6.恋心
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「もう頭がなくなりそう」
「大丈夫よ。ちゃんとついてるから」
帰りの路面電車から久しぶりに見た夕日が目に染みて、ほとんど目を閉じかけた。
「良かったじゃない、取り敢えず合格が出て」
「おまけのおまけだったけどね…全然納得している感じはなかったけどね!」
うわんと咽び泣きながら顔を覆うと、隣の友からは乾いた笑いが零れた。
「あんたのあれに付き合ってくれた班長に感謝しなさいよ」
「本当に優しい…好き…!」
あれからイルード班長は納得いくまで私に報告書を直させた。修正は鑑定局が閉まる夜遅くまで続き、ようやく開放されるまでなんと五日を要した。
イルード班長と一緒に居られるのは大変喜ばしいことだったのに、普段使わない頭を使ったがためにその時間を最大限楽しむことは叶わなかった。
「私だったらあんな絶望的な書類見せられて書いた本人をどうにかしようなんて気、起きないわ。絶対に自分で直した方が早いもの」
アンルの言うことはごもっともである。そのくらい、私は書類仕事が苦手だったし、感覚を言語化するのも苦手だった。
「人には向き不向きがあるよね…」
学校ではもはやお手上げで、放置されてここまで来たのだ。それを今さらどうにかしてくれようとする人が現れるだなんて、誰が想像しただろうか。
「良かったわね、不向きでも上司が根気強く教えてくれればどうにかなりそうじゃない」
実際、イルード班長は自分の仕事を押してまで私の報告書の添削をしてくれた。具体的な修正案は無くても直し方のコツをとことん突き詰めてくれて、それに導かれて文章を書く。
つくづく感覚を文章にするというのは難しいと私自身が諦めそうになったけれど、イルード班長は諦めなかった。
私とイルード班長の間を何往復もする書類は、まるで学校時代に流行った交換日記のようだ。毎度怒られながらも途中から楽しくなってしまったのだが、イルード班長の個人的なことは何一つ分からないことだけが難点だった。
「アンルは順調なの…?」
同期であるアンルは、本来であれば私と一緒に研修を受けるはずだった。けれど今は主に私の所為で別行動となっており、二班の先輩と《祝福》の感覚を掴むための練習をしている。
「どうかしら。使い物になるまで少なく見積もって一ヶ月はかかるって話だったけど。現状は全く意味が分からないわ。学校で習ったことはなんだったのかって話よ」
「そうなんだ」
分からないことを分かるようにするのは大変だと、報告書をもって身に染みたというのに、アンルの悩みには全く共感できなかった。私にとって《祝福》は向こうから勝手に訴えてくるものなのだ。
「そうなんだって…だからどうしてあんたは《祝福》だけ分かるのよ。他の魔法なんてさっぱりじゃない」
「何でだろうね?」
それが分かれば私だって苦労はしない。別に今苦しんでいるとかではないけれども。少なくとも《祝福》以外の魔法の腕はその辺の子ども以下だ。
「私が訓練している間に精々事務仕事でも覚えなさい」
「本当に無理。頭爆発しそう」
事務仕事の腕も、その辺の子ども以下かもしれない。
「イルード班長もこんなのを相手にしなければならないなんて可哀想に。恋人とデートの一つもできないじゃない」
「えっ」
アンルの発言に驚いて目を見開くと、反対にアンルは半分目を閉じた。
「えっじゃないわよ。まさか知らないの?」
「むしろどこに知るきっかけが…?」
一生懸命に五日もかけて報告書を直していた私に、よそ見をする暇なんてなかったのだけれど?
「まあ仕方ないか。本人が付きっきりだったものね。お相手に恨まれないといいわね」
冷めたように言うアンルに私は口を戦慄かせた。
「え…?本当に?…イルード班長に??恋人が…???」
「失恋ご愁傷様です」
アンルはニヤリと口の端を吊り上げて、嘲笑うように言った。
ようやく出会った推定運命の人は、どうやら本当の運命ではなかったらしい。
衝撃に打ちひしがれて、涙すら出なかった。
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しかし失恋したからといって簡単には諦められないのが恋心というものではなかろうか…というよりも初めての失恋で心の整理の付け方もさっぱり分からない。
恋人関係になれずとも、勝手に格好良い姿を観察して心を躍らせるくらいは許されるのではないだろうか。否、そもそも姿を見ただけでこんなドキドキするのに恋人関係になる方が無理だったのではと、ちょっとだけ思い直した。
なんとか心を立て直しつつ、言いつけられた書類整理をしながらそっと班長をチラ見する。
「聞いてくださいよ班長ー!」
「おいバカやめろ!」
「いいから仕事をしろ」
イルード班長は部下に慕われている。その理由は真面目で一見堅物そうなのに、ちゃんと話を聞いて反応をくれるからだろうと分析する。
要はとても、面倒見がいいのだ。構われている他の班員が羨ましくなるくらいに。
「私も怒られたい」
「あんたそれは重症だから。構ってもらえないからって危ない思考になるのはよしなさい」
一緒に雑用を申しつけられたアンルは私の独り言に突っ込みを入れた。
「あの濃密な五日間を過ごしたら、イルード班長に怒られていないのが逆に不思議に」
「ならないのよ普通は。凝りて報告書を自分一人で書けるようにするのよ、普通は!」
バレないよう小声なのに、アンルは「普通」を強調して言った。
しかしそうは言われても、イルード班長と関われるだけで胸が弾んでしまうのは自分ではどうしようもない。たとえ報告書の直しが色気の欠片もなくったって、私の脳内は幸せ成分で満ち溢れてしまう。
「むしろ何がそうさせるのよ。確かに顔は格好良いけど、そこまで好きになる要素がどこにあったわけ?」
まったく響かない私に痺れを切らし、アンルは手を動かしながら眉を顰めた。
「……分かんない」
「はあ?」
その反応はもっともだ。私もアンルと同じ立場だとしたらそんな顔にもなるだろう…否、なるかな?眉間の皺が深くなるのはそうだろうけど、その口は一体どうなっているのだろうか。右と左で高さが大分違うけれども。
しかしそうは言っても、本当に理由なんて分からない。一目見た瞬間に全身が悟ったのだ。「やっと出会えた」と。
「いい加減そのお花畑みたいな頭どうにかしたら?」
現実主義者のアンルに言わせてみれば、私の感覚なんて絵空事なのだろう。それでも私にはこの感覚を無視するなんてできないのだった。