月曜日
2017.08.12 本文の一部を変更。また読みやすくなるように適宜空白行を挿入しました。
2018.11.11 本文、台詞の一部を変更。
「で、陽太。明日の天気って実際どう思う?」
「今一緒にテレビ見てたろ? 俺が晴れると言ったところで雨、朝なんか絶対雨だ」
『はい、スタジオから駐車場に出てきました。まだ降り出していませんがちょっと肌寒いですね』
『では県内、明日のお天気です。朝の通勤通学時間帯には本格的な雨の予報が出ています』
『折り畳みでは無い傘の方が安心です。一時的に強く降る時間帯があります。車で移動される方も十分に注意して下さい』
『午後は県北部の山沿いを除いて雨は上がりますが曇りベースで推移、晴れ間は期待薄で気温も上がらず洗濯物も乾きません。厚手のもののお洗濯は今日は見送った方が無難ですね』
『また、お帰りの時間帯十七時以降は、県内全域曇りの予報。傘を忘れないように注意しましょう』
『明日の東京地方、雨の予想が出ていますがこれは早朝まで。その後は晴れで温度、湿度共に平年超え。朝から真夏日の予報です。お出かけの方は気温差に注意して下さい』
『以上県内のお天気でした。――CMのあとは一旦東京のスタジオから全国のスポーツ、そのあと県内のスポーツと続きます』
ついさっきテレビの画面で、女性アナウンサーがそう言って頭を下げたばかりだ。
世の中は雨の時期。日本国内でもやや北に位置する我が町も梅雨のただ中である。
梅雨の時期には雨が降る。お約束だ。
ソファで並んでエビせんべいを食べている俺と、そして双子の妹。愛宕月乃。
ただの中学生がどうしてそんなに天気を気にするのか。
俺達は約三十分、自転車を漕いで学校に行かなければならない。
学生が合羽を着て学校を目指し上り坂を自転車で上がる。見る分には普通の光景ではあるかも知れないが、雨が降ればちょっと寒いくらいのこの時期。
自転車を降りて合羽を脱ぐと汗でぐしょぐしょ。頭からは比喩で無く湯気があがるくらいなのであり、やってる方は大変なのである。
出来ればそれは忌避したいところだが、ウチから歩いて一〇分かかるバス停からのバスは七時七分発一本のみであり、更に駅前から普段より更に混み合うバスに乗り換えをする作業が発生する。
乗り継げる町営バスは七時台後半の二本、そして八時ちょうどの三本。
当然登校する生徒はそのバスに集中する。これもまた、雨のそぼ降る中ぞっとしない。
ちなみにその後の八時十分発のバスに乗ると雨の日は確率2/3で遅刻が確定する。
もう一系統のバス、県央交通のバス停は町営のバス停とは離れて居る上、俺達のバスが到着する前には出発するので物理的に乗り継げない。
そして他に公共交通機関は無い。
俺達が中等部二年として所属する県立峰ヶ先中等高等学校は、通学する学生を拒絶する様な田舎の小高い丘の上にあるのだった。
「なぁ陽太、にーちゃんに送ってもらおうか」
「明日は火曜日だぞ。学校出てから先、どうする気だよ」
「ああ、塾の日かぁ……」
私立よりも公立が強い田舎であり、しかも中高一貫校として県内学力トップを自称する我が校である。
当然そんな自慢は中等部にも波及する。
宿題と課題が嫌みの様に毎日出ているのに更に塾に行く必要性は無い。
と、月乃と二人で力説してみたものの。従兄弟であり、二十五才にして両親のいない俺達二人の親代わり、実質的には我が家のお母さんであり、実は法的な後見人でもあるにーちゃんこと手塚広大は納得してくれなかった。
どころか、こちらの同意を得る前に半年分の授業料を前払いしてきたのだった。
「塾までどうやっていく気だ。帰り降らないならチャリの方が良いだろ? それとも走って塾に行くのか? サッカー部」
「誰がするか、そんな事! ――うーん、塾までかぁ。歩きじゃだるいもんなぁ」
その進学塾、前進ゼミナールは非常に中途半端な場所にある。
県立からは多少かかるものの、駅からも、自宅からも、歩けば二〇分、自転車なら十分を切る。
もっとも県立の生徒は、公立とは言え学区は無くて生徒の自宅は県下全域。
地元の人間が相対的に少ない関係上、県立から通っているものは少ない。
塾に通う多くは本来、俺達が学区的に通うはずだった町立百ヶ日中学校の生徒。
塾から自宅が半端に近いのはそう言う理由だ。
近所で済ませる前提なら他に選択肢が無い。
百中の近辺では唯一の進学塾だから、普段あまり顔を合わせることの無い小学校時代の同級生達とも、塾では顔を合わせることになる。
「ランちゃんも居ないんだもんねぇ。明後日だっけ?」
「引きこもり博士が出張とかどうなってんだろうな?」
「雨の日だけでも居てくれれば良いのに」
「居たら居たで雨が降ってるから出かけたくない、って言うぞ。……真顔で」
もう一人の同居人、俺達の面倒を小さい頃から見てくれている従兄弟のおねーさん的ポジションの女性。
心理学者にしてそれなりの知名度を持つコラムニストでもあり、表面上は隠しているが超能力研究の第一人者。
実質的我が家のおとーさん、ランちゃんこと黒石蘭々花は打ち合わせと取材をかねて現在東京へ出張中。
たった一度だけ
「人いっぱい。人ばっかり。人に酔った。お家帰りたい」
と、ケータイにメッセージが来た。よほど参ってるらしい。
取材と言っても自ら望んだわけでは無いからな。
キンパツ童顔、家出高校生風の見た目はさておき、そもそもが人間不信が高じて心理学者になった様な人だしなぁ。
先日三十才になったが、ここまでほとんど実家付近。そしてこの町以外には出た事の無い人だし。
そう言えば新幹線は今回が二回目だし、地下鉄と私鉄の乗り継ぎがわからない。
と言って、出かける前に不安がっていたっけ。
行きたくなかったらしいが、色々しがらみがあって断れない、と頭を抱えていた。
大学の研究職は先日自ら辞したばかり。
大学に居るときは、なんでも好きなようにやってるようにみえてたが、組織から離れるというのはそれなりに大変そうで。
フリ-ランスなんていうのは、ランちゃんの性格には合わないと思うけどな。
……だから大学、辞めなきゃ良かったのに。
「ランちゃんのトゥデイ、雨漏り直したのかな。雨漏りする車なんて聞いたこと無いよ」
「更に新情報。先週ワイパー、ハイにしたら根元からもげた。って言ってたよ」
「運転手の有無はもう関係無い、そんな車で送迎されたくないよ! そもそもワイパーはあの車初めから一本しか無いじゃんか、雨の日はどうやって運転してんだよ!」
「次の日に乾いたの確認してボンドでくっつけたから大丈夫って言ってた」
「大丈夫なわけがねぇ!」
彼女の愛車。粉を吹いたように見えるぼろぼろの白い初代トゥデイ。
雨漏りするわワイパーはもげるわ、既にその時点で一般的な車のイメージからはかけ離れてる。
そしてここ数日動かしていないから、出かけようとすると今度はバッテリーが上がってエンジンがかからないんだろう。
そう思うことに一切の疑問を感じないくらいに、ボロい。
「そう言えばエアコンも変な臭いするよね」
「愛着がある訳でも無し、買い換えれば良いのにな。もう十分元は取ってるだろあの車」
そう言えば車自体貰い物だからイニシャルコストはゼロだ。この場合の元ってなんだ?
お金が無いわけでは決して無い。むしろランちゃんの場合、お金持ちの部類に入る。
あの車は彼女にしてみれば、いわゆる下駄代わり。だから、走れば良い。としか思っていない。
そして車と言えばもう一台、父さんの乗っていたボルボがある。
俺達兄妹のわがままで廃車にしないでもう五年以上にーちゃんが税金を払い、車検を受けている車だ。
こちらもだいぶ古いのだけれど、もちろん車として使うのには何処にも問題は無い。
若干赤い色はさめてしまっているが俺達より年上の車とは思えないコンディションで、そのスウェーデンのボルボ社が作った850エステートというワゴン車は問題なく維持されている。
……たまに窓がドアの中に落っこちて、上がってこなくなったりするけど。
ま、大概にーちゃんがその場で治してるのを見ても、そんな事は古いクルマには多分良くあること、範疇ではあるのだろう。
「ボルボは遠慮して乗らないんだよな、ランちゃん」
「遠慮して……、るんだろうねやっぱり。ランちゃんって運転は上手いもん」
父さんはランちゃんにとっては下宿先の親父さんであり、師匠でもあり、早くに実際のお父さんを亡くした彼女にとっては、父親そのもののイメージだったんだろう。
その父さんの車だったが故、遠慮して使わない。と言うのは、そこはなんとなく理解出来る。
ただ、全く使わないと車は劣化するらしいので使ってもらっていっこうに構わないし、常ににーちゃんとランちゃんにはそう言っているのだが、ランちゃんは自分の用事では絶対使わない。
自分の車のエンジンがかからないときはバスで出かけるし、それで雨が降っていたりすればあっさり外出自体を中止する。
八時前に家を出るのは不眠症で低血圧の彼女にとっては超早起きになるから、俺達の送迎は気が向いた時にたまにしてくれる程度だが、その時もボルボは出動しない。
免許持ちが二人、車は三台。つめれば四台入る広いガレージには通常ボルボが残る。
普段が軽だから大きな車は運転出来ない、と言う訳では無い。
ボルボは長さ的にトゥデイの二倍以上ありそうだが、実際にボルボのハンドルを握れば路地裏だろうが農道だろうが全く不安を感じさせずに運転する。
月乃の言う通り単純に運転は上手いと思う。
「まぁランちゃんなりに色々と……」
「……あるんだろうな、考えるとこが」
「でもさ、塾がもっと近いと、ランちゃんの車に文句言わなくても良くなるんだけどねぇ」
「根本的にはそれ、だよな」
半端な距離だから文句も言いたくなる、と言う話だ。
塾の入るビルの前は自販機以外、駅もバス停も周りには何も無い。
ついでに言えば百中からは徒歩五分。県立から通う俺達の方が想定外の客なのだろう。
週二回火曜日と木曜日。五時三十分から八時まで。
強制的にお勉強の時間が増えたわけだが、知らんぷりを決め込んで行かない。
と言う選択肢を選べないには理由がある。
両親のいないことで生活費や学校にかかる費用の一部は政府や自治体から各種補助や援助を受けている俺達兄妹ではあるが、一方塾などの費用は一切の援助が無い。
つまりお二人様半年分、十数万円の費用はにーちゃんが決して多くない自分の給料から出しているのだ。
ちなみに前払いをしてきた日の夜。
ふと見るとテーブルの上ににーちゃんの愛して止まない愛車、ランサーエボリューションのマフラーとタイヤの見積書があった。
プリントされた228、750円(調整別途・税別)をマジックで消して更に
【十八万八千円(セッテイング・税込)手塚さんならこの条件でやります。夏冬分割OK!】
と手書きで書いてあった。その見積書は次の日の朝にはゴミ箱に丸めて放り込まれていた。
これを踏まえた上で、それでも塾に行かずに済ますヤツが居るなら顔を見てみたい。
……とは言え。
「あ、にーちゃん帰ってきたんじゃない?」
「だな。味噌汁、暖めようか」
車検にも適合し、法律的にも全く問題ない。事になっている野太い排気音が控えめに近づいてくる。
これ以上、あの車のどの部分を改造する気だったんだろう。
せっかくのボーナス、塾とマフラー以外には使おうと思わなかったんだろうか……。
洗い物も一段落。月乃がテーブルにコーヒーを並べる。
「明日、天気予報は雨になってたな。どうするお前ら、送っていこうか?」
「明日火曜日だよ? 塾まで迎えに来てくれるならお願いしたいなぁ、なんて」
この手を事をさらっと言うのが月乃だ、俺からはとても言えない。
身内で気が置けないからこそ遠慮することだって。普通は、ある。普通は。
「まずったなぁ、明日は残業なんだよ。五時過ぎから新しい機械の搬入があるんだ、試運転まで含めたら会社出るの九時過ぎちゃうか。ランさんもいないし……」
「いいよ。どうせ朝だけだから合羽着ていく。一〇分早く起こして?」
「悪いな、晩飯もコンビニでなんか買ってくれ。……ランさんが居ないと意外と困るな」
意外と、はちょっと可哀想な気がする。
確かに人見知り博士は、家事全般は焼け野原。全滅という言葉さえ生ぬるい。
なので普段の生活にはほぼ役に立っていないけど。
「あ。そう言う意味じゃ無いぞ、ランさんが居てくれないと僕が困る。……そう言う意味でも無いからその顔を止めろ。――機械の分厚い説明書が英語なんだよ、日本語の説明書は両面印刷5枚。日本語の説明書だけで細かい部分の設定なんか出来ないよ、これ」
ちなみに、ここでランちゃんの名前が出ること自体は全く不自然では無い。
普段の言動はおいといて、元大学勤務で研究職。
重要な資料や文献、論文は英語が多いのだそうで、実はああ見えて英語の読み書きどころか、ネイティブスピーカーが専門用語混じりで研究発表をしている動画を見ながらそのまま英語でメモを取ったりもする。
ほぼ正確に聞き取って内容まで理解しているのだ。
但し、話す時は俺が聞いても片言で、ギリギリ相手に伝わるレベルにまでランクダウン。
ちょっとよくわかんないところではあるが、多分英語も東北訛りが強いんだろうな。
そんな事を考えている間にも、にーちゃんがごそごそとマンガ雑誌並みの分厚い説明書をカバンから取り出す。
これが全部英語で書いてあるのか……。
日本語版が10ページしか無いのは明らかに業者の手抜きだ。それは俺でもわかる。
「翻訳してもらうって、その分厚いヤツを? 2秒で断られると思うけど」
「運転担当は別に居るから、常に使う部分だけで良かったんだけどな。英語が読めればなぁ。――お、そうか。県内トップクラスが居るじゃ無いか。お前ら、いけないか?」
「ねぇ、にーちゃん。どこまで冗談? 私らが専門機械のマニュアル読めるとか、どこまで本気で思ってるの?」
「ボルボの整備マニュアルは読めてんじゃん、スウェーデン語だろ? あれ」
「ん? ……あぁ。あれはコレクションみたいなもんでさ。自動車である以上構造は他とそうそう変わらないし、昔の車だから電子制御の部分とかほぼ無くてさ。だから僕でも何とかなる。英語も読めないのにスウェーデン語が読めたらそれこそびっくりだ」
――日本語版も買ったんだけど、ガレージとかでみたこと無いか? にーちゃんは、そう続けた。詐欺だ、欺瞞だ、誤魔化しだ。スウェーデン語で整備してると思ってた!
「しかし、……まさか僕が勉強しておけば良かったとか、思う時が来るとはなぁ」
もっともそれを言うのが工業高校三年生時、専門科目まで含んで十三科目1450点満点になるはずの試験で310点の偉業を成し遂げたにーちゃんだ。言葉に重みはある。
それでもあと3人下に居た、最下位では無かったのだと言い訳をするのだが、この場合は素直に上を見た方がまだ救われると思う。
しかもこの件の証言者は学校に呼ばれて、本人を飛ばして先生からダイレクトに怒られた麗菜叔母さん。母さんの妹、にーちゃんのお母さんである。
更に本人は叔母さんが言うまでこのことは、俺達兄妹には一切黙っていた。
つまりこの恐ろしい話は事実だと言う事だ。
「にーちゃん、なんかおっさん臭いよ」
「そう言うなツキ。――知っての通り僕はそもそも学校の勉強自体が全て駄目だった。当然僕の友達もみんなそうだ。僕も含めて友人全員、綺麗にそろって莫迦揃いだ。……まぁ学校に行くのも三日に一回くらいだったけど」
「……?」
「で、まぁ。有り体に言って廻りはみんなヤンキーばっかりだ。だから、と言う訳でも無いだろうけど若くして子供を授かった連中も多い。そいつ等は大概、タバコを止めたり、酒代や自分の小遣いを減らしたりしてまで教育の費用に回してる。幼稚園の時点から英才教育だ。僕は自分の出来なかったことを子供に押しつけるなよ、と思ったもんだったが」
「……だったら塾に払わないでランサーのマフラー、取り替えれば良かったのに」
「何故ヨウが知ってる。今より静かにしようと思ったんだよ。……それはさておき。――そうなんだよな。結局僕もお前らに押しつけてる。県立を受験させたのもそうだ。叔父さん、お前らの父さんからお前らを預かっている。と言う言い訳もあるんだけれど、でもそれは本当に言い訳で、実は僕の理想を扶養家族であるお前らに押しつけている。そう言う自覚は、躾も勉強も。うん、最近はあるんだ」
分厚い説明書を見るでもなくペラペラとめくる。当然全部英語。
書いてあることは全くわからない。
「――それ、明後日になったらパートのおばさん達にも僕が教えなくちゃいけないんだ、触っちゃいけないスイッチや近づいたら危ない場所とか、そう言う程度だけど」
挟んであった日本語の説明書を見る。中身は設置の方法や電源のつなぎ方、管理PCの初期設定、代理店の連絡先だった。
多分この分野はにーちゃんが知る必要は無いだろう。
「一生勉強。みたいな言葉は大嫌いだったし、今だって好きじゃ無い。けれど学校を出てからも覚えなくちゃいけない事はたくさんある。でもそれより問題なのは僕に限って言っても漢字が読めなかったり、英単語がわからなかったり、三角関数が理解出来なくて恥をかいたりしたことは数限りなくある。つまり。学校の勉強と世の中は、お前らが思ってる以上につながっているという事だ」
「方程式なんかは普通に使うって?」
「それくらい技術系で無くても使うね、間違いない。英語も最低挨拶くらいは出来ると、そう考えている人の方が多いし、戦国武将の名前を知らなくて会話が止まる事だってある。パソコンだって僕がどれだけ苦労して使えるようになったか」
「兄ちゃんの仕事だったら何とかなるんじゃないの? 表を作るだけでしょ?」
「認識があまい。図面だってパソコンで書くんだぞ。それに表組みはな、どの項目をどう見せるのか、それを理解しないと作っても訳のわからん表になる。それに表計算ソフトってくらいだからどの数字を計算させるのか、何故計算させるのか。その辺理解しないと他人が理解出来る表は作れないし、グラフになっても訳がわからなくなる」
器用で頭の良い人なのは間違いないんだけど、学校の勉強のみは出来なかった。にーちゃんはそう言う歪んだ人だ。
――なんでだいちゃんは学校のお勉強だけが駄目だったんだろうねー。博士の称号を持つランちゃんもたまに首をかしげる程のバランスの悪さ。
相手が身内である以上ランちゃんにはおべっかもお世辞も有り得無い。
だからランちゃんがそう言うならば、それは彼女から見てもお利口さんの部類の人に見える。と言う事だ。
実際会社でもそこそこ仕事が出来て頭も良い人、と言う評価がついてるだろう。
たまに仕事の電話で喋っているのを見てもそれはわかる。
頭が良いのに学校の勉強は全滅、と言うか絶滅状態だったり、不良なのに正義感に駆られて結局半殺しの目に遭ったり、今だって単純に好青年、という近所の評価に嫌悪を感じて髪を染めてみたり。
歪んで曲がって拗くれてる。そう言う人だ。
でも、学校がキライ。と言うだけでそんなに勉強が出来なくなるもんだろうか。
わざと白紙でテストを出したりもしなさそうだし。
本人と叔母さんの話なら成績が悪かったのは、でも本当で。
――だから。コトン。にーちゃんはコーヒーを飲み干すとカップを置く。ヤバい、目が怖い。
何処かで“スイッチ”が入ってしまったらしい。
「高校受験が無い以上、中退しなきゃ高卒は確定。学費はお前らの父さんと母さんが残してくれてはいるけれど、大学は行くも行かないも好きにすれば良い。だけど最終的に、文字通りの高卒程度の学力を有すること。僕はお前らにこれだけは押しつけるぞ」
はっきり押しつけられた、しかも逃げ場無し。
「とは言え、普通に生活するのに困らない程度で良い。少なくとも僕は困ってるんだ。ほぼ毎日。――高校生だったときに学校の……」
『むぅ、にーちゃんに学歴コンプレックスがあるとは意外だった。知ってたか?』
もちろん知るわけが無い、素知らぬ顔でにーちゃんの方を見ている風の月乃に全く角度の合わないところからノー。のゼスチャを返す。
サッカー選手だ、アイコンタクト無しでも間接視野で見てるだろう。
ただ、学歴に対するコンプレックスでは無いぞ? 今問題にしてるのは学力だからな。
――家族の中だけの秘密。月乃と俺はテレパシーの能力者。
但し俺は受信のみのレシーバ。月乃は送信のみのトランスミッタ。
“通信距離”は最近では約一キロにも及ぶのだが内緒話以外にさして使いでのある能力でも無い。
それに俺からは送信出来ないのでイエス・ノーのゼスチャはあらかじめ決めてはあるが、それだって見通し距離内でなければ当然意味は無い。
テレパシーでの会話は、言わなければ能力のことを把握しているにーちゃんやランちゃんにもわからないし、表情を変えずに自分が今喋っているのと全く正反対の発言をするのだって、性格の悪い月乃ならお手の物。
「出来る事には限りがある、それこそ物理的にな。だからお前らも今のうちに……」
『ランちゃんにもそんなこと、何か感じてたりするのかなぁ。あっちなんか博士だけど』
ノー。そう言う人じゃ無い。足りない部分は素直に足りないと認めるよ、にーちゃんは。
そう言う逆恨みみたいなことをする人じゃ無い。
だいたい、そうならランちゃんが可哀想すぎる。先日、望んでそうしたわけでは無いし、レシーバの能力では出来ない事だが、ある事情で彼女の心の内を覗いてしまったことがある。
彼女は表面上は弟だなんだと言っては居るが、にーちゃんが好きなのだ。
しかも良く思い返すと、それを口にしないのは表面上家族である事は当然あるのだが、自分が年上であることが引っ掛かってるらしい。
なんて普通な理由だろう、ランちゃんなのに。
そして当然、学歴のことも気にしてる。但し自分は全く意に介してないのだが、にーちゃんが気にするのでは無いかという思い、と言うか恐れ、いっそ恐怖と言って良い感情を強烈に持っている。
だからもう一度、若干強調してノー。を返す。……間違っても、口に出すなよ?
「僕の意向なのかも知れないが、せっかく県立に居るんだ。本気でがんばれば将来……」
『で。もしかすると我々は、遠回しに学年トップレベルの学力を要求されてしまった。とそう言う事なのかね? 陽太クン、この話は』
――はぁ。ため息と共に、イエス。を返す。
大学教授だった父さんの子供だ。高い学力があって当然。と廻りに言われる。
……そこまで込みの話だろ、さっきからのこれは。
『二年生百八十二人。私が七十九位、陽太は九十八位。……これで足らないのか! 陽太はともかく、私は平均越えだぞ!!』
うるせぇ! 人の順位なんかほっとけよ! これは返事を返す必要なし。無視だ、無視。数学が痛かったな。もし数学が平均だったら月乃の上に行ったのに。……って思い出しちゃったじゃ無いか!
そもそもが県内中学校でも、学力では完全に頭一つ抜けているのが建前の県立中等部である。
そこでトップレベルだったら全国模試でも上位一/四には入れてしまうだろう。
入試の時を考えても現在中位に居ることすら奇跡、これ以上を望まれても絶対無理だ。
「……から、お前らもわかってくれると嬉しいんだが。――どうだろう?」
「……はい」
二人とも話は全く聞いていなかったが、返事はぴったり双子ユニゾンでそろった。
「全く、返事だけは良いんだものな。――で、だ。さしあたって……」
にーちゃんの説教ともぼやきとも付かないトークが続く兆しを見せたところで、全員のケータイがメッセージの着信を知らせて鳴る。
誰から来たのかは言うまでも無い。
ランちゃんは東京まで行って尚、色々諦めきれていなかった。
「飲み会が苦痛だよー。せめてホテルに帰して~!」
……だからさ、フリーランス。向かないんじゃ無いの?
「夕食で誰か紹介されたとかそういう事なんだろうか。ランさんのこの文面は。そう言うところまで含めて仕事、なんだけどなぁ……」
三人全員がため息を吐き、一応メッセージを返す。
追い詰められた人間は。そんなどうでも良いことで救われるのだ。とかつて自分で言ってたのを思い出したのはきっと俺だけでは無いだろう。
つまりそれは自分のことを言ってただけなんでは……。
お酒は強いんだけど、知らない人と世間話とかそう言うのが出来ない。
いい大人、と言うか既に三十になったんだけど出来ない。人見知りしなくなるまで時間かかるだけではあるんだけど。
それに今回は完全アウェイの大都会東京、場所も悪かったかなぁ。
但しランちゃん、グッドタイミング!
お説教ともぼやきとも付かない話がロングコースへと舵を切ろうとしている今、会話が途切れた。
脱出のチャンス到来である。
「おい、月乃。今日は宿題が多いからやっちまおうぜ」
「おぉ! そだね、明日すこし早起きだし」
「……まぁいいか。後で会わないと困るから確認するけど、明日は十分早く起こすぞ?」
「はい」
綺麗にそろった返事をするのにはやはりテレパシーなんか要らない。双子であるだけで十分だった。