炭谷さん 1
「そうそう。その調子。水をあまり入れ過ぎないようにね」
「はっ、はい……」
フライパンに蓋をして、待つことしばし。ガラスの蓋の先に、ようやくまともな形の目玉焼きが出来てきた。
今日は家庭科部の調理実習の日。調理部がほかにあるので、家庭科部が調理実習室を使える機会はあまりなく、今日が二回目。献立は卵料理だ。
沙織先輩の作る卵焼きを見て、普通に食べていたふっくら卵焼きでも、あんなに手間をかけて作られていることを初めて知った。
僕はというと目玉焼きに挑戦。何度か失敗してスクランブルエッグ(焦げ付き)になってしまったけれど、ようやくまともなのが作れて感無量だ。まったく、目玉「焼き」なのに、水を入れて蒸すなんて、普通じゃ思いつかないよ。
沙織先輩の作っただし入り卵焼き、岡本くんの作ったプレーンオムレツ、僕の作った目玉焼き(とスクランブルエッグ)、そしてみんなで作った茶わん蒸しと見事に卵料理が並んだ。
それを眺めながら、沙織先輩が困った表情を見せた。
「もう少し献立を考えればよかったわね」
「大丈夫。僕が全部食べるから」
確かに偏った献立だけれど、沙織先輩の困った表情が見たくなので、僕がそう言うと、感極まった沙織先輩に抱き付かれた。
「あぁもぉ。優希ちゃん。いい子なんだから」
胸を含めた柔らかな感触と髪の毛の香りが、僕を包み込む。思わず僕は顔を赤くしてしまう。女の子同士なんだから問題ないはずなんだけど、こういうのには、まだ慣れない。
そんな僕に救い船、というか咳ばらいが向けられた。
「そろそろ、食べ始めませんか?」
家庭科部のもう一人の一年生、岡本くんだ。
なぜかちょっと不機嫌そう。料理を前にお預け状態だからかな。お腹空いているのかもしれない。
「そうね。それじゃいただきましょうか」
沙織先輩は、そんな岡本くんの態度を特に気にした様子もなく、僕を解放して言った。
こうして家庭科部員三人での食事が始まった。
うーんっ。卵焼きのだしが絶妙で、涙が出そうなほどおいしい。
「はい。優希ちゃん。あーん」
「あーん」
沙織先輩はすっかりお姉さん気取りだ。そして僕も妹気取りだったりする。
僕にとっては、絵梨姉ちゃんもお姉さんみたいな存在だけど、男の子のときからお互い知っているので、今でも弟みたいな扱いだ。だから、妹気分を味わうというのはこれはこれで新鮮で、僕もついつい甘えたくなっちゃうのだ。
「優希ちゃん。明日の放課後、時間開いているかしら?」
「はい。大丈夫です」
明日は部活の日じゃないけど、部活あるのかな?
「良かった。それじゃあ、家に遊びに来ない? ちょうどお姉ちゃんも非番で家にいるから、優希ちゃんを紹介したいの」
「うげっ」
思わず変な声が漏れてしまった。
「……うげ?」
沙織先輩が可愛らしく小首をかしげた。
「なにか不都合でもあるのかな?」
そんな僕の様子を見て岡本くんが言った。うっ、鋭い。
「い、いや。お姉さんってどんな人なのかなって」
僕は慌てて誤魔化した。
沙織先輩のフルネームは炭谷沙織。
炭谷という苗字を聞くと、どうしても僕が性転換の手術で入院しているときお世話になった看護婦さんが思い浮かんでしまう。親戚以外では、僕が小学生まで男だったという秘密を知っている、数少ない人物のひとりだ。
もちろん、赤の他人って可能性もあるんだけど、炭谷という苗字はそれなりに珍しいし、沙織先輩のお姉さんは二十代半ばで、市内の病院に勤務していると聞いている。条件としてはぴったりだ。
せっかく女の子としての生活に慣れてきたのに、下手したら沙織先輩や岡本くんに、昔のことがばれてしまうかもしれない。
「そういえば、あまり優希ちゃんには、お姉ちゃんのこと話していなかったかしら」
はい。うまく僕が話題を避けていたので。
携帯電話は中学には持ち込み禁止だからと、沙織先輩はプリクラのシールを取り出して僕に見せてくれた。デコレーションが少ないシンプルなシールに写るのは沙織先輩と――
「き、きれいな人ですね……」
「ええ。そうでしょ」
それは間違いなく、僕が病院でお世話になった炭谷さんだった。
☆☆☆
家にある受話器に耳を当てて呼び出し音を聞きながら、僕は気持ちを落ち着けるように息を吐いた。
部活が終わって家に戻った僕は迷った末、顔を合わせるより先に、炭谷さんに連絡をとることにした。
いきなり顔を合わせたら、驚かれて昔の話題が出て、ばれてしまうかもしれない。だったら先に直接話して、うまく口裏合わせしておけばいいのだ。
炭谷さんの携帯は知らないけれど、勤務先の病院は僕が入院していたところなので、調べればすぐに分かった。
「はい。水穂総合病院、担当の山川がお受けいたします」
電話に出たのは聞き覚えのない声の女性だった。受付専用の係の人だろうか。そう運よく炭谷さんが出てくれるわけはなかった。
「あの、今年の二月から一か月半くらい入院していた栗山といいますが、そのとき担当してくれた看護師の炭谷さんはいらっしゃいますでしょうか」
慣れない言葉遣いに気を付けながら告げると、しばらく時間をおいて返答があった。
「すみません。炭谷は本日と明日、非番となっております」
明日はともかく、今日も休みだったんだ。
「あの、連絡先は……」
「申し訳ございませんが、個人情報ですので」
ですよね。
上本先生に連絡を取ってもらう手も考えたけれど、手術中で忙しかったら悪いしので、結局僕は、また今度電話しますと言って、受話器を置いた。
先に連絡とる方法は失敗だ。となると最後の手段は……
「気合で生理になって、明日学校を休むしかないっ」
もちろん、そんなことできなかったのは言うまでもない。
☆☆☆
「お姉ちゃん、ちょっと外に出ているみたいなの。すぐ帰ってくると思うけど。ごめんなさいね」
翌日。結局病気になることもうまく断ることもできず、僕は沙織先輩の家まで連れてこられてしまった。
沙織先輩のお家は、駅から徒歩数分圏内の高層マンションの一室だった。当たり前だけど、沙織先輩も同じ中学に通っているわけだから、家は学校から、つまり僕の家からも近くにあった。
ということは炭谷さんと顔を合わせる可能性も十分あったわけだ。いや、まぁ一人で歩いているとき再会するのはむしろ嬉しいんだけどね。
「耕一郎くんも来てくれるとは思わなかったわ。今日は部活じゃないから別にいいのに。忙しくなかったの?」
僕たちを部屋に案内しながら沙織先輩が言った。僕たち、というように、岡本くんも一緒に付いてきている。いつもの部活のメンバーだ。
「別に……久しぶりに沙絵さんにも会いたいしね」
「そっかぁ。お姉ちゃんも喜ぶよ」
沙絵さんというのが炭谷さんの名前らしい。初めて知った。
「今、お茶用意してくるから。適当に座って、ちょっと待っててね」
沙織先輩が部屋を出て行った。僕はそっと息を吐きながら、もこもこしたクッションの上に、男子の岡本くんがいるので、いつもよりスカートの位置を気を付けながら座った。
先輩の部屋は予想通りというか、ファンシーなお部屋だった。ぬいぐるみとかクッションとかたくさんあるけれど、手作りなのかな。
そんな部屋に、いつも冷静な岡本くんもどこか落ち着かない様子。従姉とはいえ女の子の部屋だもんね。うん。その気持ちはよく分かる。夢月ちゃんたちと遊んで少しだけ経験を積んだ僕でも、まだ慣れないもん。
それにしても、なんで岡本くんまで来てしまったのだろう。まだ沙織先輩だけなら、上手く誤魔化して口止めできたかもしれないけれど、同じ班でクラスメイトで、しかも頭のいい岡本くんに知られてしまったら、それこそクラス中に話が広まってしまうかもしれないのに。
「えっと……岡本くん、塾はいいの?」
確か、家庭科部に入部した理由は、塾があるから活動時間が少なく幽霊部員でも構わないと沙織さんに言われたから、って言っていたのに、これまで、僕が知る限りでは、岡本くんの部活出席率は100パーセントだ。
「大丈夫。基本、部活の日は塾がないし」
「でも今日は部活の日じゃないし……塾があったんじゃ……?」
「一日くらい休んでも問題ないから」
僕の方に問題があるんだけど。
ていうか休んでも問題ないのなら、なんで家庭科部にしたんだろう。
「そういう栗山さんこそ、何か用事があったんじゃないかな。さっきからあまり気乗りしない様子だけれど」
「うっ」
やばい。勘付かれていた?
と、とにかく。話題を変えないと。
「そ、そういう岡本くこそ、部活じゃない日まで一緒に付いてくるなんて。もしかして、僕のことが好きだったりして?」
「……っ」
と僕が冗談交じりに言った途端、岡本くんの顔色が変わった。
え?
マジで。
長くなるので2話に分けました。
次回はなるべく早めに更新する予定です。




