“狸”のお困りごと
3
『コーン』と音を立てて、鹿威しが次に流れていく水を受け止めている。
川の流れのように手入れの行き届いた石庭。中央には松の木──枯山水と言うらしいんだけれど、俺の中ではとても格好いい庭という、小学生みたいな感想しか出てこない。去年まで住んでたというのに。
俺たちは霊園からまっすぐ帰宅した。料理の支度をするからと台所の方へ消えていった伯母を見送ると、俺は絵本さんを連れて居間へと向かった。
座布団を敷くと、絵本さんは姿勢を正して座る。まるで借りてきた猫のよう……言葉に出すと怒られそうだ。言わないでおこう。
俺は向かい合うように腰を下ろし、胡座をかいた。
鹿威しが2回ほど『コン』と鳴ったとき、絵本さんは口を開いた。
「ねぇ、網代くん」
「ん、なんだ?」
「何でこのご実家を出たの?わざわざ一人暮らしをしなくても、電車で通うことだってできたでしょ」
「……俺は早起きが苦手なんだ」と嘘をついてみる。
「そうなんだ……わたしも苦手」
何度か言葉を呑み込むような間があった。彼女はそう言って、石庭を眺めていた。
万菜花さんにあんなことを言っておいて、俺も平気で絵本さんをはぐらかす──。もしかすると、伯母も言いたくない事情でもあるのだろうか。
やがて運ばれてきた昼食を済ませると、万菜花さんは口火を切った。いつになく表情は引き締まっている。
俺は思わず膝の上で拳を作った。
「一輝、午後からなんだけど、千蔭ちゃんを連れてここに書いてある場所に行ってきてもらえる?どうやらお困りごとらしいの」
差し出されたメモには住所が記されていた。家からそう遠くない、歩いて行けそうだ。
「良いけど、万菜花さんは?」
「こう見えてわたしは忙しいの」伯母は胸に手を当てた。「分かったならよろしく頼むわね」
そう言って伯母は居間から出て行った。
4
その日の午後、メモの住所を訪ねてみると、そこにあったのは昔ながらの日本家屋だった。築年数が何年かなんて分からないけれど、周囲の家と比べて一際大きい。きっとこの近辺一帯を取り仕切る大地主なのだろう。
インターホンを押して身構えていると、低くかすれた女性の声が聞こえた。
『はい、どちら様?』
「急に申し訳ありません、網代万菜花の使いでやって参りました。甥の網代一輝です」
『あっ、もう来てくれたの?今すぐそちらに向かいます』
玄関の引き戸から現れたのは、小柄な女性だった。幼稚園の先生のようなエプロンをかけ、黒く長い髪は後ろで1本に束ねられている。年齢は50から60代といったところか。
「こんにちは」俺は軽く会釈した。
「どうも、こんにちは。わざわざ来てくれてありがとね」
「あの、それで伯母からお困りごとだと訊いたのですが、何かあったんですか?」
「ええ、そうなの。ああ」小柄な女性は思い出したように言った。「立ち話もなんだから、入って。散らかってるけど」
「いえいえ、失礼します」
お言葉に甘えて、居間にお邪魔した。腰を下ろすと、肩にかけていた手提げ袋から絵本さんが出てきた。瞳孔を黒々と広げて、周囲を見渡している。
「あら、可愛い。種類は?」
「えっと……」俺は後頭部を掻いた。「すみません、分からないです。先月から一緒に暮らし始めてて」
「おとなしくて良い子じゃない」
「はい」俺は笑顔を作った。お困りごとを訊きに来たはずなのに、話が逸れてしまっている。何とか本題に持っていかないと。
俺にはお茶を、絵本さんには牛乳を出してくれた。お茶を半分ほど飲み終わるまで、猫談義に花を咲かせた。そして思い出したように、小柄な女性は手を叩く。
「あら、ごめんなさい。すっかり話に夢中になっちゃって忘れちゃってたわ」
「いえいえ、楽しかったですよ」
「ありがとう。そう言ってくれるのは坊やだけよ」
閑話休題。女性はお困りごとについて話し始めた。
女性は現在、5歳年上の夫と6歳の孫。計3名で暮らしているという。
孫の名前は、活字佰。口ぶりからして、お困りごとというのは孫に関わることのようだ。
「先週の水曜日、いきなり学校から電話がかかってきて、先生がこう言ったの。『もしかして佰くん、そちらに帰っていませんか』って」
活字佰がいなくなったのは昼休みのこと。体育館で一緒に遊んでいた友人の証言によれば、彼はいきなり血相を変えて体育館倉庫に走っていったという。
そして跡形もなく消えた。
代わりにそこに残されていたのは、狸の置物だったという。
教師はそれを回収し、持ち主が現れるまで職員室に置いておいたそうだ。
教師と友人、そして女性と夫も日が落ちるまで行きそうな場所を探した。そして数時間後、何事もなく佰は自宅に帰ってきた。
「無事に戻ってきたのなら、困ってはいないですよね?」
「この話には続きがあるのよ」
一昨日の夜のこと、佰の部屋のドアが開いていることを不審に思った女性が、中を覗いてみると彼は再びいなくなっていた。玄関にあった靴は残されていて、部屋の窓が開いていたことから、窓から出たのだろうと考えた。
だが、部屋は2階。6歳の子供が降りられるような高さではなかった。
「それで、もう1回部屋の中を調べてみたの。暗くてよく見えなかったから、見間違いなんじゃないかって。そうしたら……」
ベッドの上には狸の置物があった。
「また狸ですか」
「そう。その後、朝まで佰を探したんだけど見つからなくて。家に帰ってるかもしれないからって戻ったら、ベッドで気持ち良さそうに寝てて」
やはり何事もなく彼は帰ってきた。
この一連の失踪事件を、俺の伯母に話したところ、解決してくれそうな人に心当たりがあるからと言ったそうだ。まさか、俺たちだったとは。
「その狸の置物って、今はどこにあるんですか?」
「それが……どこにもないの」
「学校にもですか?」俺は眉をひそめた。
「ごめんなさい。それは分からないわ」
「そうですか」
「網代くん」絵本さんは言った。「佰という子の部屋を見せてもらえるか、頼んでみてくれる?」
俺は女性に気づかれないように小さく頷いた。
「あの、佰くんの部屋を一度見せてもらえませんか?」
「ええ、いいわよ」女性は快く了承してくれた。
階段を上がって正面にその部屋はあった。勉強机に本棚。ベッドの上にはタオルケットが綺麗に畳まれていた。
俺の足の隙間を縫って、絵本さんは入室した。窓枠に飛び乗ると、外を見下ろした。
「瓦の上をそっと歩いて雨樋をつたっていけば降りられそうね」
ここで俺が相槌を打てば、背後の女性はどう思うだろう──。
そう考えた俺は、瞬きだけで返事をした。
「あとはその、狸の置物ね。網代くん、もうここは後にして小学校へ向かうわよ」
「部屋、見させていただきありがとうございました」俺は女性に頭を下げた。「お孫さんが通っているのはどこの小学校ですか?」
女性から小学校の位置を訊き、俺たちは早々にその家を後にした。
5
小学校は俺の母校だった。
4年ぶりの来訪にどこか懐かしさを感じる一方で、過去に引き戻されたような居心地の悪さを感じる。背の高さをゆうに超える校門を見上げ、俺は立ち止まった。
「網代くん?入らないの?」
肩に掛けた手提げから絵本さんが言った。カリカリと内側から掻いて急かしてくる。
「ごめん、何でもない」
さて、この校門をくぐるとして、一体誰に話を訊けばいいのだろう──。もう4年が経ってしまったから、知っている先生も少なくなっているはずだ。
ふと、花壇に水をやっている男性に目が転じる。先ほどまでの俺の心配は杞憂だった。
「教頭先生」俺は花壇に駆けていった。
「お?」教頭先生は振り向くと、目を見開いた。「網代くんか?大きくなったな」
「お久しぶりです」
教頭先生は、校庭の遊具で1人で遊んでいる俺を見てよく声をかけてくれた。いつも変わらず、青色のウィンドブレーカーに身を包み、親しげな笑みを向けてくれた。
「本当に久しぶりだな。高校はどこに?」
「S町の方です」
「……ほう、そうか。あの辺りは都会だからな」
「はい」
世間話も一頻り済ませて、俺は本題に入る。ここまでの道中で、絵本さんから訊くべきことの指示は、すでに受けていた。
先週の水曜日に起きた失踪事件──。なぜ、活字佰がいなくなった体育館倉庫に狸の置物があったのか。
そして今、職員室に置かれているという狸の置物はどこにあるのか。
教頭先生は口をへの字にして唸ってから、こう答えてくれた。
「もうないよ。気づいたときにはなくなってたから、誰かが持っていったんじゃないかな」
「そう……ですか」
2回失踪して佰は何事もなく戻ってきた。そして2つの事件に共通するのは──狸の置物。
それはもうどこにもない。
こうなってしまっては、本人に会って直接尋ねてみるしかないのかもしれない。
6
夕方になり、この日の捜査を終え帰宅すると、玄関に小さな靴が一足置かれていた。小学生が履いているような大きさで、デザインが男の子寄りに見える。
「おかえりなさい」と言った伯母は、悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
「ただいま」
「今日はいろいろ大変だったでしょ。でももう大丈夫」
「大丈夫って……」何を言ってるんだ、この人は。近くでずっと俺たちを見てきたような口ぶりじゃないか。
「お目当ての人物がいるってことよ。ここに来てるの、あの子が」
「誰だよ。もったいぶらないで教えてくれ」
伯母はつれないなという目で俺を見透かすと、こう言った。
「活字佰くんがここに来ていると言ってるんだ──」




