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妻が「コン コン コン!」と咳をすれば必ず問題発生!

作者: 仲瀬充

前編


 私の妻である立杉(たちすぎ)伽羅(きゃら)は名前どおりにキャラが立ちすぎている。国語教師で弁が立つせいもあって生徒たちによくほらを吹いていたらしい。自分は平安時代の有名な陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明(あべのせいめい)の子孫だとも言い張っていたようだ。私が疑うと妻は次のように説明したがどこまで本当なのやら分からない。江戸時代に安倍晴明の子孫で安倍革望(あべのかわもち)という貧乏な神主がいた。その安倍革望が生活に窮して武士の立杉家への養子縁組を申し入れて一人娘ハギの婿(むこ)になり自分はその末裔(まつえい)なのだと。私は笑って話を混ぜ返した。

「まるで安倍川餅(あべかわもち)とおはぎの結婚みたいじゃないか」

すると妻は真顔で言った。

「それなのよ。私、子供のころ欲張って安倍川餅とおはぎを一緒に頬張って気を失ったことがあるの。その時から超能力も身についたみたい」

どうにも信憑性(しんぴょうせい)に欠けるが一応どんな超能力か聞いてみると本人は何かしらあるみたいという程度でいたって暢気(のんき)である。ただ妻は風邪もひいていないのに時々「コン、コン、コン!」と狐の鳴き声みたいな(せき)をする。安倍晴明の母親は狐の化身(けしん)だったという説話があるから気になってしまう。それに妻が奇妙な咳をすると必ずと言っていいほど厄介な問題が起きるのである。身についたのは超能力ではなく疫病神(やくびょうがみ)かもしれない。そんな妻が60歳で定年退職すると自宅を改装してカフェバーをやりたいと言い出した。平凡なサラリーマンで妻と同い年の私も退職したばかりだったので異存はなかった。と言うより、安倍革望さんと同じく立杉家の婿養子である私に反対できる覇気(はき)はない。そういう次第で『かふぇばあ・クラウド』を妻と二人で始めて1か月になる。私が情報関連の企業に勤めていたことから「IT用語のクラウドから名付けたんですか?」と言う客が多いので妻は「この店をお客さんの『お気に入り』に登録してくださいね」などと応じている。

「コン、コン、コン!」

カウンター内の椅子に腰かけて妻と世間話をしているといきなり妻が咳をした。すると今日は平日でしかも開店早々の時間なのに若い男性客がドアを開けた。

「いらっしゃいませ。よろしければカウンターにどうぞ」

あえてカウンターを勧めるからには妻のアンテナに引っかかる客なのだろう。

「ずっと気になってたんです。今日は仕事が休みなので思いきって来ました。いいお店ですね」

「いえいえ、年寄り夫婦の道楽なんですよ」

妻がコーヒーをソーサーにのせてカウンターに置くと青年がしばらくして言った。

「あのう、間違ってたらごめんなさい」

「何でしょう?」

「今、ママさんが道楽だとおっしゃいましたが、お店の名前はひょっとしてそのシャレですか?」

超能力者を自認する妻が超能力者に出会ったように目を丸くした。

「お客さんが初めてですよ。クラウドを逆から読めば『道楽』になることを見抜いたのは。頭がいいんですね」

「そんなことありませんよ。『宿(やど)』をひっくり返して『ドヤ街』とか、『(さが)す』をひっくり返して『ガサ入れ』とか言ったりしますから」

「へえ。まるで刑事さんみたいだ」

私がそう言うと客の青年は「あっ!」と口を押えた。

「見抜かれちゃいましたね」

頭をかきながらそう言うと、僕の名前もシャレなんですと彼はカウンターの紙ナプキンに「忠野慶次」と書いて見せた。

「『慶次』は『よしつぐ』と読むんですが友だちには『お前はただの刑事だ』なんて言われてます」

そう言って爽やかに笑った。私はいっぺんでこの青年が気に入った。

「刑事さんなら毎日事件に追われて大変でしょう?」

「そうですね。でもこの辺は住宅街なんで事件らしい事件はありません」

そう言ったあと彼は「事件と言えば……」と呟いて黙った。

「事件じゃないんですがどうにもわけが分からないことがあって。聞いてもらえますか?」

催促せずに待ったかいがあって彼は自分から話し始めた。

「恥ずかしい話ですが、僕の母親は僕が小さいころに男をつくって家を出て行ったんです。父親が男手一つで育ててくれたんですが、その父親が亡くなる直前に一つやり残したことがあると言ったんです」

妻は興味津々といった顔で聞いている。

「自分が死んだら母親に届けに行ってくれと手紙を渡されたんです。中身を聞くと、僕と母親で二人一緒に読んでほしい大切なことが書いてあるとしか言いません。僕は母親には恨みしかないので気が進まなかったのですが遺言なので父親が亡くなったあとに出かけました。母親は愛媛県の下灘(しもなだ)というところにいるはずだと聞いていました」

私はテレビのCMで下灘の風景を見たことがあった。

「下灘と言えば予讃線で松山から宇和島に行く途中の海辺の町ですね。お母さんは見つかったんですか?」

「ええ、小さな町でしたので母親の所在はすぐに知れました。訪ねて行くと、皮肉なことに今度は自分が男に捨てられて一人きりで暮らしていました」

「でも、よかったですよね。すぐに見つかって」と妻が言った。

「ところがママさん、僕が名乗ると人違いだと言い張るのです。僕は母の面影を覚えていましたから人違いのはずはないんです。厳しい口調で問い詰めたらとうとう認めました。『だって、苦労をかけたあんたにどんな顔をして私がお母さんだよって言えるのよ……』そう言って泣き出しました」

彼はここで言葉を切ってうつむき、涙もろい妻もうっすらと目に涙を浮かべた。気を落ち着けるかのようにコーヒーを口にして彼は話を続けた。

「不思議なのはその後です。手紙を届けに来たわけを話して母親の目の前で手紙の封を切りました。すると、封筒の中には白紙の便せんが1枚入っているきりでした。僕は慌てました。親父が入れ間違えたのかと思って帰宅して探したんですが、それらしい書き付けは見つかりません。どういうことなのでしょう?」

彼はそう言って妻と私を交互に見た。

妻は頷いて言った。

「お母さまは今どうしていらっしゃるの?」

「私が連れ帰って一緒に住んでいます」

「あなたの疑問の答えはもう出ているじゃありませんか。お父さまがやり残したことというのは、あなたをお母さまに会わせることだったのですよ」

あっ!と驚く彼に私が妻の話を補った。

「別れたのは夫婦の勝手なのに、産んでくれたお母さんをあなたが恨みっぱなしで生きていくのがお父さんには心残りだったんでしょう。お母さんを引き取ってまでくれて、お父さんはあの世できっとあなたに手を合わせて喜んでおられますよ」

彼の頬を涙が伝った。私たち夫婦も含めた3人は無言でしばらくのあいだ静かに流れる時間の中にいた。

「ようやくこれまでの胸のつかえがおりました。ありがとうございました」

彼は頭を下げ、残ったコーヒーを飲みほして立ち上がった。そしてドアを開けながら振り向いて晴れやかな顔で言った。

「また来ます」

どうやらクラウドを「お気に入り」に登録してくれる客が一人増えたようだ。



 忠野刑事が再び顔を見せたのは最初の来店からひと月ほどたった頃だった。

「いらっしゃい、刑事さん」

「マスター、『刑事』は止めてもらえませんか。それに丁寧な言葉遣いもこそばゆいです」

「分かったよ、(けい)ちゃん。これでいいかな? 本当は『よしつぐ』だろうけど」

「嬉しいです。親父と話してるみたいです」

そう言って微笑んだが慶ちゃんはすぐに真剣な顔になった。

「今日は仕事でお邪魔したんです。ある事件の現場検証なんですが、後で駐在の巡査も来ます」

お冷を運んできた妻が言った。

「ひょっとしたらシズさんの件じゃありません?」

「え、どうして分かるんですか?」

説明はあなたに任せるわという顔で妻が私を見た。このクラウドに時々80歳を過ぎたシズさんという一人暮らしのお婆さんが立ち寄る。重そうな買い物袋を提げて歩いているの見かねて妻が声をかけたのがきっかけだった。

「休憩がてらお茶でも飲んでいきませんか。お代は結構ですから」

それ以来シズさんは買い物帰りにウーロン茶を飲んでいくようになった。私たちが代金を受け取らないのでシズさんは時々買い物袋の中からバナナなどを出して置いていったりする。1週間ほど前、そのシズさんが妻に頼みごとをしてきた。ある若者を連れてくる、自分は一足先に出るが店のドアの外に財布を落とす、若者がそれをどうするか見届けてほしい。妙な依頼だが何かわけがあるのだろうと思って妻は引き受けた。それから数日後のことだった。

「コン、コン、コン!」

妻が咳をしたのが合図であるかのようにシズさんが一人の若者を連れて来た。二人は窓辺のボックス席に座った。シズさんは若者のために大盛りのピラフを注文し自分はオレンジジュースを飲んだ。

「おっかさんが亡くなってこれから一人でどうするんだい?」

「とりあえずバイトしながら職をさがします。けど、借金の取り立てが厳しくて」

「馬鹿だね、闇金融なんかに手を出すからだよ」

カウンターの中にいても二人のやり取りは聞き取れた。それからも二人はしばらく話をしていたがシズさんが立ち上がった。

「まあ、せいぜい頑張るんだね。じゃ、アタシは帰るよ」

そう言って二人分の支払いを済ませ、シズさんは妻に目配せをして出て行った。少したって若者もピラフを食べ終えて立ち上がり、私と妻に「ごちそうさま」と声をかけて店を出た。その後妻と一緒にドアを開けて見てみると財布は見当たらず、若者は店の前の道路を渡って急ぎ足で立ち去るところだった。

「ママさん、どうだった?」

翌日、シズさんがやって来た。ということは、若者が財布をシズさんの家に届けに行かなかったことは明らかだ。

「すぐに確かめましたけど財布はありませんでしたよ」

「あいつが持って行ったんだね。まあ、それはそれでいいさ」

「彼とはどういう知り合いなんですの?」

「このあいだアタシが米を買って帰ってたら、重いでしょうって持ってくれたのさ。家に上げてお茶を出したらめそめそ泣き出してね。寝たきりのおっかさんの世話をするために仕事を辞めて、お金がなくなったんで闇金からお金を借りたって言うんだよ」

ウーロン茶を差し出しながら私は言った。

「また何で闇金融なんかに?」

「無職だからどこも貸してくれないんだろうさ。家賃も滞納してるからアパートを追い出されそうだって泣くんだよ。それでアタシがお金を貸してやるって言ったんだけど、返せないから結構ですってさ。そんなところは頑固なんだね」

ウーロン茶をすするシズさんに妻が尋ねた。

「財布をわざと落としたのはどういうおつもりだったんですか?」

「ここかアタシの家に正直に届けたら、失くしたもんだと諦めてたからって言って無理にでもくれてやるつもりだったんだよ」

「残念ながら届けませんでしたわね」

「あいつが借金を返す手助けになるならいいさ。20万ばかり入れといたから」

シズさんは少し寂しそうに微笑んだ。私は20万という金額に驚いた。

「たった一度荷物を持ってくれたってだけで、よくそこまで」

するとシズさんは私の顔を正面からじっと見た。

「たった一度? マスターは簡単に言うけど人の情けはお金には代えられないよ」

シズさんが帰ると妻が言った。

「大事なことを教えてもらったわね。人の情けはお金には代えられないって」

「うん。小さな親切でも身寄りのないシズさんには宝物だったんだろうな。財布を持ち逃げされたことよりも、もう彼に会えないことを寂しがってるように見えたよ」

と、私がここまでのいきさつを話すと慶ちゃんは考えこんだ。

「そうだったんですか。すると話が少し複雑になりますね。田渕という青年が自首して来たんです。滝田シズさんという人の財布をねこばばして借金の穴埋めにつかったと言って」

そこへ駐在所の巡査がシズさんと田渕青年を連れて入って来た。シズさんが慶ちゃんに言った。

「だから刑事さん、昨日も言ったように財布ごとくれてやったんだよ。この子がお金に困ってるって言うから」

青年も慶ちゃんに訴えた。

「違います。財布はこの店のそのドアを開けたところに落ちてたんです。悪いとは思ったけど借金取りに追いかけ回されてたんで黙って持ち逃げしたんです」

「困りましたねえ」

慶ちゃんは私を見て本当に困った顔をした。シズさんが悪態をついた。

「なあに刑事さん、この子は働くのが嫌で刑務所に入ってタダ飯を食おうとでも思ってるのさ。そうに決まってる」

結局、財布の持ち主のシズさんがくれてやったと言い張り被害届を出す気がないので、田渕青年はその場で無罪放免ということになった。慶ちゃんと巡査が店を出たあと妻はシズさんと青年にとりあえずボックス席に座るように勧めた。

「あんたを犯罪者にしたくないから刑事さんの前ではああ言ったけど、お金はちゃんと返してもらうよ」

「はい」

青年は元気よく答えた。

「とりあえず、アパートを引き払ってアタシの家に移るんだ」

「え?」

「アパート代を払ってたらアタシにお金を返す余裕がなくなるだろ? 住み込みで職が見つかるまではこき使うから覚悟しとくんだよ」

「はい……」

青年は今度は小さな声で返事をした。

「あのう、どんなことをすればいいんでしょうか?」

「家の掃除とか庭の草むしりとか買い物の荷物持ちとか、いろいろだね」

不安げだった青年の表情がしだいに明るくなっていった。

「まずは手始めに肩を揉んでおくれ」

「はい!」

青年は立ち上がってシズさんの後ろに回って肩を揉み始めた。

「痛い、痛い! 痛いじゃないか!」

シズさんは叱りながら笑っていた。

その日の夕方、慶ちゃんが仕事帰りに立ち寄った。

「あのあと二人がどうなったか気になりまして」

妻が顛末(てんまつ)を話して聞かせた。

「というわけで、引っ越しやら肩もみやら彼もとんだ罰を受けることになりましたのよ」

慶ちゃんは目を潤ませながら言った。

「素敵な罰ですね」

シズさんはもうクラウドに立ち寄ることはない。買い物袋を持った田渕青年と並んで歩きながらクラウドの前を通りかかると、窓の外から私と妻ににこやかに会釈をして行き過ぎる。






後編


 私の妻の立杉(たちすぎ)伽羅(きゃら)はついこの間定年退職するまで高校の国語教師をしていた。同僚や生徒から「伽羅(きゃら)先生」と呼ばれてけっこう人気があったようだ。近頃はお腹周りがふっくらしてきたので「ゆるキャラ」みたいだが本人には口が裂けても言えない。それはともかく、現役時代のつながりで妻の後輩教師のカップルが時々クラウドにやってくる。女性は田島という国語教師で男性の方は岸田という数学教師だがこの二人はけんかばかりしている。ついこの間も口げんかになって田島が言った。

「岸田さん、あなたはもっと謙虚になって他人への感謝の心を持たなきゃダメよ」

岸田は時々痛風の発作が出て足を引きずっていることもあるがいつも意気は盛んだ。

「ふん、その2項は同義語だ。傲慢な人間が感謝の心を持つはずはないから『謙虚になれ』、あるいは『感謝の心を持て』で十分だね。君は国語の教師だろう?」

こんなふうにたいていは岸田が理屈でやりこめて田島がぷりぷりして帰って行く。あるとき妻が田島に言ったことがある。

「あなたたちけんかばかりしてるけど、嫌いなら別れれば?」

「彼、口は悪いけど悪気はないんです。それが分かってるから憎めないんです」

「ふうん。それならそれでお互い30歳目前なんだし早くくっついちゃえば?」

「でも伽羅(きゃら)先生、女の私からそんなこと言い出しづらいし……」

田島がもじもじするのを妻はじれったそうに見ていた。そんなやりとりがあってしばらくたったころ学校帰りに二人がクラウドにやって来た。

「君は結婚は考えてないの?」

岸田のその言葉を耳にして妻はこの前の田島との会話を思い出したらしく、耳をそばだてた。

「あら、どうして?」

そう言う田島の目は少し輝いたように見えた。

「君もいい年なんだから急いだほうがいいと思ってね」

「え?」

田島の顔と田島を見ている妻の顔がこわばった。岸田は田島の表情の変化は目に入らないらしく朗らかに話を続けた。

「君も女性なら高齢出産のリスクは知ってるだろ? 卵子の老化で染色体異常の子が生まれるリスクが高まるし流産や早産もしやすくなるんだよ。だから君も急いだほうがいいよ」

得意げに諭すような岸田の口ぶりに妻は頭を抱えた。

「余計なお世話だわ!」

今日も田島はぷりぷりして帰って行った。

ところが残された岸田のほうもいつもと違ってしょんぼりしている。妻と私は一緒に岸田のいるボックス席に座った。

「どうしたのよ。いつもならやりこめて勝ち誇ったような顔をするあなたが」

「実は伽羅(きゃら)先生、今日は彼女にプロポーズしようと思って来たんです」

「ええっ?!」

私と妻は異口同音に驚きの声を発した。聞けば、病気がちの母親が気弱になり孫の顔を見て死にたいとしきりに口にするという。

「あきれたわね。プロポーズどころかあれじゃけんか売ってるようなものよ」

「君の専門分野だろうが有名な数学者の岡(きよし)もこう言ってるよ。知や理は情を説得することはできないってね」

「どうすればいいんでしょう……」

私たち夫婦にダメ出しされて岸田は泣きべそをかきそうな顔になった。

「田島さんが前に言ったように、あなたはもっと素直になったほうがいいと思うわ」

「確かに自分でも傲慢だと思います。早くに父親を亡くして、母子家庭の弱みを見せないように突っ張って生きてきたせいでしょうか」

私も妻の応援に乗り出すことにした。

「今、妻が言ったことを実践してみれば?」

「どうするんですか?」

そう言って彼は私を見た。

「謙虚な人間だから感謝の心を持っているのであって傲慢な人間は感謝の心は持てない。この間の君の理屈はそういうことだったね」

「ええ」

「ところが逆のパターンも心理学では広く認められているんだ」

「どういうことですか?」

「例えばだね、『人は楽しいから笑う』と普通は考える。ところが逆もまた真なりで『笑顔をつくれば楽しい気持ちになる』という説があるんだよ」

「そしたら無理にでも感謝の心を持つようにすれば謙虚で素直な人間になれるってことですか?」

ここで妻が具体的な提案をした。

「そうよ。だから誰に対しても何に対しても『ありがとう』と思う習慣をつければいいのよ」

「なんか怪しげな宗教の勧誘みたいですね」

岸田はアドバイスに難色を示したが妻は引き下がらない。

「『袖触れ合うも他生(たしょう)の縁』って知ってるわよね? 道で誰かとすれ違うだけでもそれは偶然ではなく必然だという考えよ。まして田島さんはあなたにとってはすれ違うだけでなくずっと一緒に歩いて行こうって人なんでしょう? だまされたと思うことでもやってみなくちゃ」

公務が忙しいらしくその後二人は姿を見せなかったが、ひと月ほどたって田島が一人でやって来た。カウンターに座って紅茶を飲みながら彼女は言った。

伽羅(きゃら)先生、聞いてください。最近、岸田さんおかしいんです」

「何が?」と妻が尋ねた。

「何かにつけて『ありがとう』って言うんです」

私も妻も自然に顔がほころぶ。

「こないだの日曜にデートして混んでるアーケードを歩いてたんですけど、すれ違う人とぶつかりそうになるたびに彼のほうがよけるんです。それはいいんですけど、自分が道を譲っておいて『ありがとう』って小さな声で呟くんです。私、気持ち悪くて」

私は笑いながら妻に言った。

「まさに袖触れ合うも何とかだね」

妻も笑いながら田島に岸田の変貌ぶりの種明かしをした。それからさらにひと月ほどしてまた田島が一人でやって来た。

「アッハッハッハ!」

田島はドアを開けるなり腰を折ってゲラゲラ笑い出した。

「どうしたの、いったい? はしたない」

一般の客と違って元の職場の後輩だから妻も言葉づかいに遠慮がない。

「すみません、彼の顔を思い出して」

そう言いながらもなかなか笑いが止まらない。妻はカウンターごしに田島が注文もしないのに紅茶を出した。

「何があったの?」

田島は紅茶を一口飲んで笑いをおさめて説明した。

「昨日仕事を終えて帰宅するときに彼と一緒にバスに乗ったんですけど、混んでたので並んで立ってたんです。そしたらバスが揺れた拍子に私、彼の足を踏んでしまって」

また笑い出しそうになって田島は紅茶を飲んだ。

「彼、ちょうど痛風の発作が出ていておまけに私はハイヒールを履いていたんです。だからとっても痛かったはずなのに彼はとっさに『ありがとう!』って言ったんです。激痛に眉をつり上げて歯を食いしばって『ありがとう!』って。その顔があんまりおかしくって私、バスの中なのに大笑いしてしまいました」

そう言って田島はカウンターに左手の(ひじ)を突いて肘から先を垂直に立てた。薬指に婚約指輪が見える。

「彼があの顔で言った『ありがとう!』を思い出せばどんなことでも乗りこえられると思って決心しました。昨日の夜、プロポーズされたんです」

そして彼女は紅茶を飲み終えると「ごちそうさま」と言って幸せそうな顔で出て行った。彼女がドアを閉めると私は妻に言った。

「あんなのろけを聞かされたらこっちが『ごちそうさま』と言いたいね」



 婚約後久しぶりに田島と岸田の教師カップルが来店したが雰囲気がおかしい。

「だから不味(まず)いんじゃなくて味つけをもう少し濃くしてくれって言ってるだけだよ」

「健康に悪いわよ。お母さん、何を考えて料理してたのかしら。だからあなた痛風になったのよ」

「おふくろを悪く言うなよ」

「あなたってマザコンなの?」

そんなやりとりのあと今日は岸田のほうが怒って帰った。残った田島を妻がカウンター席に呼んだ。

「どうしたのよ。この前はどんな困難も乗り越えられるって自信満々だったじゃない」

田島はため息をついた。

「理想と現実は違うんですね。料理一つでこうなんですから。彼って頑固なんです」

「頑固なのはあなたよ。学校の生徒のカップルが手をつないで下校してるのをあなたよく叱ってたわね」

妻が妙なことを言い出したので田島はきょとんとした顔になった。

「私たちが小学生の頃は学校から帰ると友だちと遊んで夕方以降は食事の時もそのあとも一つ部屋に家族がいたものよ。今はどう? 朝食もバラバラ、下校するとすぐに塾、夕食が終われば勉強しなさいって自分の部屋に追い立てられる。高校生ならなおさらよ。だから手をつなぐのもイチャイチャしたいんじゃなくて寂しいからだと私は思うわ」

「物事の背景とか相手の置かれている状況なんかを考えろってことですか?」

「そうよ。岸田さんは母子家庭って聞いたけどお母さんはどんな人なの?」

「リウマチになってやめてるみたいですけどずっと行商をやってたそうです。魚の干物やすり身や乾物を仕入れてそれを小さなリヤカーに乗せて山間部に売りに行くって聞きました。売りつくすと今度は農家で野菜を仕入れて帰って家の近所で売ってたそうです」

ここで私も口をはさんだ。

「さっきの君たちのいさかいだけど、家族でおしゃべりしながら食事する家庭もあれば黙って食べる家庭もあるんだ。どっちが正しいとかじゃない。それと同じで料理の味つけや味噌汁の具もそれぞれの家庭の文化なんだ。岸田さんのお母さんは体を酷使する商売だから味つけも自然と濃くなるんだろうよ」

「難しいものですね」と考え込む田島に妻が言った。

「そう深刻に考えなくてもいいんじゃない。どんどん遠慮なく言い合えばいいのよ。夫婦げんかっていうのは文化の歩み寄りなんだから」

田島の顔が少し明るくなった。

「分かりました。岸田さんのお母さんは体調がよくないので結婚したら同居するつもりですが、頑張ってみます」

妻が感心して言った。

「へえ、お(しゅうとめ)さんと同居するつもりなの? 大変じゃない?」

「車で2時間くらいの距離なのにおふくろは元気にしてるかなあというのが彼の口癖なんです。だから同居してあげれば彼もお母さんも喜ぶはずです。今度の土曜日に泊りがけで婚約の報告に行く予定ですから同居の話も持ち出してみます」

岸田との口げんかはすっかり忘れたような顔で田島は帰っていったが私たち夫婦は顔を見合わせた。

「大丈夫かなあ。同居してあげるっていう上から目線でうまく行くかな」

「ええ。姑との同居ってそう簡単にはいかないわよ」

土曜日の夜に田島が一人でクラウドに入って来た。

いつもの紅茶でなく生ビールを注文した田島に妻が尋ねた。

「今日は泊りがけで岸田さんの実家に行ったんじゃなかったの?」

妻の問いかけに田島は憤然とした口調で答えた。

「私だけ帰ってきました。あんなお母さんのとこの嫁になる気はありません」

「いったいがあったの?」

「結婚したら同居してもいいですってお母さんに言ったら断られたんです。それも、同居したらおならもできないなんて言われたんですよ!」

怒りが冷めやらないようすの田島はジョッキの生ビールを半分近く一気に飲んだ。

「私、頭に血が上って、一人息子を取られたくなくてそんな意地悪言うんでしょう!って言いました」

「そこまで言っちゃって今後どうするの?」

「明日、もう一度彼の家に行きます。お泊り用の着替えなんか入れたバッグを彼の家に忘れて来たんです。それを取りに行って代わりに婚約指輪を返してきます」

何か言ってほしそうな顔で妻が私を見た。

「私から一つ頼みがある。岸田くんのお母さんは体調がよくないんだってね? 明日彼の家に行ったらお母さんの脚を揉んであげてくれないか。最後のいい思い出にもなると思うから」

興奮していた田島の顔が少し穏やかになった。

「マスター、優しいんですね。分かりました、それくらいはやってみます。私もひどいことを言ってしまったのは後悔してるんです」

田島が店を出ると妻が言った。

「あなたのおかげで彼女も落ち着いたようね。でもなぜあんなことを?」

「一種の賭けだね。彼女は感受性は豊かなほうかな?」

「感受性が鈍ければ国語教師は務まらないわ。それがどうしたの?」

「ふむ。それなら少しは期待が持てるかな」

翌日の日曜の夕方に田島が来るとすぐに妻が聞いた。

「どうだったの?」

「婚約指輪を置いて帰って来ました」

妻の顔は曇ったが田島本人の表情は明るい。

「マスターのおかげです。お母さんは最初嫌がりましたけどうつぶせになってもらって背中から腰と揉んでいったんです。揉んでいるうちに涙が出てきました」

田島は話しながら涙声になっていった。

「膝から下が細い棒のように硬くてかちかちなんです。行商しながら女手一つでどんなに苦労して岸田さんを育ててきたのか、揉む手を通して伝わってきました」

私は我が意を得たりと腕を組んで頷いた。

「それで私、岸田さんに言ったんです。こんな有り難いお母さんにひどいことを言うなんて私に嫁になる資格はありません。お母さんを大事にしてあげてくださいって。マスター、私のいたらなさに気づかせてくれてありがとうございました」

「コン、コン、コン!」

田島が涙ながらに私に頭を下げると同時に妻が例の咳をした。感動的な空気がぶち壊しになったところへ岸田があたふたと店の中に入って来た。

「ああ、よかった。やっぱりここだったんだね」

岸田はポケットから指輪を取り出すと田島の手を取って薬指にはめた。あっけにとられている田島に岸田が言った。

「君が出て行ったあと、おふくろに叱られたんだよ。何をぼんやりしてる、早く追いかけろ! あんないい嫁がいるものか!って」

額の汗を拭きながら岸田は続けた。

「それで急いで出ようとするとおふくろは痛む足を折って玄関の板張りに正座して『こんな息子だけんどよろしくお願いします』君はいないのにそう言って頭を下げるんだよ。『こんな息子』の僕は複雑な気分だけどね」

黙って聞いている田島と妻の涙腺がゆるんだ。それからというもの、田島と岸田は週末ごとに岸田の実家へ出かけるようになった。そんなある日、岸田が出張とのことで田島が一人でクラウドに来た。

「その後どうなの? 岸田さんのお母さんとは」

妻が尋ねると田島は嬉しそうに答えた。

「彼の実家で私がお料理を作ることもあるんですけど、薄味でも美味しそうに食べてくれます」

「雨降って地固まるってやつだね。一件落着だ」

私も安堵したが田島は浮かぬ顔で言った。

「でも、結婚後の同居はやっぱり気が進まないふうなんです。どうしてそこだけ意地を張るんでしょう?」

「それは頑固なんじゃなくて逆に君たちを気づかう優しさだよ。この前妻が言った高校生の手つなぎと同じで、お母さんの身になってごらんよ」

そう言って私は妻に話を振った。

「そうよ。同居した場合のことを具体的に想像してごらんなさい。テレビのどの番組を見るかっていう些細なことでもあなたたちとお母さん、お互いに気をつかうと思うわ。あなたたちの前で一人のときのように気楽に寝転ぶこともできないだろうし。風呂に入る順番だって遊びに出かけるときの誘いだって遠慮の行ったり来たりになるはずよ」

私も言葉を添えた。

「お互いの思いやりがあればこその不自由さなんだね。だからおならもできないというのも嫌味じゃなくてお母さんの実感だろうよ。対面商売の行商でお母さんは人情の機微に触れてきたんだから人の思いやりを察知するという点では君たちの先生だ」

田島の顔が晴れた。

「私、なおさらお母さんに同居してもらいたくなりました。おならをしてもらえるように頑張ります」

弾む足取りで帰って行く田島を見送ったあとで妻が言った。

「ブラウニングの詩じゃないけど、『すべてこの世はこともなし』ね」

店を閉めながら私も妻の顔を見て頷いた。私は寂しい人が好きだ。殺伐(さつばつ)とした現代を生きていればまともな人ほど孤独になる。そんな人たちが妻の咳に導かれるようにやって来る。彼らがこの店で少しでも癒やされるのなら妻は超能力の持ち主と言っていいのかもしれない。

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