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夢売る少年

作者: C.D

ああ…なんだかあらすじだけを読むと暗い話に見えてしまうような……しかしそのままのような気もしなくも無い……とりあえず読んでみてください!

作者C.Dの送る第一作目です!

 強く頬を掠める冬の寒風、鱗雲の隙間から漏れ出る夕方の淡く仄暗い陽光、雑居ビルの屋上に人気はなく、そんな侘しい空間に孤独に佇む女性の脚は恐怖と寒さに悴んで震え、そして心を凍てつかせる絶望に苛まれていた。

 女性はゆっくりとした動作で欄干を乗り越え、真っ直ぐに添えられていた視線を徐々に下げる。生気の抜け落ちた希薄な瞳が、ずっと下方で人々の行き交う歩道を儚げに見詰めた。

 もはや人としての生きがいを放棄している悲しく寂しい雰囲気。すでに意識だけでもずっと下方にある地面へと叩きつけられていそうな、魂の抜けた存在。

 女性のタイトスカートの裾がバサバサと暴れ、長く艶のある黒髪が荒々しい川の流れのように靡いた。

 強い風が過ぎて、乱れた髪を手櫛で整える。さらりと流れる髪は雲間からの微かな夕陽を浴びて、発光しているかのように光を纏った。

 女性は瞼を落とし、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。

 凍えるような冷たい空気が、女性の内側をこれでもかと言うように冷やす。

 女性は思惟するように脳裏に記憶を映写した。それはスライド映写機の映画のように懐かしい雰囲気があった。セピア色の中で、パラパラと彼女の知っている映像が次から次へと流れる。

 きっとこの映画は、わたしだけに許された最高の映画だ。これに比べれば、どんな有名作品も、優秀作品も足元にも及ばない。こう見ると、わたしの人生も捨てたものではなかっただろうに……。

 女性はフッと口許を綻ばせ、名残惜しそうにゆっくりと瞼を上げた。

 ビルが生い茂ったような町並み。灰色の世界。これがわたしの最後に目にした風景。無機質で面白みが無い。車のクラクションが忙しく鳴り響き、それにエンジン音も重なり、雑踏で飛び交う人々の声、それらが複雑に錯綜してとても聞いていられない。

 こんなものが、わたしの世界だったのか……そう思うと頬に涙が伝う。

 つぅー、と伝った涙が――落下途中で風に吹き飛ばされる。

 女性は白い吐息を吹き、首を振った。脳裏に浮かんだ全ての事象を払拭するように。

「……よし。行こう」

 名残惜しくなんか……無い!

 女性が欄干に掴まっていた手の力を徐々に抜いていく。足も同時に中空へと踏み出す。

 ――これで……終わり。さようなら、わたし。さようなら……みんな――

西宮楓にしのみやかえでさんですね。死ぬ前にすこしだけお話よろしいですか?」

「――――――!」

 女性は瞬間に手に力を込めて欄干を握り直し、踏み出した足を引っ込めた。

「な、なに――?」

 西宮楓は凝然と声の主の方へと振り向き、目を見張った。

 そこには学生服姿の少年が欄干に腰掛け、こちらを平然とした面持ちで見据えていた。

 楓はまったく少年に気付いていなかった。いつこの場に来たのか。近付いてくる足音さえ気付かず、幽霊に出くわしたかのような不気味ささえ感じるほど、気配に気付かなかった。

「……あの~もう一度お尋ねします。西宮楓さんでお間違いないですか?」

「え、あ、はい……」

「ああ良かった。間違ってなくて……」

 狼狽していたのか、わたしは見るからに年下であろう少年に敬語で答えていた。

 短髪の黒髪、おっとりとした雰囲気と顔立ち、地味というよりもかわいい系の容貌。柔らかい笑みはそんな彼の雰囲気を相乗させるように温かい。

 少年は女性の答えを聞いて、安心して胸を撫で下ろし、すぐにハッと気付いたようにズボンのポケットから一冊の手帳を取り出した。

 少年はそれをパラパラとめくり、「ここだ」と呟いてめくる指を止めた。そして少年はこちらに視線を戻し、にこやかに微笑む。

「どうも。私、大道謙太郎おおみちけんたろうって言います。まだ高校も今年入学したばかりの十六歳です」

 大道謙太郎と名乗った少年は手を差し出した。それは握手を求めるもので、わたしを引き戻そうとするものではなかった。

 わたしはその手を握ろうとしたところで我に返った。

「あなた、何なの……?」

 彼はわたしの名前を知っていた。いやそれ以前に、彼は自殺しようとしている人間の側にいて、平然としている。音も無く忍び寄ったことよりも、それが気味が悪くて仕方がない。

 楓は訝しそうに少年を睨んだ。

 少年は楓の鋭い眼光に気圧され、ビクリとすこしだけ身を引いた。しかし何かを思い返したように首を振り、楓の眼光に真っ向から向き合った。

「そうですね。まずは自己紹介をしないといけませんよね……」

 少年は苦笑を浮かべて後頭部に手を当て、軽い会釈をして謝罪をした。そして腰を低く謝ると、少年は制服のブレザーの胸ポケットから一枚の紙を取り出した。

「あ、これ名刺です」

 楓は差し出された名刺を苛立たしそうに睨みつけた。

 まるで子供のごっこ遊びだ。彼はそうやって社会人ごっこで遊んでいる。わたしの気も知らないで、彼は無神経にふざけている。

 楓は再び視線を上げてキッと謙太郎を睨んだ。

「なるほど……あなた、ふざけてるわけね。死のうとしている人間を前にして、よくもそんなふざけたマネを……」

 自嘲の笑みと非難の瞳。

 楓が心の内を恨めしそうに言葉にすると、謙太郎は名詞を胸ポケットに慌てて直し、焦ったようにしきりに顔の前で手の平を振って否定の意を表した。

「違いますッ―――違いますよッ! 私はただ、あなたの真意を調べに来たんです!」

「わたしの真意?」

「はい!」

 女性はふざけていると言ったが、少年は必死にそれを否定した。

 わたしの真意など聞かなくても……いや、聞く必要も無いだろうに。

「僕は、いや私は浮ついた気持ちでなんかでは来てません! ちゃんと真剣なんです!」

 少年は真剣な面持ちで訴えかけた。

 その真剣さか、それとも真意を聞きたいと言われた為か、楓の心の何処かにできた隙間に、少年の声が浸透した。すると楓の警戒心を強めて強張った表情が次第に解け、少年の言葉に耳を貸す程度には余裕が出来ていた。

「私はですね。『夢売り』って言う仕事をしているんですよ」

 少年は楓の言葉を待たずに自己紹介をし始める。些かそこに無神経さを感じ得る。

「夢売り?」

 しかし楓は聞きなれない言葉に耳を傾けた。

 もしかすると、それは自暴自棄の果てに行き当たった境地なのかもしれない。

 これから死ぬのだ。たかが少年一人の話ぐらいは冗談程度に聞いてやろうと、その程度の心持だったのかもしれない。

「はい。人生に疲れたなぁ~って人に会って、夢を持ち直してもらおうっていう仕事です」

「胡散臭い仕事ね。……なに? 宝くじでも売ろうっての?」

 楓は嘲笑混じりに言ったが、少年はいたって真剣であった。

「いえいえ、あれは夢ではありません。現実です」

「現実?」

「ええ。例えば宝くじに当たると大金を貰える。現実でしょ? 外れると貰えない。現実でしょ? そういうコトです。あれは何処まで行っても現実。私が売ろうとしているのは『夢』」

「だからその夢って何よ」

 楓は気付かぬ内に少年の言葉を待っていた。それは希望でも期待でもなく、ただの興味である。しかし、いまの楓をこの場に踏み留めさせておくぐらいの効力はあった。

 少年は手帳を持ったまま両手を広げ、頭の上にできる範囲で大きな円を中空になぞった。

「夢、ですよ夢。誰もが見る夢。……西宮楓さん。あなたが夢と言われて連想するものは何ですか?」

「わたしの……夢?」

 楓は呆然と視線を伏せた。

 わたしが夢と言われて想像するものは……将来への願望。

 幼い頃に見た夢。将来はああなりたい、あんな職業に就きたい。そんな夢。

「寝ているときに見る夢……ってワケではなさそうですね。大方将来の夢ってところですか?」

 しげしげと観察していた謙太郎は、楓の心を読んだように先に言葉にした。

 楓は顔を上げ、謙太郎を見た。しかし心を見透かされたと言うのに、目には不思議と敵意は無かった。それどころか、楓は少年の心を読もうとしていた。

 このコは何者なの? 

 このコは何が目的なの? 

 何がしたいの?

 そんな言葉が楓の頭の中を右往左往と駆け巡っていた。

「どうでしょうか? 差し支えなければ、是非ともお教えくださいませんか? あなたの夢」

 にこりと柔らかく微笑み、少年は発言を促すように手を差し伸べる。

 わたしの……夢。

 幼稚園児の頃の夢は確か……花屋だった。

 そんな幼稚ながらも眩しい夢を思い浮かべるたびに、わたしの無垢な心は無神経に飛び跳ねていた。

 漠然とした夢。

 絵画に描かれた色彩のように、そこには立体的で現実的な感受はなかった。でも、どうしてかそれは、いつもキラキラと瞬くように光を纏っていた。

 鮮やかで煌びやかで楽しげな『夢』。

 しかし夢は成長するにつれて変化をし、今では安定した収入のある男性と平穏な暮らしをすることになっていた。

 その夢がいけないなんて思わない。今の時代、そんな『安定』を求める事は間違っていない。

 ……でも、それを『夢』と言い張れるだけの自信が、わたしにはどうしてもなかった。

 それは単純な理由。

 そこには『色』が無かった。

 彩の失せた絵画。

 それは見ていても実に退屈だった。

 心はしょんぼりと俯いてしまう。

 ――結局の所、それは『夢』ではなく、逃げた先にあった『妥協』なのだ。

 少年は楓の『夢』を聞くと、「素晴らしいじゃないですか!」と大袈裟に驚いて見せた。

 しかし楓は少年のリアクションに一切の反応を見せず、欄干を握り締め、悔しそうに歯を食い縛った。

 その様子を見ていた少年はうーん、と困ったように頬を掻いた。

「夢って言うのはですね。つまるところ、起きていても寝ていても見るものなんです。――ほら、起きている時は夢を語るでしょ。寝ている時は夢を見る。ねっ、面白いでしょ?」

「……あなた、いったい何が言いたいの?」

「でもですね――」

 少年は楓の言葉を聞いていないかのように自分の言葉を紡いでいく。

 しかし不思議と一度聞いてやろうと思ったためか、苛立たなかった。

「――悲しいコトに、夢って言うのは必ず無くなるものなんです。起きていようが寝ていようが、ね」

「醒めるってこと?」

「うーん……すこし違うんですよね~。でも間違いじゃないんですよね~」

 困り果てたように腕組みをして唸る少年。

「でもあなたの言うとおりなら、寝ている時の夢は当然として……起きている時の夢も無くなるってことよね。それは悲しいわ。あなたの言い草じゃあ、起きている時に見る夢が叶うことは無いって言ってるようなものじゃない?」

 それはあまりにも悲しい。夢を抱いても、それが今後叶うことは無いのですよと、もしも幼少期に告げられると、きっと誰も夢を現実にしようという覇気を見せないだろう。なんだ叶わないのか、と早々に諦めてしまう人間ばかりになってしまうかもしれない。

 ――例えばわたしのように……。

「いえいえ、そんな夢の無いコトを、夢売りが言うわけ無いでしょ?」

 と少年は満面の笑みで答えた。わたしは平然と流したが、もしかすると、そこでわたしは笑わなければならなかったのだろうか。彼の言い終わった後の、わたしのノーリアクションを見た時の表情が、あまりにも寂しそうであった。

 少年はしばしの空白を置いて咳払いを入れ、「……すみませんでした」と頬を赤らめて謝罪を述べた。そして先の自分の言葉を忘れようとするように、急いで口を開いた。

「とりあえず、夢は絶対に無くなっちゃうんです。しかし叶わないというわけではありません」

「どういうこと?」

「だって考えてもみてください。もしも夢が叶ったら? それはその瞬間に夢では無くなるのです。ほら、夢が叶って現実になった。これではとても『夢』とは言えませんよね」

 喜ばしい事ですけど、と嬉しそうに少年は言う。

「……確かにそうかもしれないけど……屁理屈に聞こえるわ」

「……そうですか? 残念ですね、ご理解を得られなくて……」

 でも――、と少年は言葉を繋ぐ。

「夢を諦めた時を、人は何と言うか知ってますか?」

「――――ッ!」

 楓はビクリと肩を震わせた。

 それは、いま、わたしは聞きたくない。

「夢を失った……つまり夢が無くなった」

『亡くなった』と言い換えてもいいですね、と少年は声を弾ませて楓に言い掛けた。

「あなたは夢を叶えられなくて諦めた。それはまだ夢から醒めていません。夢は夢のまま在り続ける。いや、死んでしまったら夢ですらなくなる。いいんですか? とっても中途半端ですよ? あなたの人生そのものが……」

 あなたの人生は無価値ですよ――そんな無慈悲な言葉を掛けられたような物悲しさがあった。

「仕方が無いじゃない……」

 声が震え、唇が小刻み震えた。震えを押さえるように下唇を噛み、女性は眼を伏せた。

「わたしは……人殺しの娘だから……」

 スッと少年の表情から色が抜け落ちていき、唇が真っ直ぐに線を引いて閉ざされた。

 人生を精一杯生きてきた。だけど、それを認めてくれない人達がいる。

 原因は父だった。

 八年前の今頃。

 父は元々酒癖の悪い人であった。ひとたび呑めば、酔った勢いで行く所まで行く人。

 そして酔うたびに小さなトラブルを巻き起こし、母は謝罪に奔走していた。

 そんなある日、その日も深夜に差しかかろうとした時間帯に電話が鳴った。

 母もわたしも「またか……」と、半ば諦めたような溜息をついた。

 しかし、その日は少し違った。

 受話器を取った母が、次の瞬間に顔を蒼白に染め上げたのだった。

 手が震えて受話器が抜け落り、全身から力が抜け落ちて放心状態に陥っていた。

「どうしたのお母さん!」

 わたしが駆け寄ると、母は微かに口許を動かして、何かを囁いていた。

 わたしは咄嗟に耳を寄せた。

 ――お父さんが……人を殺しちゃった……――

 事故だったらしい。

 父の行き付けである居酒屋で、父は普段通りに飲み倒していたらしい。

 そして酔った勢いで近くの若者に絡み、諍いに発展したそうだ。

 初めは言い争い程度だったらしいのだが、酒癖の悪い父が手を出し、そのまま雪だるま式に取っ組み合いの争いなってしまったらしい。

 その時、父は若者を突き飛ばしたそうだ。若者は酒を飲んでいた為か、覚束ない足元をふらふらと彷徨わせ、遂には後ろ向きに倒れてしまった。

 運が悪かったのは、その倒れた先にコンクリートブロックが置かれていた事だ。

 それは店の前の駐車を防止する為に置いてあったらしく、若者はそのブロックに後頭部を勢いよくぶつけ、そのまま帰らぬ人となった。

 以降、父は人殺しとして服役中であった。

 しかしその程度の償いでは、世間は満足しなかった。

 牢屋の中にいるために手を出せなくなった父への蔑視は、あろうことか母とわたしに向けられる事となった。

 母は『人殺しの妻』。

 わたしは『人殺しの娘』。

 学校へ行けば、事の経緯も知らない同級生から侮辱的・屈辱的な仕打ちの数々。

 家に帰れば、近隣住人からの冷罵の言葉と視線。

 それは母も同じだった。

 パート先でも自宅周辺でも、行く先々で無慈悲な言葉が飛び交った。

 誰もわたし達を見てくれない。

 誰もわたし達の言葉を聞いてくれない。

 灰色で重圧的な言いようの無い不安感が、わたしと母に纏わり付いた。

 お前はこの世界に不必要だ、そんな言葉を浴びせかけられたような孤独感。

 そんな日常に耐えていたある日、わたしは普段どおりの時間帯に学校から帰宅を果たし、いつもどおりにリビングへと向かった。

 その時間帯には、まだ母はパートに出ている。しかしその日、パートに出ているはずの母の外靴が玄関にあった。わたしはそれがを不可解に思った。

 朝は元気だったのに、母はパートを休んだのだろうか。真面目な母にしては珍しい事だ。

 蛍光灯は消えており、カーテンの閉まった夕方のリビングはシン、とした侘しい暗闇に染まっていた。

 その闇の中に、わたしは不可思議なシルエットを見た。

 天井から太い線が伸びて垂れ下がり、その先にヒトガタの影。

 呆然と立ち尽くすわたしの肩からカバンがするりと抜け落ち、わたしは恐る恐る蛍光灯のスイッチに手を伸ばした。

 シルエットで判っていた。

 それが一体なんだったのか。

 だからわたしはスイッチへと伸ばした手を、恐怖のあまりに震えさせていた。

 その日、母は自殺した。

 理由など聞くまでもなかった。

 母は限界を超えてしまったのだ。

 父の面倒だけでさえ心労していたのに、そこに大津波のような周囲からの無慈悲なプレッシャーが圧しかかったのだ。

 母は普段から弱音を吐かない。むしろ、わたしに弱い様を見せないように振舞っていた。だからわたしも、苦しんでいるであろう母に、手を差し出せなかった。母の自尊心を傷付けたくなくて……。

 つまり誰も助けてくれない状況で、母は孤独に闘っていたのだ。

「あのー……お話の途中で申し訳ないのですが、お父さん服役中だったとは……?」

 少年は話を遮って疑問を問う。

 はなはだ自分勝手な人だ、と思いつつも、「昨晩死んだのよ」と楓は答えていた。

「詳しいコトは知らないけど、布製品を咽喉に詰まらせて死んだんだって。現場の状況から自殺だろうってのが一番の有力候補」

「なんで自殺を?」

「さぁ?」

 片手で欄干を掴みながら、楓はわざとらしく肩を竦めた。

 少年は怪訝そうに小首を傾げたが、他人の死の話を長引かせることは出来ないと思ったのか、話題を切り替えた。

「悲しくは無いのですか?」

「無いわね。むしろ死んでくれて清々よ」

 ハンッ、と乾いた笑い声を出して、楓は空を見た。

 そうだ――昔の父ならいざ知らず、あんな酒を飲んだ暮れていただけの父など、怠慢の権化のような父など、わたし達家族に見向きもしない父など、死んでくれて清々した。

 しばしの空白を置き、少年はさらに問い掛ける。

「……では、寂しくは無いのですか?」

 厚い雲に覆われた空。灰色を思わせる寒気に、その曇り空はあまりにも陰鬱だ。まるでわたしの心を顕現させたような……。

 楓はそんな空を、懐かしむような遠い眼差しで眺めていた。

「……そうね。少しは寂しいかも……」

 こうして空を見ていると、昔の光景が甦ってくる。

 まだわたしが幼かった頃。父がまだ酒に入り浸らず、無精髭も生やしていなかった頃。母が毎日のように微笑み語り掛けてくれていた頃。

 平穏な毎日を、緩やかな時間の中で過ごしていた。

 わたしも笑みが絶えなかった。無理せず自然な笑い声が家中に響き渡るように、わたしは哄笑していた。明るく温かく柔らかい家庭だった。

 そんな日々が崩れたのはいつだったか……。

 昔を回顧する女性の側で、謙太郎は手帳の中身を確認していた。

「ああこれだこれだ……。なるほどー……お父さん、連帯保証人になっちゃってたんですか」

 無神経極まりない言葉に、楓はバッと顔を向けて怒りの感情を浮かばせた。

「あなた、一体何がしたいの? それに何でそんなことまで知ってるの?」

 声は穏やかであったが、声質は刺々しかった。

 少年は女性の言葉を反芻するように頷き、パタンと手帳を閉じた。

「あなたの自殺の理由は両親の死ですか?」

 少年の真っ直ぐな眼が嘘は吐かせない、と言うように心へと侵攻する。でも――

「そんなことはどうでもいいのよ! いいからわたしの質問に答えなさい!」

 恫喝するかのように鋭く尖らせた声で詰問する。

 少年はきっとビクリと体を震わせて気圧されると予測していたのに、彼は何も言わずにこちらを見据えていた。毅然とした瞳、実直で力強い瞳で真っ直ぐに。

「お答え願えませんか? あなたを、そこまで追い込んでしまった本当の理由・原因を……」

 楓は瞠目した。

 ああ、なんて真っ直ぐで綺麗な瞳なんだろう……。わたしもあんな目が出来たら、きっとこんな『崖っぷち』なんかに立ってやいないのに……。

 強い冬の風がビル肌をなぞって屋上にまで駆け上がり、楓の黒髪を暴れさせ、白い肌を掠めていく。寒さに悴む白肌は、寒気に抗って赤みを帯びる。真っ直ぐに引かれていた楓の唇が、僅かに開いた。

「もう……何をして生きていけば良いのか、判らない……」

 沈むように放たれた声に生気だけが抜け落ちていた。

「目標……と言うよりも『夢』が無くなったんですね」

「……そうね。正直なところ、夢なんてずっと昔に捨てちゃったからね。ほら思春期ってさ、何だか夢を語るのって恥ずかしくない? それ以来夢なんて見なくなっちゃたのよね」

 本当は夢を叶えたかった。その為に努力を重ねたかった。――けど、ただでさえ小恥ずかしい話なのに、父の事件以降、わたしは夢を語るどころか、周囲からの辛辣な視線と母への気遣いをする事で精一杯で、夢に向かって努力をすることなんて羞恥心以前の問題だった。

 楓はくっ、と微かな自嘲を零して視線を下げる。ビルの屋上の縁である僅か十センチ程度の足場につま先が乗り、足裏の半分ほどが中空に浮いている。それだけわたしは不安定な場所にいるのだ、と楓は自身の立場を再確認する。

 いま掴んでいる欄干から手を離せば、瞬く間にわたしの体は真っ逆さまだ。アスファルトの地面に真紅の花を咲かせ、辺り一帯を真っ赤に染め上げるだろう。救急車は呼ばれない。警察に連絡が行き、自殺者一名というコトであっさり事務処理。数多くいる年間自殺者数に、新たな『1』が加わるだけ。わたしがどれだけ決死の覚悟で望もうとも、死んでしまえばわたしは『1』。数字の1として加算されるだけ。悲しんでくれる人はいない。嘆いてくれる人もいない。むしろ清々した、なんて云われるかもしれない。

 考えてしまうと、わたしはとても希薄な存在なんだな。

 父の殺人が、母の自殺が、わたしの人生に幕を下ろさせたのだ。

 なんて不幸な事だろう。結局、わたしは自分ではなく他人に人生の幕を下ろされたのだ。

「それは違うでしょ。夢も人生も、叶えるのも諦めるのも、他の誰でもなくあなた自身だ。その思想は単なる責任転嫁でしかない」

「――――――ッ!」

 思わぬ言葉に顔を上げて見ると、少年は眉根を寄せ不快感を表していた。

 その時のわたしは、一体どんな顔をしていたのだろう。憤怒か困惑か狼狽か。自分でも定かではない。

「ずっと両親はあなたの『夢』が叶うのを願ってました。そしてそれを知っていたからこそ、あなたはこの両親のいなくなった世界に失望感を抱いたんじゃないですか?」

 少年は判った風に言葉にする。しかしその言葉の節々には、確信めいた力強さがあった。

 その所為だったのだろう。わたしはそうだったかもしれない、なんて思ってしまっていた。

 誰も認めてくれない。誰もわたしを見てくれない。誰も話を聞いてくれない。わたしには夢がある。皆に聞いて欲しい。けど、いつもわたしは孤独だった。

 そう思っているのに……などと考えていた。

 けど――

「ウルサイッ! あんたなんかに何が判るってのよ!」

 喉から出てきた言葉は、不安定な感情の爆発の意。

 欄干を両手で強く握り締め、楓は少年を鋭く睨んだ。

「わたしは一生懸命に生きてきたの! 辛いコトだってたくさんあった。悲しいことも寂しい思いも、心がうんざりするぐらい経験してきた! けど、だからってこの世界が一度でもわたしに振り向いてくれたことなんて無い! どうしようもないの! ……もう、疲れちゃったの……」

 目の奥がじわりと萎む。眼底がキリキリと痛い。咽喉の奥が締め付けられる。胸の奥がジンジンと何かを訴えかける。ぽたりと目の縁から雫が零れる。涙としゃっくりが止まらない。頭の奥がキューと絞まる。

 感情が、心が抑えられない。

「判ってた! わたしを寝かしつけた後、お父さんとお母さんがリビングのテーブルを挟んで、夜な夜な頭を抱えて泣いていたコトも!」

 楓は知らず知らずに独白をする。物悲しい過去の告白。

 脳裏を掠める、もうこの世にはいない両親の姿。

 借金を背負う事となった父は書類を眺めて絶望の涙を流していた。巻き込まれた母は家庭を憂いで涙を流した。

 蛍光灯だけが淡く儚げに二人を照らし、そのスポットライトの下で不幸な役者が失望の面容で項垂れていた。涙を堪える父の姿は居た堪れない。涙を掌で押さえる母の姿は物悲しい。そんな両親の姿を、わたしはドアの隙間から度々目撃し、声を掛けることなく、音を立てることなく、静かに床に戻った。

 朝になると母は笑顔だった。

 朝になると父は陽気だった。

 朝になるとわたしは仮面を被った。

 ――全部知ってるんだよ。わたしも、悲しみを共有しているんだよ――

 わたしは、そんな思いを胸の奥に仕舞い、ただただ望まれるがままに笑みを作っていた。

 父はとある日、突然会社を辞めたのだと言い出した。当時は言葉の深刻さが判らなかったが、母と父の表情から深刻な事なんだな、と幼いながらも察していた。

 その日を境に、父は酒を飲んで髭を生やした。

 その日を境に、母はパートに出掛けて行った。

 後に知ったことだ。父の勤務会社に直接借金の取立てが押し入ったのだと。それが原因で父はクビになったのだと。そのショックから立ち直れなかった為に父は再就職もせずに、毎日酒を浴びるように飲んだ暮れていたのだ。母に全負担を押し付けて……。

「でもわたしは…知ってたの……お父さんとお母さんが苦しんでいた事を。でも、声を掛けられなかった。お父さんのプライドを傷付けたくなかった。お母さんの心労を増やしたくなかった。だからわたしは無知で無垢な子共を演じ続けた」

 ……でも、昨夜とうとう父もいなくなった。だからわたしは『子供である必要が無くなった』。もう、わたしが望むとおりに生きたら良いのだ。気兼ねする事は無い。自由が訪れたのだ……!

「なのに……何もしたくない……」

 おかしな話だ。あれだけわたしを縛っていた拘束が解けたというのに、わたしは自由を満喫できないでいる。それどころか、いまわたしが立っている場所は、死と隣り合わせの世界。すこし足場をずらしてしまえば、それでわたしの体は中空へと落ちていく。

「……そうやって不幸なヒロインを気取っても、あなたの言うとおり死んでしまえば何も残らない。せいぜい年間自殺者の数に1が加算されるだけです」

 そんなことは判っている。

「娘さんがそんな調子じゃあ、ご両親が浮かばれないんじゃないですか?」

 そんなことも判っている。

 ――けど……

「あんたに、何でそんなことを言われなくちゃ……」

 いけないのよ、と口は動いたが、しかし咽喉が震えて声が出てこなかった。

 少年は襷掛けしていた鞄から一枚の画用紙を抜き出す。皺が出来ては何度も伸ばしたような痕が残る画用紙。よく見ると、そこにはクレヨンで何かが描かれている。

 「これ、あなたのお母さんが大事にしていた宝物らしいですよ」

 そう言って少年は神妙な面持ちでその画用紙を差し出した。わたしはその画用紙に見覚えがあった。だから手は震えてしまったし、言葉を失ってしまった。

 そこには笑っているわたしがいて、周りには色鮮やかな花がたくさん。そんなわたしを見守るように、笑顔の両親が画の端で微笑んでいる。

 ……下手くそな画だな。

 昔、幼稚園の催しで『将来の夢』を題材にした工作があった。わたしは将来の夢を描き、その画の上に一興を興じた。それは教育テレビでたまたま観たもので、人の顔の一定の場所に折れ目を入れると、表情が変わるというやつだ。お札にプリントされた肖像などの目の部分に折れ目を入れて、角度を変えて見てみると、笑ったように見える、というやつだ。

 わたしはそんなコトをしていたんだっけな。こんな下手くそ画で、さらに大した面白みも無いのに、父も母も嬉しそうに笑っていたっけな……。

 懐かしむ楓の眺め、少年は静かに口を開いた。

「確かにあなたのご家族の事ですから、私がどうこうと言えた事ではありません。でもですよ、この『画』を保管し続けていたお母さんが、本当はあなたにどうあって欲しかったのか、わたしが口に出さなくてもあなた自身で気付かなければならないはずです」

 ああ、そうだったのか。こんなものをお母さんは大事にしていてくれたんだ……。

 受け取った画用紙の端に、指の力でクシャリと皺が出来る。

「こちらはお父さんのです。まぁ宝物ではないんですけど、でもこれは宝物を守るためのものですよね?」

 わたしが顔を上げると、少年はまた一枚の用紙を手にしていた。

「……それは?」

 それには見覚えが無い。……いや、見覚えはあるが、父が持っていたとは思えない代物。

 わたしが否定するように唇を震わせていると、少年が代わりに言葉にする。

「これ、職務経歴書ですよね」

「あ――――」

 喘ぐように咽喉から音が発せられる。しかしそれは言葉になっていない。

 まさかまさか、と心の底で何かが蠢いていた。

 少年はふぅー、と息を抜き、単調に言葉を口にする。

「お父さん、実はあなたとお母さんが出掛けた後、こっそりスーツに着替えて就職活動をされてたんですよね。その理由、私が言うまでも無いですよね?」

「嘘…………」

 楓は愕然とした。動向が激しく大小し、腕が震え、膝が折れそうになる。

 さっきまでは確りと蓋をして閉ざしていた黒い感情が、今の言葉に感化される。激しく蓋を叩き、表に出ようと暴れている。

「嘘だ……」

 思わず同じ言葉が口から滑り出る。

「誰も見てくれない、聞いてくれない、でしたっけ?」

 少年はどこかで聞いた言葉を口にする。言うまでもない、それはわたし自身の言葉だ。

「それも当然と言えたものでしょ。だってあなたが言わなかったんだから……」

 お父さんも同じなんですよ、と何処か批判めいた口振りで少年は言う。

 でもわたしは何も言い返せない。言い返せるわけが無い。

「昨日、あなたはお父さんにお会いに行きましたね。そこで何を話されたんですか?」

「あ――――」

 このコは知っているのか? わたしが父に対して発した言葉を……。

 昨日、わたしは父と面会した。

 痩せ細った父の姿は、やはり心の何処かが痛む。

 本来ならば父の身を案じなければならない。なのにわたしは……。

 本当は労わりたかった。

 大変だね。でも頑張ってね。わたしは待っているからね。出てこれたら一緒に、息子さんを死なせちゃったご家族に謝りに行こうね。それからお母さんのお墓参りに行こうね。色々大変だけど、一緒にやり直そうね。わたしも協力するからね。

 そんな言葉を掛けたかった……。

 でもわたしは父を責めた。泣きながら攻めた。言葉の暴力を浴びせ掛けた。今までの鬱憤をぶつけてやった。お母さんはお父さんに殺されたんだ。そんな非情な言葉まで吐いてしまった。

 その後に残ったのはヘドロみたいな蟠りと、後悔の情念だった。

 なんでそんなコトを……思ってみても後の祭り。

 ――そして、父は死んだ。

 なんてあっさりと人は死ぬのだろう。わたしが強く責めただけで、父は苦しんで死んでいった。

 人間というのはこんなにも簡単に命を捨てられるのか……。

 ――違う!

 わたしが言ったからこそ、父は死んだのだ。

 わたしだけは、父の側にいなければならなかった。

 わたしだけは、父に手を差し伸べなければならなかった。

 きっと父も後悔していた。自分がお母さんを死に追いやってしまったんじゃないかって。

 なのにわたしは、そんな父を責め立てて死に追いやった。

 わたしが父を殺したんだ。

 逃げ出したくなった。すぐにでもこの場から駆け出して、わたしのコトを誰も知らないそんな場所まで、わたしは逃げ出したくなった。それは羞恥心からじゃない。後悔だ。わたしの奥底に燻っていた黒い感情が、彼から知らされた真実によって不安定になっている。

 意識がそんな想いに答えて、風に乗ってふわりと遠く遠くへと飛んでいく。

 少年は楓の放心状態を見て、はぁー、と溜息を吐いた。

「別にあなたを非難しているワケではありませんよ。ただですね、今あなたが選ぶべき道はどれなのか、という事を私は聞きたいんですよ」

「選ぶべき道?」

 楓は辛うじて残る意識を、その少年へと向ける。

「はい、道です。たくさんありますよ。いま浮かんだだけでも三つはあります」

 後悔と絶望に苛まれたまま足を踏み外して落ちていく。

 それとも安全である欄干から内側に戻り、今まで通りの日常を送るか。

「それか、私のお話を聞いてもらうか……」

「話……夢売り……?」

 楓はハッとする。そもそもこの少年は何をしに来たのであったか。

 結局『夢売り』とは何なのか。それすらも分かっていないのだ。

 少年は欄干から降りた。しかしそれは内側ではない。外側だ。わたしと同じ、ギリギリの境界線。片手で欄干を掴み、こちらに体を向けている。すでに体の半分はビルの縁から飛び出している。

「あなた自身が人生を今のようにを責めてみても、現状に変化はありません。後悔後悔後悔と、そんなものばかり連ねてみても、なにも進歩はしない。反省と後悔は全くの別物です。だいたいお父さんが死んだことも、後付の結果論だ。確かにあなたにも反省すべき点はあった。だからと言って、あなたが全てを背負い込む必要は無い。あまつさえ自殺を試みるなんて……何より建設的ではない。――あなたが罪に問われる事は無いでしょう。しかし……いや、だからこそあなたは自殺を考えた。違いますか?」

 その通りだ。わたしは、罪に問われない罪を犯したからこそ死のうとした。自らを罰し、全てを無かったことにしたかった。

「でもそれは本当に償いなのでしょうか?」

 少年は物悲しく表情を歪ませた。

「私は思います。償いとは、償うべき者が望む刑罰を受けるではなく、望まれる償いをする事であると。あなたのご両親は、あなたに『夢』を持って欲しかったのではないでしょうか? あなたが本当に後悔し、反省するのであれば、これからは努力を重ねて『夢』へと突き進むべきではありませんか?」

 わたしは言葉がなくなっていた。ただ何も言わず、視線を下げて画用紙を見詰めていた。

 そこには憧れていた光る『夢』がある。

 でも――

「駄目……わたしは戻れない」

「お父さんが死んでしまったから?」

「ううん、違うの。……いえ、違わないけど」

「お父さんの借金ですか?」

「うん」

 そう、闇金融業者は怖い。たとえ父が死んだとしても、請求は娘であるわたしへと向く。

「お幾らほどですか?」

「二百万……」

 きっと、わたしが平常であれば死などは選ばなかった。多少の苦労をしてでも返そうと意気込んでいただろう。でも、今のわたしは異常だ。自分でも判るほどに不安定な神経。たくさんの事があって、わたしの神経はざらざらに磨耗していた。

「二百万円ですか…………ではどうでしょう? 花屋の夢も叶えて借金も返済という道を選んでは?」

「え…?」

「うん、それがいい。死ぬなんて選択をするよりも、夢を叶えた方が両親も浮かばれますよ!」

 少年は難しそうに眉間に皺を寄せていたが、次の瞬間にはなんとも楽観的なことを言いだした。

「あ――あのね、そんなコトが出来るわけ無いでしょ!」

 さすがのわたしもこればっかりは馬鹿馬鹿しくて聞いてられない。

 しかし少年は表情を綻ばせて笑い、出来るんですよ、と簡単に言い切ってしまった。

「花屋さんを開業するに必要な資金はぁ……店舗契約の保証金、内装の改装費、仕入れ用トラックなど諸々を計上して、六百万と言ったところでしょうか? じゃあ借金の分を合わせて八百万かぁ……。どうですか? 宜しければ私が融資しましょうか?」

「え――?」

 ……なんだろう。話が『夢』とは掛け離れた現実的な話になっているような……。

 楓は唐突な申し出に呆然としていた。

 しかし少年は独りで話を進めていく。

「うん、やはりそれがいい! わたしは夢売りです。あなたが『夢』を叶えられるように、最大限のバックアップをします。その為には…えぇ~と、現金で宜しかったですか? それとも――」

「ちょっ、ちょっと待って――ッ!」

 楓は堪らず話を遮った。

「何言ってんのよ! 融資って、あなた学生でしょ!? イキナリ何を言いだすのよ!」

 怪しくて仕方が無い。説明など不要なほど、このコが怪しく見えて仕方が無い。

「――でも、八百万円があれば人生がやり直せるでしょ?」

「それはそうだけど……」

 少年は何を言っているんですか、と言うように不思議そうな眼差しを向ける。

 しかしここは大人として、社会人として現実を言う。

「あ、あのね、冗談を聞いてられるほどね、わたしは余裕が無いの。それに子供のあなたに八百万円なんて持ってる訳ないし、持ってても受け取れるわけないでしょ」

 楓は頭痛を抑えるように、こめかみに指先を当てた。

「そうなんですか? でも、さっきからずっと話を聞いてくれてたじゃないですか?」

「それは……」

 死ぬ間際の餞別。すぐに死ぬのだから聞いてやろうという好奇心。

「それは、あなたの言う『夢売り』というのを気にしたまま死ぬんじゃ、死ぬに死に切れないから……」

 ……なんだろう。今になって思うと、夢売りなんて胡散臭い言葉の意味を気にするなんて、それ自体が馬鹿馬鹿しいように思えてきた。

 楓は頭の後ろ掻いて、う~ん、と唸り声を上げた。

 何だかいま死ぬのは嫌だな……。なんでだろ。目の前にこんな訳の判らないコがいるからかなぁ?

 何処か毒気の抜けた表情で、楓は両目を閉ざして眉間に皺を寄せる。

「……あの~……どうかしました? まさか死ぬのはやーめた、みたいな展開ですか?」

 少年は何処か不安そうに楓の顔を覗き込む。

 楓は片目だけを薄目にして、少年の顔を見た。

 でも、例えこのコの所為だとしても、こんなコの影響で死ぬのを止めたって言うのも癪だなぁ。かと言って、意固地になって死んでやるのも気分じゃない。

 少し熟慮して楓は目を開いた。そして確認する。

「……ねぇ、ちょっと聞いていい?」

「はい、なんでしょう?」

「あのさ、わたし今二十四歳なんだけど、これから人生はどうなっていくと思う?」

「はぁ…?」

「いいから答えてみてよ」

 楓の問い掛けに、少年は呆気に取られていた。

「え~と……どうなると言われても……人生は長いですからね、一概には言えませんよ。せいぜい努力次第でどうにでも、なんてありきたりな言葉ぐらいしか……」

「ふふっ、だよね」

 そうなんだ、わたしはまだ若かったりした。まだまだ人生は長かったりした。忘れてたわけじゃないけど、わたしはまだ夢を諦める年代でもなかったりした。色々後悔のするコトをしちゃったけど、死んでしまったら後悔すら出来ないかもしれない。例え出来たとしても、どうせするのなら生きている間にしていても問題は無いじゃない。なら死ぬ前にちょっとだけ、最後の悪足掻きでもしてみたいじゃない。お父さんとお母さんには悪いけど、もう少し待っていてもらおう。なんてもしも天国があったら、きっと『夢』が叶ったよって報告しよう。そこで笑ってもらえたら満足だ。わたしの人生に価値ができる。うんうん、そうだよね。お父さんとお母さんの所為で死にました、なんて言える訳が無いじゃない。バカバカしい。

「あの、一体どうしたんですか?」

 謙太郎は状況が理解できず、あたふたと狼狽していた。その様が可愛らしく、楓はつい笑ってしまった。

「ふふっ、なんでもないわよ」

 そう言って楓は欄干を軽やかに乗り越え、内側に戻った。そして大きく伸びをして張り詰めた緊張を解く。ふぅー、と息を吐くと、白い靄が空に浮き上がって消えた。楓は霞のように消える様子を、最後まで見上げて見送る。

 まるでわたしの心みたいだ。さっきまでモヤモヤしてたのに、もうスッカリスッキリ綺麗サッパリだ。

 空は常に変化をし、風が吹いては雲が流れ、新たな雲が姿を現す。同じようで実は違う。わたしの人生も実は変化の繰り返しではなかったのだろうか。そういう意味では、今も変化の途中かもしれない。

 ……いや、常に変化の途中か。

 寂しい体験をたくさんした。悲しい体験をたくさんした。だけど――楽しい体験もたくさんある。

 死んだらそれらの体験は永遠に出来ないかもしれない。……なら、もうちょっとだけ人生の経験値を積んでみようよ。楽しくなかったらまたここに来ればいいさ。そしてまた悩んでしまえばいいさ。――そうだよ。そんな軽い気持ちで行こう。深刻になっていると、また変な人が近付いて来るかもしれないしね。

 楓は踵を軸にしてくるりと振り返り、呆然とする謙太郎を見た。

「ありがとね。色々悩んでみたけど、やっぱりもう少しだけ頑張ってみるね」

 明るくて未来を彷彿とさせる声。さぁ頑張ろう、なんて言葉が聞こえてきそうな声。

 楓はにっこりとはにかんだ。そこに負の感情は無く、楽しく行こうとするポジティブな感情が溢れていた。

「じゃあ行くね。バイバイ」

 そう言って楓は少年に背を向けた。

 足取りは軽く、今までは重石を結び付けていたんじゃないかと勘繰らせるほどに軽やか。背筋も伸びて顔は真っ直ぐに前を向いている。表情も柔らかくて、今にも鼻歌が聞こえて来そうなほど。

 楓は屋上のドアを開き、締める間際に振り向いて手を振った。

 ――さて、まずは『夢』に向けて何をしようかな――

 そんなコトを考えながら……




「あ――――」

 謙太郎は何かを言いたそうに手を伸ばしていた。しかしもうすでに楓の姿はドアの向こう。今更何を言っても届きはしない。

「はぁ~……」

 謙太郎はガクリと肩を落とし、深い溜息をついた。そしてしばらく呆然と地面を見詰めた後、ポケットから携帯電話を取り出した。

 おもむろに電話番号を叩き、耳に当てる。十秒ほど経って相手方が出た。

「もしもし……」

『ああ謙太郎?』

「はいそうです」

 相手は中年男性。謙太郎の知り合い。

『どうだったよ。今回の自殺者志願者きゃくはいけただろ?』

 悩みなど微塵も持ち合わせていない人間が発せられる、明るくてバカみたいな声。

「駄目でしたよ。最後の最後で間違っちゃったみたいです、タイミング」

『ああ!? またかよ謙太郎ちゃんよ?』

 非難めいた声で文句を垂れる相手。

「もうー無理ですって。この商売自体が無理なんですよ――――社長!」

 相手は謙太郎の雇い主。『夢売り』などと言うワケの解らない事業を展開する創業者。

 しかし謙太郎自身はその『夢売り』に対して懐疑的であった。

 ……いや、懐疑的どころか批判的だった。

「大体『夢売り』とか言ってますけど、夢なんてこれっぽっちも無いじゃないですか!」

『なんだ? 俺に文句でもあんのか?』

「あるに決まってるじゃないですか! 何ですか夢売りって? 何か奇抜なネーミングなら儲かるとでも勘違いしてんじゃないですか?」

 謙太郎は小馬鹿にするような口振り。

『なにぃぃぃ!! 俺のネーミングセンスにケチつけんのか!』

「違いますよ! ネーミング以前の問題だって言ってんですよ! ……ったく、バカじゃないの?」

『ああん!? お前いま、俺のコトをバカっつったか?』

「いいえー」

『澄ましてんじゃねぇぞコラ! 言ったよな? 言ったよな?』

「言ってませんって。ウルサイなぁ……」

『オイッ! また余計な事言ったろ! 俺はお前の雇い主だろ? もっと敬えよ。……ったく、お前の猫被りと言うか、本性とは真逆な仮面はどうにかならねぇのか?』

「はいはい」

『流すな! それに「はい」は一回だろ!』

「もぅー判りましたよ。判りました」

 呆れて謙太郎は溜息を吐く。

 相手は社長とは思えない子供っぽさ。こんなバカみたいなやり取りを繰り広げても意味は無い。社長は自分の意見を聞き入れさせるまで続けるだろうから、先に自分が折れてやらないと、このくだらない言い合いが永遠に続いてしまう。

「とりあえず報告しますね」

『うむ』

 なんで偉そうになるんだろ、と不満を抱きつつも、今は無視をする。

「西宮楓さん二十四歳は自殺を断念しました」

『うむ、それは良かった』

「ただし、契約までには漕ぎ着けられませんでした」

『なんで!? だって事前に仕入れた情報じゃあ、十中八九上手くいくって話してたじゃん! 色んな所に頼み込んで、結構な金をつぎ込んで集めた個人情報だぞ!? お涙頂戴みたいな代物も掻き集めたのに……何やってんだよ謙太郎! 出来るって言ったんだから結果出せよ!』

「言ってませんよ! 社長が独りで『いけるいける。大丈夫だって』とか言ってたんじゃないですか! 大体僕が言ったじゃないですか、『夢売り』っていう名前じゃあ警戒心を抱かれますよって。予想通り警戒されてたし……。それに加えて、僕が高校生なのも怪しまれる要因の一つですよ」

『バッカ! それでも何とかするのが営業だろうが!』

「無茶言わんで下さいよ。大体『夢売り』なんて不思議な名前を付けてますけど、やってる事は金融、金貸しじゃないですか。それも不認可。そこらにある町金融と何が違うんですか? むしろ『闇金です』って言った方がマシなんじゃないですか?」

『バーカ。闇金なんて言って、誰が貸してくださいって言うんだよ』

「だからって奇抜すぎるでしょ」

『言っとくがな、実際自殺志願者を救った上に、金を貸してやろうってんだ。十分に夢みたいな話じゃねぇかよ』

「……でも僕たち慈善活動家じゃないですし、結果も伴ってきませんよ?」

『そ、それはあれだ。お前の頑張り次第だ』

「なんで挙動不審みたいな声になってるんですか? まさか、この名前じゃあ駄目だって思ってるんじゃないですか?」

『バ、バカ言うなよ。俺はいつでも大マジだしなよな』

「口調がおかしくなってますよ」

『――ぐっ……。とりあえず! とりあえず当分はこのままで頑張ってくれ! じゃね――……』

「あっ、待て――……」

 謙太郎は携帯電話から耳を離して不愉快にディスプレイを睨み、「逃げたか……」と舌打ちをする。そしてもう一回電話して抗議してやろうと画策し、ふと考えた末に断念して、携帯電話をポケットに戻す。

 社長の性格を考え、まぁ何を言っても納得するまで行く人だからな、と抗議を諦めて嘆息。

 しばらくの間気を落ち込ませてから気分を切り替え、欄干に背を預けて空を仰ぐ。

 気付けばずっと向こう側の鱗雲は無くなり、夕焼けが露になっていた。

 そんな空を見ながら謙太郎は述懐を述べる。

「『夢売り』なんて言ってるけど、やってるコトに『夢』がないよな。むしろ『夢を売る』じゃなくて、やらされている自分の方が『夢を売らされている』ような感じだな」

 まったく……『夢』なんかありゃーしないな。

 欄干に体重を預けて背中を仰け反らせ、ぼぅーと空を眺める。

 目も口も腕も足も頭までもが力を抜いた。

 ピュ―、と冷たい風が下方から吹き上がり、耳元を掠めていく。

 大道謙太郎はズボンの後ろポケットから煙草の箱を取り出し、一本抜き取った。そしてそれを口に挟んで西宮楓を思い浮かべ、ふと羨望に耽る。

「『夢』……欲しいなぁ」

 ……とぼやいて。

読んでくれた方に――――感謝!

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