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水入らず


 ぴぴぴぴぴ……

 聞きなれない電子音を耳にしながら、僕は目を開けた。

 見慣れない天井が目に入った。ベッドもいつもよりフカフカして大きいような。……あれ? ここどこだっけ……

 隣のベッドからで、ゴーといういびきが聞こえた。それでようやく、僕はどこにいるのか分かった。――そうだ。今はホテルにいるんだっけ。

 僕はゆっくりと身を起して左のベッドに目をやった。そこにはいびきの元――お父さんが布団を大きく蹴とばした状態で寝ていた。思わず頬が緩んでしまった。そういえば、お父さんと一緒の部屋で寝たのっていつ以来だろう。

 反対側のベッドに目をやる。綺麗に整えられていてお母さんの姿は見えなかった。代わりに奥の方から物音がした。

 僕はお父さんを起こさないようにそっとベッドから抜け出して、そっちに行った。

「お母さん。おはよう」

 お母さんは、ソファに座って朝日が差し込む外の風景を見ながら、コーヒーを飲んでいた。僕に気づいたお母さんが、日焼けした顔を向ける。

「おはよう。優希。もう少しゆっくり寝ていればいいのに」

「お父さんがうるさくて起きちゃった」

「……確かに、慣れないわね」

 僕たちは顔を合わせて、苦笑いした。


 地球の裏でも夏休み。長期休暇を利用して約四か月ぶりにお父さんとお母さんが日本に帰ってきた。昨日、僕は二人を空港で出迎えて、そのまま家族三人で、近くのホテルに一泊したのだ。

 秋山家に寄ることもできたけれど、何日もお世話になるわけにはいかないと、日本滞在中はなるべく外で泊まることにしたみたい。宏和おじさんと雪枝さんは「気にすることないのに」と言ってくれたけど、久しぶりに家族三人で水入らずの時間を過ごすことができて嬉しかった。

 朝日を浴びながら、お母さんはコーヒーを、僕は昨夜自販機で買ったスポーツ飲料を飲みつつ、昨日だけでは語りつくせなかったお互いの近況を話した。こうやってお母さんと二人でいっぱいお喋りするのって、いつ以来だろう。少なくとも、僕が女の子になってからはなかった気がする。

 そんなことを考えていると、お母さんも同じことを思ったのか、不意に話題を変えた。

「やっぱり、姉さんの言う通りだったわね」

「え?」

 お母さんが言う「姉さん」とは、僕がお世話になっている雪枝さんのことだ。

「しばらく優希と離れた方がいい、って話」

「あ、ああ」

 僕はうなずいた。

 お母さんは、僕が女の子になったという事実をなかなか受け入れられなかった。僕の性転換手術直後は、精神的にも不安定な所があったみたい。そのため僕は一人親戚の家に預けられて、お母さんは海外転勤となったお父さんと一緒に付いていくという形で、距離を取ることになった。

「最初は優希を一人置いて海外に行くのに抵抗あったけれど、向こうはとにかく大変で、いい意味で優希のことを忘れさせてくれたわ」

 お母さんの日焼けした肌(海水浴場でも鉄壁ガードだったのに)を見るだけでも、向こうの生活が大変なんだなと伝わってくる。

「そんな日々を過ごしているうちに、ちょくちょく優希から、メールや電話、友達と一緒に遊んでいる画像が送られてきて……」

 うん。いっぱい送った。制服姿に浴衣姿。僕だけじゃなくて夢月ちゃんたちや沙織先輩の写真も。電話もいっぱいした。向こうとこっちじゃ時差があるけど、メールだけじゃ物足りなかったから。声を聴きたかったから。

「忙しいからって、そっけない返事をすることもあったけれど、本当はとても心の支えになったわ。そのうち、優希の連絡を心待ちにするようになって、気づいたらいつの間にか、『日本に一人残している一人“娘”に会いたい』って、自然に思えるようになったの」

「お母さん……」

 思わずうるっと来た僕に向けて、お母さんが意地悪く笑って言う。

「というわけで、これからはビシバシ、娘として指導していくから覚悟してね」

「ううっ……それは遠慮したいな……ぁ」

 男の子のときでも厳しかったのに、女性の先輩としての指導も加わるとなると……かなり大変そうだ。

「さ、そろそろお父さんを起こしてきて。疲れているだろうけど、せっかく優希が傍にいるのだし、寝るのは向こうでもできるのだから」

「うん」

 僕は席を立ってベッドに戻った。お父さんのいびきは止まっていて、熟睡モードに入っているっぽかったけど、お母さんに言われたので、そっと声をかけた。

「お父さん。朝だよー」

 軽く肩をゆすりながら、耳元に声をかける。

「んっ……うぅ……ん? あれ、なんで目の前に優希がいるんだ……?」

 お父さんが寝ぼけ眼のまま呟いた。

「そうか。夢か」

「夢じゃないって」

 僕が顔を近づけてもう一度言おうとしたら、不意にお父さんの手が布団から伸びてきて、肩を掴まれた。

「えっ? うわぁっ」

 そのままぐいっと布団に引き込まれ、まるで抱き枕のように抱きつかれてしまった。

「うーむ。夢のなのに柔らかくてしっとりしているな」

「痛い痛い。ひげがぶつぶつ~~っ」

 寝ぼけたお父さんに頬ずりされる。力が強くて抜け出せない。

「なにやってるの!」

 ドタバタに気づいたお母さんがやってきて、隣の部屋まで響きそうな声で一喝した。それでようやくお父さんが目を覚まして、僕は無事解放された。

「そうか。ここは日本だっけ」

「もう。女の子の肌は敏感なんだから、無精ひげを生やした顔で頬ずりしない! 優希も優希よ。父親とはいえ、異性なのだから、無防備に抱きつかれたりしないっ」

「は、はい」

 お母さんに一喝され、朝っぱらからしゅんとする僕とお父さん。

 って、そういえば、昔から僕とお父さんで悪ノリして、二人してお母さんによく叱られていたっけ。

 思い出して思わず顔が綻んでしまった。隣のお父さんも同じことを思っていたみたいで、顔を合わせて笑ってしまった。

 ――もっとも、それがまたお母さんの癇に障ったみたいで、「顔を洗ってきなさい!」と洗面所に追い出されちゃったけど。


 ホテルの洗面所はトイレとお風呂が隣接したユニットバス。二人だとちょっと狭い空間で、僕は髪の毛を梳いて、お父さんは隣で髭をそっている。

「それにしても。もう本当に女の子なんだな」

「ん?」

「男の子だったら、髭の効率の良い剃り方とか、色々教えてあげられたんだが……」

 お父さんは泡だらけの顔を僕に向けて、感慨深げに言った。

 僕の肩に乗るまで伸びた髪の毛や、オレンジのパジャマをそれなりに押し上げる胸元に目をやるお父さんの表情は、いやらしいものではなく、むしろ……

「もしかして……寂しいっていうか、後悔してる?」

 手術を迫られたとき、子宮と卵巣を取り除いて男の子として生きる選択もあった。精巣はないから子供は作れないけれど、男性ホルモンを投与し続ければ、普通の男の子みたいに背も伸びて、男の子として生活もできたはず。

 けど女性として生きる道を選んだのは、僕自身だった。

「いや。息子から娘に変わっただけで、俺と春の子には違いないし、むしろ可愛い娘が出来て、男だったときよりも嬉しいというか……って『よりも』と言うのもなんだが……」

 お父さんが頭をかく。

 娘がいいと言えば、息子だった僕の過去を否定している感じにも取れちゃうし、『男の子だったら……』と言ったら、今の僕を否定しているようにも取れてしまう。そんなお父さんの苦悩が伝わってきた。

 どのみち、一つしか選べなかった道なのだ。だから僕は、今の自分を精いっぱい楽しんで後悔はしない。そうすれば、お父さんとお母さんも、気持ちが少しでも楽になってくれるかな、って思う。

「お父さん」

「ん、なんだ」

「着替えるから、いいっていうまで、ここから出ちゃだめだよ」

 僕は、“娘”っぽく笑って言って、洗面所から出た。


 部屋に戻った僕は、持ってきたバックの中から、あずき色のキャミソールと、チェックのミニスカートを取り出した。キャミソールはブラ付なので、そのまま着て大丈夫なやつだ。肩紐気にしなくていいし楽で、夏の強い味方だ。

 お母さんが見ている中、パジャマを脱いで上半身裸になるのは恥ずかしかったけど、背中を向けて、ぱぱぱとキャミソールを着込む。

「……ちょっと露出が大きいんじゃないかしら?」

 服の位置を直していると、お母さんが顔を少ししかめて言った。

 確かに肩と腕はむき出しになっちゃうけど、胸の谷間が出ちゃうほどではない(そもそもそんなに大きくないし)から問題ないと思うけど。

「そうかな?」

 僕は呟きながら、胸元を手でつかんで開けてみたら、「人前でそういうことはしないっ」とお母さんにまたまた叱られてしまった。

 そういえば、以前は胸の形が服の上から出てしまうだけでも恥ずかしかったけれど、最近はようやく慣れてきたのか、身体のラインが出ちゃう薄着でもあまり気にしなくなってきた。まぁ、どのみち着替えはこれしか持ってきていないので、お母さんの苦言はスルーして、スカートを穿く。

 キャミソールにやや短めのスカート。シンプルだけれど夏らしくて女の子っぽい服装かなと思う。

「送られてくる画像見ながら思っていたけれど、優希って、背が低い割にはスカートが似合う綺麗な足をしているのよね」

「あ、ありがとう……」

 背が低い、は余計だけど。

「……まったく、若いって羨ましいわ」

 なんか嫉妬がこもった口調に感じるのは気のせいだよね?

「えっと、お父さん呼んでくるねっ」

 僕はさささっと、お母さんから逃げ出した。

 よそよそしい関係よりはずっといいけれど、お母さんに嫉妬されるのは大変だ。これはこれで新鮮だけど。

「お父さん。もういいよー」

 僕が声をかけると、すぐに扉が開いてお父さんが飛び出してきた。

「おお。本当に女の子だな」

「お父さん。それ、二回目」

 僕は笑う。そういう言葉が出ること自体、男の子だったときのことを忘れられていない証拠だけれど、特に気にしない。それにお父さんの喜んでいる感じが伝わって来るし、女の子っぽいと言われて悪い気もしない。

「それにしても優希が、女の子になるのがこの時期で本当に良かったよ」

 お父さんがしみじみと言った。

「どうして?」

「優希がもう少し成長した年齢で女の子になっていたら、急に『くそ親父、マジでウザいんですけど』って言われるんじゃないかなって……」

「はは……」

 想像して涙目になっているお父さんを見て、僕は思わず笑ってしまった。

 僕にも反抗期って来るのかなぁ。

 今はまだ分からないけどね。


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