第2話
噂を聞いた週の、土曜日の午後。
喫茶店から少し離れた場所で、沙紀は立ち竦んでいた。
店に入るときはいつも緊張するのだが、いま躊躇しているのはまた別の理由だ。
「…女の子がいっぱい」
裕哉の姉とマスターが経営する "calm" という店は、本来ゆったりとした空気の流れる穏やかな場所である。だからこそ、客の年齢層はそれほど若くはない。
一人で来店し、コーヒーと共に読書する人。知り合いと来て、美味しいケーキと静かな空間での会話を楽しむ人。マスターのコーヒーを飲むために通う人。息抜きのための空間として利用している人。
誰も彼も、この店の空気を好んで常連となっているようだ。
そんな店が、今は噂を聞きつけて来たらしい少女達によってとても賑やかなものになっていた。
きゃあきゃあと騒ぐ甲高い声が、外にまで聞こえてきている。
沙希だって、数日前に友人達とした会話を忘れていたわけじゃなかった。
授業連絡に行く直前にした話は頭からすっかり消えていようとも、その前に聞いた噂の内容を覚えてはいたのだ。
ただ、今の今まで思い出さなかっただけで。
「でも、先週はこんなことなかったのに」
先週の土曜日は、いつもと何も変わらなかった。
ケーキセットを頼み、裕哉の働いている姿を眺め、時折会話する。
客層も裕哉も違う様子はなかったし、あのとき食べたザッハトルテはとても美味しかった。
そうして、幸せな週末は過ぎたはずだ。
週が明け、件の噂を真由美から聞いたのが木曜日。そして土曜日の今日。
沙希が知るより前に噂はだいぶ出回っていたようだが、一週間足らずの激変に驚くしかない。
「入りづらいなぁ」
ガラス窓から見える店内は、少女達の華やかな姿で溢れていた。
端の方に常連の客達がいるが、彼らもどこか居心地悪そうにしている。
裕哉の姉が、困ったような顔で少女達に対応しているのが見えた。
裕哉の姿は見えない。今日は休みなのだろうか。
よく考えてみると、接客業なのだ。今までバレていなかった方が不思議である。
普段の裕哉が厨房に籠もって店内に出てこないことを知らない沙希は、納得したように一人頷いた。
…噂を確かめたいのは分かるが、もう少し考えて店に来れば良いのに。
いくら客だと言っても、あんなふうに来られたら三崎君だって困るだろうに。
ぼんやりとそんなことを考えていた沙希は、あれ、と首を傾げた。
少女達がこの店に集まったのは、裕哉が働いているという噂のせいである。
その行動の理由は簡単だ。
三崎君と話したい、仲良くなりたい。
そしてそれは、沙希も同じである。年季が違えど、彼女達も沙希も目的は一緒なのだ。
ということは、沙希が今感じたことを沙希も他の人に思われていた可能性はあった。人は悪気はなくとも他人に迷惑をかけてしまうことがあり、大体にしてその事実にすぐには気付けないものである。
淡い恋心から今まで喫茶店通いを続けていたが、それが自分で思っていたより周囲に迷惑をかけていたかもしれないという考えに行き着いて、沙希は僅かによろめいた。
色々とショックだ。鬱陶しいとか邪魔だとか思われていたらどうしよう。
自分の想像に打ちのめされている沙希だが、それはただの勘違いである。
確かに沙希の存在は密かに注目を集めていたが、それは微笑ましいといった感覚であって決して迷惑とは思われていたわけではない。
つまり沙希の考えは的外れなのだが、ここにはそれを指摘してくれる人は残念ながらいなかった。
「帰ろ…」
新事実に気付いてしまった今、大人数が押しかけているあの店に入ろうという気力は湧かないし、このままいても怪しい人である。
くるりと踵を返し、沙希は店の中に入ることなくその場を後にした。
そして彼女は、しばらくは店に来ないようにしようと心に決めたのだった。