第10話
教室に入ってきたのは裕哉だった。
どことなく緊張したような面持ちで、絶句する沙希に笑いかける。
「久し振り」
「あ、うん…」
勢いで立ち上がりかけていた沙希は、中途半端な体勢のまま頷いた。その後、はっと我に返って姿勢を正す。
「ひ、久しぶり、三崎君」
二ヶ月半振りに間近で見た裕哉に、体温が急上昇する。裕哉の顔が見られなくて、赤くなった顔を隠すように慌てて俯いた。
久し振りすぎて、どんな顔をすれば良いのか分からない。三ヶ月ほど前までの自分は、どんな顔をしてどんな話を裕哉としていただろうか。最近は遠目でしか見ていなかったから、至近距離での姿にどきどきする。
自分のことでいっぱいいっぱいの沙希は、目を逸らされてしまった裕哉が少し悲しげな顔をしたのに気付かなかった。
しばらく沈黙が続いたが、何か言わなきゃと沙希が焦っていると裕哉が口を開いた。
困ったように頭を掻く。
「あー…。急に来て、ごめん」
裕哉が話しかけてきてくれたことにほっとしながら、沙希は首を横に振った。
「あ、ううん。どうせ人が来なくて暇だったから」
「そっか…」
「うん」
「…」
「…」
沈黙が再び流れる。
沙希の視線もまた下がりかけていたが、突然はっとしたように顔を上げた。
「クッキー!」
いきなりの大声に、裕哉が目を瞬かせた。
「え、は? クッキー?」
反射で手に持っているサブバックを漁りかけた裕哉だったが、残念ながら今日は何も持ってきていない。
ぱっと沙希が先程までとは違う意味で顔を赤くする。
「あ、えっと。ごめん、違うの。前に貰ったクッキー、ずっとお礼言えてなかったから…。あの、ありがとっ、美味しかった、よ」
家に帰ってから、一人で大事に大事に食べた。無くなってしまうのが寂しく感じてしまうほどに。
「…ああ。喜んでくれたんなら良かった」
裕哉がふっと目元を緩ませた優しい表情を見せてくれるから。
嬉しくなって、沙希もそっと微笑んだ。
会話の切っ掛けが掴めたからか、二人は最初のぎこちなさから一転して店にいるときと同じように自然に言葉を交わせるようになっていた。
しばらく他愛ない会話をしていたが、おもむろに裕哉が部屋の中を見回す。
「何か、懐かしいな」
「え?」
「原田と最初に会ったのもここだっただろ?」
「っ覚えてたの?」
一年前の文化祭はお互いに相手を意識し始めた日で。
あのとき裕哉が買ったストラップ型の編みぐるみは、彼の自宅の鍵に今も付いている。
「覚えてる。だから、二年になって原田が店に来たときは驚いた」
店。
沙希はびくりと身体を強張らせた。
少しでも後回しにしたかったその話題。それはきっと沙希だけではなく先程までの裕哉も同じで、二人してさり気なく避けていた話だった。
「…私も、入ったお店に三崎君がいて、びっくりしたよ」
気付かなかった振りをして、誤魔化すように会話を続ける。
「そういえば、驚きすぎて椅子に頭ぶつけてたな」
「そ、そんなところまで覚えてなくていいのにっ」
笑われて、沙希は真っ赤になった。ごめんごめん、と裕哉は笑い混じりで謝る。
「それからはさ、毎週欠かさず来るから、どんだけケーキ好きなんだよって感心してた」
高校生が通うには少し料金が高めで、週一とはいえど気軽に来られるところではなかったはずなのに。
だけど沙希はいつも幸せそうにケーキを食べていて、それを見るのが裕哉は好きだった。
だから。
「急に来なくなったから、どうしたのかと思った」
とうとう、裕哉が核心に触れた。
この教室に来てから…否、沙希が店に来なくなってからずっと聞きたかったことだ。
「…ごめんね」
一言ぽつりと謝って、沙希は俯くしかなかった。
別に約束をしていたわけでもないけど、毎週訪れていた店に急に行かなるという不義理をしていたのは沙希の方だったから。
そんな沙希の様子に、裕哉は苦笑する。ことさら優しい口調でそっと囁いた。
「別に、責めてるわけじゃないんだ。ただ…、原田は店にいるときはいつも楽しそうだったし、毎週のように来てたから」
その穏やかな声に勇気を貰って、沙希はゆっくりと口を開く。
「あの、行かなくなったのは、お店が嫌いになったからとかじゃ…なくて」
ぎゅっと手を握り締める。
言いたくないというより、恥ずかしかった。こんなことを言ってしまう自分が。
「…怖かったの」
「怖い?」
こくりと頷く。
「三崎君があのお店で働いているからって、女の子達がいっぱい来てたでしょう?」
「…ああ」
裕哉も苦い顔になった。思えば、あれが全ての始まりだった。
「私も他の女の子達と同じだって、お店の迷惑になってたかもしれないって思ったら…行けなくなっちゃってた」
「そんなこと…」
「それだけじゃないの」
沙希は裕哉の言葉を遮った。挫けない内に一気に捲し立てる。
「あの店もあの場所での三崎君の笑顔も、他の子も知っちゃったんだって。それを見たくなくて、行かなかったのっ」
接客業で、店員が客に愛想が良いのは当然だ。だけど、他の女の子に笑いかける裕哉を見たくなかった。
沙希だけが知っていた特別な場所が、特別な裕哉が、沙希だけのものではなくなってしまう。それが嫌だった。
裕哉には会いたいし、美味しいケーキも食べたい。だけど華やかな女の子が溢れる店を見たくないし、裕哉の反応が怖い。
行きたくて行きたくなくて、相反する気持ちでぐちゃぐちゃになって行けなくなっていた。
「私、すごく嫌な奴」
さっきも、店に来なくなったのを気にしていたと裕哉に言われて、申し訳なく思ったと同時に嬉しかった。
そんな自分にも自己嫌悪。




