第1章 いざ『王冠の島』へ
〈登場人物〉
・大槻無量‥‥‥名家【大槻家】の当主
・大槻詩織‥‥‥無量の妻
・藤堂百助‥‥‥実業家
・藤堂花純‥‥‥百助の妻
・藤堂百之助‥‥百助と花純の子。長男
・岸菜 蒼‥‥‥大槻グループの取締役
・綴 幸助‥‥‥大槻家の主治医
・棚垣 守‥‥‥大槻家に仕える護衛兼運転手
・前板 清‥‥‥大槻家専属の料理人
・倉持万尋‥‥‥大槻家に仕えるメイド
・王地政伸‥‥‥『王冠の島』のオーナー
第1章
1
藤堂百之助のスマートフォンが着信を告げたのは、午前2時のことだった。
何事かと思い身を起こそうとしたが、酷い眠気に体が思うように動かない。呻きながらもやっとのことで腕だけを伸ばし、机の上にある端末を手に取ると、応答をタップして耳に当てる。
「……もしもし?」重たい瞼がまだ開かない。
「百之助っ!」
電話越しに響く母の花純の切迫した声に、百之助は眉をひそめた。
「何だよ……母さん。夜中の2時だぞ」と言った後、百之助は大きな欠伸を漏らした。
電話の向こうから、微かに啜り泣くような声が聞こえる。百之助は跳ねるようにベッドから身を起こし訊いた。
「どうしたんだよ?何があった?」
次に花純が放った一言で、百之助は耳を疑った。全身の力が抜け、思考が停止する。
思えば、ここからすべてが始まったのかもしれない──。
2
メイド長に急かされるまま、倉持万尋は食器類を発泡スチロールの箱へと梱包していった。グラス一つ、皿一枚でも欠ければ一大事だ。
思考を挟む余地もなく手を動かし、次から次へと業務をこなしていく。大槻家のメイドに、休む暇など与えられなかった。
「さぁ、急ぐのよ」メイド長はパンパンと手を叩き、鼓舞した。
やっとのことで梱包を終えた万尋に、メイド長は言った。
「前にも言ったけど、今日はあなたが同伴するの。いいわね?」
「かしこまりました」万尋は頭を下げた。
「あなたには大事な役割があるのだから──」
万尋は顔を強張らせた。今にも指先が震え出しそうだった。
「……承知しております」
「わかっているのならいいわ」メイド長は腕を組むと、顎で箱を示した。「それじゃ、食器類を運んでちょうだい」
「かしこまりました」
箱の中に緩衝材が入っているとはいえ、持ち運ぶには相当の神経を要する。
両腕に緊張が走り、万尋の頭には重さという概念が消え去っていた。
食器は、これから『王冠の島』というレストランに運ばれる──。
3
綴幸助は、男の上腕に巻かれた腕帯を外すと、渋みのある声で言った。
「血圧が少し高いようですな、塩辛い食事は控えた方がいい」
「わかっている」男は声色を尖らせた。
「血圧が高いのは、これから起こることを危惧してのことだ。食事のせいじゃない」
「心得ております。ですから、わたしも同伴いたします。大槻家並びにそこに関わる皆様の健康を守るのがわたしの務めですから」
「よろしく頼むよ」男は椅子から立ち上がると、ジャケットを羽織り、ネクタイを締め直した。
それだけ言い残して、男は足早に診療室から出て行った。
4
腕に残る圧迫感を不快に思いながら、岸菜蒼は駐車場に着くと車に乗り込み、荒々しくドアを閉めた。
(まったく馬鹿げている……)
あの落ちぶれた一族と会食など。当主は何を考えているんだ。
エンジンをかけると、苛立ちをぶつけるようにアクセルを深く踏み込んだ。
急発進する車両を2階の窓から見下ろすと、大槻詩織は振り返り、夫の無量へ愛でるような眼差しを向けた。
「あなた、今日は記念すべき日ね」詩織は優しく夫の肩に触れた。
「そうだとも。今日だけじゃない、これからもずっとだ」
無量は詩織の頬を撫でると、そっと口づけをした。
その直後、静寂を破るようにドアがノックされた。2人は離れると、無量が重厚なドアを開けた。
そこには彫像のように直立する屈強な男──棚垣守の姿があった。
無量は不機嫌そうに訊いた。
「何のようだ?」
「失礼いたしました」棚垣は深く頭を下げた。「無量様、詩織様。そろそろ出発の時間でございます」
「わかった……ご苦労」
無量と詩織は、影のように付き従う棚垣を連れて、部屋を後にした。
5
落ちぶれた一族の主──藤堂百助は、鏡の中に映る自分を見つめた。頬はすっかり痩せこけ、恰幅の良かったかつての威厳は、今や見る影もない。
ネクタイを締めるその手には、これまでの苦労が深く刻まれているようだった。
背後に妻の花純が映った。彼女は深い緑のワンピースを纏い、首元には真珠のネックレスを身に着けている。
「今日は藤堂家にとって、運命を決める大事な日になる。気持ちを引き締めないとな」百助は短く整えた髪を撫で、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「……そうね」花純の表情には、拭いきれない不安の影が差していた。
「花純」百助は妻の肩に手を置いた。「無理してついて来なくてもいいんだぞ。俺と百之助だけで十分だ」
「大丈夫よ」花純は目に溜まった涙を指先で拭うと、懸命に笑みを作った。
「わたしにも行かせて。一緒に行きたいの」
「……わかった」
その時、玄関のドアが開く音とともに、息子の百之助が姿を現した。すでに仕立ての良いスーツに身を包んだその姿は、若い時の自分に生き写しだと百助は思った。
「父さん、母さん」息子は両親を交互に見つめ、静かに促した。
「そろそろ行かないと。今から出発すれば、ちょうど良い時間に王冠の島に着くはずだ」
「そうだな」百助は覚悟を決めるように、深く、長く息を吐き出した。




