第3章 犠牲者
第3章
1
一同が最初の一杯を飲み干し、あるいは追加を所望し始めた頃、倉持万尋は毒味を終えた料理を、テーブルへと運んだ。グラスの中の氷は、半分ほど溶けかかっている。
「前菜のラタトゥイユでございます。トマト、ナス、ズッキーニといった夏野菜を煮込みました。彩りと風味、その両方をお愉しみください」
前板の説明に合わせ、万尋は皿を前に並べていく。
ラタトゥイユは初めて聞く名前の料理だったが、野菜本来の味が引き出されていて、とても食べやすかった。
前板が厨房の方へ消えた直後、万尋の視界の端で、無量が自分の皿と詩織の皿を交換するのが見えた。
「あっ」万尋は思わず小さく声を漏らしてしまった。それを無量は聞き逃さなかった。鋭い眼光で万尋を睨みつけた。
万尋は慌てて頭を下げると、逃げるように厨房に戻ると、小さくしゃがみこんだ。息が詰まり、指先は氷のように冷たい。先ほど一瞬、体が岩のように固まってしまった。
取り返しのつかない、とんでもないことをしたと万尋は思った。手の震えを必死に抑えた。
次の瞬間、フォークが床に落ちる乾いた音がした。続いて、詩織が首の辺りを手で押さえて、苦悶の声を上げる。
「どうした?詩織。しっかりしろ!」無量の声が大きく響き渡る。
その叫びは、万尋の耳に残って離れなかった。
万尋は強く目を瞑り、両手で耳を覆った。
体感にして、数秒のことだっただろうか。その後、体が揺さぶられるような感覚に襲われた。目を開くと、前板が眉をハの字にして万尋を見つめていた。背後からは、岸菜や綴の怒声や、慌てふためく藤堂一家の悲鳴が聞こえる。
「大丈夫か?倉持さん」
「はい」万尋は消え入りそうな声で言った。
「良かった」前板は何度も首を縦に上下させた。「倉持さん、落ち着いて聞いてほしい」
「何ですか?」
「無量様と奥様が亡くなられた……綴先生によれば、毒が盛られたって」
「無量様が?……死んだ……?」
嘘……あのとき、もう失敗したと思ったのに、と万尋の心の中に動揺が走った。
万尋は今にも上がりそうな口角を必死に抑え込んだ。
2
倉持万尋には、高校生のひとり息子がいた。名は万浬といった。
母と子ふたり、慎ましくも穏やかに暮らしていた。
半年前のことだった。万浬の帰りが遅くなりはじめたのだ。
ある日、素行の悪そうな男子高校生2人と並んで下校しているところを偶然見かけ、万尋は思わずその場で立ち眩んだ。
息子に問い詰めても、「俺の勝手だろ」と言うだけで取り合おうとはしなかった。反抗期だから仕方がない、と心の中で言い聞かせた。今思えば、もっと向き合えばよかったと後悔している。
それから数ヵ月が経ったある日、テレビで強盗事件のニュースが流れた。画面を見ていた息子が、慌てて別のチャンネルに変えた。その様子に万尋は、得体の知れない胸騒ぎを覚えた。
「ねぇ、万浬」万尋は言った。
「何だよ」
「何か悩んでいることがあったら、お母さんに話して。2人きりの家族なんだから、支え合わないと……」
「そういうのがウザいって言ってんだよ」
万浬はそう怒鳴りつけると、自分の部屋に入ってしまった。これが、息子との最後の会話になってしまった。
翌朝、ニュースの速報が流れた。強盗事件の犯人が自首したと言うのだ。
数時間後、自宅に警察が現れた。息子は強盗事件の実行役の一人だと、玄関先で男性刑事が事務的な口調で告げた。それ以降の内容は、あまりよく覚えていない。
後日、指示役が逮捕された。カメラのフラッシュがたかれ、護送車の後部座席から映る顔を万尋は目に焼き付けた。名は大槻京詩郎。万浬の通う高校の教師だった。
大槻という名を聞いて、ある日の大槻邸の廊下で、無量と岸菜の会話が脳裏をよぎった。
「あの馬鹿息子は今どこで何をしているのやら……」
「噂によれば、裏で法外なことに手を染めているとかで。どう致しましょうか?」
「放っておけ」
間違いない。京詩郎は無量の息子だ。京詩郎が万浬をそそのかしたりしなければ、非行に走ることはなかった。息子は前科のついた人間になってしまった。
万尋の中で切れてはいけない線が、1本、音を立てて切れた。彼女の憎しみは、大槻家に向けられた──。
3
岸菜蒼は勢いよく席を立つと、苦しむ大槻詩織のもとへ駆け寄った。綴医師も、医療道具一式が入った黒い鞄を手に血相を変えて飛んできた。
「おい、綴」無量は怒鳴った。「何とかしろ。妻を助けるんだ」
「はい!」
綴医師の必死の呼びかけに、詩織は応えることができないまま、息を苦しそうにしていた。声を出すこともままならないようだ。やがて力なく床に倒れると、彼女の目から命の光が無くなっていった。
「……そんな」無量は膝から崩れ落ちた。次の瞬間、無量の表情が苦悶に歪む。詩織と同様、必死に息をしようと首をかきむしり始めた。
テーブルの端から悲鳴が聞こえる──藤堂花純のものだった。この場にいた全員が、パニックに陥っていた。
「綴先生!」岸菜は場を切り裂くような大きな声を出した。「治せるとしたらあんたしかいないんだよ。何とかしてくれ!」
綴は詩織の口許に顔を寄せ、手で仰ぐようにして匂いを嗅ぐと、目を見開いた。
そして彼は膝の上で拳を握った。眉間に深い皺を作り、目を瞑っている。何かを考えているようだと岸菜は察した。やがて目を開き、医師は首を横に振った。
「わたしにはもう手の施しようがない。なぜなら、2人はもう既に……毒に冒されているからだ。恐らく青酸系の毒だろう」
無量は苦しみながら倒れ、程なくして妻を追うように絶命した。
4
棚垣守は、煮えたぎるような憤りを覚えた。目の前で護衛対象を同時に2人も亡くしたからだ。
綴医師から毒の話を訊いて、棚垣は大股で厨房へと向かった。人影が見当たらない。
「おい、前板。どこにいる?」棚垣は腹の底から声を出した。
「はい」厨房の奥から料理人が、困惑した顔を出してきた。「ここにいます」
「メイドはどこに行った?」棚垣の目が血走っている。
毒味役のメイドが務めを完璧にこなしていれば、このような事態にならなかったはずだ。すべてはわたしの力が至らぬが故に起きた事件。わたしの手で解決しなくては……と心の中で何度も自分を責めた。
このどうすることもできなかった無力感を、どこかにぶつける他なかった。
やがて、毒味役を務めたメイドが姿を現した。彼女の体は震えていた。恐怖か、棚垣と同様の無力感に苛まれているのか──
「大声を出してすまない。だが訊かせてほしい……君はしっかりと毒味をしたんだな?」
「はい。致しました」メイドは俯き、か細い声で答えた。
嘘をついているようには見えないなと、棚垣は彼女の表情を見て感じ取った。
ならば、料理自体を作った前板が毒を盛ったということになるが、彼は棚垣よりも前に大槻家に仕える身。今更謀反を起こそうなどとは思うまい、と棚垣は考え込むような表情を浮かべ、手を顎に当てた。
5
倉持万尋は、棚垣の顔を直視することができなかった。わずかでも目が合えば、表情でボロを出してしまいかねない──。彼女は俯くしかなかった。
万尋は思考を巡らせた。どうも気がかりな点があったからだ。
なぜ、2人は同時に亡くなったのか。綴幸助は無量も毒によって亡くなったと明言した。
計画では、万尋が毒を仕込んだ料理が、無量の口に運ばれるはずだった。
しかし、食べる直前に皿は詩織のものと交換されてしまった。だとすれば、無量が口にしたのは毒が混入されていない安全な料理だったはず。
前板の協力のもと、すべての料理を毒味したが、万尋には未だに変わった症状は見られない。毒は料理そのものに仕掛けられていないことを示していた。
その瞬間、最悪なシナリオが脳裏をよぎり、万尋は思わず息を呑んだ。
彼女の知らないところで、別の殺害計画が実行されている。その人物によって、無量は毒に冒されたのだ。
万尋は姿の見えない恐怖に、激しい戦慄を覚えた。




