華金太郎
イヤホンから流れ出る音楽は、心なしか駅への道を急ぎ足で歩ませる。腐りかけの林檎が転がる畑を横目に、どことなくワクワクした面持ちで進む。
駅に向かってはいるが、電車に用はない。今日は金曜日。現在、午後五時四十五分。
眼前に広がる提灯や焼き鳥の匂い、威勢の良い呼子の並ぶ細い路地は、既にスーツ姿の男女で賑わう。夜景の一部となっているだろうこの灯りの中を、僕は今日も一人闊歩する。
「お兄さん!」少し低めの、近所のおばちゃんと言った風情のある声がして、振り向く。「ちょっと、うち寄ってかないかい。旨い魚が入っててさ!」
「魚?」
「そうそう。何でも珍しい深海魚らしくて。うちの人が朝から大騒ぎしてるんだよ」
魚かあ、と僕は元気のいいおばちゃんに連れられて、店に入った。ここのところ大衆居酒屋にしか行けていなかったため、初めて入る場所、そしていつもと違うものを食べるということに、少なからぬ興奮を覚えていた。店の明かりが煌々としていて気づかなかったが、日はすっかり落ちていた。
***
おばちゃんに付いていくと、店主らしき男が一人と大きな水槽があるだけで、客は一人もいなかった。狭いカウンターのみの店内であり、厨房から客の顔がよく見えるようになっている。そして客側だけがオレンジ色の照明で染められている。僕は手に持っていたビジネス用の鞄を膝の上に抱え、座った。
「いらっしゃい」男はぼそぼそと一応という感じで出迎える。手元では先ほど聞いた魚だろうか、包丁をゆっくりと引いては戻し、引いては戻しを繰り返している。一連の動作に何の乱れもなく、怖さすら感じる。
「ごめんねえ。うちの人、不愛想だからすぐに怖がられちゃって。でもね、すごくいい人なのよ。あたししか知らないと思うけどね」がははは、とひとしきり豪快に笑ってから、「ゆっくりしていってね」と、厨房の奥へと消えてしまった。
僕は仲間を失った気分だった。店の中には僕と包丁を握るこの男だけ。折角の金曜日なのにもったいない時間の使い方をしてはいないか? 魚を食べたら、帰ることにしよう。そうして、いつもの居酒屋に行って、馴染みのお客さんと杯を交わすのだ。
「その、今朝取れた珍しい魚って、まだ食べられますか」
男に尋ねた。包丁の動きを止め、「あるよ」と答える。僕はそれにほっとすると同時に、先ほどから感じている不穏な気配に、一体どんな魚が目の前に捌かれるのか、気が気でなかった。僕は一旦膝にあった荷物を下に置き、置いてあったおしぼりで手を丁寧に拭く。
「お兄さんさ、今、自分が捌かれちまうとでも思ってるか?」
はえっ? と、訳の分からない声を出してしまった。「あ、いえ、そんな」持っていたおしぼりを半分に折り、また半分に折る。「いや、ちょっとそうかもしれないと思いました」
男は包丁をタオルに押し付けながら拭いている。薄い赤が、白を染める。「浦島太郎って、あるだろ?」
「昔話の」
「それには本当の話があってさ。主人公は最後、玉手箱を開けて爺さんになっちまうだろ? 実はさ、あれ、食べた魚のせいなんだよ。たまたま玉手箱が開いたときに、その症状が出たってわけ」
「そんな都合のいい話があるわけ」
「あるんだよ」
男はそう言ってから、いつの間にかお皿の上に盛り付けられていた深海魚らしき魚を、僕の目の前に出す。「ほい、今日の珍海魚」
それは赤く、脂も十分に乗っていそうなマグロのような見た目の切り身だった。食べたい、と唾液がみるみるしみ出てくる。僕は切り身を一切れ箸でつかみ、醤油の中にさらっとつけ、口に運ぶ。口に入れた瞬間に溶けた。辛うじて残った部分についても、噛めば噛むほど味が出て美味しい。この世にこんなに旨い魚があったなんて!
「それ、その浦島太郎に出てきたって言われてる魚なんだぜ」
僕の景色に点いていた照明が、一斉に消灯した。こんなにも美味しい魚を口にしているのに、だ。しかしそれと同時に、今日が金曜日で良かった、と改めて思っていることに、驚きを禁じ得ない。
僕は急いで店を出た。見知っているはずの通りのはずが、異国の裏通りかのように右も左もわからない。駅がどちらにあるのか、僕の家はどの方角なのか。僕はもう帰ることを諦めた。手を見、頬を触り、そうか、僕が浦島太郎だったのかもしれない、などと真剣に考え始めていた。
それにしてもあのおばちゃんが乙姫だったことが、最も信じたくもない事実だった。