伯母、網代万菜花からの電話
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車窓を流れるのは、見渡す限りの田園だった。ボックスシートに身を預け、俺は進行方向へと意識を向ける。冷風とともに漂う油のような機械臭が、鼻をくすぐった。
あのときの──夏休みの俺には、そんな情景でさえ五感で感じる余裕はなかった。
すべてを見透かしたように話す伯母に、白猫に姿を変えた名探偵。
そして──狸。
これから俺が経験した、ひと夏の不思議な冒険を語ろう。人の言葉を話す猫なんて、可愛いと思えてしまう物語を。
幸い、目的の駅までは長い。向かいに腰を下ろしている彼女も、無防備な寝姿で起きる気配を見せない。
悠然とした車内に染まる夕焼け。落ち着いた気分で語れそうだ。
始まりはいつも、予感めいたものなどないところにある──。
1
1学期の終業式から帰宅し、ちょうど一息ついた頃、時間を見計らったかのようにスマートフォンが着信を告げた。
表示された番号に、俺はどこかから監視されているのではないかと背筋に戦慄が走った。伯母──網代万菜花からの電話だったからだ。
恐る恐る端末を耳に当てる。電話口から聞こえるのは、いつものように低く落ち着いた声だった。
「もしもし一輝。明日から夏休みでしょ?帰ってきて顔を見せなさい」
「あー……うん」
ふと、俺は同居している白猫、絵本千蔭に視線を走らせた。彼女は優雅に、前足でページを捲りながら読書を楽しんでいた。
帰省するとすれば、彼女をどうするべきだろう。
「歯切れが悪いわね。心配しなくていいわ。彼女も連れてきなさい」
「え?」
俺は耳を疑った。絵本さんのことを知っているのは、限られた人物しかいないはずなのに。
「一輝、まさか1人で解決しようと思ってたんじゃないわよね?その悪い癖、もういい加減治しなさい」
「ごめん」
「謝らなくていい。とにかく明日いらっしゃい。一緒に解決しましょう」
「……わかった」
電話は伯母から切られた。俺は圧倒されるばかりで、なぜ絵本さんのことを知っているのかを訊く隙すら与えてもらえなかった。
相変わらず、伯母はすべてを見透かしたような口調だった。
2
それからの俺は帰省の準備を整え、翌朝には電車に飛び乗っていた。
絵本さんは何も言わず、一緒に帰省することを承諾してくれた。
いつもの彼女なら「嫌よ。網代くんの里帰りにわたしは関係ないはずよ」と早口で言いそうなものなのに。
車窓越しから伝わる強い日差しに、俺は襟元を扇ぎながら額の汗を拭う。
「網代くん」
脇に置いた大きな手提げから、絵本さんの声が聞こえる。微かだが、袋が横に揺れている。
「昨日、電話で話していた相手って、この前言ってた伯母さん?」
「うん、伯母だよ。なんで分かった?」
「貴方の口調よ。どこか怯えた様子なのに、『うん』とか、『わかった』とどこか親しげな受け答えだった。相手には逆らえない、だけど信頼しているという証拠に他ならないわ」
絵本さんは推理を展開した。
「極めつけは、電話口から微かに聞こえた女性の声。この時期から推測して、離れて暮らす甥に帰省を促す伯母なのではないかと思ったの」
「で、そんな俺を見かねて、仕方なくついてきたって言いたいんだろ」
「まぁ、それもあるけど。今はそういうことにしておきましょ」
彼女の含みのある返事に、俺の体温は更に上がっていく。
「それはそうと網代くん」絵本さんは言った。「伯母さんってどういう人なの?」
話を変えてきたなこの猫。ここで怒っても周りの目がある。俺は大きく息を吐いてから、落ち着きを取り戻して答えた。
「得体の知れない恐怖って言ったら分かるか?何を考えているのか分からないってやつだ」
「分かるわ、相手がどう考えているか分からないときほど、恐いものはないから」
「伯母の前では嘘はつけないんだ。すべてお見通しだからな」
「それって網代くんが顔や態度に感情が出やすいだけじゃないの?」
「まぁ……それもあるな」
頭を後ろから叩かれたような感覚に襲われた。絵本さんの言う通りだ。本当に彼女は痛いところをついてくるのが上手い。
一度乗り換え、目的の駅に到着する。そこは辺り一面が田園で、人通りが少ない無人駅だった。風を遮る建物がないので、山から吹いてくる風が心地よい。
ロータリーには軽自動車が1台。伯母の車だった。
脈が速くなるのを感じる。伯母とは、4ヶ月ぶりの再会だった。
「一輝」車を降りた伯母がこちらに駆け寄ってきた。「少し痩せたんじゃない?」
「いや、そんなことないよ。それより、伯父さんは?」
「海外出張中。今頃パリねあの人は」
「……そうなんだ」
「わたしだけじゃ不満?」
「そんなことはないけど、会いたかったなって思って」
言葉を交わしていく内に、心に複雑に絡んだ糸がほどけていく。身構えていたのは俺だけだったみたいだ。
「そうね……。とりあえず、荷物を後ろに積んで。連れていきたい場所もあるしね」
「どこ?」心当たりがなかった。俺は首を傾げる。
伯母は答えずに運転席に乗り込んだ。分かっていることをいちいち言わせるな、と背中が語っていた。
俺は助手席に乗り込む。絵本さんがいる手提げは、膝の上に置いた。
車内はどこか懐かしい花の香りがした。一気に去年までの記憶が蘇ってくる。
「一輝、高校はどんな感じ?友達はできた?」伯母はアクセルを踏みながら訊いてきた。
「友達はよく分からないけど、ひとり出来たかな。噂好きの変わった人」
「よく分からないってなによ」伯母の声色に無邪気さが混ざっていた。
「まぁ、出来たのならよかった。多く作れとは言わないけれど、人間関係は広めておいて損はないわ。思わぬ出会いがあるかもしれないし」
「いいんだよ別に。俺は広く浅くじゃなくて、狭く深い関係がいいんだ」
「フッ、言うようになったじゃない」
その場所は丘陵の中腹にあった。何基もの石柱が等間隔に並べられていて、その中に『網代家の墓』と彫られた石柱が立っている。
小学一年生の時に俺は両親を亡くしている。中学を卒業する去年まで、週末には伯母に連れられてよくここに来ていた。
高校に進学してからは、一度も訪れていない両親の墓。
「ねぇ、一輝。後ろにあるお花、持ってきてくれる?」伯母は顎を後部座席に向けた。
「わかった」
俺は絵本さんを連れて車を出た。さすがにこの暑さで車内に残るのは彼女の命に関わる。ふと、伯母からの視線を感じた。俺が気づくと、微笑み返すだけで何も言わなかった。
石の急な階段を上がる度に汗が滝のように流れてくる。暑さと動揺が混ざった嫌な汗だった。
花を取り替え、お線香を供える。鼻を突く煙の香り。何度嗅いでもこの匂いに慣れない。俺は手を合わせながら心の中で何度も両親に謝った。
ほどなくして、伯母は言った。
「それじゃ帰りましょ。もうそろそろお昼だし」
「うん」
俺が踵を返したその時、伯母は言った。
「あっ、ちょっと待って。その手提げ袋にいる子に挨拶させてくれる?」
「え?」俺が振り返ると同時に袋が激しく揺れた。中から絵本さんが飛び出してきた。
伯母の目に一瞬動揺の色が見えた。だが、その色はすぐに消えた。
「千蔭ちゃんよね?わたしのこと覚えてる?」
「いや、覚えてないわ」絵本さんは素っ気なく言った。
「ねぇ、一輝。今、千蔭ちゃんが何を言ったか分かる?」
絵本さんは俺としか話すことが出来ない。どうしてなのかは分からないけれど、そうなのだ。
だから伯母にとって今の会話は、猫がただ鳴いているだけにしか聞こえない。
「覚えてないってさ」俺は猫の言葉を通訳した。
「まぁ、そうよね。小さい頃だったし」伯母は頬に手を当てた。「それじゃ、改めて自己紹介するわね。わたしは一輝の伯母の万菜花。万菜花さんって呼んで」
「わかったわ……万菜花さん」絵本さんはそう言って頷いた。
通訳をしようと思ったが、その動作で相手にしっかり伝わっているだろう。伯母は安心したように微笑みを浮かべていた。
お墓から駐車場に戻る道中、俺は伯母の背中を追いかけながら言った。
「万菜花さん、何であのとき、絵本さんも連れてこいって──」
「伯母が甥っ子の顔を見たいって思っちゃいけないの?」
「それは……って、答えになってない。はぐらかさないでくれよ」
「ちゃんと話すよ」伯母の声に穏やかさが戻った。「一輝、何事もタイミングってものが大事なの。男の子なら、もう少し待てるくらいの気概を見せなさい」
「……わかった」
「わかればよろしい」伯母は振り向いて言った。「それじゃ、お昼ご飯食べよっか」




