15.ネモフィラ畑
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憂鬱な気持ちで出勤すると、しかしながらイルード班長の姿はなかった。イルード班長だけではなく課長も他の班長も不在にしているらしい。
役職者不在の解除課は引き続きジョルア伯爵の遺物にかかりきりだ。
「なあ聞いたか?王城の裏手のネモフィラ畑に《祝福》がかかってるって話」
ラグー先輩はだらしなく頬杖をつきながら雑談を始めた。概ね報告書の作成に飽きたのだろう。最近気付いたことだが、ラグー先輩の集中力にはかなりムラがある。ノリに乗っているときには話しかけても返事をしないくらいに集中するのに、全然ダメなときにはだらだら雑談ばかりしていてイルード班長にもよく叱られている。
今日は叱る人がいないので雑談し放題だ。
「なんですかー、それ」
「聞いたことはあります。一年中咲いているんですよね」
適当に返事する私の横でアンルは相槌を打った。アンルも大概飽きているのかもしれない。連日の作業はある意味で通常業務ではあるのだが、終わりが見えないからこそ疲労も溜まる。
加えて解除課の主要部隊が局にずっと籠っていることは珍しいそうで、その点においては先輩たちも辟易していた。
「花畑に《祝福》なんてかけてどうすんだろな」
雑談の内容にも疲れが滲んでいる。
「何にでもかけますよ、《祝福》なんて」
「お前がかけたみたいな言い方だな」
脳直で返した言葉に、ラグー先輩が突っ込んだ。いけない、夢の感覚が抜けきっていない。
「現に何にでもかかってるじゃないですか…それで、そのネモフィラ畑がどうしたんです」
この話を引っ張るとまたぼろを出しそうで、話題を元に戻した。
「潰したいのに枯れなくて困ってるんだってよ」
「そういえば、王城に新しく施設を造るような話がありましたね」
「へえ、そうなんだ」
アンルは物知りだ。世の中で起こっていることをいち早く仕入れて教えてくれる。
「なんだったかな、新しい組織を作るとかなんとか…」
「王城なんて無駄に敷地が広いんだから別のところに建てりゃいいのにな」
「確かに。そこに何かあるんですかね」
「広すぎるからなるべく近くに建てたいんじゃないですか?動線とか警備の問題もありますし」
王城なんて行ったことがないから、何をするにもそれなりに規模が大きそうだなという感想くらいしか浮かばない。まるで別世界のことに興味など湧かないのが普通だろう。
「課長も班長たちも大変だよな。次から次へと問題を持ち込まれて」
ラグー先輩が次に言ったことに私は急に意識を戻された。
「イルード班長は今日王城に呼ばれているんですか?」
「課長たち全員な」
呆れたように目を眇めながら、ラグー先輩は答えてくれた。
こんなに大きな課題を残して役職者全員が不在にしていた理由が国に関わることであれば納得だ。けれどなぜか、薄っすらと頭の片隅に不安が過ぎる。何か他に情報を集めたいのに、自分が何を知りたいのかも分からない。
「そのネモフィラ畑の鑑定結果はあるんですか?」
「流石に国家機密だろそんなもん。鑑定の結果《祝福》だって断定されたから課長たちが呼ばれてるんだろうけどな」
「それはそうですね」
アンルとラグー先輩の会話に耳を澄ます。
王城の敷地にあるものが無暗やたらに変えられるはずがないし、《祝福》は国を上げて保護されているものだ。そのネモフィラ畑が残されていたのも貴重な資料だったからであるはずなのだ。
つまりは一般には開放されていないような場所の話であって、私なんかが間違っても足を踏み入れるような場所ではない。
だというのに、見たこともない花畑が脳裏に浮かぶのは何故なのだろうか。
先日のイルード班長の態度も気になるし、解決しないもやもやばかりがまた募っていく。
次にイルード班長がこちらに出勤してきたときには必ず問い詰める。それまでは自分のこの感覚と、もう少し向き合ってみるしかない。
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翌日もイルード班長は解除課に出勤しなかった。
「クユイ・ガリネ、君は今日からしばらく《祝福》に触らないように」
「はい?」
始業前、三班のカナヤ班長から出た指示に、私は間抜けな返事をした。
「イルードからの命令だ。事務仕事は腐るほどあるからな。ま、頑張れ」
全然意味が分からない。これだけ鑑定しなければならない《祝福》があるのに、それをしない理由などないだろう。
「どうしてですか?」
「しばらくイルードがこちらに来ない。その間は触らせるなとのお達しだからだよ」
理由になっていない。確かに《祝福》に関わるときはイルード班長を同席させるようにと言われたことはあるが、あれがまだ生きているということか。
「全く、自分勝手だよね。人手はいくらあったって足りないってのにさ」
それ以上のことは知らないのか、口止めされているのか、カナヤ班長はさっさとどこかに行ってしまった。
これまでの私であれば何の疑問も持たなかっただろうが、今の私はその指示に裏を感じてしまう。まるでイルード班長がわざと《祝福》から私を遠ざけているようだ。
だからといって、私が《祝福》に触った、或いは触らなかったことが理由で何が起こるのかは、予想もつかない。
結果、やはり釈然としないもやもやだけが残るのであった。
「結局王城には課長とイルード班長だけ残ったんだ?」
もやもやをどうしてくれようかと思案していると、隣でアンルが囁いた。
「そうみたいだね…」
「今日から私と一緒に頑張ろう」
「うん」
未だに《祝福》を扱うための訓練ができていないアンルはずっと事務仕事を担当している。指示を出すべき班長がいない今、仕事はアンルにもらうのが良さそうだ。
それにしても、次にイルード班長が出勤するまでに、私はこのもやもやを抱え続けなければならないと思うと、憂鬱で仕方がない。
せめて、新たに夢でも見せてくれればいいのに、そう都合良くはいかないのだった。
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その《祝福》は、解除課の定石手段が通じなかった。ただでさえ範囲が広いのに、その敷き詰められた花一つ一つにかけられているらしいのだから厄介だ。
記憶を探っても解除のための取っ掛かりは見つからず、王城の資料室を漁ってから再びザイ課長とやってきた。
「しかし花畑にまでかけんのか、《祝福》ってやつは」
疲れを隠せないザイ課長は、一面の青い花畑を前にしゃがみこんだ。
「何にでもかけますよ、《祝福》は」
「お前がかけたみたいな言い方だな」
かけているところを腐るほど見てきたから知っているだけだ。
「彼女はそういう人ですから」
「へーへー」
課長が始めた会話なのに、何故かまるで興味のなさそうな返事だ。
「だったら連れてくりゃいいのに」
「これは私がなんとかします」
これ以上彼女にきっかけを与えたくなかった。解除課にいれば、いずれその時は来るのかもしれない。そうだとしてもそれは、今じゃない。
「お前…そんなんだから振れたんだろ」
途端、課長は俺の意識を現代に戻してきた。
人の噂とは不思議なもので、俺が恋人に振られたことを、何故か色んな人に知られている。相手も職場の人には知られたくないと言っていたはずなのに。
「…なぜ課長までその話を」
慎重に視線だけで様子を窺うと、課長は人の悪そうな笑みを浮かべてゆっくりと立ち上がった。
そしてわざとらしく手を顎にあてる。
「なんだったかな、確か夢で女の名前を言ってたとかなんとか」
「……」
「シュリエだけならまだ仕事で誤魔化せたのにな」
「………」
あの日はたまたま、本当にたまたま複数の夢を見てしまったのだ。まさかそれが現実で口から出ているなど誰が思うだろうか。
恋人に引っぱたかれて目を覚ましたのは、初めてのことだ。
「夢でまで呼ぶくらいならさっさと誑し込んじゃえばいいだろうが」
苦い顔をしただろう俺の反応を見て、課長は呆れを滲ませた。課長の言いたいことは分かるが、それができればこんな苦労はしていない。
「それでは彼女が…可哀想じゃないですか」
「そうかあ?尻尾振って飛び込んできそうだけどな」
いつだって隠しているつもりだろう彼女の気持ちは伝わっている。だがそれを鵜呑みにするほど浮かれてもいられない。
期待して違っていたら苦しさが増すだけだ。そんなのはもう、ごめんだ。
「おじさんは早くこの件片付けて、局に帰りたいんだけどね」
きっと彼女を連れてくればあっさりと《祝福》を解除するのだろう。けれど、この件に関してはどうしてもその力に頼りたくなかった。
「先に戻っていただいても結構ですが」
「そんなわけにもいかないでしょうよ」
ザイ課長と俺は解除課というより、鑑定局の代表として残されている。解決の糸口も見えていないのに課長が国からの案件を放り出すことはできない。
「それにしても綺麗だな、丘一面のネモフィラ」
「そうですね」
見渡す限り空と地面が青々としている。この青に、一体あなたはどんな《祝福》をかけたのだろう、シュリエ……。