014
「ふしゅる……ふしゅ………………シャァアア」
真っ黒な瞳の中に赤い線のような光が見える。その光は俺の姿を捉えて離さない。
ムシュフシュの足下には先程倒したダックアビールの死骸がある。
『ふん、どうやら食事の邪魔をしてしまったようだな』
どこからか聞こえるチキチキという不気味な威嚇音と共に、ムシュフシュの尾が脈打つようにうねっている。やがてその尾がピタリと止まると――――一瞬。正にその一言だった。
俺の目には残像すらも見えなかった。
胴体より高く上がっていた尾はいつの間にか消え、足下のダックアビールの死骸の胸元に深く突き刺さっていたのだ。
地中まで刺さった尾は軽々とダックビールを持ち上げ。上空へと放り投げた。そして死骸がムシュフシュの前まで落ちて来た瞬間、ダックアビールの死骸は消えてしまっていた。
後に残ったのはムシュフシュの太い首に通る異物の膨らみが通る様子だけだった。
俺の半身程のサイズのダックアビールを……一呑みか。何て恐ろしい奴なんだ。
『準備はいいか、ディルア?』
「……くっ! やるっきゃないだろうっ!」
俺が気合いを入れた理由はただ一つだった。明らかに無茶な戦闘。俺は勿論、サクセスもそれを理解している様子だ。ここからデュネイアの町は目と鼻の先。ほんの一キロ程だ。
ここにムシュフシュが現れた以上、薄暗くなったここからぼんやりと光って見えるあの町に到達する事は目に見えている。
つまり、ここで俺が奴を食い止めなければ、キャロもティミーも……デュネイアの町の大半の人間が被害を受けるって事だ。
過去、魔物ランクがC、B、Aの魔物による村や町の破壊行為は何度も聞いた事がある。なんとかここで仕留める……!
『狙い撃ち!』
心詠唱。サクセスはそう言っていたが、これを出来る人間は余りいないらしい。
俺の場合、サクセスと心の中で話す機会が多いから会得出来たのだろう。事実、スキルを覚え始めたキャロは勿論、ティミーですら出来ない。
パチンコを構え、その照準をムシュフシュの胴体に合わせる。
『尾の速度は歴戦の冒険者ですら捉える事は難しい。だが、胴体ともなると、その重さ故、尾と比べると明らかに速度が落ちる。着地点を我が指示する。後は任せてよいな?』
「おう! いくぞっ!」
「シャアアアアアッ!」
大地を蹴ったムシュフシュは、その体格と強者という自覚からか真っ直ぐ俺まで向かって来た。
確かに尾よりは早くない……けどっ!
「ぐおっ?」
いつ蹴られたのかもわからねぇっ!
吹き飛びながら叫び、上体を起こしながら蹴ったムシュフシュを――なっ? もういないっ?
『下だ』
サクセスの指示に俺は慌てて下を向く。鋭い歯が並んだ大口を開き、木の側面に着地した俺の胴に噛みつく。
「くそっ!」
『中々の力だが、やはりランクB。我のマントを貫けるはずもない――が、ディルア』
「何だよ! 俺は今忙しい……うぉっ?」
噛み切れないと判断したのか、ムシュフシュは俺を口から離し、再び前脚で蹴ってきた。
岩の壁に激突した俺だが、サクセスのマントのおかげでダメージ自体は受けていない。外側の強靭な防御力と、内側の柔らかな反発魔力が俺の身体を守っているそうだが、それでもこれは……!
『そう。ダメージは受けないにしても外から加わる絶大なる圧撃に、人は恐怖を抱かずにはいられぬ。その震える足、我に止めさせるつもりか? ディルア』
「くそっ! そんなみっともない真似出来るか……よっ?」
ようやく放ったパチンコの初撃。魔弾はムシュフシュの首横を通り過ぎただけだったが……よし、どうやらムシュフシュに魔弾の軌道は見えていないみたいだ。
「キィイイイ……シャ!」
今度は横に跳んだ? 周囲でばきばきと木を鳴らす音が聞こえる。何て脚力だよまったく!
『……左だ』
『こんのっ!』
前方に回転して回避した俺は、俺が立っていた位置の地面が一瞬で掘り起こされているのを見た。
一撃でこれだけの威力……サクセスのマントがなければっ! ぞくりとした寒気と共に歯と歯がカタカタと鳴り始める。
無意識に感じる恐怖……。
俺は強引に歯を食いしばり、細い舌をちょろちょろと出し入れするムシュフシュを睨む。
『いいぞ。よい闘気だ。さぁ、少々早いが格上の相手に冒険をする頃合いだ。立ち向かえ、ディルア』
「おぉおおおおおっ!」
腹の底から自然と出た不可思議な声。だが、その声を己の耳で聞いた俺は身体の奥底から力が溢れ、反対に正面に立つムシュフシュは一瞬のたじろぎを見せた。
っ! ここだっ!
「はぁああああああっ!」
ゴーレムの時と同じようにして、スライディングをしながらムシュフシュの真下へ潜り込んだ俺は、引き切ったパチンコの砲台から手を離す。
瞬間、ムシュフシュは「シャゴッ」という聞き慣れない悲鳴を出し、上空へ跳び上がった。
『ふふふ、所詮は獣の脳か。わかるな、ディルア? いつでも狙えるぞ?』
「んな事わかってんだよっ! おりゃ!」
上空へ逃げた相手の対処は昔も今も変わっていない。奴に羽がない以上、空中での方向転換は不可能。
「シュァッ?」
再び聞こえたムシュフシュの悲鳴。空中で身体をばたつかせながら落ちて来る。
俺は再びパチンコの伸縮糸を引き切る。
『見事だ。褒美をくれてやる。我に続いて詠唱せよ。深淵より出でし真紅の業の塊よ――』
「深淵より出でし真紅の業の塊よ――」
『――全てを葬る憎悪と成りて彼の者に虚無の裁きを与えん』
「――全てを葬る憎悪と成りて彼の者に虚無の裁きを与えん」
身体から……魔力が吸われていく。……そうか、これが前にサクセスが言っていた――――、
『「深淵の血塊?」』
砲台を引き放つと、俺の正面に墜落したムシュフシュに向かい、無数の弧を描くドス黒い魔弾が発射された。その血のように紅い弧に触れたムシュフシュの身体は、水が熱湯に変わった沸騰のようにブクブクと身体の中から音を立て、やがて泡が噴き出るかのようにボコボコとした球体のようなモノが、身体の内側から今にも飛び出しそうな勢いでいくつも現れた。
耳に気味の悪い破裂音が届いた時には、既にムシュフシュの身体は弾け飛んでいた。
身体が爆発したのか…………何て恐ろしい。先程丸呑みにしたダックアビールの死骸が体外に飛び出てしまっている。
「うぅ……気持ち悪い…………ぉ? アレ?」
目で捉えた気持ち悪さから口を手で押さえようとした瞬間、膝から力が抜け、視界がカクリと下がった。
膝を突き、やがて四つん這いになった俺は、身体の力を精一杯込めて仰向けに寝転がったはいいが………………起きられない?
『体内から魔力を使い果たしたな。それも急激に使い果たしたとしたら人間ならばそうなって然るべきだ』
『あ、あぁ……そうなのか。あの深淵の血塊って魔弾。そんなに身体の魔力を持っていっちまうのか……ハハッ』
『アレは我が遂に使う事がなかった闇の極意の一つよ』
『極意? 何でそんなもんがノービスの俺に使えるんだ?』
『魔力を使い果たす条件下で使える極意がアレ以外になかったのだ。他の極意では単純にディルアの魔力容量が足らないからな。何、力が付けば余力を残せるようになるし、別の魔弾も使えるようになるだろう』
『つまり現状は……魔力を使い果たす極意しか使えないって事か…………強敵の度にこれじゃやってられないぞ、全く。だが、物凄い威力だったな……!』
『ふふふふ、本来の我が使ったならばもっと凄いぞ?』
むぅ、やはり本当に魔王なのか? 悔しいがこれは認めなくちゃいけないだろうな……。
『ほぉ? 少しは我の信に傾いたような気がするな?』
『へん、そうだとは言ってやらんが、今はその話より…………――』
『ん?』
『これ、いつ治るんだ?』
頭の中で響くサクセスの笑い声を聞きながら、俺は大の字になりながら美しい星空を眺めていた。