正妃の涙~忠臣の罪~中編
「殿下は……パピをどう思っているのでしょうか?」
儂は殿下の答えを待った。沈黙の間、振り返るのは陛下の事。正妃への愛に狂い、後宮の制度さえねじ曲げて、側室を廃した陛下。殿下が同じ道を歩むというなら、儂はどうすればいい?
「───愛している。勘違いするなよ? 王族の務めを投げ出す気などない。リッカを正妃になど望まない。ただ、傍で笑っていてほしかっただけなのだ……」
それは、初めて見る殿下の顔だった。未だ少年の姿の殿下が見せた、苦い──大人の表情。私情を挟まない冷静さといい、殿下は恋に狂っているのではなく、叶わぬ恋を経て、成長しようとしていたのだ。
「リッカの、しなやかな強さは余の周囲にはないものだった。リッカが傍にあって、初めて余は満たされたのだと、思う。余は、女に誑かされるような、暗愚ではない。必要だから傍に置いた。恥ずべきことなど何一つない」
そうか。パピは殿下の成長を促す存在だったんだな。殿下は実年齢はともかく、見た目は思春期そのもの。子供から脱却しつつあるところで、出会ったのがパピだったというだけの事。初恋の苦さを知り、大人へと一歩近付いたのか。
儂の危惧は杞憂だったのだ。昔、良い意味で殿下に裏切られた事を思い出す。儂は出過ぎた真似をせず、ただ殿下を信じていればいい。今なら、パピを認める事が出来そうだ。
「……………わかりました。殿下の深慮を見抜けず、彼女を蔑ろにした事、深くお詫び申し上げます」
初めて殿下に忠誠を誓った時を再現するように、儂は跪いた。
さて次は、パピの番だ。
▷▷▷▷▷
「パピ! お前は、殿下の事をどう思っている!」
茶の支度をしているパピに、儂は問いかける。
殿下の御心はわかった。パピの存在が必要だという事も。ただそこにパピの想いはいらない。実らないから初恋に意義があるのだ。パピは、生気の欠けた黒い瞳で儂を見て、ああ、と勝手に合点していた。
「大丈夫です。弁えてますよ。私は殿下の奴隷で、それ以下でも以上でもありません。殿下だって、道具に愛情なんて求めませんよ。万一、殿下が血迷って、『余を愛せ』と命令なされたとしても、私が殿下を愛する事はありません」──例え、死んでも。
何という空虚な答えか。また、正妃の幻影がパピと重なった。儂がパピに退場を願った時と、状況が変わっているというのに……。初恋を自覚された殿下が、今パピを失ったら、その記憶はどこまでも美化されるだろう。悪い影響を与える可能性は消さなければなるまい。
「当てつけで死のうなどとは、思うなよ。パピ、お前の生殺与奪権は殿下にのみあるという事を忘れるな!」
「当てつけ? それは私が、殿下を憎んでいるとお考えなのですか?」
心底不思議だとでも言うように、パピは目を丸くする。
「お前は、殿下によって奴隷に堕とされた。それは憎む理由になり得るだろう」
「いいえ。確かに、怒りは覚えましたが……殿下の所業は、憎む程ではありません。兄に直接手を下した、というなら話は別ですが、パトリを滅ぼしたのは殿下ではありませんし」
パピは、ひたと儂を見据えた。凪のように、穏やかな表情だった。
パピには、殿下への関心が欠片もない。儂としては僥倖だが……複雑でもある。陛下は正妃の愛情を求め、それが無理なら憎悪でもいいから、正妃の関心を独占したいと願っていた。殿下はそのどちらも得る事が出来ないのか。
殿下に一切想いを返さない。それが、パピの復讐なのだろう。
「それと、最後に。私は自殺だけはしませんよ。兄と約束したので」
素っ気なく言われて、儂はすごすごとパピの前から去る。この時から、パピと正妃の影が重なる事はなくなった。
釈然とはしないものの、悲劇は回避されたようだし、いつまでもパピに構っている暇はない。
世界情勢は近年激しく変動している。植民地での不穏な動きが増えて、儂の仕事は溜まる一方だ。ルークスソーリスに反旗を翻す愚かな集団もいるようだしな。
殿下が上を目指すために、儂がしっかり足場を固めねばと、老骨に鞭を打つ。……認めたくないが、儂は老いた。殿下が皇帝になる所は見届けたいが、無理かもしれない。
ああ、また暴動だ……。兵士を送って鎮圧せねば。
「余が行こう。植民地とはいえ、余が治める地だからな」
なんと! 支配はしても統治せずを貫き、儂に任せきりだった殿下が!? 立派になられて……。殿下の成長に、後ろ向きな考えは一遍に吹き飛んでしまった。これがパピの影響だというなら、これからも、城の片隅に置いてやってもいい。
殿下の初陣の時のように、精鋭を引き連れ、儂は喜び勇んで天空城を後にした。
────この時、宮廷魔道士だけでも城に残していれば、運命は変わったのかもしれない。
パピが、死んだ。
頭を撃ち抜かれた亡骸、広がる血の海に、白い花びらが降り積もる。どう見ても、手遅れだった……。
殿下は汚れるのも厭わずパピに縋りつくが、パピの返事はなく…………。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!??」
首輪が落ちたのが引き金になったのか、殿下の悲痛な叫びが“白の花園”に木霊した。
殿下の嘆きは尋常ではなかった。侵入者から後宮を守って死亡という、自害や斬首よりもよほど名誉ある死なのに、殿下はパピの死を認める事が出来ないようだ。儂は殿下がパピの後を追うのではと、気が気ではなかった。殿下を慕う者が口々にお慰めしても、殿下の心には届かない。なんと痛ましいのか……。
けれど儂の懸念は外れ、殿下が自ら命を断つ事はないまま、時だけが過ぎて行った。儂は信じていた。これは、殿下の試練だと。パピの死を乗り越えた時、殿下は一回りも二回りも大きくなるに違いないと。
篭もりがちだった殿下が自らの意志で部屋を出て、後宮──白木蓮の元に向かったと報告が入った時は、ようやく復活の兆しが見えた、と安堵したものだ。
しかしそれは、吉報ではなく凶報の間違いだった。殿下は見知らぬ精霊を従え、白木蓮を殺害し、後宮の女も皆殺しにしてしまった……。
「何故、白木蓮を殺したのですか!」
悲鳴を上げて詰め寄る儂に、殿下は冷たい目を向ける。
「白木蓮だけじゃない。後宮の女は全員殺した。召使いも、兵士も、身分は問わず、リッカを虐げた者は全て殺す」
「殿下!! 早まった真似はおやめ下さい!! 皆、殿下を慕う忠実な家臣ではないですか……」
儂の懇願は、殿下の逆鱗に触れてしまったようだ。精霊の持つ血塗れの剣が儂の首に突きつけられる。
「何が忠実な家臣かっ!! お前が破られた事がないと言った守護結界は役立たずだった!! 兵士も使用人も無能で、侵入者にも気付かない有様っ。それに、お前が連れて来た白木蓮は、リッカの死を望むような女だった!!」
儂は、こんなに怒りを露わにする殿下を知らない。儂が築き上げた全てを否定されたのに、返す言葉が出ない。
「ランスロット。お前の言葉など、信用に値しない。首を落とされないだけ有難いと思え」
殿下はそれっきり、儂を顧みることはなかった。
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儂の代わりに殿下に始終付き従う精霊。
パピが死に、あの精霊が現れてから、殿下は可笑しくなった。あの精霊は、一体何なのだ? 紫を帯びた、深みのある美しい青色の精霊は、殿下と──パピに、よく似ている。
『ルリカ』と殿下は愛おしげに名を呼んで、失ったパピの穴を埋めるように愛でるのだ。
殿下は、ルリカに惜しみなく何でも与えた。側室の誰よりも豪華なドレス。お気に入りの宝飾剣。かつて白木蓮に与えた宝冠。伝説の、“正妃の涙”の可能性が高い、ルリの花さえも。溺愛と言っても過言ではない。
日に日に華やかになっていくルリカと反比例して、殿下は質素な灰色の喪服に身を包み、首にはパピが付けていた首輪。これではどちらが主人か分からないではないかっ!!
……首輪? そうだ、首輪の石には精霊が──宮廷魔道士が作った人造精霊が宿っていたはず。ルリカと、何か関係があるかもしれない。宮廷魔道士に事情を聞く必要があるようだ。
「推察通り、基本になったのはぼくの人造精霊だけどね、58号をルリカへ進化させたのは殿下だよ?」
げっそりと窶れた宮廷魔道士はそう言った。そんな馬鹿な。
「あり得ない。ルークスソーリスの王家に伝わる異能は、炎にまつわる力。創造には不向きどころか、破壊に特化しているのだぞ。殿下には何かを作り出す事はおろか、進化を促すなんて生産的な能力など欠片もない!!」
「……ランスロットサマも結構言うね。でも、事実だし。たかだか試作に過ぎなかった58号に、殿下が紅い宝石を授けたら、あの姿に変化したんだもん」
紅い宝石だと? まさか……炎の精霊石か!?
炎の精霊石は、ルークスソーリス王家の一族が亡き後、葬送の炎によって発生する結晶の総称だ。王が亡くなり、代替わりする毎に精霊石は発生し、天空城を支える浮力や守護結界の源泉、礎となる。
王家と、代々仕える我が一族のみに連綿と受け継がれてきた秘密だから、宮廷魔道士は知らないだろうが、精霊石は謂わば精霊の核。人造精霊を精霊に変化させても、不思議ではない。
しかし、殿下は精霊石をどこから持ってきたのだ? 先王陛下の石は、城の中枢に安置されているし、殿下の他に王族はいらっしゃらないのだが……。いや、待てよ。
ルリカの姿は、殿下とパピ、両方に似ていたではないかっ!!
「まさか、あれは殿下の御子の精霊石!?」
殿下の狂気と、ルリカへの寵愛ぶりの説明がつく。だが、あり得ない。陛下でさえ齢50近くなって、ようやく殿下を授かったのだぞ!? より精霊の血が濃い殿下があっさり子を得るなんて……。疑念が湧く。下賤だと切り捨てていたパピ、いや、リッカ。彼女は一体何者なのだ?
調べようとした事はあったが、戦災孤児など五万といる。有力な手掛かりは得られず、だから殿下の傍に置けないと判断した。……その判断は、誤っていたのかもしれない。
「……宮廷魔道士。パピの……リッカの素性を探れるか?」
「えぇー!? ぼく、すでに殿下の命令で仇探しの真っ最中なんだけど!? ただでさえ人手不足で不眠不休で働いてるのに、そんな余裕ないよ……」
道理でくたびれているはずだ。だが今の儂には、自由に動かせる部下も、権力もない。頼みの綱は宮廷魔道士しかいないのだ。
儂はプライドをかなぐり捨て、いけ好かなく思っていた宮廷魔道士に頭を下げる。
「頼む!! 此度の事は、儂の不徳が始まり。お主に忠告された時、真面目に取り合えばよかった。儂は、先王陛下をお慕いするあまり、殿下の教育を間違えてしまった。しかしだ、それでも儂は、殿下をお支えしたい! 歪めてしまったなら、儂の命を懸けても正そう。そのためにも、逃げていた、認めたくなかった真実を確かめねばならない。どうか、この通りだ……儂には、もう頼れる者がいないのだ!!」
膝をつき、床に額を擦り付ける。所謂、土下座で儂は懇願した。
「……………殿下至上主義のあなたが、ここまでするなんてね。いいよ、奴隷ちゃんの仇を探すついでに、探ってあげる。でも、期待はしないでよね?」
「おぉ……感謝する」
「ま、ぼくも責任は感じてたし……」
首輪を作った事だろうか? 遠い目をした宮廷魔道士は天空城を去り───そのまま、足取りが途絶えてしまった。