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第十九章 アントンさん

 いま俺のうえには、さまざまな問題が雲のごとくおおいかぶさり、俺の頭を重くしている。

 第一に、ラニちゃんを模したあの絵のことだ。

 あれは本人がいわく、

「あの絵はたまたま夜の湖であの娘を見かけた俺が描いたもんだ。あんときあの娘、なんだかすごくうれしそうにしててさ。とてもいい絵になると思ったんだ。でもまさか、あの絵が今そんなところにあるなんてな夢にも知らなかった。あの絵はアントンに娘の形見として俺が贈ったんだから」

 とのことで、やはり彼の空想によって描かれたものではなく、本人を写した絵ということになる。ならば、ラニちゃんがいつも身に着けていたというバレッタはどこへいったのだろう。また、手に持っていたあの装飾品は一体なんなのだろうか。

 それについて質問すると絵師――ベルトは悲しげな色をして、

「あんた、本当に忘れちまってんだな。……それはあんたが一番知ってるはずだぜ。なにせ俺があの時、あの娘を見かけたとき、あんたもそこにいたんだから。なにやらあの娘とずいぶん話し込んでたみたいだが、何を話していたのかまではしらん。俺がモデルをお願いしにあんたらの間に割って入った時にも、何の話をしていたかまでは触れなかったし、興味もなかったからな。にしても人は見かけによらないな。まさかあんたがあの勇者だなんて夢にも思わなかったよ」

 と、述懐した。俺はこの事実に心底驚いた。

 ラニちゃんと俺がまさかあの場で話をしていただなんて、思ってもみなかったのだ。俺があの装飾品に眼を引かれたのにはそういう理由(わけ)があったのだ。

 とはいえ、肝心の装飾品については依然分からずじまいで、あの場でいったいどういう会話がなされたのかにいたっては兎の毛も心当たりがなく、これ以上の進展は望めなかった。

 第二に、アントンさんの所在だが、これに関しては大きな手掛かりを得られた。

 なんと絵師ベルトはアントンさんと旧知の仲だといい、今でも交流があるというのだ。

「俺とアントンは系統は違えど同じ職人同士で意気投合してな。よくアントンと酒を引っ掛けたもんだ。でも、娘のことは本当に気の毒だったよ。あの絵を描いてからまもなくあんな悲惨な事故に巻き込まれるなんて。どれもこれも魔族のクソ野郎のせいだ! あの野郎のせいであの娘は死んだんだ。まったく魔族ってのはろくなもんじゃねえ……。あの件であいつはひどく塞ぎこんじまってよ、無理もねえさ。掌中の珠と愛した娘があんな悲痛な最後を遂げるだなんて、あんまりだわな」

 そう述べたベルトに、彼とコンタクトを取れないかと問うと、

「さあ……あの事件から俺も奴とは文通でしかやり取りしてないからな。アントンのやつ、あれから誰とも会いたがらないんだよ、この俺でさえな。だからお前がアントンに会えるかどうかはわからない。が、宛先は知っているから訪ねてみるといい。もしかしたらお前なら奴も会ってくれるかもしれない」

 ベルトは一枚の紙を取り出して端のほうをむしり取ると、素早くペンを走らせ、それを俺によこした。

 しかし、渡された紙切れには、うねうねとしたミミズののたくったようなへんてこな文字で書かれており、俺には読むことが叶わなかった。見たこともない字に俺が困惑していると、隣にいる少女が小さく感嘆した。少女がいうにこれは転移魔法技術の一種であるらしく、の文字は転移先の座標を示しているというのだ。

 このような便利なものがあるのなら、行商人もさぞ商売上がったりであろう。ところが、この転移魔法とやらは扱いが非常にむつかしく、魔法の知識のない人間には到底使いこなせる代物ではないと少女はいう。

 これをどうやって知ったのだ、という少女の問いに、ベルトも首を横に振って、これはアントンが教えてくれたものだ、と答えた。

 それはさておき、アントンさんの所在も知れたので、俺たちは明日アントンさんの元をたずねることになったのである。

 そして最後に、俺が勇者であるということだが、それは少し先に多く語る機会があるので、ここでは簡潔に述べよう。

 俺自身として、俺が勇者であるということに、疑念を抱かずにはいられなかった。他人から勇者であると指摘を受けた今でさえ、どこか他人事のような、白昼の夢のような、空虚でつかみどころがなく、いっさい現実味を帯びてこないのである。けれども、けれども、心のどこかではそうであるかもしれないという予感もあったといえば嘘ではない。

 少女の方ではやはりあのマスロープスでの出来事から確信めいたものを感じていて、絵師ベルトの指摘によって、揺るぎない事実にかわったようである。

 それからというもの、どうかすると少女の俺を見る眼には、どこかよそよそしく、空々しく、それでいてもの悲しく、憂いに沈むような複雑な色をうかべるようになった。

 宿屋へ帰った俺と少女は、ひとまずオーナーの夕食をしたためると、めいめいの部屋へ戻ったが、そのあいだ、互いに一言も口を利くことはなかった。

 部屋へもどった俺は、そうそうに服を着替えてベッドへ倒れこむと、ここのところ寝付けなかったせいか、数分もせぬうちにまどろみに落ちる。

 その夜は、いつも見ていたあの奇怪なステラの夢を見ることはなかった。

 俺がふと目を醒ました時には、窓の外は大分明るくなっており、床にはありありと窓のかたちをした陽射しが浮かびあがっている。時刻にして十時前後だろうか。これは大いに寝過ごしてしまったとベッドから急いで飛び起きて支度をしていると、ドアの向こうからパタパタと足音がする。

「失礼します」

 という声とともにドアが開く。立っていたのはオーナーである。

「だいぶお疲れだったようですね。ゆっくりできましたか?」

「ええ、とても」

「下でお連れ様がお待ちです。朝食は包んでお連れ様にお渡ししましたので、道中にでも召し上がってください」

「わざわざありがとうございます。ということは、もうお話はうかがったんですね」

「ええ、アントンさんに会いに行かれるのですね」

「はい、まあ会えればよいのですが……どうも、今、彼は誰とも会いたがらないようで」

「そうでしょうとも。あんなことがあったのですから、無理はありません。あの、ところで、非常に差し出がましいのですが、一つお願いを聞いていただけませんか?」

 オーナーはわずかに心苦しそうな顔をして姿勢を改める。

「ええ、私にできる範囲ならなんなりと」

 と、俺が答えると、オーナーはいつもより輪をかけてうやうやしくお辞儀をしてから、壁に掛かっている絵を指さし、

「あちらをアントンさんの元へ届けてはいただけないでしょうか?」

「ああ、あの絵……」

「やはりあの絵はアントンさんの元にあるべきだと私は思うのです。これはラニちゃんの忘れ形見なのですから」

「ええ、私もそう思います。しかし……」

「しかし?」

 俺はすこし思い悩んで、いくらかためらったのちに、こう切り出した。

「すみません。そのお願いはお受けできません。それはオーナー自身が手渡してやってください。そのほうがアントンさんも喜ぶかと思います」

 俺の言葉に、オーナーはにわかにベソをかくように顔をゆがめ、がくりとうなだれて、

「どうか、どうかそのようなことをおっしゃらないでください。私には彼に会う資格などないのです。私は、私の保身のため、彼とラニちゃんを突き放したのです。どうしようもない卑しい人間なのです」

「たしかにそうかもしれません。しかし、アントンさんはそう思っていないでしょう。だから、アントンさんはあなたにお礼の言葉を述べたのではありませんか? 憎んでいる相手に感謝などする人はそういませんから」

「しかし……」

「いいえ、しかしもありません。これはあなたからアントンさんへ渡すべきです。でなければ、あなたの志が無になる。私からアントンさんへこの絵を渡しても、あなたがアントンさんへ想う気持ちは伝わらないと思います。よけいなお節介ではあるかもしれませんが、あなたたち二人にはこのまますれ違った状態でいてほしくないのです」

 俺はオーナーへそう告げて部屋を出た。

 階下へ降りていくと、玄関の柱に寄りかかる少女の姿が目についた。

「すまん、待たせたな」

「遅い」

 少女は無愛想にこたえて玄関の扉を開ける。

「早く行こう。場所からすると結構離れているから、もしかすると日が暮れちゃうかも」

「そうか、ならオーナーに遅くなるって言っておかないと」

「もう言っておいたから大丈夫」

「ああ、そう。ありがとう」

 俺が礼をのべると、少女は苦った顔をつくって、

「そうおもうならもっと早く起きてよ」

 と、口のうちでつぶやくように言ったが、それは必ずしも冷淡なものではなく、どこか心を許しているようなあたたかみのある響きを持っていて、不快に感じることはなかった。

 さて、アントンさんの所在だが少女がいうには、座標の位置ではこの街からすこし外れた森のなかということになっている。すなわち、アントンさんの住処をたずねるためには、ひとまず一度街を出る必要がある。どうやらアントンさんの住まいをのけ者にするように街ができたという談は本当だったようだ。

 街を出るため、俺たちはまたあの気がない衛兵に街を出る手続きをおこなって、ひとまず街を出た。

 街を出て、フォースイへ続く北の街道を歩いていく。

 フォースイへの街道は鬱蒼とした森を切りひらいて出来た道で、路面の程度もあまり芳しくなく、踏みならしてはあるが、凹凸が少々目立つ。辺りは森に閉ざされていて、どことなく薄暗く、肌寒い感じがする。空を仰ぐと綿毛がところどころにあしらった青空が一筋、深緑の木々の茂みを分け断つように引かれている。綿毛の端から気だるそうにのぞく太陽は、生い茂った木の葉を縫うようにして森にさしこみ、街道の木の下闇に神々しい光線を落としている。

 この辺りは森ばかりでひと気がまったくないこともあり、だいぶと物静かなものである。されど、街を離れてみると、案外そうではないことに気がつく。

 森の奥のほうではなにやら鳥や小動物やらのさえずる声が始終響いてきて、ときおり風に揺れる木がさやさやとささやいてそれに応ずる。茂みの向こうで獣の落ち葉を蹴りだしが横切り、くちばしをたえまなく木にうちつける鳥の苦労の音が降ってくる。

 気忙しくもあるが、どことなく穏やかでさえある森の道を歩くのはなにぶん快いものであった。

 街道を三十分ほど歩いたところで、先のほうから、さらさらと水の流れる音が聞こえてきた。ところが、そこでふと妙な音が混じっていることに気がつく。なにやら涼しげのある透き通った音のようなものが、穏やかなせせらぎを引き裂いて凛として響いてくるのだ。

 俺と少女はふいに顔を見合わせる。そこにまた心地の良い音が凛と鳴りわたる。

「あ……」

 と少女が小さくこぼし、すぐさま手を耳に添えてそばだてて、

「風鈴……」

「ふうりん? なんだそれ」

 聞きなれない単語に、俺が首をかしげると、

「ある大陸で占いに使われていた――まあこちらでいう鐘鈴(ベル)みたいなものだよ。昔は風向きや音の鳴り方で良し悪しを占ったり、魔除けみたいな意味合いもあったり……とにかく、その音になんだか似てる」

 少女はそう述べて先へ進もうとするので、俺はあわてて少女の肩をつかんで、

「おい、待て。危険かもしれないだろ」

「余計なお世話だよ、私はそんなにか弱くない。それに目的地だってどうせこの先なんだから、進まなきゃしょうがないでしょう?」

「それもそうだが……」

「なら、はやく行くよ。それとも怖気づいたのかな、ユウシャサマ?」

 そういう少女の顔には、困ったような、呆れたような複雑な相がうかんでいた。

 この時の少女の心境はいったいどのようなものだったろうか。おお、なんと健気ではかないかわいそうな少女!

 この風鈴の音に吸い寄せられるようにして街道を進んで、しばらくすると、幅の狭い、瀬の浅い小さな川が、薄暗い街道を横切るかたちで現れた。小川には人一人通れるほどの小さな木橋が掛けられている。木橋はだいぶ昔につくられたものらしく、整備の手も行き届いていないと見えて、板の一部が浸食で欠けていたり、欄干が崩れて折れていたりと大分痛んでいた。

 俺たちが橋の前までやってくると、またあの澄み切った清水のような涼しい音色が耳を通り抜けた。今度はよりはっきりと聞こえる。どうもこの風鈴の音は、川の向こう――水の流れていく先から来ているようである。

 俺たちはこの音の行方を追うことはせず、目的地へと急ぐべく、足早に橋を渡って風鈴の音をあとにした。なぜか不思議と耳に残る、凛とした音色に後ろ髪をひかれるように。……

 これはのちに知ったことなのだが、この小川を沿って進んでいくと、地下へと通づるある洞窟へ行きつくのだという。その洞窟からさきは急な崖となっていて、小川はそこで小さな滝となって崖をすべり落ちて、地下の淵へと注がれるのだそうだが、その場所の名を風鈴淵という。

 名のごとく、どこからともなく洞窟を通り抜けてくる風が、笛のような役割をはたして風鈴のような音を奏でることからそう呼ばれるのだが、この風鈴淵には一つの悲しいいわくがある。

 それは若い男女が許されざる恋に落ちた末、女は結ばれぬ運命を嘆いて、世を儚んでこの淵へと身を投げたのだそうだ。男は急いで街の者を引き連れて、洞窟の崖を降りてくまなく女の姿を探したが、ついぞ女をみつかることは叶わず、忽然と消えてしまったのだ。

 ゆえに、この仄暗い淵の底には未だに女の未練がましい怨念が女の骸と一緒によどんでいるというのだといい、その女の呪わしい悲痛の叫びこそ、この風鈴のような音だといい、彼女は未だに己が結ばれざる運命を呪っているという話なのだそうだ。

 むろん、これが実話かどうかはしらない。されど風鈴さながらな音を聴く者をして、胸にせり上がってくるような、そこはかとないもどかしく切ないやるせなさを禁ぜしめないのは、まぎれもない真実である。

 それはさておき、小川を渡った俺たちはそれからまもなく、街道をそれて伸びている、小道とまではいわない獣道の姿をみとめた。これは注意深く見ていなければ発見には至らないほど些細な道であり、俺たち自身、ベルトがくれた手がかりがなければ、たやすく見落としていたであろう。

 道とすら呼びがたい獣道は、森林のあいだを、ちょうど手で布を縫うように頼りなく続いている。街道のある程度舗装された地面にくらべて、こちらは草葉を踏みならしただけで強引に道にしているといった具合で、歩くのに少々骨が折れる。かてて加えて、草葉をかきわけた地面からのぼってくる草いきれがひどく、青臭いこもった匂いとじめじめとした耐えがたい熱気とが襲いかかってくる。

 一歩、一歩と足を進めるたびに、あごの先から汗が垂れ、息を吸うたびにつーんとした青臭さが鼻に絡みついてむせるような息苦しさを覚える。

 前を歩く少女も息が弾んでおり、ややともすると膝に手をついて前のめりに立ち止まることさえあった。旅慣れている俺でもつらく感じられるのだから、少女にとっては並の事ではなく、過酷を極めるものであろう。

 こういう時は何かを話せれれば気が紛れるのだけれど、あの一件があって以来、俺たちの間にはなんというか溝のようなものがうまれ、言葉の売り買いはもちろん、顔を合わせることすら憚られる感じだった。したがって、俺たちはただ黙ってとこの道なき小道を歩いていくしかなかったのである。

 あれからどれほど歩いただろうか、進めど進めど代わりばえのしない森の景色に、時間の感覚をも奪われ、どうかすると終わりがないとさえ思われた。が、それからまもなくもせぬうちに、終わりの兆しは現れた。

 ふと前を歩いている少女がピタリと足を止めたのである。

 何かあったのか、と声を掛けると、少女はこちらをゆっくり振り向いて、道の少しはずれたところを指さした。

 少女の示したところを見ると、なにやらちらりと光るものが木々の隙間に瞬いているではないか。

 正体を見極めんともう一度目を凝らして見てみる。なるほどやはりたしかに鋭い光のようなものが、角度をかえてみる度にちらちらと瞬いている。けれどそれが何であるかまでははっきりしなかった。というのも、この森のなかは薄霧にけむっているうえ、折りから差す木漏れ日が霧に拡散して、仄白い光に包まれているようで、奥のほうがあまりよく見えないのだ。でも、このような森のなかで、光を反射させるものなどそう多くない。

「あそこに間違いない」

 少女の声がイヤリング越しに頭へながれる。どうやら少女の体力は限界に近いようで、声を出すこともままならないらしい。

 歩きだした少女は、まるで生ける屍(リビングデッド)が魂を求めて彷徨うかのように、あるいは、夢うつつに迷う込んだ夢遊病者のように、右へ、左へ、ふらふらと雲を踏むような足取りである。

「おい、大丈夫か? あまり無理はするな。ほら、手を貸すから」

 俺はなんだか心配になって、少女の元へよって手を差し伸べるも、少女は俺の手に見向きもせずに、蹌踉として前へ進む。

 しかし、数歩進んでは、はあ、はあ、と喘ぐように息を弾ませて立ち止まり、なかなか前へ進まない。

 このままではいずれ倒れてしまうかもしれない、そう予感した矢先、それが現実となる。

 少女はとうとう前後不覚に陥ったようによろめくと、その場に骨を抜かれたように倒れてしまった。

 俺は慌てて少女の元へ駆けよると、少女は身体を揺すって気息奄々している。俺は一通りの介抱をすませ、少女の身体を抱き上げて背負った。少女を背負うのはこれで何回目だろうか。

 少女の熱く荒々しい息伝いが服を通じて背中へ焼けつくように染み入ってくる。

 思うにこんな小さくか弱い少女は、大切な肉親の仇を探すために、危険を承知で一人旅にでたのだ。それにどれほどの覚悟が伴うものなのだろうか。理由もなくふらふらしていた俺とはわけが違うのだ。少女にとって、親の仇を討つというのは、生への本能をも上回るほどに、心に焼きつけられた悲しき執念なのだろう。

 ああ、なんて不憫な子なんだろう!

 俺は、背中にしみ込んだ少女の熱い吐息を慈しまずにはいられなかった。

 それから仄白い霧に包まれた小道を歩いていくと、いよいよ霧が濃くなってきて、道はおろか、足元さえ見るのがやっとなぐらいとなった。

 こうなるとあの例のちらちらとした光を頼りに進むしかないのだが、霧が濃いせいで光も淡くぼかされて、心許ない感じである。

 光をたどりながら森を歩いていると、ふいに首に何か白い蔓のようなものが絡みついていきた。それは少女の腕である。

 俺はぎょっとして後ろを振り返ったが、少女は俺の背に顔をうずめていて顔が見えない。

「どうかしたのか?」

 と俺がいくら訊いても、少女はなにも答えない。少女は俺の首にまとった腕を締めて、額で背を打ったりなすったりする。

 きっとこの濃霧で不安になったのだろう。なんだかんだ取り繕おうが、まだ年端も行かぬ子供なのである。俺はそれ以上、何も聞くことはせず、少女のなすがままとなった。

 さて、光を目指して歩いていると、やがて、濃霧のなかからなにやら木造の建物が浮き出てきた。

 俺はその建物のまわりをぐるりと回ってみる。見た感じからすると、これが誰かの家であろうということがわかった。造りは非常に簡素なもので、大きさは人一人が住める程度のものである。

 周りにはこれといって何もないが、雑草などは丁寧に刈り取られ、地面は平らにしっかりと均されている。玄関と思しき扉のかたわらには切り株が一つ置いてあり、切り株の中央には鏡のように研ぎ澄まされた斧が突き刺さっている。

 まわりの状態からしてみても、ここで誰かが生活していることは明白である。しかし、窓のなかをのぞいてい見ても人影は見当たらず、肝心の家主は不在のようである。

「本当にここで間違いないのか?」

 俺は背中の少女に訊ねるも、少女はいつの間にか眠ってしまっていたようで、背中からは心地よい寝息が聞こえるばかりである。

 そのとき、ふいに後ろから、

「おい、ここでなにしてやがる」

 と声が掛かった。

 俺はぎょっとして肩を飛びあがらせた。

 その声は明らかに少女のものではなく、低い渋みのある声であったからである。

 恐る恐る振り返ると、そこには口から顎にかけて白いひげをたくわえたしかめっ面な初老の男が、鍬をもって立っていた。

 男はところどころ穴の開いた無地のシャツに、履き疲れてよれた麻のズボンを召していた。これまでの数多な気苦労や憂鬱をきざんだ額のしわには老い以上の衰えを感じさせる。さりとて、力強く伸びた鋭い眉に湛えたひすいのような透き通った眼光には、未だ当時の頑健さが垣間見え、なかなか侮りがたい印象を与える。

「あ、いや……」

 俺が咄嗟のことで口ごもると、男はますます怪訝の色を濃くして、俺のことを睨みながら、

「さっきから見てりゃ俺の家をじろじろと……なんか用でもあんのか? それとも空き巣かなんかか?」

「いや、違うんです。ちょっとここの人を探してましてね」

「ほう、こんな山奥までお訪ねたぁご苦労なこったな」

 男はぐいと俺の鼻先まで詰め寄ってきて、

「ここの家は俺のもんだがな、それで俺に一体なんの用だ」

 俺の顔を覗きこむ男の眼に鋭い敵意が閃く。

「あ、あぁ……あなたがここの人? では、あなたがアントンさん?」

 俺がへどもどしつつ訊ねると、男は肩眉をつりあげて、

「そうだ、俺がアントンだが? だったらなんだ」

 と、アントンさんが言いかけたところで、急におやとばかりに俺の顔を見直して、

「ん? 待てよ? その顔、なんだか見覚えが――」

 アントンさんはそこで言葉を切ると、突然息を引いてぎょっとしたように目を見張り、あっと低く叫び、二歩、三歩とたじろいだ。

「お、お前! まさかあん時の? ああ、いや。そうかそうか。お前さん、やっぱり生きてたんだな」

 アントンさんはひとりでに納得したように大きくうなずくと、

「ベルトの奴がな、お前さんが魔王を倒してから急に行方をくらませたってんで、俺ァもう心配で心配で……でもこうして生きてやがった! ははっ、本当にめでてえぁ!」

 先ほどの険しい顔とは打ってかわって、親しみのある朗らかな笑みがアントンさんの顔に浮かんでいる。

「しかもいつの間にかかわいい娘までこさえやがってよぉ! ほんと、隅に置けねぇ」

「あ、いや。この子は……」

「なぁに、照れるこたぁねえさ。お前さんたちはお似合いだと俺ァ会った時から思ってたもんだ。んで、その肝心のお嫁さんが見当たらねえみてえだが?」

 アントンさんはそういって不思議そうに首をかしげる。

 俺はこれまでの経緯をかいつまんで彼に聞かせた。宿屋のオーナーのことやベルトさんの絵にまつわる事情は、俺の口から説明するのは少々無粋な気がしたので伏せておくことにした。むろん、少女との関係性を訂正することは忘れない。

 アントンさんは俺の話にいたく驚いた様子であったが、わけても俺の問題を――記憶が失われていることを告白した際は、呻くように嘆息をもらし、失望にも似た悲しみの色を見せたのだった。

「そうだったのか。難儀なこった……ここまで大変だったろう。悪かったな、お前さんの気も知らないで変に騒ぎたてちまって」

「いえ、気になさらずに」

 と、俺が返事をすると、アントンさんの表情をいっそう翳らせて、

「そのかたっ苦しいしゃべり方はやめてくれ、といってもお前さんには難しいことか。なにせ俺とのことも覚えてねぇんだもんな。……だが、たとえ俺との記憶がなかろうが、俺にとっちゃお前さんは気の置けない友の一人なんだ。もっと砕けた感じでいい」

「はあ」

 アントンさんは悲しそうに笑うと、小屋の戸に手を掛けて、

「ま、こんなところで立ち話もなんだ。中に入んな」

 俺はアントンさんに招じ入れられ、小屋へ入った。

 小屋のなかは外観とおなじく質素なもので、生活するうえで必要なもの以外は、ほとんどなにも置かれていない。この小屋は寝て起きるためだけのもので、木彫り作業をする小屋はまた別にあるとアントンさんはいう。

 そういう質素な小屋で、俺の眼をひときわ引いたのは、壁掛け棚に飾られた一つのある装飾品である。殺風景な風景のなかで飾られた、唯一のアンティークともいえるこの装飾品は、なんともいえない素朴で幽すいな味わいを部屋に与えているのだが、それだけが眼を引く理由ではない。

 俺はその装飾品に心当たりがあったのだ。それはいうに及ばず、宿屋で見たあの絵。

 ラニちゃんが手に持っていた装飾品その者だったのである。

 俺が少女を降ろすのも忘れて、棚に飾られている装飾品に釘付けになっていると、

「こいつがどうかしたのか?」

 アントンさんが、棚の装飾品と俺とを交互に見ながら訊ねてきた。

「いえ……あ、いや。……なんだかこれを見ていると妙にそわそわして落ち着かなくてな」

「落ち着かない?」

「俺がここを訪ねた理由っていうのも実はこれなんだ。この装飾品に似たものをたまたま見かけてな。それからというものずっと頭から離れないんだ。なあアントンさん、こりゃ一体なんなんだ?」

 俺の問いにアントンさんは気難しそうに唸ると、

「答えてやりてえのは山々なんだが、実のところ俺もこれが何なのかわからねぇんだよ。ラニの奴、ある日突然、女房の形見の代わりにこいつを首からぶら下げててよ。気になって聞いてみたんだが、内緒の一点張りよ。ま、俺も年頃の娘はそういうものかもと思って、特に気にしなかったんだが、今となっちゃ知る由もねぇ。だからこれがどこで手に入れた物なのかさっぱりなんだよ。だが、俺にとっちゃこいつはラニの大切な形見だからな。今もこうして大事に取ってあるんだ」

 俺はにわかに湧いてくる失望の念をおさえることが出来なかった。

 ようやっとたぐり寄せた手がかりの糸が、ここにきてぷっつりと途切れてしまったのである。もうこれ以外にはっきりとした手がかりもない。

 これからどうしたものか、と俺が失意に暮れていると、

「失礼ですが、その装飾品、よかったら少し見せていただけませんか?」

 急に背中から声があがった。いわずもがな、その声の主は少女である。

 少女はさっと俺の背から飛び降りると、アントンさんの前に出てぺこりとお辞儀した。

「ご挨拶が遅れてしまって、ごめんなさい。こんなみっともないところを……お恥ずかしいかぎり――それよりアントンおじ様、その装飾品、差し支えなければ私に見せていただけませんか? 私、アクセサリーの類には多少心得がありますもので」

 とつぜん間に入ってきた少女に、アントンさんはすこし驚いたようだったが、それでもすぐにうなずいて、構わねえぞと答えた。

 アントンさんは猿臂を伸ばして棚から装飾品を取り、俺たちの前に差しだした。

 装飾品はよく見ると木製の工芸品らしく、ペンダントのような形をしていた。大きさは直径三センチぐらいだろうか、外周には整然とした幾何学模様のようなデザインが彫られ、中心には花柄の透かし模様が入っている。首ひもにはつやのある絹糸が、組紐のように一つ一つ丁寧に綾をなして結ばれている。これほど精巧で趣ある一品を作るのに、いったいどれほどの労力を要するのだろうか。

 少女は一瞬、なぜかためらった仕草を見せたが、それでもアントンさんからペンダントを受け取った。

 ペンダントを受け取った少女は、しばらくの間まじろぎもせずそれを眺めていたが、やがて、ふと眉を曇らせた。嘆きとも憐みともつかぬ複雑な色が少女のおもてに差してくる。

 少女は震えを帯びたはかないため息を吐いて、近くのイスへすとんと腰をおろす。それからまるで雨に打たれる白百合のように深くうなだれて動かなくなった。

「どうかしたのか?」

 と俺は聞いたが、少女はなにも答えない。一瞬間、なんとも言えない鬱屈したような沈黙が落ちてくる。

 それからほどなくして、

「これは、きっと誰かからの贈り物でしょう」

 少女は凛とした赤い瞳をペンダントに落としたまま、静かに口を開いた。

「お、贈り物だって? なんでそんなことがわかるんだ」

 アントンさんは驚いたように眼を剥いている。

「この意匠は……ある一族に伝わる工芸品なんですよ。きっとその方から譲り受けたのではないでしょうか。あるいは――なにかと交換をなさったか」

「交換……」

 アントンさんは口のうちで小さく呟いた。

「はい、たとえば……そうですね。何かその人にとって特別なもの、手放しがたい宝物のようなものです――ラニさんでいえばお母さまの形見であるバレッタとか」

「……あっ!」

 アントンさんは低く叫んで、大きくたじろいだ。

「この工芸品は一種の誓いの証みたいなものなんです。永遠の絆を示すとっておきの証みたいな……きっとラニさんはある方とそういう親密な関係になられたのではないでしょうか」

 ふいに窓から夕暮れの明りがさっと差しこんでくる。いつのまにか霧も晴れていたようだ。

 燃えおちる紅い夕暮れを吸うて鮮やかな黄昏に匂う少女の横顔の奥で、どこかもの憂く重い悲哀な影が潜んでいた。

 照り輝かんばかりに美しく、息をのむほど凄艶であるも、一抹の物侘しい影が奥ゆかしい陰影を添え、それが少女のうちにひそむ、痛切な宿命の大きさをより強く感じさせずにはいられなかった。

 この美しい少女をして、これほど哀切に満ちた儚い表情をさしめるものとは、いったいどのようなものなのだろうか。

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