1.夢といま
*
漆黒の闇の中には、星の光だけが輝いていた。
足元も覚束無いような暗闇を記憶だけで歩き、いつも通り鏡台の椅子を引きずって部屋の端まで移動する。入口近くの帳の前に腰を下ろし、そっと重い布に話し掛けた。
「ねえマキト、面白い話、して?」
帳の向こうでわざとらしい溜め息が聞こえる。やがて観念したように吐き出された言葉に含まれていたのが呆れだけではないことは、私の自惚れではないと信じている。
姿は見えなくても、夏の空のような、咲き誇るネモフィラのような青い瞳を思い浮かべた。
「今日は流石に寝た方がいいんじゃないですか」
平坦な、けれど畏まったその言い草に、ふふと笑みを零す。
「今日だからこそ、寝られないのよ」
それはあなただって分かっているはずなのに、酷い人ね。
「まったく、王妃様ともあろう方が」
「まだ違うわ」
窘める声に頬を膨らませて抗議すれば、向こう側の気配が少しだけ和らいだ。
「ついに、明日、ですね」
できるだけ抑揚なく紡がれた言葉には、返事をしなかった。
ついに明日、私はこの国の王の妻となる。それはあまりにもありふれた、政略のための婚姻だ。もしかしたら歴史に残るかもしれない程度の、ありふれたものだ。
ただ少し、人より使える力が多かっただけ。それだけなのだ。それで誰かが笑ってくれるなら、それで良かった。
その所為で自分が本当に笑うことができなくなるなんて、思いもしなかったけれど。
「後悔は」
返事をしなかったことが不満だったのか、帳の向こうの人物は声を低くして問うた。
「…そんなこと訊いてどうするつもり?」
一瞬どきりとしながらも、平静を装う。その問いがどれだけ無意味であるかなんて、お互いに分かり切ったことだ。
「たった一つの力で誰かが幸せになれるなんて、素敵だと思わない?」
「…そう思えることがシュリエの美徳だな」
心地の良い低音が、随分と久しぶりにその名を呼んだ。跳ねる左胸に気付かないふりをして、返す言葉を探す間にどんどん顔が脂下がる。喜んではいけないのに。
せめて、何かをあなたに残せたら…そう思うのは罪ではないでしょう。みんなと同じ様にあなたの幸せを願うことだけは、許されるでしょう?
「ねえ、手、出して」
微かに揺れる重い帳に、自分の手を重ね合わせる。最後の夜の、秘密の儀式。
「今まで守ってくれてありがとう」
込み上げるものを押し殺して細く告げた。これまでも、これからも、あなたは私のたった一人の騎士。
──マキトが幸せに笑っていられますように。
ふわりと、帳越しに温度が伝わってくる。今日もあの指輪をしてくれていることが私の胸を温める。
笑っているのが私の所為だったらいいのに。私以外の人と幸せになんてならなければいいのに。
そんな気持ちは隠したつもりだった。
「これからも、守りますよ」
戻ってしまった口調に俯く。大丈夫、声を出さなければ泣いたって気付かれない。
人より力を持ってしまった私のただひとりの騎士は、明日からもその役割を変えずに私を守る。
告げられぬ想いはただ静寂とともに闇に消える。だから私は祈る……
──願わくば、来世ではあなたと結ばれますように。
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叶わなかったんだ、このときの恋も…だから私はその向こうのあなたに告げられない想いを…──
「…――イ、…なさい。クユイ!」
「…うえ?」
呼ばれる声に薄っすらと目を開けると、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。半分捲れた掛け布団を足下に寄せて目を擦る。
「早く起きなさい。初日から遅刻したらどうするの!」
朝から元気に部屋に入ってきた母の声が頭に響く。そんなに大きな声を出さずともちゃんと聞こえている。返事はまだしていないが。
シャっと乾いた音を立てて母はカーテンを開け放った。
「眩しい…」
「朝ごはん出来てるからさっさと身支度して降りてきなさい」
そう言い残して母は一階に戻っていった。
「はあい」
ぐっと伸びをして床に足を下す。母が張り切っているのには訳がある。私が今日、初出勤だからだ。
顔を洗ってから事前に送られてきた制服に袖を通し、癖のない茶色い髪を整える。鏡を見ると、金糸雀みたいに黄色い自分の瞳と目が合った。
「誰から受け継いだんだろう、この色」
毎朝見ているにも関わらず気になるのは、覚えていない夢の所為だろうか。
頬を両手でグイグイと持ち上げ、無理やり笑みを作って目を覚ます。
「よし!起きた!」
自分の部屋から一階に降りるとパンの焼けるいい香りがした。食卓に着いて父と挨拶を交わす。
「いただきます」
手を合わせて朝食を取り始めると、母は嬉しそうに父に問いかけた。
「うちの子がまさかお国の機関で働けることになるなんて、本当に名誉なことだわ。ね、お父さん」
「ああそうだな。クユイ、頑張るんだぞ」
「たまたま特技があっただけだって。まあ、それを活かしてバリバリ働いてくるけど!」
喜ぶ両親に力こぶを作る真似をして応えた。これまで心配をかけた分、親孝行をしていくつもりだ。
「勉強はからっきしなのに、どうして鑑定魔法だけ使えるんだろうな」
父は疑問に肩を竦めるが、それは私にも分からないことだった。勉強なんて好きでもなければ頭に入ってくるわけがない。ここ数十年の政策で平民も教育を受けられるようになったとはいえ、向き不向きは誰にでもある。
そんな中、私はある特定の魔法だけ不思議なほどに得意で、それを国に認められ本日めでたく仕事の開始と相成った。
学校を卒業した後の就職先は様々あるが、国の機関で働くことはとても名誉なことなのだ。ふふんとしたり顔で朝食のスープを飲み込んだ。
「安心して!必ずや素敵な恋人も見つけてくるから!」
「馬鹿なこと言ってないでさっさと出なさい」
自立への第一歩を踏み出す私の目標を掲げると、母は半分目を閉じて冷たくあしらった。
「は!時間が!」
時計をチラ見して慌てて鞄を持ち上げる。
「それにしても子どもの成長は早いな」
「本当ねえ」
両親の会話を聞き流し、慌てて残りの朝食を牛乳で流し込んだ。
「我が家の愛娘に『大魔女シュリエの祝福があらんことを』」
感慨深く娘を見つめる両親を振り切り、足早に家を出る。
今日から私も晴れて一人前だ。早いところ両親から自立して、素敵な恋をするのが私の目標だ。
門出を祝福するような青空の下、乗合の路面電車の停留所を目指した。