9.記憶
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休みの前日は、彼女と過ごすのが定番となっている。一度家に帰ってから小綺麗な服装に着替え、待ち合わせ場所に迎えに行く。
「待たせたか」
「いえ、今来たところです」
何年か前に出会った小柄な女性は鑑定局内の経理関係の部署に所属する、一つ下の事務職だ。職場に隠しはしていないが、大っぴらに発表もしていない。自分の見た目が派手であることは理解しているから、彼女に迷惑を掛けないよう敢えて職場では親しさを見せないようにしている。
「今週もお疲れ様でした」
控えめな彼女は癖の少ない黒髪を胸のあたりまで伸ばし、薄茶の瞳をしている。その瞳に物足りなさを感じてしまうのを、いい加減認めざるを得なくなってきた。
「ああ、お疲れ」
経理部門は裏側から組織を支える仕事だ。外向きの業務を熟す解除課のような部署とはぶつかることが多いらしいが、文句も言わずににこやかに対応しているところに好意を抱いた。
彼女は自分が給金をもらえるのはそういった外向きの部署があるお陰だと言っていた。それはなかなか言えることではない。
連れ立って歩いて向かった先のレストランでは、食事をしながら会話をして過ごす。
「部署に今年は新人が三人入って、私も初めて教育をすることになって」
その週にあったことを中心にお互いの情報を交換していると、新人教育の話になった。時期が時期なので仕方がない。
「教えるのって難しいですね」
困ったように眉を下げて微笑む。部署の新人といえばこちらも今年は二名入った。そのうちの一名を思い出すとつい眉間に皺が寄る。
「どうされたんですか?」
「否、うちの新人を思い出しただけだ。気にするな…」
クユイという名の新人は、独特な方法で《祝福》を解除をしてみせた。その手際とは裏腹に書類仕事がからっきしで、初任務の後も、局に帰ってからが大変だった。
「最近お忙しそうにしているとは思っていましたが、イルードさんが手を焼くなんて、珍しいこともありますね」
「ああ、報告書をあんなに手直しさせられたのは初めてだ」
学校の成績が悪かったというのは事前の情報共有で把握していたことではあるが、まさかあそこまで酷いなんて、想像だにしていなかった。
書き方は自由、文章は支離滅裂、辛うじて読める字を書けるだけましなのかもしれない…そのくらい酷かった。
「よっぽどなんですね」
彼女は俺の顔を見て苦笑した。楽しいはずの食事の席でする顔ではなかった。失態だ。
しかしながら、あの新人の所為で残業が増えたと言っても過言ではない。お陰で今日の約束も飛ばすところだった。表情が多少厳しくなるのも仕方がないことだろう。
これ以上自分のことを話すと更に厳しい表情になりそうで、彼女の話を促す。
「君のところにはどんな新人が?」
「一人の子がどうにも手際が悪くて…」
どうやらどこにでも書類仕事が苦手な新人がいるらしい。
視界の端でつるっとした茶色い髪が揺れるのが脳内に過ぎる。書類仕事が得意でないことくらい、知っていたのにな。もう少し、俺にできることが…──
「イルードさん?」
黙り込んだ俺の名を、彼女は心配そうに呼んだ。
「すまない、何の話だったか」
恋人と過ごす時間に他の女のことを考えるなんて失礼だ。再びの失態を、頭を軽く振って追いやって、目の前の女性に向き合う。
今の関係を崩すのは得策ではない。あちらは何も覚えていないのだから、敢えて自分から伝える必要はないだろう。こんな俺に縛られるのは、いくら何でも可哀想だ。
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《祝福》に囲まれた部屋で杯を傾けた。琥珀色の液体が喉を焼く。昼間、突然目の前に現れた少女の月のように輝く黄色い瞳を思い出し、深く息を吐き出した。
自分が年を重ねれば使用人が老いるのも当然のことだ。新しい使用人を入れたのは家令だったか。今日入った彼女にとても使用人が務まるとは思えない。家令もそろそろ交代を考えなければいけないのかもしれない。
新人の彼女は私の青い瞳を見た瞬間に、黄色い目を見開き、それから酷く顔を歪ませた。
運命とは何と残酷なことか。妻がいる身であのように若い女に入れこむなどできる訳がない。どうして今さらになって出会ってしまったのか。今世でも結ばれないのであれば、記憶など持っていても仕方がないというのに。
それでもその記憶に縋って部屋いっぱいに《祝福》を集めてしまうのだから、自分のシュリエに対する執着にも嫌気がさす。
大魔女なんて肩書、本人は嫌がるだろうが、あのままシュリエの功績が軽んじられるなんて許せるはずがなかった。
《祝福》は私に何も語りかけない。心は閉ざされたままだと、いずれ朽ちていくのだろうか。
綺麗に飾られたコレクションの中から、開かない箱を手に取った。
王妃陛下の持ち物にしては質素過ぎる外観のこの箱を、シュリエが慌てて隠したことを覚えている。当時はさして気にも留めなかったが、遺品整理をしている中で疑問が湧いた。
それはあまりにも厳重に封が閉じられていたのだ。
シュリエの何もかも全てを知ったつもりではないが、それはどうにも面白くない。今世でも見つけたからには謎が知りたいと手元に置いたが、開ける方法はあるのだろうか。
箱を膝に乗せ、今度は左手の人差し指から指輪を抜き取った。黒ずんだ金属の指輪の内側には黄色の石が嵌っている。
その石を指先で撫でてから、また杯を呷った。