遠春
侵入者対策のパトロール任務が回ってきた。いつものようにして、木版に書かれた警戒区域に目を通す。面倒でも自分の警戒範囲だけはちゃんと隅々まで見るようにする。それがここの掟だ。
ふと見上げると晴天だった。サクサクと小気味良い音を立てながら雪が跳ねる。こういう日は珍しいな、と僕は思った。
今日も順調だな。と休憩しようとした時に、この辺りにしては珍しい花を握りながら倒れている女が岸壁スレスレのところに突如現れた。髪に積もる雪の量からすれば、鮮度的には間違いなくまだ生でも食える。
花なんか食い物にもならないのに。一体こいつは何をしに来たんだ?
これは回ってきた情報の侵入者と完全に一致している。だからまず僕がやるべきことは、こいつを氷漬けにして見せ物にして、二度と僕たちの住処に人間が足を踏み入れさせない環境を作ることだ。
そのはずだったのだが。
「……んぅ?」
「……おいおい、今目を覚ますのは違うだろう?」
人間が単独でここに来るはずがない。だから情報を吐かせるべく、凍死しかけていた少女の為に、わざわざ小指を溶かしかけながら、慣れない暖炉を起こし、近くに置いていた時に、目を覚ますとは思わなかった。
痛めつけて吐かせるか、食うか、見せしめに凍らせるか。数秒ほど悩んだ挙句、吟味する為に僕は食する為に近付いた時、ふわりと花の香りが鼻腔をくすぐった。
それは、思い出の花だったのだ。
「雪隠草か。良い趣味をしているな」
「えっ。……と。あなたは?」
僕は少しだけ彼女から距離を置いた。
暖炉は炊くのが大変だし、なによりも熱い。指先から溶けてしまいそうだ。
「もしかして、雪隠草をご存じですか!? やったぁ!」
彼女はその瞬間、およそ人間とは思えないほどの喜びを爆発させた。飛び跳ねるその姿、破顔した目尻の皺。その輝きは、確かに僕の冷え切った瞳を焦がした。
──「この花束を作りたいんです!」
かつて、彼女がそう言ったから。
だから僕は今でもこうして雪隠草を探そうとしてしまうんだろう。
雪隠草はとかく高く売れる。僕の価値とは裏腹に。
「君もさ、所詮は自分の財産欲しさにやってるんだろ?」
いつも通りに、間違いなく彼女のツボにハマる話をした後に、ふと聞いてみた。
「え、なに?」
聞いてないのかよ。
「雪隠草が何かを知っているか?」
そこから僕は、彼女に語れるだけ語ったけども、全く伝わっていないのが彼女の表情からよく分かった。
きょとんという擬態語が正に似合うようにして、彼女は顔を傾ける。
溜息をつきながらも、何故自分はこんな少女に付き合っているんだろうと自分を振り返るのだ。
こんなもの、さっさと食っちまう方がよほど効率的だ。エネルギーにもなるし。
だが、もう少し肥えていた方が良いな。
少女の名はルチアといった。
僕の中では食用にするつもりだったのに気が付けば居着いていて、毎日凝りもせず雪隠草を探しては、下らないことで屈託もない笑顔を振りまいていた。
僕がいくら嫌味を言ったところで「でも、優しいものね」と笑ってくれる。
人間とは、これほどまでに鈍感で、そして暖かい生き物なのか。
だが、そんな日常が崩れるのは一瞬の出来事だ。それはとある晩だった。
「レヴィ。お前に侵入犯匿いの疑いが出ている。ここを開けろ」
外から聞こえてきたのは、同種族の氷鬼たちだった。
大人しく扉を開けながら、僕はヘラヘラと笑う。
「おやおや、長老方の忠実な犬どもが勢揃いか。僕の冴えない住処に何の用かな?」
返答の代わりに、氷のように硬い拳が僕の頬を打ち抜き、僕は倒れた。そのままずかずかと上がり、ルチアを探している。
なるほど。本気というわけだ。わずかに熱い氷血を口内に啜りながら思う。
「……ルチア。死ぬ覚悟を整えておけよ。氷鬼ってこういう生き物だからな!」
僕は立ち上がりながらあくまでも不敵に。そしてルチアへ向かう氷鬼より先に暖炉へと走った。
全力を出していたつもりだったが、少しの疲労があったのか、ジュウと音を立てながら指先から溶けゆく手を庇いながら、決死の覚悟で暖炉から一つの炭を取り上げて、氷鬼に投げる。
やはり死ぬほど痛い。
僕が投げた炭は氷鬼の胸部に当たった。絶叫が響き渡る。
自らの身体を溶かしながら平然と熱塊を投げる僕の狂気に気圧されたのか、あるいは溶けゆく同胞の姿に恐れをなしたのか。奴らは一瞬足を止め、苦々しく吐き捨てた。
「……狂ったか、レヴィ」
「まだ長居するつもりかな? 君も水になってみるか?」
ニヤリと笑ってみせると、奴らは舌打ちをしながら吹雪の中へと姿を消す。
緊張が途切れ、膝から崩れそうになる。その寸前のところで、ルチアが僕を受け止めた。
「なんで、なんでこんなこと……!」
「……さぁね。食い物を横取りされたくなかっただけさ」
泣きながら僕の身体をさする彼女の体温は、氷鬼である僕にとっては何故か心地がよかった。
ただ、素直になれなかった僕の視線は、彼女が抱きかかえるようにして持っていた雪隠草に吸い込まれる。
「君こそ、なんでこんな草に執着しているんだ? 金じゃないのは何となく分かってるんだけど」
僕の身体から離れ、雪隠草を持つ両手がふさがる。涙の粒がその両手に零れ落ちる。
「病に伏せている、大切な人がいるんです……」
僕が何も言えないまま、彼女は続ける。パチパチと、暖炉の音だけが静かに鳴り響く。
「あの人の病を治す薬はもう無いけど、最期くらい、最高の笑顔で送り出してあげたいの。その為なら、私の命なんて……」
もしかしたら、僕とルチアは、よく似ていたのかもしれない。
自分の命や保身なんてどうでも良い。ただ、隣にいる人に笑顔でいてもらいたい。
ただそれだけの、救いようの無い愚か者。
「……バカだな、君は」
さすり続けられて流石に熱かった手を、僕はそっとどかした。
胸の奥がきしんでいるのを、確かに感じた。
これが、いつしか本で読んだ「愛おしさ」という感情なのかもしれない。あるいは「悲しみ」なのか。
ただ、間違いなく言えるのは……。
僕がそこからどうやって雪隠草を集めたかだなんて、どうでも良い。
ただ、暖かった思い出だけがそこにあった。
『雪隠草って、「誠実さ」と「あなたの幸福を祈ってる」って意味があるんだぜ』
『雪隠草好きなの? めちゃくちゃ良いセンスしてるね!』
『その感覚、大切にしておいて欲しいな』
あぁ、そうか。駆け巡る記憶を振り払う。今、ルチアの腕の中には、僕も手伝った最高の雪隠草の花束がある。それこそが重要なんだ。
「行ってこい」
「……うん、ありがとう。本当にありがとう!」
ルチアは何度も振り返り、僕に手を振った。そして視界から消え去った。
氷で出来ているはずの自身の身体に、何故か人間と同じような暖かい鼓動が脈打つ。
誰かの幸せを心から願い、静かに引き下がる喜び。
それは、僕が化け物として初めて手に入れた──
──人間らしい心、そのものだった。




