強がりの神様
二十七歳の陣内莉子は、三か月前の交通事故で婚約していた北倉正樹を亡くした。今日は結婚式の予定日だった日である。文章を読んで、後の問いに答えなさい。
気が付いたときには海に来ていた。正樹を呑み込んだ海に来るつもりなんてさらさらなかったのに、今日は正樹と二人きりになりたかった。
「私、今日で北倉莉子になるはずだったんだよ」
人の気配のない海岸で、海に向かって話しかける。
「ドレスもあってさ、他のみんなも、全部ぜんぶそろってるのに、結婚式できないんだよ」
二人でいくつもいくつも見に行った会場。
ちょっと早すぎるとか言い合いながら、そろえたドレス。
咲楽※注1に呆れられるほど早く出してしまった招待状。
ベッドの上で語り合った未来。
その全て、かつては莉子の希望であり、二人の幸せであったのに。今は莉子を過去に掴んで離さない鎖だ。
「そんなに、嫌だった?」
波が音をたてる。莉子の心もずっと荒れていた。本当はそうじゃないとわかっていても、正樹は自分から離れていってしまったのではないか。こんな自分と、一緒に居たくなかったから、海に向かっていってしまったんじゃないかと。嫌な想像ばかり膨らんで、どんどんと息ができなくなる。
「私だって、あなたが居なくても一人で生きていけるから。勝手に」
最後までは言えなかった。泣かないって決めてたのに、心の中の彼が邪魔をする。きれいさっぱり忘れて、新しい人生なんて歩めない。忘れさせてくれない。忘れたくもない。
「じゃあ、どう生きろって言うのよ」
波が一際大きく音をたてて、莉子の乾いた運動靴を濡らす。ただそれを見つめていた。
ふと前を向いて、一歩踏み出す。このまま進めば、正樹の元に行けるのだろうか。
「なにしてるの?」
振り返ると、そこには小さな男の子が立っていた。
「そっち、うみだよ。ふくではいっちゃだめなんだよ」
ただ純粋に、ワンピースで秋の海に向かって歩く大人に注意をした男の子が、とても正しく感じられた。
「そうだね、でも私はちょっと取りに行かなくちゃいけないものがあるんだ」
「でもママがいってた。そっちあぶないよ」
その純粋な瞳に見つめられると、どうしても進んでいた足が止まってしまう。男の子がこっちに来てしまいそうだったので仕方なく、海から出て砂浜に立った。
「ほら、やっぱりもどってきた」
勝ち誇ったような笑みを浮かべる男の子だけれど、嫌みな感じがしないのは、私にも母性が芽生えたからだろうか。
「春希、戻ってきなさい」
遠くから母親の呼ぶ声がする。元気に返事をして、男の子は走っていった。その背中が見えなくなるまで、なんとなく目で追う。
———ねえ、莉子。子供たちが幸せになれる家庭をつくろう。
そういえば、正樹は子供が好きだった。あの時は、未来の子供の話をしているものとばかり思っていたけれど、別にそれだけじゃなかった。たとえ正樹が居なくても、その遺志を受け継ぐことはできる。だって正樹は私の心の中に生きているのだから。
もしここに立っているのが正樹だったら。きっと私の分までたくさんのことをして、天国で飽きるほどの思い出話を聞かせてくれるのだろう。
「あなたが死んだって、寂しくもなんともないんだから」
海に向かって嘘を吐く。ねえ神様。今日くらいは、強がらせてくれたっていいじゃない。
※1咲楽…莉子の幼馴染で親友
問
「波が音をたてる」「波が一際大きく音をたて」から読み取れる、この作品における「波」が表すものを簡潔に述べよ。