恋は暗器に含まれますか?
暗殺者に、心は要らない。
ロストは、そう教えられて育った。
心は刃を鈍らせる。情は足音を重くする。迷えば死ぬ。迷わせれば殺せる。だから彼女は、闇の奥から下された命を疑わなかった。
「先代・飛影を消せ」
羊皮紙には、短い指示が並んでいた。
裏切り者の暗殺者は、辺境の町の教会に潜む。
護衛が近くにいるとの情報あり。
薬草師見習いとして入り込め。
ロストは羊皮紙を燃やした。
薬草師は、よい偽装だった。毒草を持っていても疑われにくい。施療所に出入りできる。茶を淹れても不自然ではない。脈を測る名目で、肌にも触れられる。
標的の顔は、現地で確かめればいい。
七つの宿場と二つの森を越えたのち、ロストは辺境の町の小さな教会にいた。
灰色の外套に薬草袋、腰には採取用の小刀。淡い銀灰色の髪を首の後ろで結んだ姿は、旅の薬草師見習いに見えた。ただ、薄い琥珀色の瞳だけが少女らしくない。花を見る時も、人を見る時も、どこから断てば止まるかを測っている。
教会は古く、壁の蔦は白い花をつけていた。昼下がりの光が色硝子を抜け、床に淡い赤と青を落としている。子どもたちが長椅子に並び、ひとりの僧侶の声に耳を傾けていた。
ネビル・マクベス――穏やかな男だった。
柔らかな黒髪。細い指。人の話を最後まで聞く目。武器らしい武器はない。肩にかかる外套も薄く、袖口から見える手首には剣だこも弓だこも見えなかった。
暗殺者には見えない。
だからこそ、暗殺者に向いている。
ロストは教会に入るまでに、出口を四つ、死角を七つ、鐘楼から屋根へ抜ける道を二つ見つけていた。柱の陰に立ち、ネビルを観察する。
子どもが祈りの言葉を間違える。ネビルは叱らず、笑って言い直させる。老婆が花瓶の水をこぼす。ネビルはすぐに布を取り、床へ膝をついた。
背中を向けた。
いまなら距離を測れる。
ロストが半歩だけ重心を動かした、その時だった。
「そこは、祈りに来た人が立つ場所ではありませんね」
ネビルは振り向かずに言った。
ロストは止まった。
声は穏やかだった。けれど、こちらの足音も呼吸も正確に読んでいる。
やはり、ただの僧侶ではない。
「そういう目で坊主を見る女は、だいたい面倒を起こす」
背後から別の声がした。
ロストは振り向かず、袖の内側で小刀の柄に触れた。薬草採取用として見せているが、刃の重心は暗殺用に調整してある。
そこにいたのは、斧を肩に担いだ大柄な男だった。無精髭。雑に結んだ髪。革鎧には傷が多く、顔つきは僧侶の隣に置くには少々乱暴すぎる。
ウィルバー・クレイ。
町に雇われた傭兵、という触れ込みの男だ。
だが、ロストは一目で分かった。斧は大きい。なのに、足音は斧より小さい。あの男は、立っている場所と届く場所が一致していない。
ただの傭兵ではない。
「お参りですか」
ネビルがこちらを向いた。
ロストは小刀から指を離し、静かに一礼した。
「旅の薬草師見習いです。ロスと申します。数日、薬草庫と施療のお手伝いをさせていただけませんか」
半分だけ本当の名だった。
近づく。滞在する。食器に触れる。脈を測る。標的を見定める。そのための申し出だった。
だが、花を片づけていた老女が小さく笑った。
「あらまあ。ネビル様に弟子入りかしら」
「旅の女の子ですって」
「きれいな髪。けれど、少し寂しそう」
ロストは反応しなかった。視線は数え、角度を覚え、逃走経路を選ぶために使うものだ。
ネビルは微笑んだ。
「もちろんです。助かります」
クレイだけが顔をしかめた。
「坊主。やめとけ」
「なぜです」
「あの娘、薬草師にしちゃ手が静かすぎる」
「静かな手は、悪いことですか」
「悪いことをする手は、たいてい静かなんだよ」
ネビルは、二人の間に入るように立った。
「では、まず薬草から慣れていただきましょう」
「そういう話じゃねえ」
その日から、ロストは教会の薬草庫へ出入りするようになった。
ネビルは乾いた束、瓶詰めの粉、煎じ薬、軟膏をひとつずつ説明した。ロストは頷きながら、別の用途を数える。眠らせるもの、痺れさせるもの、血を止めすぎるもの。
薬草庫は、彼女には武器庫に見えた。
ただ、クレイが薬草庫へ入ろうとした時だけ、ネビルは自然にその前へ移動した。
偶然にしては、動きが滑らかだった。
◆
翌日、ロストは茶を淹れた。
湯気の奥に、粉をひとつまみ落とす。月眠草の根を乾かし、黒蛇の胆で練ったもの。匂いは薄く、熱でさらに消える。普通の人間なら、三口で舌が痺れ、五口で心臓が止まる。
ロストは茶碗を差し出した。
「香りを整える薬草を、少し」
嘘ではない。毒草にも香りはある。整えたのは、毒の匂いだった。
クレイは壁際に立ったまま、鼻を鳴らした。
「その茶、妙に匂いが薄いな」
「薄い香りがお嫌いですか」
「坊主。それは一口ずつ飲め」
ネビルは茶碗を見つめた。
「いい香りです」
「だから妙だと言ってる」
「彼女が淹れてくれたものです」
「それで何でも飲むな」
ネビルは飲んだ。
一口。変化なし。
二口。瞳孔に揺れなし。
三口。脈も、呼吸も、指先の震えもない。
それどころか、茶碗の中で黒く濁った毒気だけが、薄い煙のように消えていく。
ネビルは何事もなかったように茶碗を置いた。
「苦いですね。ですが、丁寧に淹れてあります」
毒が効かない。
普通の僧侶ではない。
外で聞き耳を立てていた町娘たちが、小さく声を漏らした。
「手作りのお茶ですって」
「ネビル様、受け取ったのね」
ロストには、その解釈が分からなかった。
茶は毒を盛る器だ。手作りかどうかは、殺傷力に関係しない。
それから数日、ロストは何度もネビルを殺す機会を得た。
鐘楼から吹き針を構えた日、ネビルは迷子の子どもを肩車して戻ってきた。射線は通っていた。だが、彼はどこへ動いても、薪を割るクレイと鐘楼の間に入った。
夕暮れの礼拝堂で背後を取った日、ネビルは死者だけでなく、生者の名まで祈っていた。
今日熱を出した子ども。足を痛めた老婆。薬を飲み忘れる鍛冶屋。朝から何も食べていない旅の少女。
ロストの指が止まった。
朝から何も食べていない旅の少女。
それは、自分のことだろうか。
名ではなく、状態で祈られた。標的に数えられるのではなく、生きている者として数えられた。
呼吸が半拍遅れた。
毒ではない。緊張でもない。原因が分からない以上、危険な反応だった。
ロストは刃を抜かなかった。
理由はいくらでも作れた。今日は人目が多い。今日は逃げ道が悪い。今日は、あの子どもが泣く。
それが理由ではないことだけを、ロストはまだ知らなかった。
◆
六日目の夜、ロストは教会に忍び込んだ。
窓枠は鳴らなかった。床板も鳴らなかった。影は月明かりを避け、呼吸は眠る者より浅い。
寝台の脇に立つ。
心臓まで、半歩。
短剣を抜く。刃は黒く塗ってある。月を返さない。角度をわずかに寝かせ、肋を避ける。
その時、ネビルが目を閉じたまま言った。
「見事です。ですが、最後の半歩だけ、優しすぎる」
ロストの刃が止まった。
ネビルは目を開けた。
驚きも恐怖もない。まるで夜更けに迷い込んだ子どもを見つけたような顔だった。
「あなたは何者ですか」
「僧侶です」
「僧侶は、暗殺の半歩を語りません」
「必要があれば覚えます。身近に、そういうものに詳しい人がいますので」
身近。
クレイか。
「なぜ避けなかったのですか」
「あなたが、まだ刺すべきか迷っていたからです」
迷っている。
その言葉が、刃より深く胸に入った。
ロストは迷わない。迷いは殺す。そう教えられた。だから迷いなどない。ないはずだった。
「私は、あなたを殺しに来たのかもしれません」
対象を確定させるまでは、断定しない。暗殺者として当然の用心だった。
ネビルは静かに頷いた。
「そうかもしれませんね」
「なら、優しくするべきではありません」
「それは難しいです」
ネビルは、刃を向けられたまま一歩近づいた。
ロストは反射的に短剣を引いた。相手が近づいたのに、自分が刃を下げた。その事実に、また呼吸が乱れる。
「あなたが、優しくされることに慣れていないように見えますから」
「優しさは隙です」
「では、私はずいぶん隙だらけですね」
「なぜ笑うのですか」
「あなたが、刺すより先に尋ねてくれたので」
ロストには理解できなかった。
殺しに来たかもしれない相手に、なぜ気遣われるのか。刃を向けている相手に、なぜ近づいてくるのか。自分の迷いを見て、なぜ笑えるのか。
沈黙が落ちた。
その沈黙を壊すように、扉が乱暴に開いた。
「やっぱり窓から来る客だったか」
クレイだった。
斧は持っていない。片手に燭台、もう片方に毛布を持っている。
「坊主、お前、なんでそういう客を歓迎してる」
「窓から来られました」
「入口の問題じゃねえ」
「追い返すべきでしたか」
「普通はそうだ」
「でも、彼女はまだ夕食を少ししか食べていませんでしたし」
「夜食の心配をする場面でもねえ!」
クレイは毛布をロストへ投げた。
「それ被れ。夜は冷える」
ロストは毛布を受け取り、眉を寄せた。
「拘束具ですか」
「毛布だ。倒れりゃ荷物になる」
「私は荷物ですか」
「面倒な荷物だ」
雑で、乱暴で、どこか言い訳のような声だった。
毒はない。針もない。呪いもない。
ただ、温かかった。
「夜に人の部屋へ入るな」
「不都合がありますか」
「山ほどある。坊主相手だと、特にな」
「条件が曖昧です」
「曖昧なのが普通なんだよ」
ネビルが口を開きかける。
クレイが即座に指を突きつけた。
「坊主、お前は説明するな」
◆
七日目の朝、ロストは教会の庭にいた。
灰色の外套には、昨日、町の子どもが挿した白い花が残っている。抜く理由を見つけられなかったからだ。手の中の短剣は、いつもより軽い。だが、抜く動きだけが遅れる。
ネビルは井戸のそばで洗濯物を干していた。白い布が風に揺れ、その向こうで彼はロストに気づいて微笑んだ。
「おはようございます、ロス。昨夜は眠れましたか」
「眠れる状況ではありませんでした」
「それはよかった。眠れない夜は、誰かと話すのに向いています」
「殺すのにも向いています」
「では、半分同じですね」
「同じではありません」
そう言ったのはクレイだった。
彼は教会の壁にもたれ、腕を組んでいる。目は閉じているようで、ロストの指先を見ていた。
「左の親指。動いてるぞ」
ロストは止まった。
「なぜ見ているのですか」
「目についただけだ」
ネビルが洗濯物を干す位置を変える。
白い布が、ロストとクレイの視線の間にふわりと入った。
偶然にしては、二度目だった。
◆
その時、庭の外から拍手が聞こえた。
黒衣の男が三人、門の向こうに立っていた。町人ではない。足音が浅い。腰に武器。視線はネビルではなく、ロストの背にも向いている。
ギルドの者。
「標的を前にして、ずいぶん穏やかな顔をするようになったな、ロスト」
先頭の男が笑った。
「迷う暗殺者に、次の任務はない」
ロストは短剣を構えた。
「監視ですか」
「処分だ」
男の視線がネビルへ移る。
「まずは標的を消す。そのあと、お前だ」
刃が抜かれた。
殺すには、刃が浅い。下手ではない。むしろ、浅くする技術がある。
奇妙なことがもうひとつあった。黒衣の男たちは、ネビルには刃を向ける。ロストにも向ける。だが、クレイの前だけは、不自然に踏み込まない。
クレイは驚いていなかった。
斧に手はかけている。だが、抜いていない。
ロストを見る。ネビルを見る。それから、またロストを見る。
まるで、答えを待っているように。
それでも、黒衣の刃はネビルへ向かっていた。
ネビルの胸へ。
その瞬間、ロストの中で何かが跳ねた。
標的を奪われる不快。
任務を汚される不快。
いや、違う。
それだけではない。
あの男が倒れる姿を、まだ見たくなかった。
ロストは、考えるより先に動いていた。
飛び込んだ男の手首を弾き、刃の軌道を逸らす。二人目の足を払う。三人目の投げ針を袖で受け、井戸の縁へ叩きつける。
守る動きだった。
自分でそう気づいて、ロストは息を呑んだ。
「何の真似だ」
黒衣の男が低く言った。
「お前は暗殺者だ。守るなど似合わない」
その通りだ。
ロストは殺すために育った。誰かを守る訓練など受けていない。盾の持ち方も、庇う時の姿勢も知らない。
ただ、ネビルに刃が届くのが不愉快だった。
それだけは、はっきりしていた。
「私は、まだ標的を見定めていません」
「ならば、見定めろ」
「違います」
ロストは短剣を構え直した。
「まだ殺すと決めていない者を、他人に殺されるのは不愉快です」
クレイが小さく笑った。
「物騒な理屈だな」
「問題がありますか」
「いや。今は、それでいい」
戦いは長くなかった。
ロストは速かった。殺すために覚えた動きは、命を取らずとも相手を止められた。
ネビルも動いた。
祈りの言葉とともに、黒い刃を受けた手から闇がほどける。毒も、呪いも、殺意のこもった影さえ、彼の掌に触れた途端に薄れて消えた。
同時に、彼は常にクレイの死角を潰していた。
祈りの声は穏やかなのに、立ち位置だけは護衛のものだった。
やはり、この男はただの僧侶ではない。
ロストはそう思った。
そして同時に、そうであってほしくないとも思った。
やがて、黒衣の男たちは地面に倒れた。
誰も死んでいない。
ロストは自分の短剣を見た。刃に血はついていない。それが不思議で、少しだけ落ち着かなかった。
ネビルが歩み寄る。
「助けてくださったのですね」
「違います。まだ殺していないだけです」
「では、今なら殺せますよ」
ネビルは逃げなかった。
ロストは短剣を上げた。
間合いは近い。踏み込みは要らない。心臓まで、あと半歩もない。
殺せる。
命令は終わる。迷いも消える。自分は暗殺者に戻れる。
けれど、刃は動かなかった。
「今日は殺しません」
ロストは言った。
ネビルは微笑んだ。
「明日は?」
「未定です」
「では、明日もお茶を用意しておきます」
「毒は効かないのでしょう」
「毒がなくても、お茶は飲めます」
ロストは少し考えた。
「毒のない茶に、意味はありますか」
「ありますよ。たぶん、あなたが思うよりずっと」
呼吸が、また半拍遅れた。
痛みではない。毒でもない。呪いでもない。
だが確かに、何かが刺さっている。
「これは毒ではありません」
「はい」
「刃でもありません」
「はい」
ロストは、自分の胸に手を当てた。
「世間には――恋、というものがあると聞きます」
ネビルは少しだけ目を伏せた。
「……ええ」
「恋は、暗器に含まれますか?」
ネビルは困ったように笑った。
「いいえ」
「では、防ぎ方が分かりません」
「私にも、よく分かりません」
クレイが盛大にため息をついた。
「暗殺予告を逢い引きの約束に変えるな、坊主」
ロストは首を傾げる。
「逢い引きとは何ですか」
「明日、教えます」
ネビルが答えた。
「お前も答えるな!」
ロストは短剣を収めた。
なぜかは分からない。
ただ、明日という言葉が、任務より少しだけ重く聞こえた。
◆
その夜、クレイは教会の扉にもたれ、空を見上げていた。
月は細い。暗殺にはいい夜だ。
まったく、面倒な娘に育ったものだ。
クレイは胸の内だけで笑った。
ロストはまだ知らない。
飛影に先代など存在しない。
飛影とは、暗殺ギルドの首領ただ一人の名。
そしてその名を持つ男が、斧を担いでずっと傍にいた、父であることを。
ネビルも知らない。
この七日、己が護衛ではなく、婿候補として見られていたことを。
知らせれば、あの坊主は悩む。悩めば、あの娘は刃の揺れを読む。だから何も知らせなかった。
合格、とまでは言わない。
あの娘は恋を知らない。殺し方は知っていても、人と並んで歩く速さを知らない。あの坊主は人を救うことは知っていても、惚れられる面倒を知らない。
ならば、もう少し見てやるしかない。
飛影としてではなく、父親として。
クレイは肩の斧を担ぎ直した。
「明日の茶には、毒が入らねえといいがな」
今回は「恋愛」というジャンルに初挑戦してみました。
当事者と周囲から見たギャップを書きたかったので、ロストのどうにも不器用で、どこか可愛らしい“恋の始まり”を感じ取っていただけたなら、作者としては嬉しい限りです。
恋は暗器に含まれるのか。
見せた瞬間に効力が変わるあたり、むしろ暗器より厄介なのかもしれません。




