな。
「え? 僕ですか」
そう聞き返すと、岸先生は少し顔をしかめてうなずいた。何の用だろう。僕は廊下に呼び出された。
「……あの、僕何かまずいことしました?」
先生の雰囲気からして、あまりいい話ではないことは理解できた。小さな園児たちが相手だから特に気を付けたつもりだったけど、何か失敗していたのだろうか。
そんな僕の言葉に、岸先生はますます不快な表情を見せて口を開いた。
「あなた、女の子なのに、自分のこと『僕』って言うのね」
「え?」
「困るのよねー。園児たちが面白がって真似しちゃって。園児のご両親から『娘が急に、男の子みたいに、僕って言い始めた。お宅の教育はどうなっているんだっ?』ってクレームが来たらどうしてくれるの?」
「あ、あの……」
「いい迷惑だわ。あなたも自分で言っていて気持ち悪くないの? キャラづくりでもしているつもり?」
…………
言葉が出なかった。
確かに、「僕」という女の子なんて、周りで見たこともない。けれど、みんなが僕のことを温かく受け入れてくれるから、自分が変だという自覚もなかった。みんなに甘えていたのかもしれない。
「まったく、あなたのご両親はどういう教育をしてきたのかしら……」
けれど、悪いのは僕であって、お父さんやお母さん、みんなは悪くない。それなのに……
いろいろな感情が頭の中に溢れる。瞳の奥が熱く滲んでくるのが分かった。
そのとき、急に背後の扉が、ばんと音を立てて開いた。
「優希ちゃんの事情も考えず、勝手なこと言わないでくださいっ!」
沙織先輩だった。普段聞いたこともないほどの大声に、出かかっていた涙が止まったくらいだ。
「あ、あなた何なの。急に出てきて、そんな大声出して……」
「失礼しました。そこの栗山優希の先輩で、家庭科部の部長の炭谷です。彼女がどういう人間か知らずに、人格や、その家族を否定するような発言は、言い過ぎです」
岸先生との会話を、部屋の中にいた沙織先輩に聞かれてしまったのだろう。沙織先輩は、声の音量は落としつつも、強い口調で続ける。
けれど岸先生も引く様子を見せない。
「それが何よ。私は事実を言ったまで。園児たちに影響が出たら、どう責任をとってもらえるのかしら。あなたのような人が部長だと、今後水穂中学校との交流も考えなくてはいけないわね」
「それならそれで仕方ないですね。こちらにも選ぶ権利がありますから。それでは。失礼しますっ」
沙織先輩はそれだけ言うと、僕の手を引っ張って、休憩室に戻らず廊下を歩きだした。すたすたとお遊戯室を通り抜けて、玄関の下駄箱まで来たところで、ぴたりと足を止めた。
「……沙織先輩?」
僕が不審に思って、沙織先輩の顔をのぞき込んだ。
「ど、どうしよう……わ、私ったら……ついあんなことを」
その顔には、先ほどまでの勢いは全く見られず、今にも泣き出しそうに歪んでいた。一時に興奮から覚め、我に返ったのだろう。
「沙織先輩……」
「ごめんなさい……優希ちゃんにも迷惑をかけちゃって」
保育園に来る前、野上先生から問題を起こさないように、と言われていたのに、僕だけの問題が、学校と園の問題に発展してしまった。僕が素直に謝っておけばよかったのに、沙織先輩が売り言葉に買い言葉のような対応をしてしまったためこじれてしまった。
けれど――
「あ、あのっ、そんなことないです。僕、悔しいやら情けないやらでどうしていいか分からなくて、そんなとき沙織先輩ががつんと言ってくれて、とても嬉しかったですっ」
「で、でも……」
僕はうろたえる沙織先輩を抱きしめた。肩がふるえているのが分かる。それが僕まで伝わって来た途端、いったん治まった涙腺が一気に緩くなってきた。
「うっ……うぅ……」
気づくと、抱きしめていたはずの僕が逆に沙織先輩に抱きしめられていた。僕は沙織先輩の胸の中で、おえつ声をあげながら、涙を流した。
「ごほん」
どれくらい経っただろうか。
不意に背後から咳払いが聞こえた。僕を抱きしめる沙織先輩の腕の力が弱まる。振り向くと、気まずそうに岡本くんが立っていた。
僕はあわてて涙を拭った。沙織先輩と抱き合って泣いている姿を見られるなんて、気まずすぎる。
「えっと、その、これは……」
なんて説明すればいいのやら、見当つかない。
その一方で、こんな時に岡本くんはさっきまで何やっていたのだろうと、自分勝手な思いが頭によぎる。
そんな僕の気持ちを感じ取ったのか、岡本くんが説明した。
「悪いと思ったけれど、大体の事情は聞こえてきたから。それで、外でたばこを吸っていた野上先生に伝えて、保育園側と話し合ってもらうようお願いしてきた。こういうのは生徒がどうこう言うより、大人に任せた方がいいと思ったから」
「あ、ありがとう」
僕はばつの悪さを感じつつ、岡本くんにお礼を言った。隣の沙織先輩も、泣き腫らして赤くなった目を擦りながら、微笑んだ。
「本当にありがとう。さすが耕一郎くんね。私が頼りないから、本当に助かるわ」
「い、いや。別に僕は……」
急にしどろもどろになる岡本くん。
不謹慎だけど、今回の一件は岡本くんにとって、沙織先輩へのいいアピールになったかな、なんて思った。
まだ何も解決していないけれど。
そんなことを考えることが出来るくらい、気が楽になってきたのかな。
野上先生と保育園側でどういう話が交わされたかは分からない。けれど、結果的には園長先生と岸先生から謝罪され、今後も遊びに来て欲しいと言われた。
僕と沙織先輩もそれぞれ、不注意だったこと、感情的になってしまったことを謝罪し、この件は終了した。
もやもやは残ったけれど、お昼寝中の園児たちに影響がなかったのが、せめてもの幸いだった。
課外授業も終わり、園児たちとの別れの際、僕は芙美ちゃんに告げた。
「いい? 芙美ちゃん。芙美ちゃんは女の子なんだから、僕って言っちゃだめだよ」
「ゆうきおねえちゃんは、おんなのこじゃないの?」
「僕は僕だからいいの」
自分でもわけ分からない説明だったけれど、子供心に何か感じたのかな。
「――うん。わかった」
芙美ちゃんは素直にうなずいてくれた。
☆☆☆
「で、栗山は、今後どうするんだ?」
保育園を出て学校に戻る道すがら、不意に野上先生が僕に言った。
「え?」
「自分のこと。どうやって呼ぶのか」
確かに、また似たような問題が起こるかもしれない。口には出さないけれど、僕という呼称を快く思っていない人がいるかもしれない。けれど……
「えっと……僕は」
と自然に口に出て、思わず頬が緩んでしまった。
「もうしばらく、『僕』でいこうかと思います」
「そうか」
「ただ、初対面の人や公式な場とか、TOPも考えて、『私』も使っていこうかと」
「そうだな」
野上先生は、いいとも悪いとも言わず、ただうなずくだけだった。
後ろからぽつりと、「それを言うならTPO」と言う岡本くんのツッコミが耳に入ったけれど、それは聞こえないふりをした。
急に変えたりしたら、みんな変に思うかもしれないし。「僕」をやめるということは、男の子だったころの自分を否定するような気がして。
けど、いつかきっと。女性として生きるからには、私って言わなくちゃいけない日が来ると思う。
それまでは、まだ……
――とそれはさておき。
僕は歩くペースを緩め、後ろを歩く沙織先輩に、こっそりと気になることを聞いた。
「あの。さっき、保育園の岸先生に、事情も考えないで、って言いましたけど」
「え? うん」
「……その、もしかして炭谷さ――沙絵さんから、僕のことを何か聞いているんですか?」
「あ、ごめんなさい。何となく事情があるのかなって勝手に思っちゃっただけなのだけど……。あれ? お姉ちゃんに関係あることなの?」
――しまったぁぁ。やぶへびだった!
僕は慌てて手を振った。
「い、いえっ。大丈夫ですっ。関係ないですから!」
きょとんと首をかしげる沙織先輩を見ながらふと思った。
こっちの方も、いつか話さなくちゃいけない日が来るのかな――って。
そろそろツッコミが欲しいと思う今日この頃だったりします^^




