第4章 闇に呑まれた孤島
第4章
1
岸菜蒼は、目の前の惨状を前にして、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。この現実を、脳が受け入れることができなかったのだ。
詩織様が亡くなられ、無量様も逝ってしまうなんて。
岸菜は大槻無量が頭取を務める銀行の取締役であり、彼の右腕のような男だ。私邸にも招かれ、夜を徹して酒を酌み交わすほどの仲だった。岸菜は、無量を父親のように慕っていた。心の支柱を折られてしまった。
涙も出ない。岸菜の心は無だった。
綴医師は青酸系の毒で亡くなったと告げた。ならば、真っ先に疑うのはメイドだろう。毒味役という重責を仰せつかっておきながら、彼女は務めを怠ったのだ。
怒りが込み上げ、こめかみに浮いた血管が今にも切れそうだった。荒々しい足取りで厨房へ向かったが、すでに棚垣がメイドを問い詰めている最中だった。彼女は俯いて怯えているようだった。
話を終えたところで、岸菜は棚垣に声をかけた。
「やはりメイドが犯人だったのか?」
「いえ、彼女も動揺していて、状況を把握できていないようでした。少なくとも、犯人ではないかと」
「……そうか」
岸菜からも直接訊こうと思ったが、棚垣の人を見る目は確かだ。今は彼の言葉を信じようと岸菜は思った。
「うーん」棚垣は険しい表情を浮かべ、低く唸っている。手元の衛星電話を操作していた。
「どうした?早く外に電話しろよ」
「それが……」棚垣は端末を見せてきた。「壊れているようなんです」
「なんだと!よこしてみろ」岸菜はそれを奪い、ボタンをいくつか押してみたが、反応がない。
「くそ!あいつ、ガラクタよこしやがった」
床に叩きつけそうになったところで棚垣が「岸菜様、落ち着いてください」と言って腕を抑えてきた。
「外との連絡手段が絶たれたんだぞ?これで落ち着いていられるか!」
そんな岸菜の怒声を無視するように、棚垣は振り返って料理人の名前を呼んだ。
「前板さん、懐中電灯はありますか?」
「探してきます」前板は顔を強張らせ、バックヤードの方へ駆けていった。
「懐中電灯?何に使うんだ?」
「モールス信号はご存じですか?」棚垣は岸菜に向き直った。
「モールス?まぁ、アマチュア無線で使っているのを見たことがある」
「オーナーがいるであろう対岸に向かって、光で信号を送るのです。そうすれば、メッセージを受け取った彼が駆けつけてくれるというわけです」
「それはいい」岸菜は胸を撫で下ろした。「ぜひ、そうしてくれ」
「かしこまりました。見つけ次第、実行に移します」
数分後、前板が蒼白な表情を浮かべながら、彼らの前にやって来て言った。
「すみません……どこを探しても懐中電灯がありませんでした」
2
藤堂百助は、グラスの底に残るウイスキーを、煽るようにしてすべて飲み干した。
一体全体、なにが起きているというのか──。
妻の花純がすがるように手を握ってきた。指先は酷く冷たかった。百助はその手を強く握り返すと、妻の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だからな」百助は安心させるように言った。「お前は何ともないか?」
「ええ……。少し、吐き気がするけど」
無理もない、と百助は思った。目の前で急に2人が苦しみ出し絶命したのだ。動揺するなという方が無理な話だ。
息子の百之助に目をやると、心を落ち着けるためか目を瞑って、呼吸を整えていた。
「百之助」百助は声を潜めた。
「……はい」息子の目は虚ろだった。
「落ち着かないようだったら、外の風を吸いに行くといい。無理はするな」
「大丈夫です。ここにいます」
「そうか。わかった」
それから百助は、厨房の方へ視線を走らせた。大槻家の人間たちが話しているようだった。声は聞き取れないが、今後のことを話しているのだろうと察した。
毒ならば、料理人が疑われるのだろう。大槻家の妻までも毒を盛られるのは、きっと家の内々で争いが起きていて、百助たちはそれに巻き込まれてしまったのだ。とんだ席に招かれたものだと、百助は大きなため息をついた。
「……藤堂家の皆様」正面から大槻家の主治医である綴が近づいてきて言った。彼はくたびれた表情で、歩行も覚束なかった。
「お体は大丈夫ですか?」
妻と息子は「……大丈夫です」と答えた。百助は尋ねた。
「2人とも、毒で亡くなったんですか?」
「……はい」
「どんな毒だったんですか?……どのくらいで症状が現れるのですか?もしかしたら、わたしたちにも──」
「毒は青酸系です。症状がでるなら、もう出ているはずです。現在、異常が見られなければ、差し当たっての危険は去ったと考えて良いでしょう」
「そうですか」
家族の身に何か起きたらと、百助は気が気でならなかった。綴の話を聞き、強張った肩の力が少しだけ抜けた。
3
『王冠の島』の周囲に広がる深い木々や山は、今や完全に闇に飲み込まれていた。
外部との連絡が絶たれ、絶望に打ちひしがれたレストラン内では、誰も口を開こうとはしなかった。
思い立ったように岸菜蒼は立ち上がると、周囲にいた者たちに血走った目を向けた。
「誰がやったんだよこんなこと。名乗り出ろよ!……わかった、料理だ。前板、お前が毒を盛ったんだろ」
「滅相もございません。わたしはそのようなことは決して致しません」前板は激しく首を横に振り、身の潔白を訴えた。
「毒味を致しましたが、異常はございませんでした」メイドの万尋がか細い声で前板をフォローした。
「元はと言えばお前がちゃんと毒味をしていれば……」岸菜は声を荒らげた。
「お止めください、岸菜様」棚垣が手で制した。「前板は大槻家に仕えて30年です。忠誠心はこの場にいるわたしたちと同じです。メイドも危険な役目を率先してこなしています。それがわからないあなたではないでしょう」
岸菜は大きく息を吸い込んだ。棚垣の言う通りだ。ここに集った者たちは、大槻無量に忠誠を誓い、彼のために動いている。今は頭を冷やすべきだ──。
「前板さん、倉持さん。大声を出してすまない」岸菜は頭を下げた。
料理人とメイドはそれぞれ頷き、彼の謝罪を受け入れた。
「料理でないのなら……」綴医師が考え込むような声で言った。「ウイスキーもしくはグラスでしょうか?」
「ウイスキーなら、わたしは注ぐところも見ていましたが、毒を盛る隙などありませんでした」棚垣が答え、視線をテーブルへ落とした。「グラスは……わかりません。先生、見ていただけますか?」
「もちろん」と言って、綴は無量が飲んでいたグラスを手に取り、注意深く観察し、中の匂いを嗅いだ。
「どうだ?」岸菜の問いに、綴は苦しい表情で答えた。
「微かですが……毒特有の香りがします」
「間違いない、グラスに毒が盛られていたんだ。でも、どうやってやったんだ?注ぐときには何の違和感もなかった……」
次の瞬間、大槻家に仕える者たちの冷たい視線が、藤堂百助に向けられた。
「藤堂様、ウイスキーは貴方が注いでましたよね」棚垣は、相手の表情を観察するような視線を向けた。
「ええ、オーナーの方と一緒にやりましたよ。大変そうだったので手伝おうかと。今後、大槻家の皆様と長くお付き合いしたいという、誠意のつも
りだったのですが……」
「……そうですか」
確かに藤堂百助がウイスキーを注いだグラスは、彼の手によって無量に直接渡されている。接待の席において、酌をするのは大槻家に忠誠を誓う上で重要なことだ。だが、毒を入れたグラスを渡せたのは、百助しかいない──。
「わたしはただ、オーナーの方を手伝っただけです。皆さんも注いでいるところを見ていたでしょう?」百助は、自分に振りかかった疑いを晴らすように声を張った。
「毒を仕込む隙はありませんでしたし、グラス自体に仕込んだんなら、グラスを用意した人物が犯人だということになるでしょう?わたしはグラスの準備に一切関わっていない」
「食器やグラスの用意はわたしたち──大槻家が致しました。何度もメイド長が確認を行い、細心の注意を払ってここに運び込んでいます」棚垣が低く落ち着いた口調で続けた。
「毒を仕込むとしたら、やはり、王地様と藤堂様がウイスキーをグラスに注いだタイミングとしか考えられません」
息子の百之助が、大槻家の面々を鋭い視線で睨みつけると、勢いよく席を立った。
「父は、大槻家に忠義を誓うためこの場に来ているんです。これから長く付き合おうという相手を殺すでしょうか?実行する機会はあっても、動機がない!」
「……百之助」百助は息子の力強い言葉に、目を大きくした。
「……あの、水を差してすまない」綴医師が小さく手を挙げた。「奥様が亡くなられた直前、フォークが床に落ちた音がしたんだが、他に聞いたものはおりませんか?」
「フォーク?」岸菜が怪訝な表情を医師に向けた。「関係あるんですか。そんなこと」
「恐らくですがね。フォークを持っていたから、床に落とした。つまり、奥様は亡くなる直前に食事をしていたということになる。食べたものに毒が入っていたと考えてもいいのではないかと思いましてな。まぁ、ただの可能性。老いぼれの戯言と受け取ってくれて構わん」
「確かに……奥様は前菜を口にした直後に苦しみだしています。もしかしたら……」棚垣は手を顎に当てた。
「あの……いいですか?」藤堂花純は声量は小さいが、透き通るような声を上げ、小さく挙手した。
「わたし、見たんです。食べる直前に大槻様の奥様と旦那様が、お皿を交換されるところを」
「それは本当ですか?」棚垣は弾かれたように身を前に乗り出した。
「ええ。理由は分かりませんが……確かに見ました」
「……もしそれが事実なら」
そう言った棚垣は、素早く振り返りメイドの万尋に視線を向けた。
次の瞬間、この場にいた全員の疑惑と憎悪が、彼女へと集中した。
「わたしは……やってない」万尋の目には涙が浮かんでいた。彼女は激しく首を横に振り、声を震わせた。「わたしは……奥様を殺すつもりなんてなかった」
「今、『奥様を』と言ったかな?どういう意味か説明してくれるか?」綴は静かな口調で尋ねた。
「……わたしは……料理の毒味を終えた後、無量様が口にするはずだった皿に毒を入れました」万尋は啜り泣きをしながら、一言ずつ、絞り出すように答えた。
「ですが、どういうわけかお二人はお皿を交換したんです。奥様はわたしが盛った毒で亡くなりました」
「それじゃ、他のものには毒はいれていなんだね?」
綴の問いに万尋は頷いた。
「どうしてそんなことしたんだ?」岸菜は万尋を睨み付けた。「君は大槻家に雇われている身だろ?恩を仇で返すなど──」
「あの男が、わたしの息子の未来を奪ったのよ!」万尋は岸菜の言葉を遮った。「大槻京詩郎の事件を父親であるあの人がちゃんと咎めていれば……あの子がこんな目にあうことなんてなかった!」
「京詩郎だと?あんな男、とうの昔に出ていった男だ。今さら大槻家には何の関係もない。逆恨みをいいところだ」
岸菜が吐き捨てた瞬間、万尋の目から理性の色が消えた。
彼女は手近なテーブルにあったナイフを掴むと、勢いよく岸菜に飛びかかった。
藤堂花純は悲鳴を上げ、百之助は反射的に目を背ける。
次の瞬間、ポタポタと床を叩く音が響いた。そして滴り落ちる血液が床に広がっていった。




