水灯り乞騙り
玄関扉を開こうとして、ふと、足元を見たら蝉の抜け殻が落ちていた。
川村遥真は「懐かしい」と独りごちて、その蝉の抜け殻をつまみ上げた。
土の色が染みついたような半透明の殻は、子供の頃とは違って、もう宝物のようには感じない。
それでもなんとなく気になって、蝉の抜け殻を持って家の中へ入った。
「ただいま」と呟くも、誰もいないので返事はない。
ジイイ……ジイイ……ジイイ……。
蝉の鳴き声だけが背中にぶつかってくる。
遥真は仕事に疲れて退職し、再就職するまでの——いわゆる人生の休暇中に、この家を訪れた。
家主を失い、まだ売れないこの家を拠点に、遠方をバイクで散策したり、のんびり過ごしている。
この家を管理してくれているのは、近所で暮らす親戚だ。
遥真の叔父が相続したこの家は、掃除を条件に親戚たちの別荘として使われている。
墓参りのために帰省する者たちも利用するし、遥真のように、それとは関係なく使用することも。
入れ替わり立ち替わり誰かが使用し、掃除をすることで廃屋になることを防いでいる。
遥真は居間へ行き、机の上に蝉の抜け殻を置くと、扇風機の電源を入れた。
まもなく叔父の家で夕食なので、クーラーを入れるまでもない。
古い扇風機の風が不規則に回る。虫の声と水の匂いだけが、満ちていく。
座布団を枕にして、畳に横たわって目をつむる。
『……るま、夏の湖に近寄っては……』
睡魔に襲われて、一瞬だけ夢を見た。大好きな祖父の隣に座って、色々なことを教わったものだ。
(夏の湖に近寄るな、か。夕食……)
体を起こして、扇風機の電源を切り、家を出た。
耳をつんざくような蝉の声が、夕暮れの山間にけたたましく響く。
鳴き声はまるで、空気を焦がすかのように続き、そして、不意にふっと止まった。
蝉が鳴き止んだあとの静寂は、異様なほど深かった。
汗ばむ肌に冷たい風が吹き抜け、草の匂いが雨に濡れた土の匂いと混ざる。まるで、世界の息遣いが止まったかのように。
『夏の湖には近寄るなよ』
祖父の家は古びた木造で、裏には大きな湖が広がっている。その湖はかつて村を呑み込み、今は「底無しの湖」として地元では知られている。
春も秋も冬も、祖父や従兄弟たちと遊びに行った場所だが、夏は行っていない。
叔父の家に向かって歩き出したのに、ひらりと蝶が目の前を飛び、振り返ったら、無性に夏の湖を見てみたくなった。
「行かなければ」という焦燥感が足を動かす。
『遥真……』
不意に、雨が降り出した。
『じいちゃん、うゆうぜんってなに?』
『雨に幽霊の幽に蝉でうゆうぜんだ』
足が止まらない。速度が上がる。霧のような雨と汗が混じり、息が荒くなる。
『遥真……蝉の抜け殻には……』
鬱蒼とした林の先に、不意に、雨で水面が揺れる湖が姿を現した。
それはまるで、風に揺れる灯籠のようだった。
灯りが水面に浮かび、ゆらゆらと漂っている。誰かの手に持たれているかのように。
目を細めたとき、湖の縁に、誰かが立っているのが見えた。
若い女性——黒髪が長く、白い服を着ている。
「うわああああああ!」
幽霊? そう思った瞬間にはもう叫んでいて、遥真は全速力で走った。ぬかるみで足が滑り、転ぶ。
「大丈夫ですか?」
体を起こしたら、先程の白い服に黒髪の女性が遥真の顔を覗き込んでいた。
白い服はそこまで純白ではなく、部屋着のようなワンピースだった。
「はる君? はる君だよね?」
問いかけられて、「あっ」と気がつく。大人になっているが、この顔立ちにこの声は、村の住人、かつて一緒に遊んだ「みおちゃん」だった。
二つ隣の家に住み、みおの二人の兄は遥真と彼の従兄弟をよく探検遊びに連れて行ってくれた。
男の子みたいな格好の、お転婆なみおもよく、くっついてきた。
「うわぁ、久しぶり。いつ以来だっけ?」
「……えっ? ああ、じいちゃんの葬式に来てくれてありがとう。あれ以来だ」
ゆっくりと立ち上がり、恥ずかしさを堪えながら腕の泥を払った。
「背、高いねー」
「そっちこそ。みおちゃんも髪が伸びた。あんなところに一人でいたから、幽霊だと思った」
瞬間、みおは屈託なく笑った。
「はる君はどうしたの? 一人は寂しいから会えて嬉しい」
「激務に疲れて辞めて、ちょっと人生の夏休み。じいちゃんの家を使ってのんびりしてる」
「そう」
遥真とみおはしばらく二人で歩いた。みおが「あっ、忘れ物」と言うまで。
湖のところに忘れ物をしたというので、一緒に取りに行こうかと提案した。
またしても霧雨が降り始め、みおの姿がぼやけていく。一瞬、二重に見えた気がしたが、瞬きをすると影は一つに戻っていた。
「大丈夫? 濡れたままで風邪をひくよ。早く帰りな」
視界が悪い。みおの姿は、霧雨で影のようなままだ。
「うーん……でも、女を一人ってのも」
「はる君、指を怪我してるね」
「えっ? ……本当だ」
「家に帰ったら、絆創膏を貼るんだよ」
笑いかけられ、「早く行って」と背中を押され、一人、家路についた。
(……ちょっと待て。おかしい。待て、待て待て!)
遥真は玄関扉に手を掛けようとしてやめた。慌てて走り出して、『杉原』の家へ全力で走る。
(おかしいだろう!)
衝動に駆られて、遥真は杉原家の縁側から「すみません!」と声をかけた。
この辺りの家は玄関があっても使わない。寝る前までは開け放たれた縁側から声を掛ければ家の人と会える。
杉原のおじさん——みおの父親が応対してくれた。
「はる君、そんなに慌ててどうしたんだい?」
「いえ、あの。みおちゃんの夢を見て。せっかく来たのに、なんでお線香を一回しかあげてくれないのって……」
口に出した瞬間、体が震えだした。杉原のおじさんに感謝されて、仏壇の前に座ったらさらに。
違和感はあったはずだ。雨に濡れていなかった服。蝶のようにひらりと現れた。足音のない歩み。
あの時は『部屋着のようなワンピース』だと思ったけれど、白い着物——死装束だったような。
(みおちゃん……)
遺影の中のみおは、幸せいっぱいというように笑っている。
そう、杉原みおは、先程会った女性は、もう十五年も前に、子供の時に亡くなっていた。
久しぶりにこの村に来てすぐにお線香をあげたというのに、なぜ忘れていたのか。その奇妙な感覚に、背筋がゾワっとした。
★
祖父の家に帰り、しばらくぼんやりしていた。
(みおちゃんは、成仏できずにずっとあそこに? なんで?)
みおは祖父の葬式から数ヶ月後に亡くなった。風邪だと思ったら、心臓の病気だったらしい。
持病はなく、不運としか言えない病で、両親はしばらく、我が子が風邪を引くたびに「心臓の検査も」と医者に頼んでいた。
(突然死みたいなものだから未練……。幽霊なのに成長するのか?)
祖母がこんな話をしたことがあったような。
『幽霊は“想い”に寄って来るんだよ。それで強く記憶された姿で現れるの』
それなのにみおは、かつての子供の姿ではなかった。
悪意のあの字もないような雰囲気だったみおが、「指の怪我に絆創膏」と言ったことを思い出し、いつのまにかあった左薬指の切り傷を手当てした。
ふと見たら、窓の外に灯りが浮かんでいた。
部屋の空気が水を含んだように重くなっていく。
——ぽたり、ぽたり。
水滴が落ちる音がした。見ると、畳が湿っている。畳の隙間から水がにじみ出ていた。
暑かったはずなのに、寒気がして鳥肌が止まらない。助けて——という声も出せない。
「はる君……どうして来てくれないの?」
遥真は震えながら目を閉じて耳を塞いだ。
「一人だと危ないって言って欲しかった」
体を震わせながら、「終われ」と何度も繰り返して念じる。ひんやりとした感覚がして目を見開くと、畳の隙間から滲んでいた水は、さらにかさを増していた。
「うわっ!」
叫んで後退りした時に、手に何かが触れた。それは、玄関先で拾った蝉の抜け殻だった。
『遥真、蝉の抜け殻には幽霊の魂が入り込む。蝉の抜け殻を家の中に持ち込んではいけないよ』
弾けるように思い出して、慌てて蝉の抜け殻を掴んだ。
「やめて……。はる君……ずっと待ってたの。寂しくて、会いたくて……話したかっただけなの」
窓の外から、再度、みおの声がした。窓を開ける勇気はない。
魂が入り込んだかもしれない蝉の抜け殻を、握りつぶして良いものか判断しかねる。
「はる君……好き……。会いたかった……話そう?」
その刹那、遥真は目を見開いた。
「誰だ! みおちゃんじゃないだろう!」
可愛かったみおの姿の記憶が鮮やかに蘇る。真っ赤になって、「斗真君が好き」と語った彼女を。
杉原みおは、遥真の兄——斗真に恋をしていた。本人に告白はできないけど、遥真には打ち明けた。
子供ながらに、真っ直ぐで可愛らしいみおの恋を、遥真は応援していた。みおと家族になるのは悪くない、楽しそうだと。
「はる君、なんでそんなことを言うの?」
「みおちゃんは兄貴が好きだったんだ!」
先程出会ったみおが、亡くなった時の姿ではなかったことが腑に落ちる。
そうすると、声もどこか違うと気づいた。
「みおちゃんを騙るんじゃねぇ! あの子が俺に悪いことをするなんてあり得ない! 消えろ!」
妹みたいだった、姉になるかもしれないと期待した女の子に化けて、人を殺しにきた悪霊。そう感じて、無性に腹が立った。
その声の奥で、蝉の声がざわめくように変化する。
ジジジ……ジ……——。
交じるように、もう一つの声が響いた。
「——はる君! そうだよ、騙されないで! 帰れって、早く……!」
それは……確かに、懐かしいみおちゃんの声だった。
「はる君! 早く依代を外に投げて!」
遥真は必死に「帰れ!」と絶叫した。依代は、蝉の抜け殻のことだろうか。他に思いあたるものはないので、窓を少し開ける。
隙間から青白い手が伸びてきて、遥真の首を掴んだ。ゾッとするほど冷たく、濡れている。
それなのに、濡れた手が首を這うと、快感に悶えそうになった。
「はる君が好きなのに、帰れなんて酷いよ」
成長したみおのような女性の後ろに、懐かしいみおちゃんの顔が見えて、「家に入るな、帰れって言って!」と叫び声がした。
「好きなの……はる君。好き……好き好き……」
「家に入るな! 帰れ!」
すると、ざぶんという水音がして、暑い夏の夜に戻った。いくつもの蝉の声が夜を切り裂いていく。
「お盆で帰ってて良かった……。次も騙されないで……。湖に近寄ったらダメだからね……」
みおの声がしたので、怖いというのに、思わず窓を開いて外を確認した。
窓の下はびしょ濡れで、水溜まりになっている。忘れていた祖父の話が、脳裏に過ぎる。
『遥真、“水灯り”を見てはいかん。見てしまったとしても、近づくな』
『水灯り?』
『昔、あの湖に婚礼を控えた娘が、身を投げて死んだ。相手に駆け落ちされちまって。それから、毎年、夏の夜になると、灯りが湖に浮かぶんだ』
『幽霊になって、そこにいるってこと?』
『いるだけならいい。村人が気がつくまで、若い男が何人も行方不明になった。男を恨んでいるのか、結婚相手を探しているのか分からない。水灯りは、死人が現世をさまよう印だ』
遥真はへなへなと座り込んだ。スマホが鳴った時、まるで水面から空気を吸ったように、遥真は肩を震わせて息を吐いた。
電話の主は、兄——斗真だった。急に寝落ちして、夢の中でみおちゃんが、「はる君を助けて」と言ったらしい。
「父さんはああ言ったけど、激務だったんだから、人生の夏休みだと思って、長めに休んでいいと思う」
「……ああ、うん、ありがとう。そのつもり。失業手当をもらえる間は、のんびりしようかと……」
「声が震えてるけど、大丈夫か? 何かあったのか? 体調が悪いのか?」
「……。いやあの……。兄貴って、幽霊を信じてるっけ?」
「はぁ? なんだ突然」
遥真は兄に何があったかを話しているうちに、さらに思い出した。
蝉は儚い人生を送る生き物だから、生と死のはざまで暮らしている。
突然、蝉が一斉に鳴き止んだら、そこは黄泉の世界。
特に雨の時は要注意で、心が弱っていると幽霊の引力に抗えず、惹かれてしまう。
水灯りを見てしまったら、幽霊に乞われ、騙されて結婚させられる。
左指の薬指に指輪のようなものを身につけ、強い意志で「帰れ」とか「家に入れない」と言わないとならない。
死者と生者は婚姻できない。つまり、結婚させられるというのは「殺される」ということだ——。
(今はお盆だから……みおちゃんが守ってくれた……)
もしもみおが初恋を叶えたら、自分たちは姉弟になる。年は遥真が一つ上だから、兄妹でもある。自分たちは家族になる。そんな話をしたこともあった。
「ありがとう……みおちゃん……」
ふっと、蝉の鳴き声が消えた。寒気はせず、温かで心穏やかな気分になった。