ハリの花~独りよがりな殿下~中編
────リッカが、壊れた。
手にしていた報告書が、バサバサと床に落ちる。しかし、どうして咎められよう? リッカの取り乱し方は尋常ではなかった。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
リッカが狂ったように悲鳴を上げる。
余は呆然としてしまった。リッカの激情に触れるのは初めての事。……どうしてこうなった?
「パピ! 殿下の御前だぞ!?」
「うるさいっ! ああああああ、行かなくちゃっリクがリクがリクがリク、兄さんがぁっ!」
ランスロットの手を振り払い、リッカは幽鬼のような足取りでふらふらと歩き出す。
「今さらどこへ行こうというのだ? 報告書を読んだだろう、全てはもう終わった事だ。余の命令に背き、兄の後を追う気か!」
リッカは足を止め、振り返る。青白い顔から微笑みが消えていた。焦点の合わない虚ろな黒い瞳には涙が溜まっている。……まずい。余の最初の命令はなんだった? このままでは、リッカが死んでしまう!
「パ……」
「ランスロット!! 下がれっ!! 何者もリッカに触れるなっ!!」
リッカを取り押さえようとした臣下を遠ざけると、余はリッカの体を抱き締め、首輪と首の隙間に指を差し込む。今のリッカは余の命令を聞ける状態ではない。死なせないための措置だ。
「離せっ! 私はリクを助けに行くんだっ!! おめおめと一人生き残るくらいなら、リクを助けに行って死んだ方がマシよっ!!」
リッカは錯乱していた。どんな時でも希望の消えなかった瞳から、完全に光が消えている……。暴れた拍子に、堰を切ったかのように涙が溢れた。首輪の石が発光し、点滅を始めている。この兆候は、本格的にやばいっ!!
「許す! 許すから! 今なら何をやっても不問にする。だから死なないでくれ、リッカ!!」
余の腕の中で、一層リッカが暴れた。色めき立つランスロットを、視線で制止する。
「生きる意味なんてっ、もう無くなっちゃったじゃない!!」
……余には、返す言葉がなかった。それほど兄が大事だったのか。
「で、でん……」
「ランスロットも、他の者も出て行け! 余が許すまで、誰もこの部屋に入れるなっ」
臣下の者を全て執務室から追い出し、二人きりになって、余は必死でリッカを宥めた。リッカは荒れに荒れて部屋の物を壊し、自分も壊れようとする。終いには窓から飛び降りかねなかったので、余はずっと、それこそ一晩中、リッカを抱き締め続けた。
リッカは余から逃れようともがき、余の手を噛んだり、爪を立て、まるで手負いの獣のようだ。余が、リッカを追いつめたのか……。どうしていいかわからず、余は途方に暮れた。
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あれからリッカは、本物の人形のようになってしまった……。泣いて泣いて、泣いて、ようやく兄の死を飲み込んだのだろう。暴れるのをやめて、余に詫びを入れた。表面上は従順に余に仕え、鈴を鳴らせば、ちゃんと飛んでくる。口元には笑顔が貼り付いているが……今のリッカは空っぽだ。
憎悪も、愛も、希望も、全てが掻き消えた抜け殻。
パピの花のように瑞々しく、生命力に溢れていたリッカは、今やハリの花のように、触れただけで儚く散ってしまいかねない。淡々と命令をこなすリッカを見ていると、胸が痛んだ……。
「……それでわたくしの元に相談に来られたのですか?」
小首を傾げるのは、余の側室の一人。正妃候補と名高い白木蓮だ。薄紅色の瞳、楚々とした美貌と純白の翼を持ち、天使のように優しいと評判の姫は、余が知る中で誰よりも思慮深い。
リッカの待遇に苦言を呈したのは、彼女だけだったから。余は後宮の白木蓮の部屋に訪れる。
「不敬を承知で申し上げますが、わたくし、再三言いましたよね? あの子への振る舞いを考えて下さいと。……何を今更だと、思いませんか」
当時の余は、白木蓮の陳情を嫉妬心故と決めつけ、まともに取り合わなかった。……冷静になって見ればリッカの境遇は酷いもので、白木蓮は心を痛めたからこそ行動したのだと、今なら分かる。
「……もう、手遅れかもしれませんが……。何が出来るか、ともに考えませんか? あの子の、殿下のためにわたくしは力を尽くすと約束しましょう」
白木蓮は余の手を取り、天使の微笑みを浮かべる。余の追従ではなく、耳に痛い事もきちんと説明してくれる、彼女の存在は有難い。
余は定期的に後宮に通い、白木蓮に助言を求める事にした。
リッカを傍に置きたいなら、余はリッカの居場所を作るべきだった。白木蓮に指摘されて、ようやく気付けた。
これ以上リッカを追いつめないように、根回しを始めよう。そのためには、ランスロットにも協力して貰わねばならない。
「殿下は……パピをどう思っているのでしょうか?」
余に何より忠実で、頭の回るランスロットの問いかけ。嘘などあっさりと見抜いてしまうだろう。余は、本心を……弱音を吐露するしかない。
「───愛している。勘違いするなよ? 王族の務めを投げ出す気などない。リッカを正妃になど望まない。ただ、傍で笑っていてほしかっただけなのだ……」
思い浮かぶのは初めてリッカを見つけた時の笑顔。優しい陽だまりのような少女が、どうしても、どうしても欲しかった……。
余は皇帝になるべき男。周りの者も、余も信じて疑ってはいない。ただ、行き過ぎた忠誠心は、時に息苦しい。余は、リッカに癒しを……安らぎを見出していた。
「リッカの、しなやかな強さは余の周囲にはないものだった。リッカが傍にあって、初めて余は満たされたのだと、思う。余は、女に誑かされるような、暗愚ではない。必要だから傍に置いた。恥ずべきことなど何一つない」
「……………わかりました。殿下の深慮を見抜けず、彼女を蔑ろにした事、深くお詫び申し上げます」
ランスロットは感極まって膝を突く。……真面目一辺倒の堅物だが、ランスロットほど忠義な家臣はおるまい。
白木蓮といい、ランスロットといい、余は、もっと周囲を頼り、理解を求めるべきであった。
リッカの心を取り戻してから、奴隷の身分より解放しよう。そう思っていたというのに…………。
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植民地の一つで暴動が起きた。王族として、上に立つ者として、治める地の平穏は守らねばならない。
リッカは……白木蓮の助言通り、仕事を減らし、休養を増やしたりと少しずつ改善している途中だが、未だ不安定だ。弱った時に戦場に出すのも忍びない。
余が付きっきりなのが、周囲の反感を買う原因だとも聞いた。天空城ほど安全な所もあるまい。幼き時よりランスロットに、守護結界は堅固で、誰も破った者はいないと説かれてきたのだ。今回もその真価を発揮してくれるだろう。置いていくのはリッカのためだと判断したのだが……余は、その判断を死ぬほど後悔する事になる。
「………………なんだ、これは」
余の自慢の、“白の花園”が、赤く染まっている。
天空城に賊の襲撃と、報告が入った。嫌な予感──策略の気配を感じて、持てる手段を駆使して全速力で戻ってきた余は、周囲の羽虫を蹴散らすのもそこそこに、一心にリッカの元へ。部屋はもぬけの殻、鈴を鳴らしても現れない彼女に業を煮やし、役立たず共を降りきって探し、ようやく見つけたリッカは、自身の血の海に、沈んでいた。
「リッカ? 応えよ……リッカ!!」
彼女の体を抱き上げる。血の抜けきった、軽い体を揺さぶると、額の穴からどろりと赤の入り混じった薄茶色の液体が流れ、余の手と服を染めた。……どれだけ命じても、リッカが瞳を開ける事はない。
「…………殿下。彼女は、もう」
「嘘だっ!! 宮廷魔道士を呼んでまいれ!! 今すぐ治療すれば間に合う!!」
ランスロットが余からリッカを引き離そうとする。だが、離れたくない。リッカを抱く手に力が入った。
ポチャン。
リッカの首にかろうじて引っかかっていた首輪が落ちて、血溜まりで跳ねる。……死ぬまで取れない筈の首輪が。余は、喉を裂かんばかりに絶叫した。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!??」
………………………………………余は、リッカを永遠に失ってしまった。