10.祝福の館
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その日の解除課は、皆イルード班長の左頬に注目していた。
「恋人に振られたに一票」
二班の仲間であるラグー先輩は、普段からは想像できないくらい真剣な表情で言った。
「あのイルード班長に限ってそんなことあるわけないじゃないですか」
大魔女シュリエよ、否定しつつも今この瞬間、他人の不幸を悦ぶ私をお赦しください。
「表情と台詞が一致してないわよ」
アンルに指摘されて慌てて頬を揉む。
今日いつも通りに出勤したイルード班長の左頬は、にわかに赤く腫れていた。治療をするほどでもないのだろうが、誰が見ても右と色が違う。
本人に理由を訊ねる猛者はおらず、今こうして噂の対象となっているという次第だ。
頬を自らぶつけることもないだろうし、そうなると打たれた説が濃厚で、反撃もせずに受け入れる相手は誰かとなれば、当然女の影が浮上する。
「ま、たとえそれが真実でも、私に可能性があるとは言えないけども」
「あら、珍しく客観的な判断。偉いわね」
ぐぬぬと唇を噛みしめるとアンルは頭を撫でてくれた。
「褒められてない…」
「褒めてる褒めてる」
感情の欠片もないその言葉にまた涙を呑んだ。
「お前本気なの?」
「私はいつでも本気ですけど」
ラグー先輩の純粋な疑問は私に追い打ちをかけた。私はいつだってイルード班長にときめいているし、誰よりイルード班長の格好良さを語れる自信がある。
「お前が?」
ラグー先輩は私を言葉の刃で仕留めようとでもしているのだろうか。何か恨まれるようなことをした覚えもないですけど。
「私が誰を好きだろうと私の勝手じゃないですか」
「そりゃそうだ。叶わなくても?」
納得した素振りを見せつつさらに攻撃をしてくる…玄人の甚振り方に私の心はズタズタだ。
「叶わないとは…言い切れないじゃないですか…!」
それでも自ら諦めたくはない。悪足掻きと言われようとも、自ら後ろ向きなことを言う私なんて私じゃない!
「イルード班長の恋人、局内にいるって噂あったよな」
私が力いっぱい拳を握って決意を表すと、ラグー先輩は急に声を低くした。
「意外…近くには作らなさそうなのに」
「よっぽど好みだったとか?」
目を丸くするアンルに、ラグー先輩が目を細めて返す。私は握った拳を口元に持ってきて怯えた。
「好みって一体どんな…」
「さあ?」
根も葉もない噂を信じるほど馬鹿ではない…ないが、気になることは気になる。
「ところでその班長たちは、どこに行ったんですか?」
私の葛藤を他所にアンルは話題を変えた。私たちが何故こんな話で盛り上がれているかといえば、課長も班長もこぞって姿を消したからだ。現在は班長未満の一般課員しかこの部屋にいない。
「なんかとんでもないものが見つかったらしい」
ラグー先輩はとっておきの秘密を教えてくれる子どものように、人差し指を口の前に持ってきて笑顔を見せた。
「とんでもないもの?」
「ジョルア伯爵って知ってるか?」
「聞いたことあるような…」
「大魔女シュリエを崇拝して、《祝福》がかけられたものを集めていた人らしいんだけど、その人の館と遺産が見つかったらしいぞ」
「へえ?」
「想像ついてないだろうけどな、館一つ分の《祝福》だぞ?局総出で鑑定することになりそうって話だぜ」
館一つ分の《祝福》が全く想像できない私はぽかんと口を開けた。
「ラグー先輩は何故そんな機密っぽい情報をお持ちなんですか?」
アンルは至って冷静だ。
「朝イチで課長がボヤいてた。『せめて小出しにしてくれよ!仕事が増える!』とかって」
朗らかなザイ課長が愚痴を零すなんて、相当大変な事態になっているようだ。
「どうせ直ぐにこっちにも話が回ってくるぞ。お前らも覚悟しとけ」
ニシニシと歯を見せながらラグー先輩は頭の後ろで手を組んだ。
「クユイはともかくとして、私はまだ戦力にもならないと思いますけど」
アンルはまだ《祝福》の核を探す訓練中で実践に至っていない。鑑定をするにしろ解除をするにしろ、実際の作業には関われない。
「ばっかだなぁ。それだけ数があるってことは、雑用も山ほどあるに決まってんだろ」
「げえ」
ラグー先輩の指摘に私が声を上げた。
「やりたくない…大量の報告書なんて見たくない…!」
「他人のことは言えないけど、あんたも頑張りなさい」
「うわああああ」
まだ見ぬ恐怖に怯えた私は、頭を抱えてのたうち回った。
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とある館から集められた物たちは、局で一番広い会議室に留まらず、数部屋を占領してようやく収まったらしい。
ラグー先輩の予告通り、まずは鑑定局全体で一つずつ鑑定することになった。
その場で鑑定するのはキリがなく、館の備品は全て運び込まれたそうで、《祝福》がかけられていないただの家具なども紛れているそうだ。
「二班はこちら側から担当する。《祝福》が関係ないものは別部屋に移動、間違っても解除はするなよ」
「はい!」
イルード班長の指示に班員全員で返事をした。常に外に出ていることが多い二班がこんなに揃っているところを初めて見た。
「頑張ってね、クユイ」
「ありがとう」
《祝福》の感覚が掴めるようにならなかったアンルは、関係ないものを運び出す係だ。肉体労働も楽ではないが、本来の業務ができないのは辛そうだった。
「君は特に気を付けるんだぞ」
対象物を前に手を付けようとした私に、イルード班長は声をかけてきた。個別の対応に胸が高鳴る。
「頑張ります!」
精一杯真剣な顔を作って、真っ直ぐに向き合った。
「返事はいいがきちんと分かっているんだろうな?」
青い瞳を眇めるイルード班長は、あの日から少しだけやつれている。頬の腫れと赤みは引いても、心の傷は簡単に癒えるものではない。
できるだけ余計な心労を増やさないようにとは思いつつも、うっかり解除してしまったときの言い訳は考えてから魔力を通そうと誓った。
返事もせずに表情を観察していると視線が鋭くなったので高速で首を縦に振ると、イルード班長は浅く溜め息を吐いて自身も作業に入る。
大人しそうに見えて何かが起こっている《祝福》もあるらしく、奇怪な音が鳴ったり、光が明滅しているところがあるのを見るに、遊んでいる暇はないらしい。
覚悟を決めて手近にある花瓶から手に取った。魔力を通すとほんのりと光を帯びる。
花瓶からは明るくありたい使命感のような意思が伝わってくる。活けた花がより美しく見えるように、自分が支えなければならないような、そんな使命感だ。
──持ち主の目を愉しませようとしたんだ…。
そこまで応えてはっと我に返る。そういえば《祝福》は解除してはいけないと厳命されていたのだった。このまま花瓶と交流しているといつも通りうっかり解除してしまう。
「イルード班長」
「どうした」
「これって、《祝福》がかけられているかどうかが分かればいいんですよね?」
「そう言ったつもりだが?」
私の質問にイルード班長は眉を顰める。
「《祝福》の内容は記録するんですか?」
「するが、詳細は後回しで、要らない物を仕分けるのと、危険がないことを確認するのが先だ」
「分かりました」
そうなると、必ずしも魔力を通す必要はないのかもしれない。魔力を流して伝わってくる感情に向き合うと受け止めざるを得ないからには、感情の有無だけを知ることが必要だ。
「ううん…」
「どうしたんだ」
「魔力を通すとうっかりはずみで解除しそうで…何か良い方法はないものかと…」
「君は魔力を通しただけで解除に至るのか…」
イルード班長は唖然とした。
「魔力を通しただけ…ではないと思うんですけど」
「疑問系か…一瞬だけ魔力を通してすぐに手放すとかできないのか」
「なるほど…?」
考え込む私に、イルード班長もまた何かを思案する。
「…君は報告書に、魔力を通す前に《祝福》と向き合うようなことを書いていたが、対峙したときに何かを察していたりはするか?」
「対峙したとき…」
言われてガラスペンの《祝福》を手に取ったときのことを思い出す。あれは事前に《祝福》であると聞いていたからそう思った。
けれど考えてみればその前提がなかったとしても向き合い方は変わらないような気がする。
「意識しないところで《祝福》を感知するような、そんなことはあるか…?」
「ひょっとしたら、あるかもしれません…」
「だとしたら君は仕分けをすると同時に、それが真実かどうか調べた方がいいだろうな。仕方ない…物によるが三つくらいまでなら解除しても私が責任を取る」
イルード班長は難しい顔で苦々しく言った。
「ありがとうございます!頑張ります!」
「気張ってうっかり解除するんじゃないぞ」
「はい!」
自分の未知の力と向き合えるのは、思いの外嬉しいみたいだ。誰にも証明できない力の正体を、イルード班長だけが解ろうとしてくれる。それだけで胸が熱くなった。
この人に報いるためにこの作業を通じて何かを得よう、そう決心して《祝福》に向き合った。