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マクマホン侯爵家からの申し出から十日が過ぎた。正直言えば、答えは出てる。「絶対嫌」漢字にするとたった三文字の拒絶の言葉なんだけど、それを投げると、帰ってくるものがあまりに大きいなって、眩暈がしそうになるから、未だに明確な言葉にはしていない。
どうすればいいのかなって、ただもうそれだけをね考えてても仕方ないっていう状況なんだけど、考えられることってそれだけだし…。本当、前世ぶりの胃痛がここ暫くずっと続いてる。
本当、胃痛とか前世であったなんてどうでもいい記憶があるのに、自分の名前とか性別とか思い出せないんだろう? いや、今はそれどうでもいい話。
ジーンはもうすっかり落ち着いていて、私が孤児院で寝泊まりしなくても大丈夫になっている。だから、私が視界にいれば、私の近くにいなくても大丈夫になっている。子供達の力が大きい。本当、ジーンが私がいなくても笑えるようになったっていうのが、今の救いかな。
そんなことを現実逃避で考えてた時だった。孤児院の院長様が私に急いで修道院の院長室へ向かうように伝えに来た。
「とにかく、急いでね」
「分かりました!」
院長様は私に笑顔を向けてくれる。いい話だと信じたい。信じよう、うんそう思おう。私は久しぶりに孤児院から修道院へと向かう道程を走った。思い切り。
修道院へ入る扉の前で足を止めて、息を整える。大丈夫。息が切れることはない。大丈夫。修道服も乱れてない。よし。じゃあ、院長室へと向かおう。
⁑ ⁑ ⁑ ⁑ ⁑
「マージェリー修道女、マクマホン侯爵家の件だけどね。なんとか解決できそうでね」
「本当ですか!?」
「まだ確定ではないけれど、でも今一番の最善の解決方法だと思うから、よく聞いてほしい」
「はい」
隣国のとある貴族家から寄付金があったそうだ。その額を毎年寄付するという話もあったらしい。その金額はマクマホン侯爵家の寄付の金額よりも遥かに多いものだったそう。
しかも条件は特になかったらしい。ただ、その貴族家は名前を出せない事情があって、このことを表沙汰には出来ないということ。
もし私のことで揉めるようなことがあるなら、聖騎士と婚約が決まっているから無理だと言うようにとも助言をしたらしい。その聖騎士が誰かと問われた場合には、条件としてデリック一択になる状況なので間違いなくデリックの名前しか出せないけど。
実は他の聖騎士様達は奥様がいらっしゃる方ばかりで、独身なのはデリックだけだから。
去年までなら何人か独身の方もいらっしゃったのにね。今年はデリック一択って…どういうことよ! というのはまぁこのさいどうでもいい話。
どうして聖騎士と婚約なんて話を? と思っていると、院長様が教えてくださった。
「聖騎士との婚約、結婚というのは、聖騎士の任地が伴侶たる人の住まう場所になるから、デリック聖騎士との婚約は必然で修道院の敷地内での生活ということになるわけだ。だから、聖騎士との婚約と言うなら、修道女はいつかはやめることになり還俗することになるけど、決して修道院のあるこの敷地から出ていくことは出来ない、という意味になる」
「なるほど」
「だからね、マージェリー修道女がステラ修道院の聖騎士と婚約をした、という体裁だけ整えてしまえば、他の者があなたをステラ修道院から連れ出すのは無理になるんだよ。カクラート神は愛の神だから婚約した者同士を引き離すことをお許しにはならないからね」
「わかり、ました」
え? てことは、デリックとは形だけの婚約者ってことに…なる? うん? でも、どうして寄付金をしてくれた貴族家の方がそんなことを? その貴族も私の刺繍作品を見たことがあるのかな? まぁ…分からないことを考えても分からないままだけども!
「そういうわけだから、後はデリック聖騎士とよく話し合っておきなさい」
「…はい」
「色々悩むところはあるだろうが、今はそれで対処するのが一番安全だと思う。マクマホン侯爵家の申し出を断ることは大前提として決まっていたことだけど、もう迷う理由もなくなったから、丁重にお断りをする予定だよ」
「院長様、色々とお心遣いありがとうございます。それから寄付をしてくださったという貴族家の方にもお礼をお願いします」
「わかっているよ。もちろん、改めて伝えておくからね」
「はい! ありがとうございます!」
微妙に何かの外堀を埋められた感が拭えないけど、とにかく修道院から出ていく選択肢がなくなったことに安堵した私。
院長室を辞した後は、また急いで孤児院へと走って戻った。孤児院の院長様に状況を伝えると、喜んでくださった。本当安心したよ。一時期は冗談抜きで身売りかなって思ったし。というか、ステラ修道院が困るの嫌なんだけど、というのが大きかったし。
正直言うと、前世の記憶が戻って、私自身が自然と呼吸が出来るようになったのがこのステラ修道院だった。辺境伯家では前世の自分が表に出過ぎてたし、周りの状況もうまく飲み込めない私がいたし、修道院にすぐに旅立つという状況だったし。
だから、ここへ来て、自分らしくいられる日々にどれだけ気持ちが楽になれただろう。もし、あのまま家族に大切にされていても慣れない貴族としての人間として生きていくということになったら、きっと私は遠くない未来にダメになってた自信しかない。いやぁ…前世の平民としての、庶民感覚が前面に出てる状況で、貴族としての生き方は無理の一言しかないから。
とにかく、この修道院が守られたことが一番嬉しいし、何より自分の身の安全も保証されて非常に満足………満足して、いいの?
そんなことを孤児院の庭先で考え込んでいた時だった。背後で誰かが近付いてくる足音が聞こえたから、ふいに振り返ればそこにはデリックが佇んでいた。
「あ、デリック…。そうだったわ。話があるの、いつなら時間が空いてる?」
「マージェリー修道女様。今日は休みなので一日空いていますよ」
「そうなの? それなら昼食を一緒にどうかしら? その後話が出来ればいいかな…」
「分かりました。それじゃ、私はこのまま孤児院の子供達と過ごします。それなら貴女に合わせることも出来ますから」
「ありがとう、助かるわ」
「どういたしまして」
二人並んで孤児院の建物へと入る。子供達にすぐさま囲まれてしまうけど、私は修道女としての奉仕があり、今からの時間は掃除をすることになっている。庭先では考え事をしながら、実は除草作業をしていたところだった。
建物内の掃除をすると言えば、子供達の中からも一緒に手伝うという声がいくつか上がってくる。そういう場合は、すべきことがない子供と一緒に奉仕をすることも多い。
子供達に生きる為の技術を伝えることになるから、子供達の手伝いたいという気持ちを否定することはない。
ただし、全く何も手伝おうとしない子供も当然いるから、そういう子供に対しては学ぶことも必要だと伝えて、無理矢理手伝わせることも多いけれど。文句を言いながらもちゃんと手伝ってくれるし、手伝ってくれた後に上手に出来ていたとか、自分よりも効率よく出来ていたとか、良い面を伝えれば案外次からは手伝いを率先してしてくれるようになる。実際、子供達のおかげで助かっているのも事実だから、いつだって修道女の皆は子供達に感謝してるのだけれど。
いつか子供達が大人になって、家庭を築いた時に自分のパートナーに、子供に、感謝を伝えられる人であってほしいものね。ありがとうの言葉は、言われて嬉しいから。




