番外編 ある公爵令嬢の話
本編で一瞬だけ登場したパーシーズ公爵家の令嬢の話です。
書きたくなって書いた完全な蛇足になるので、読まなくても問題ありません。
少々本編と整合性が取れていない部分があるかもしれませんが、そこは目を瞑っていただけると助かります。
私は父にとって駒だった。
パーシーズ公爵家の基盤を盤石にし、裏で王家を支配するための。
私は幼い頃から、聡い子だったと思う。
物心ついた時には、公爵から向けられる感情と母から向けられる感情に差があると何となく感じており、父と母が私に向ける感情が違うものだと直感的に気づいていた。
産後体調を崩し病床に付いていた母は、いつも私が訪れると春の陽だまりのような笑顔で私を迎えてくれ、私の胸も温かくなったものだ。愛を知った今なら分かる……母は常に愛を持って私に接してくれていた。
だが一方で、父はいつも値踏みするような視線を私に送る。叔母である王妃陛下も同様だ。幼い頃はその視線に苦痛を感じていた。その理由は父や叔母のお眼鏡に適わなければ、説教が待っていたからである。
父は会う度に「王太子妃になれ」と言い続けてきた。
そして私が5歳になった頃……母が亡くなり悲しんでいる私に父は「母親を亡くしたくらいで泣くとはみっともない。将来の王子妃はそんな事で泣かない」と言い放ったのだ。
ここで私は父に愛情を求めるのを止めた。
だが、幼い私は愛情に飢えていた。
無償の愛を与えてくれていた母は亡くなり、父とは最低限の接触に留める。使用人は多分に接触しようとはせず、最低限の言葉だけを交わす。
数ヶ月後には4歳上の義兄が傍系の侯爵家から迎えられたが、その義兄ともたまに話すくらいでお世辞にも仲睦まじいとは言えなかった。だから外に愛を求めるようになったのだ。
そして義兄を公爵家に迎えてまもなく、私は運命の出会いを果たす事になる。……結論を言えば彼は運命の人ではなかったし、あの時は愛情に飢えて精神的にも弱っていた時期だったので、愛を与えてくれる人だと錯覚していたのだが。
それが、セオドリック王太子殿下だった。
父である公爵に連れられて王城へ上がった私は、丁度ガゼボで休憩していた殿下に挨拶をした。習いたての挨拶だったのでしどろもどろになってしまった私を、公爵は鋭い視線で睨め付ける。
これは家で説教かと内心戦々恐々としていた私に、殿下は公爵を見て微笑んだ。
「美しい作法ですね。公爵家の教育の高さが伺えます」
将来が期待できる令嬢です、と和かに公爵へと話す殿下を見て、私を睨め付けていた公爵の機嫌は急上昇する。気を良くした公爵は「いやいや、不出来な娘で……」と話してはいるが、顔はニヤけていてだらしない。
そんなフォローをしてくれた殿下を私はすぐに好きになったし、公爵が「後は二人で」と去っていった後も、常に笑みを絶やさず話を聞いてくれる彼は、きっと私の求めている愛をくれる人だ!と思ったのだ。
彼と初めて会って以降、私は頻繁に王城に上がるようになっていた。
いつも微笑んで見守ってくれる殿下に恋心を募らせ、そして彼も同じ気持ちに違いないと思っていた私。
しかし……それは私の幻想だった事に気づいたのだ。
日差しが強い日だった。
その日は朝から公爵が登城する、との事で使用人が忙しなく動いており、それを私は横目で見ていた。
慌ただしく出ていく彼に最低限の挨拶をし、ゆっくりと食堂で朝食を食べている時、それは起こる。
「大変だ!旦那様が書類を置いて行かれてしまった」
なんでも、会議に必要な書類らしい。その話を他人事として聞いていた私だったが、ふと閃く。
「……なら、私が届けてきましょうか?」
顔面蒼白の執事に私が声をかける。今日は家庭教師もお休みなのでやる事もない。それに、もしかしたら彼に会えるかもしれない、その下心があった。
私の申し出に、目を丸くする執事。
「宜しいのですか?」
「ええ」
私が微笑めば、執事は肩の荷が下りたと感じたのか、随分と顔色が良くなっていた。登城できるように指示を送る私の心の中は、その日の空のように雲ひとつない青空のようだった。
私は登城し公爵に書類を届けた後、庭を見て帰る事を告げると従者が案内してくれた。
偶然でも殿下が休憩していれば、話しかけられる!と期待していた私だったが、それは半分しか叶わなかった。確かにガゼボに殿下はいた。だが、一人ではなかったのだ。
後に彼女はテューレ公爵家の双子の妹であるマリアーヌだと知るが、彼女が「誰か」なんてその時はどうでも良かった。それ以上に私は殿下の表情に目を見張ったのである。
最初に見た時、感じたのだ。私を見る時の笑い方と違う、という事を。じーっと彼の表情だけを見つめていれば、彼女と話している殿下の瞳には、熱が籠もっている事に気づく。その瞳はまるで母が私に向けてくれる時の瞳に見えて……ああ、殿下は彼女の事が好きなんだな、と察したのである。
周囲の花々は陽の光を浴びて……まるで彼らの愛を祝福するかのようにキラキラと輝いている。それがまた私を惨めにし、呆然とした事までは覚えているが。
そこから記憶がない。
いつの間にか屋敷の自室にいて、部屋着の状態でベッドに寝かされていたのだ。
上半身だけベッドから起こし、ぼんやりと窓の外を見ていた私だったが、目の前の花壇が先ほどと同じようにキラキラと輝いているところを見て、先程の光景は夢ではない事を理解する。
「好きだったのになぁ……」
そう口にしてしまったが最後、張り詰めていた空気が離散し、涙が溢れて止まらなかった。
今思えば……。
あの時の私は、本気で殿下に恋をしていて失恋に泣いていた、と思っていたが……幼いながらにも、無償の愛をくれるのは母親だけ、という事に気づいてしまったのかもしれない。私が求めている愛は、もう誰からも受ける事はできない、と心の中では絶望していたのかもしれない。
声を押し殺して泣いて泣いて、水指の水を飲み干して、それでも涙が止まらない。
そんな時に扉をノックする音がした。涙を拭いて、声をかけると立っていたのは義兄だった。義兄の手にはお盆があり、そこには食べやすそうなスコーンやサンドイッチなどが置かれている皿が。
「お腹、空いてない?」
そう心配そうに眉を下げて話しかけてくれた義兄の瞳を見て、何故か母の面影を感じ……止まっていた目から涙が溢れ出す。
私は驚く義兄に抱きつき、「お兄様、お兄様!」と大声で泣き出した。最初はどうすれば良いか分からなかった義兄も、途中から背中を優しく撫でてくれたのだった。
そこから私と義兄様の距離が近づいた。
私が落ち着いた頃。
改めて義兄様が話を聞いてくれた。私の失恋話を。そしてそれを聞いた義兄様は難しい顔をし、私が王子妃の候補になる事は規律上あり得ない、と教えてくれたのだ。
この国では王も規律に従って国政を担っている。公爵も王妃殿下も、自身の野心のために私を王子妃につけようとしている事をこの時私ははっきりと理解したのである。
だが、今の均衡がいつ崩れるかは分からない、と義兄様は言った。
正直言って現国王陛下には叔母である王妃陛下を止める力がない。先代両陛下がご存命の間は良いが……と眉をしかめている義兄様の心配は……その後現実のものとなってしまった。
先代両陛下が儚く散ってしまった事により、公爵と王妃陛下が動いたのである。テューレ公爵家のミリアーヌたちは我が派閥の者に邪魔をされ、殿下と会うことすら叶わなくなってしまった。
テューレ公爵家からも苦情が届いていたが、元々平和主義で温厚な人柄の彼らは、強行突破など考えた事もないようで、引き下がる事しかできなかったようだ。同様に、社交界には双子の譏りが王妃陛下によって流され始め、その噂は殿下の耳にも入るようになる。
彼女たちとの茶会がなくなり、代わりに私との茶会が増える。殿下は最初毎週のようにある茶会を拒否していたが、母である王妃殿下の「私の姪と仲良くするくらいなら問題ないでしょう?」と言う言葉に逆らえなかったのだろう。
この時になると、私は既に殿下の事は何とも思わなくなっていた。もちろん、敬愛の念はあるがそれだけだ。だが、私はまだ公爵の庇護下でしか生きていけない人間であり、公爵と王妃陛下には利用価値があると思ってもらわなくてはならない。そう義兄に言われ、私は殿下と会う事を毎回楽しみにしているように振る舞った。
茶会の時はいつ王妃殿下が私を見ているか分からないので、殿下に自分を売り込んでいるように見せた。その場には王宮の、王妃陛下の息がかかっている侍女がいたからである。
最後まで殿下が私を見る目は変わらなかったが、王妃陛下からも公爵からも何も言われる事はなかったので、きっと良いように取ってくれていたのだろう。
一方で義兄は教育係に教えられた事をまるで乾いた土が水を吸い上げるように吸収し、少しずつではあるが公爵家の仕事も振り分けられるようになっていた。
だが、それと同時に苦悩していた。「まだだ……まだ足りない」と何度言っていた事だろう。その度に私は彼を気分転換にとお茶に誘ったり、手を離せない時は料理人と作ったお菓子を持って行ったりした。
そんな兄妹のやり取りが増えたからだろうか。公爵が外出している時に限るが、公爵家の雰囲気が柔らかいものになっていった。屋敷の変化に居心地の良さを感じながら、私は教育に勤しんだ。
そしてあの日がやってきた。
その日は丁度公爵が朝から登城する予定があり、屋敷には義兄様と私だけが残っていた。その頃には屋敷の使用人の忠誠はほぼ義兄様に向いていたように思う。機嫌が悪ければすぐに怒鳴り散らす公爵と、使用人であっても丁寧に接することを心がける義兄様であれば、私から見ても忠誠を誓いたいのは後者だ。
私が自室で読書をしていると、義兄様が部屋を訪ねてくる。その手には一枚の紙を持って。
「リーン、これを」
手渡された紙に目を通すと、そこには公爵が秘密裏に奴隷売買を行っている旨が書かれていた。奴隷売買はこの国も含めた周辺国で禁止されている。
紙を持つ手が震え、言葉を紡ぐ事ができない。
「義兄様、これは事実ですの……?」
やっとの事で言葉を発した私に、彼は「残念なことにね」と言って肩をすくめた。
この時が一番父である公爵に嫌悪した。そして、最後の情ですらバラバラに砕け散る。
「リーン、私はこのことを告発する。その件で殿下へ秘密裏に手紙を送りたいのだが……」
秘密裏に裏から手を回したい。そのために先に殿下へと協力を取り付けようという話だ。
正直賭けに近い話であるし、殿下がこの件に乗ってくれるかも分からない。だが、ここまで来たらやるだけだろう。
「義兄様、分かりましたわ。私も全力を尽くします」
「……最悪、これが失敗したとしても、リーンだけは守るからな」
義兄様は何かを決意した、そんな力強い瞳をしていた。きっと義兄様のことだ。頭の中で私を逃す算段でもつけているのかもしれない。
その優しさが嬉しい。
「義兄様、私たちは一心同体ですわ。私もお伴させてくださいな」
「リーン……」
目線が合い、二人で微笑み合った。そう、私は義兄様から離れるつもりはない。たとえこの先どんな事が起ころうとも。
それから数日後の事。時は来た。
いつものガゼボではなく王城内の応接間に案内され、私は置かれていた紅茶に手をつけていた。そこに現れたのは、殿下だ。彼の顔は少々強張っているように見える。
重要な話をするから、と彼に付いてきた侍女たちを下がらせようとするが、「未婚の二人なので」と押し問答が続く。彼女たちはセオドリック王太子殿下付きではあるが、王妃の息が掛かっている者たちなのだろう。殿下もあからさまに眉を顰めている。彼女たちを持て余しているようだ。
そこに私が声をかけた。
「良いではありませんか、殿下。それよりも私、貴方様に思いの丈を綴った手紙をお持ちしましたの。先に見ていただけますか?」
私の提案に首を傾げた殿下だったが、「そうだな、手紙ならば……」と言って読み始める。勿論、内容は恋文……ではなく、義兄様の手紙と私の心の丈を書きつけた手紙だ。全三枚にもなる手紙なのだが、一枚目の途中……これは義兄様の手紙になるが、その手紙を読んでいる殿下の口角が、だんだんと上がっている。
そんな彼の様子を見た王宮の侍女たちが、急ぎ王妃陛下に報告するよう指示を出していた。
王妃陛下が覗いていた殿下との茶会で「お慕いしています」と言ったのだ。きっとあれが恋文だと勘違いするだろうし、そんな恋文を「見せてほしい」などと流石にあの王妃陛下は言わないはずだ。
そして一度全ての文面に目を通した殿下はこう言った。
「素晴らしい手紙だ。もう一度じっくり読みたいのだが……良いかな?」
「勿論ですわ、殿下」
殿下の言葉を聞いた侍女たちも興奮しているらしく、再度他の侍女に王妃陛下へと報告するよう指示を送っているようだ。予定通りである。
そして最後の止め。殿下が侍女へと声をかける。
「少々時間が掛かりそうだ……彼女のために、軽食を用意してくれるか?」
「承知いたしました」
これで王宮の侍女が全ていなくなり、我が公爵家の侍女だけになった。これからが本題だ。
「……ここに書かれている事は、事実か?」
「はい、殿下」
まぁ、あれだけ「お慕いしていました」を全面に押し出した演技をしていたのだ。彼が疑うのも無理はない。だから態度で示すべく、殿下の眼をじっと見つめた。
恥じらう様子もない私に、殿下は「本気なんだな」と零した後、彼も何か考え込んでいるようだった。だが、王宮の侍女が帰ってきた頃、まるでそれに合わせたかのように「これからもよろしく頼む」と笑顔で話された。
合わせて私も「嬉しいですわ、殿下!」と声をかけておく。応接間内でニコニコと満面の笑みの私たちを見れば、きっと彼女たちはそう思うだろう。
そのやりとりをした翌日。
彼らが油断している間に殿下は意気揚々とテューレ公爵家に訪れた。その結果が今夜の夜会だ。
婚約者として私が名を上げると期待していた二人だったが、出てきたのはミリアーヌ。顎が外れるくらい大口を開けている公爵を見て、口元の笑いが止まらない。私の些細な復讐は実ったのだ。
あの時、母を想って泣いた私に「母親を亡くしたくらい」と言った公爵が許せなかった。だが、私は無力な人間。彼に逆らう事イコール、死だという事も理解していた。怒りを押し殺して彼に従うしかなかった。
そこから私は目を逸らし、殿下に愛を求めたが失敗。失意のどん底で義兄様に助けられたのだ。
義兄様の協力のお陰で私は今この瞬間を楽しめている。
勿論、それ以上に殿下の裏工作が素晴らしかったのは言うまでもない。
あのやり取りがあった後も、殿下と私は数度お茶会をし、こちらのお金で仕立て上げたドレスを殿下に了承を得て、殿下名義でドレスを届けてもらった。一方、ミリアーヌは王城に上がる事もなく、公爵家で静かに暮らしているのだ。殿下の婚約者候補から脱落した、と噂になるのも仕方がない。
二人の野望は砕かれた。まあ悪足掻きで嫌がらせをするかもしれないが、それは後ろ盾に公爵家があるからできる事。でも、本当にその後ろ盾がいつまでもあると思っているのだろうか。
殿下の協力で私たちの計画は順調に進んでいる。あと一息だ。
殿下の隣には蹴落としたいと思っていたミリアーヌ。公爵と王妃陛下は、彼らの仲睦まじい様子を見て、思い通りにならなかった事に顔を真っ赤にして怒っている。彼らの野心は人一倍あったのだろう。だが、残念ながら知能が付いていかなかったのだ。
奴隷売買も結局は公爵の傍にいつも侍っている執事と商会が上手く隠していたから、今まで続ける事ができたのだろう。公爵側で裏工作をしていた執事でさえ虜にした義兄様の方が、きっとより良い公爵領の領主となってくれるはずだ。
その時に支えるのは、私でありたい。今ではそう思う。
気合を入れて隣の義兄様を見れば、彼は私に微笑んでくれた。
ありがとう、義兄様。私は貴方に会えて、よかったわ。
そしてこれからも貴方を愛していくわ。
入れるところがなかったのでここで…番外編主人公はアイリーンという名前です。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。